富士の清流を問う1


このページは、先の神奈川教区僧侶によって出された、「正信会破折」に対しての正信会一僧侶の反論である。如何に、現在の阿部宗門の事実関係の捏造、すり替えに苦労したかじっくりと比較しながら読んでいただきたい。

(継命新聞そのまま転載。)

富士の清流を問う −「正信会破折」を糾す−(1)

 正信会神奈川教区有志

富士門混乱の元凶は 認識を誤った阿部師

 法主の思いつきさえも ご仏智と言われる宗門

 はじめに

 阿部宗門の神奈川布教区から「正信会破折」という文書が出された。今までにも正信会に対して悪口・中傷・非難がなされてはきたが、ただ“血脈が切れている”“登山ができない”というだけで、まとまった形での批判にはお目にかかっていなかった。

 今回も、熟慮の上に整理されたとは思えない内容ではあるが、「正信会破折」と銘打って、阿部宗門の僧俗が共に学習したわけであり、真正面から正信会を謗法と批判しているのであるから、その内容の是非を問い、彼らの論難に応えるとともに、彼らの信仰観をうかがいたいと思う。

 その上で、彼らが求めているという「富士の清流」が、阿部宗門と正信会のいずれに流れているかを問い糾したい。

 彼らがこの文書を作成学習する目的は、正信会問題を阿部宗門に都合よく整理し、破折のポイントをしぼって、正信会所属の信徒を獲得することにある。学会との醜い争いの上に、平成14年に向け様々なノルマを課せられている阿部宗門。ノルマ達成の要となる信徒獲得のために、正信会法華講の切り崩しを狙っての工作であることは文書の結びを見ても容易に分かる。

 この程度の内容に踊らされる正信会法華講員もいないであろうが、その誤りを糾すことは、正法を見失った宗門を覚醒する一助となり、自らの正信を確認するために有益であると考え、紙面を割いていただいた。

欺瞞に満ちた正信会破折

 平成11年7月26日に開催された阿部宗門の神奈川布教区僧俗協議会において、正信会対策のテキストとして発表された資料「正信会破折」は、宗務院による作成ではなく、神奈川布教区のオリジナルらしい。心意気は評価したいが、相も変わらぬすり替えと欺瞞に満ちており、阿部宗門特有の事実誤認と歪曲の上に展開される独善の主張には失笑を禁じ得ない。

 排他独善の宗風に慣れ、物事の真実を求めてやまない求道者の情熱を失い、一旦は矛盾に首を傾げても、いつの間にか諦めてしまう阿部宗門の僧侶や法華講員には、説得力の無いこのような稚拙な論でも通用するのかも知れないが、識者を持ち出すまでもなく、一般世間の公平公正な批判に耐えられる代物ではない。まして正信会批判としては何一つ目新しい物はない。

 我々正信会が、客観的事実の上からも信仰的にも、阿部師への相承は認められないと主張すると、血脈相承そのものを否定しているとしか理解できず、また、戒壇本尊の直拝に見られるような唯物的に偏重した本尊観に同調しないというだけで、戒壇本尊を否定していると言う。

 また、教団組織を守ることが法を守ることであるかのように錯覚している阿部宗門は、正信会の、教団の存続維持よりも、宗開両祖の仰せの通り、依法不依人の精神を根本にご法門を明らかにし、一切衆生成仏への道を求めようとの主張に対して、法の正邪を糾すこともせず、信仰の根本である富士大石寺を見失った者として謗法者のレッテルをはり、自己満足してしまうのであるから始末に悪い。

 富士の清流が蘇り、志を有する一切の人々に妙法の潤いを与えてこその大石寺である。法主絶対という歪んだ血脈観を押しつけ、戒壇本尊と大石寺を管領し、すべては我がものであるとの慢心に溺れる阿部師。広大無辺・平等大慧の妙法が説かれず、阿部師の我見・濁流に覆われているところに宗開両祖の清流が流れることなど決して有り得ないことを知るべきである。

 ただ、今回の「正信会破折」を通して、阿部宗門の僧俗がいかなる信仰観に立っているかは再確認することができた。そこには近世創価学会の都合によって改変・強調されてきた日蓮正宗の信仰・思想をうかがうことができる。言葉を代え、表現を巧みに凝らしても、創価学会と同様の体質が濃厚に漂ってくるばかりである。宗教的深み、精神的崇高さという富士日興門流の香りは毫末も感じることができないのは残念であるが、「正信会破折」と銘打って、我々との信仰観の相違を明らかにしてきたことは、富士門流の信仰の在処を尋ねるためには意義があると言えよう。

 前述の通り、彼らの正信会批判は今までとほぼ変わらぬものなので、当方も特別な反論となったわけではない。しかし、たった20年前のことでありながらも、当事者も時の流れにその事実を忘失してしまったり、不埒な者が事実を改竄したりということはよくあることなので、普遍的道理と良識、そして客観的事実をもって「正信会破折」に応え、求めるべき富士の有り様を示したい。

 「正信会批判」のあらまし

 この文書の全体の構成と内容を見ると、はじめに、正信会問題の発端を52年路線と称される前回の「創価学会の教義逸脱」であったとし、

 一、創価学会の「52年路線」と称せられる教義逸脱問題とその経過

 二、正信会問題の発生と経緯

 三、根本的二つの誤り

 四、相承を否定・三宝を破壊・戒壇の大御本尊を蔑如の大謗法、そして異流義へ

 おわりに

という5章からなっている。

 一章の「教義逸脱問題とその経過」では、

 @学会の教義逸脱と背景

 A日達上人の大慈悲と52年路線の収束

 B日達上人のあとを受けられた日顕上人とご決意

の三項目を設け、@項で、昭和52年の創価学会の教義逸脱の事実を揚げ、「教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望による」と指摘する。

 A項では、日達上人の善導により学会首脳は深く反省懺悔し、6・30、11・7によって三原則の遵守をご宝前に誓い、池田氏の会長・総講頭の引責辞任、信徒団体の基本を守ることを条件に、昭和54年5月、日達上人は「ひとまず混乱に終止符を打ち、学会の今後の方向性を暖かくも、また厳しく見守っていく旨を決定」したと述べる。

 B項では、阿部師は日達上人が最後に示された方針を引き継いだとして院達や発言を示し、池田氏の「恩師の23回忌に思う」を懺悔と評価している。

 さらに阿部師の“現在において謗法をあげつらうことは大きな誤り”との発言を示し、最後に、学会執行部の懺悔が本心からのものか否かは仏智によらなければ分からないとして、阿部師の“仏智を信じるように”との発言を提示している。

 二章ではこのような認識をベースに、正信会は当初の目的である「創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくこと」を見失い、学会を責めることを目的化して、日達上人の教導にも阿部師の指示にも従うことなく暴走。遂には阿部師への相承を否定して裁判に訴えるという「大聖人様の仏法の根幹を破失する重大な謗法」を犯して破門されたと断定している。

 さらに三章で、正信会の根本的な誤りとして二つ挙げる。一つは「手段と目的を取り違えて本末転倒した」とする。全国の僧俗が学会の謗法を攻めたのは根本の大御本尊と三宝を護り、総本山を護るためであったが、正信会は学会を責めること自体に固執して総本山・御法主上人をも誹謗し、「大御本尊・三秘・三宝を根本と仰ぎ奉る絶対信が希薄だった」と結論づける。

 もう一つは「慈悲心に欠けていた」として、堀上人の化儀抄註解を引き、宗内に身を置く人に対しては、その人の信心を守り育てる慈悲心を根底に、寛容を表に異体同心の実をあげるべきなのに、学会を厳しく責め続ける正信会は「慈悲を隠れ蓑に瞋恚・怨念の振舞い」であったと断じる。そして、日達上人と阿部師の大慈悲が拝せず、あたかも「学会の権力・財力に屈したかのごときとんでもない思い違いをした」と批判している。

 四章では、正信会による4つの発言を取り上げ、阿部宗門の信仰観の上から論難する。

  その主張は、「僧宝の座に連なる御法主上人を否定せんとした正信会」は師敵対・大謗法の者と成り果てたとし、「大御本尊を唯物呼ばわりする正信会の妄説」は身延派日蓮宗の邪義と変わらないとするものである。

 「おわりに」では、『守護国家論』『三三蔵祈雨事』を引用し、仏法は正邪を分別することが肝要であり、正邪の分別のために道理と証文が大切と述べるが、最後には「『現証』に照らし合わせ、正邪を決判する」と主張する。

 そして正信会の立てる教義は、道理と証文に照らして邪義であるから、「『現証』として仏罰の相が現れることは必然」であると、結論づけている。
 
 「正信会批判」本文 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 正信会の問題の発端は、「五十二年路線」と称せられる、前回の「創価学会の教義逸脱」でした。よってまず、前回の創価学会問題とその経過について述べることに致します。

 一、創価学会の「五十二年路線」と称せられる教義逸脱問題とその経過

  @学会の教義逸脱と背景

 日蓮正宗が、創価学会を信徒団体として認容してきたのは、学会が昭和二十六年の宗教法人設立申請時において、宗門に対して確約した、

 一、折伏した人は末寺の信徒として所属せしめること

 二、当宗の教義を守ること

 三、当宗の三宝を守ること

との「三原則」の遵守を前提条件としたものでした。ところが学会は、前回の創価問題、すなわち昭和五十二年路線において、この三原則を無視したのみならず、大聖人様の仏法の法義から大きく逸脱したのです。

 この時の教義逸脱は、以下の如くです。

  一、御本尊模刻という前代未聞の大謗法

  二、教義的逸脱(池田並に学会首脳の指導や著述などの中に)

   イ、小説『人間革命』を「現代の御書」と称した

   ロ、大聖人様の仏法を「創価仏法」という新語に変造した

   ハ、仏法の原点を戸田会長の獄中の悟達にあるとした

   ニ、池田に対して、主師親の三徳を備えている、久遠の師である、本門弘通の大導師であると表現

   ホ、仏法の師弟と人生の師弟を意図的に混同させて歴代の御法主上人を蔑如した

   ヘ、血脈相承を蔑ろにし、大聖人直結、御書直結を主張

 三、化儀の逸脱

   イ、学会独自の経本まで作成し、五座の観念文の中に歴代会長の名前を加え、仏祖三宝尊とご歴代上人にしか用いない「御報恩謝徳」の語を使用

   ロ、池田は「広宣流布血脈の本弟子(または新弟子)たるを証す」などという傲慢な証書まで作製し、学会幹部に授与

   ハ、僧俗対等の意識を持ち、寺院軽視、僧侶軽視をして寺院と会館とを同一視、さらに現在の真の道場は会館であると主張

   ニ、会館で幹部が導師となってお盆の法要や結婚式などを行ない、在家も供養を受ける資格があると主張

 そのほか、寺院への参詣はしてはならないとか、学会員こそ僧宝であるとして下種三宝を破壊し、学会員こそ現在における出家であるなどとも言いました。

 こうした教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望によるもので、その根底に「学会は主、宗門は従」とする考えがあったからです。それは、「北条文書」や「山崎・八尋文書」などの学会機密文書にも明らかです。しかもこの文書によって、学会には、実は、「学会は主、宗門は従」という考えをさらに推し進めた「宗門を創価学会の外郭団体とするか、もしくは日蓮正宗から独立しよう」とする謀略まで存在していたことが明らかとなったのです。
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正信会よりの破折

  
創価学会を是正させたのは誰か

 では、彼らの主張がいかに欺瞞に満ちたものであるかを原文を提示し糾して行こう。公平を期すために原文は忠実に掲載して行く。

 右に掲げたものが「正信会破折」の冒頭である。ここに列挙されている創価学会の数々の謗法や逸脱の事例は誰が指摘し、誰が真剣に是正させようとしたのであろうか。この文書を作成した阿部宗門の方々か、それとも我々正信会なのか。一度まじめに胸に手を当てて考えても罰は当たるまい。

 52年路線問題の指摘、その後の学会の是正も誰によってなされたのか、ここが法の正邪を問うためのキーポイントである。

 昭和52年から動きを見せ始めていた覚醒運動は、昭和53年2月に一つの山場を迎えた。所謂、創価学会から提案された5箇条の協定案をめぐって9日と23日に開催された時事懇談会である。

 この時事懇談会において、学会の是正・覚醒を求める者、学会に与する者、中間に身を置こうとする者、様々な人間模様が見られた。その模様は『時事懇談会記録』(平成2年2月発行)に詳しいので、是非目を通すことをお勧めする。

 その後、覚醒運動は大きなうねりとなって全国に伝わり、宗門の大勢も覚醒運動に傾くようになり、慌てた学会は6・3011・7と矢継ぎ早に是正と恭順の意を表したのであった。

 この時期、宗務院(早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長など)は、日達上人からも宗門の大半からも支持を失っていた。そのために学会は、当時活動家僧侶といわれていた正信会と直接協議を重ねていたのである。

 今を騒がす河辺メモ(昭和53年2月7日)によれば、阿部師からの電話として「時局の件、今日秋谷が来る。三時頃是非会いたいと云って来た。八木信栄の所へ森田総長来て9日は大変ですねと云って来た」と記されている。

 9日とは前述の時事懇談会を指すもので、この時期阿部師が学会首脳と通じていたことが分かる。ちなみに池田氏は、山崎裁判の証言中に「2月10日に私は当時の早瀬総監・当時の教学部長等々とお会いして、一体どういうことなんですかと、光亭さんで遅くまで懇談しました」と語っている。

 事実は隠しおおせない。学会の法義逸脱問題で日達上人も悩まれ、宗門人が挙って覚醒に努力しているその時に、阿部師は学会に通じていたばかりか、河辺メモによれば「猊下は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事では猊下では不可能だ」と、露骨に日達上人を批判していたのである。

 学会問題をどう見ていたのか

 彼らはここで昭和52年の創価学会問題を“前回”とことわっている。これは平成の創価学会問題と何か違うものであるかのように印象づけようとしているのであろうが、創価学会問題は前回・今回などと分けられるものではない。彼らも「こうした教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望によるもので、その根底に「学会は主、宗門は従」とする考えがあったから」と述べるように、学会の体質やめざすものは、昔から何一つ変わってはいないのである。

 むしろ、破門された形を装いながら十分な時間と態勢を調えて、52年路線よりも上手に独立という目的を果たし、野望への道を力強く踏み出したと言うべきである。

 最近阿部師は、原島氏の手記をもっと早く読んでいたら学会に騙されることはなかったなどと自己弁護しているが、それが本当だとすれば、己れの不明を恥て仏祖三宝尊に懺悔し、迷惑をかけた人々に謝罪し、潔く責任を取るべきである。

 もし当時から池田氏の本質を見抜いていたと阿部師が言うならば、阿部師は、仏法と宗門人を欺く法盗人である。

 何もこれは阿部師だけの問題ではない。「正信会破折」を出された神奈川布教区の方々をはじめ阿部宗門の方々は、その当時どのような認識を持ち、どのような行動をとったのであろうか。是非とも伺いたいものである。

 機密文書への対応

 さらに、20年もたった今になって、学会の本心と野望を端的に示す「北條文書」「山崎・八尋文書」を阿部宗門が取り上げようとは驚く。いつもながらの厚顔無恥と言う他はない。

 この文書が明らかになったとき、正信会は、学会の本心・野望を示すものとして追求し、学会の抜本的是正を求めた。が、それを阻み「一時の感情」として不問に付し、創価学会の暴走を許したのは、他ならぬ阿部師自身ではないか。

52年路線が収束しているなら

 今日の混乱など起こり得ない

【「正信会破折」本文】

   A日達上人の大慈悲と五十二年路線の収束

 しかしご先師日達上人の善導等によって、創価学会首脳はそれら教義逸脱に対して反省懺悔を示し、さらに昭和五十四年四月に池田が学会会長・法華講総講頭を引責辞任すること、及び同年五月三日、創価学会が今後、信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件とし、ようやく日達上人によって昭和五十二年路線は収束されたのです。

 その間にも、昭和五十三年の「六・三〇」(教学上の基本問題について)では、法義上の逸脱が是正され、また通称「お詫び登山」といわれる同年の「十一・七」では、当時の北条理事長が、

 「宗門と学会との三十年余りに及ぶ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和二十七年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、 日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてま いる方針であります」

と述べ、また辻副会長は、「教学の基本について」と題して、

 「この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳 粛なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、 よく認識していかねばなりません」

と、創価学会の昭和五十二年路線における数々の逸脱を深く反省し、法人設立時の三原則に立ち返り、それを遵守することを仏祖三宝尊のご宝前に誓ったのです。

 よって、総本山第六十六世日達上人は、

 「新しい学会の執行部ができたことに準じて、学会がどういうふうに宗門と仲良く、僧俗和合していくか、ということを 見なければならないと思います。学会が正しく日蓮正宗の教 義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じて、どこまでも学会を守り、学 会を信徒団体として受け入れていかなければならないのであ りますから、ここはしばらく様子を見なければならないと思うのであります」  (要旨・昭和五十四年五月二十九日)

等、ひとまず混乱に終止符を打ち、学会の今後の方向性を暖かくも、また厳しく見守っていく旨を決定あそばされ、宗内全僧俗に命ぜられました。
 
正信会よりの破折

  
【52年路線は収束していたのか】

 現在の阿部宗門と池田学会の争乱は、阿部師本人のシアトル醜聞事件を始め末寺納骨訴訟等、泥沼のような裁判闘争、横須賀市法照寺がガソリンをまかれて放火されるような粗暴な事件の発生など、抗争9年にして未だ極めて憂慮せざるを得ない事態が続き、今後も予断を許さないものがある。この宗創相克の事実は誰人も否定できない。

 それでも阿部宗門の僧俗は、いわゆる創価学会による「昭和52年路線」は日達上人の善導によって収束したというのである。「正信会破折」を一読しこの言葉を目にしたとき、筆者のあまりにひどい認識に驚いた。阿部師のヤレヤレ・イケイケどんどん行けの大号令は宗門津々浦々に轟き、池田学会との壮絶バトルの最中にどうしてこのような認識に立つことができるのだろう。阿部宗門に身を置きながら不謹慎の誹りを免れない認識ではないか。それとも阿部師への痛烈な皮肉を込めての意趣返しであろうか。つい勘ぐってしまうほどである。学会の52年路線が是正収束されていたならば今日の混乱と争いは到底起こり得ないことは自明である。

 何故阿部宗門では52年路線は収束したとしなければならないのであろうか。その愚かな認識と判断には首を傾げざるを得ないが、そのねらいはただ一つ「正信会は収束した52年路線を理解しようとせず、無視して暴走し宗門から破門された」というレッテルをはり、正信覚醒運動を否定して現体制の正当性を主張したいというだけである。

 はじめに正信会批判があり、併せて阿部宗門非道の正当化が図れるならばと、現実を無視した論理を展開した結果である。目的のためには手段を選ばず、その場しのぎの対策を平然と行なって恥じない姿は、とても日蓮大聖人門下の姿勢とは思えぬものであり、我々はここにも創価学会的体質が極めて濃厚に阿部宗門に沈殿していることを知るのである。

【日達上人の学会破折と善導】

 池田学会が表面上とはいえ、反省と是正の姿勢を示したのは、日達上人の教導である事は勿論ながら、正信覚醒運動に精進した僧俗、中でも檀徒の方々の真摯な信心姿勢によるところが大であった。決して学会が自発的にとった姿勢でもなければ、現阿部宗門の人々の力によったものでもない。

 日達上人は昭和49年には「自分の智慧を以て大きく法門を展開することは恐ろしい」(3月31日)、「広宣流布はしなければならん。けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変である」(4月25日)、「ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろと生活が楽であればいいと考え、皆、今までのいろいろな法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるというような事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います」(5月31日)等と学会破折を始められ、7月21日には「おととしの秋位から、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的であり、また教義上においても我々から見て逸脱している事が多々あるように思われます。……又、会計を、大石寺の会計を調べるという。……その時に北條さんが云うには、若し調べさせなければ手をわかつ、おさらばする、とはっきり言ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。……もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳してよいと云う覚悟を私は決めたわけです」とまで仰せられたのであった。それを受けた心ある僧侶が学会の謗法を破折し始めたのである。

 池田学会はその都度“お詫び”のポーズを繰り返しながら“52年路線”へと突き進んだ。  昭和53年2月、2度にわたって開催された時事懇談会によって、学会との関係については従前とは異なり十分な検討が許されるようになった。

 席上日達上人は「このような状態になって来て、我々も、これから宗門として、宗門を大聖人様の仏法を護る宗門として、たとえ小さくなろうとも、どうあろうとも、これはまっすぐ切り抜いて行かなきゃならんという考えも持っております。それが本音です。建て前は仲良くしていこう、本音と建て前が違うと近頃言いますけれども、この通りであります」(2月9日)と心情を率直に述べられた。

 この時局懇談会開催は、日達上人の、学会との関係をできるものなら正常なものにしようとの判断によるものである。

 結局、宗門では宗内から寄せられた学会の謗法・教義逸脱を整理し、学会にその是正を求ることとなった。それに対し学会は、聖教新聞に「教学上の基本問題について」(いわゆる6・30の是正)を渋々表明したのである。

 しかし、本気で是正しようとしない学会に、活動家僧侶と檀徒(現在の正信会)は覚醒運動をさらに強力に推進し、脱会者も急増した。

 昭和53年8月26日・27日の両日には第1回の全国檀徒大会が大石寺で開催された。これには僧侶180名、全国から檀徒代表6200名が参加し、大いに志気が上がり、運動は急激な進展を見せることになった。

この大会が学会へ与えたインパクトは強いものがあり、宗門からの指摘に真剣に対応せざるをえなくなった。その延長線上に創価学会代表幹部会と銘打っての「11・7お詫び登山」が行なわれたのである。

 しかし、もとより面従腹背、確信犯の池田氏は、かねての路線を修正することなど考えてもいない。それを見抜いている正信僧俗によって覚醒運動はさらに全国的に強く推進された。

 その頃日達上人は、

 「僧侶達が学会に対してその誤りを指摘して、そしてここに結束して皆様と共に檀徒を作って、日蓮正宗を護ろうとしているその誠意は、誠に日蓮正宗の根本の精神を、広宣流布する為であるという深い赤誠であることを認めて貰いたいと思うのであります。まだまだある僧侶はいかに今迄間違った教義を宣伝されておっても、未だに平気な顔をしておる僧侶もあります。しかし、一応これらの僧侶も日蓮正宗の僧侶としておる以上、私はただ大きな心においてそれ等の身をまもり、又正宗の一つの団体の僧侶として守っておるのでございます」(1月28日・第2回全国檀徒総会)

 と指導されている。

 また、

 「最近ことに学会と宗門との間に色々いきさつがございます。決して我々宗門としては、学会をつぶそうとか学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間に於いて学会が、宗門の法義の上に於いて間違ってきてしまった、それを指摘して何とか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。今後も間違ったことが有ればどんどん指摘します。今でも、色々間違ったことが内事部でわかれば内事部に於いてどんどん質問をするというように、盛んにやっております。そうしてこそはじめて大聖人の弟子・檀那として、日蓮正宗がもり立っていくのではないか、と私は考えております。たとえ会長であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならばどんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していっていただきたい」(3月31日・第18回妙観会)

 と指導される等、池田学会の動向を注視され、いささかも正法護持・謗法厳誡の根本精神を忽せにされてはいない。

 この時期、日達上人の御心に映った二人の僧侶、すなわち「学会に対してその誤りを指摘して、そしてここに結束して皆様と共に檀徒を作って、日蓮正宗を護ろうとしている」僧侶と、「間違った教義を宣伝されておっても、未だに平気な顔をしておる」僧侶、その二通りの姿は、ひとえに道念の有無を示すものに他ならない。

 上人が認められたのは、覚醒運動に精進する正信会の僧侶なのか、それとも現阿部宗門の僧侶なのか、誰の目にも明かであろう。

 その道念ある、檀徒を作って日蓮正宗を護ろうとしている僧侶と、その僧侶の下に集った檀徒の弛まぬ精進によって、昭和54年4月、ついに池田氏は創価学会会長ならびに法華講総講頭を辞任することとなるのである。

【日達上人の収束発言とその主旨】

 日達上人は、日蓮正宗の最高責任者として、節目節目には事態の収拾を願う旨の公的発言をされていたことは事実である。それは一宗の統率者として当然のことであり、学会の是正は我々正信会の願いでもあった。

 その立場から昭和5311月7日の“お詫び登山”の折りには、「幸い、学会においてその点に気付かれて今後の改善のために、反省すべき点は率直に反省し、改めるべき点を明確に改める決意をされたことは、まことに喜ばしいことであります。今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をつけて、相手の悪口、中傷をいい合うことなく、理想的な僧俗一致の実現をめざしてがんばっていただきたいのであります」と発言されておられる。

 また、池田氏の会長辞任を受けて54年4月28日に急遽開催された教師代表者会議では、 「学会の末端にまで意思が通じてないらしくて、聖教新聞では『六・三○』とか『十一・七』ということについてということを再三出しておりますが、下の末端ではその意義がはっきりわからない。……ほとんどの僧侶が、法華講と、ことにまた今まで学会の人が、学会をやめて各寺の檀徒となった人が大変増えてきまして、それらの人の攻撃もある。それでついに今月の二十二日に会長が来られて、法華講総講頭を辞職したいと、また学会等も規則を変更して、ということも言ってきました。自分も会長を退くということも言ってましたが、私としては会長を退くとか、規則を変更するということは少しも関係ない、関知すべきものではない、その総講頭を辞めるということは一応おうかがいしておきます。

 この辞任願いを持って参りまして……会長をやめて一切の責務を退くと、今後そういうことに口を出さないし、学会のことに口を出さない、また常に噂される“院政”というようなことも絶対にしない、ということを表明しておりました。宗門としてはそれで一応解決したものと見ております」と発言されているのである。

 しかし、それは当然のことながら上辺だけのとりつくろった是正でよいということではない。私見をはさまず発言を丁寧に読めば分かるように、日達上人の本心は真剣に日蓮正宗の信仰を求める者を善導したいというところにある。

 ためにしばしば学会に対して、かなり厳しい発言、姿勢をとられてもいる。それは、日達上人最後の御説法となる昭和54年7月17日の妙流寺本堂・庫裡増改築落慶法要(福岡)での、

 「……仏教では『恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なり』と法華経に説いております。今までかわいがられた、あるいは育てられたという恩を捨てて、真実の法を求めてこそ自分の父なり師匠なりを導くことになるということであります。よく学会の人が間違ったことを言いますね。『師匠が地獄へ行ったら自分も行っても良い』という考えは大変な間違いであります。よく考えなければいけません。そのような考えは、人を信じて法を信じないということであります。もしも師匠が地獄へ堕ちたならば、自分が本当の信心によって救ってやろうということこそ師匠に対する報恩であります。それを間違ってはいけないのでございます」

 とのお言葉からも十分理解できるであろう。

 見ようによっては相反する発言のようにも受けとられ、それに対して二心・二枚舌というように悪口する向きもあったが、正法の護持と信徒の善導に真剣に悩まれる日達上人の偽らざる姿であった。

 要は仏法信仰者として、日達上人の言葉をとるのか、その本心を拝するのかの違いである。

 日蓮大聖人は「文字は言葉を尽くさず、言葉は心を尽くさず(趣意)」とご教示である。すなわち、文字より言葉より、その心を得ることが肝心ということである。

 表面上の日達上人のお言葉のみをもって、都合良く収束したと認識し公言する者は、結果的に、日達上人をして池田学会の本質を見抜くことのできなかった愚かな貫首と言っていることになるのである。

 そこには、法主に従うようでありながら、実は保身と責任逃れに汲々とする売僧の姿が浮き彫りになってくる。無慚無愧これに過ぐるものはない。

 この“収束”との指摘は、彼ら阿部宗門の誤りの最たるものの一つである。収束していないものを収束したと認識することは自らの判断の誤りをさらけ出すものである。

 反省と懺悔は、言葉ではなく行動で示されることが大切であることは言をまたない。与えて言うならば、彼ら日和見宗門人、ノンポリ宗門人は、法主の立場に在る者が判断したことは是非を問うことなく、無条件にその一切を了承するという従順な精神の持ち主ということであり、現阿部宗門の信仰観そのものである。そこには日蓮大聖人・日興上人のご法門を研鑽し、その正法を灯火として自らの人生を切り開いて行こうという姿勢を見ることはできない。思考を放棄し、自らの判断を持とうとしないで、怪しいご指南とやらに一切を委ねようとすることが宗祖・ご開山の御心とでもいうのであろうか。

 奪って言うならば、仏法・信仰よりも人・教団、そして自身の俗的利益を何よりも優先する売僧、といわれる姿が露呈しているということになる。

 前述の通り、学会が反省も懺悔もしていないからこそ、今日の混乱と争いがあるのに、阿部宗門から「学会の反省懺悔」という表現が出てくることに呆れてしまうばかりである。

 日達上人の「しばらく様子を見なければならない」との発言も、ごく普通の道念が有れば、謗法や逸脱を見逃してもよい、善導しなくても良いとは受け止めないはずである。僧侶としての道念が疑われるばかりか、狭い宗門を上手く泳ぐことばかりに腐心しているから、富士日興門流に身を置きながら宗開両祖の真の声を聞くことができない惨めな相を晒してしまうのである。

【改善の意志などなかった学会】

 反省懺悔の証として池田の退陣を発表した創価学会であったが、その体質も在り様も何一つ改善されることはなかった。それは、54年5月26日の本部幹部会における北條新会長の「不肖私は、第三代会長池田先生のすべてを継承するために、この立場に立った。もとより私には、何の取り柄も、何の力もないが、この精神だけは断じて貫いていく覚悟である……池田先生は、今まで築いてこられた仏法を基調とする平和文化路線をさらに、大きく広げるために、今後も大きな活動をされるであろう…」との発言、秋谷氏の「池田先生の、広宣流布への大情熱、大感情にふれて初めて使命に奮い立ったのではないだろうか。この魂に刻んだ学会精神は絶対に壊すことも、消し去ることもできないと」の発言にも現れている。

 また、後日池田氏本人による「私は間違った指導はしなかった」との発言からも明らかである。彼らにははなから反省も懺悔の心も無かったのである。

 これら北條・秋谷発言の裏には、「創価学会とは私そのものである。私が創価学会の魂である。新体制も、また会則・規則もそれはあっていいよ。しかし、会則・規則は手段であって、信心が魂である。新執行部は、池田先生の全財産を一時お預かりしますというくらいの誓いをすべきではないか。私が本当に怒ったらこわいぞ!」という池田氏の恫喝があったことが内部証言者の声として漏れ伝わっているが、この頃、北條会長以下の新執行部をはじめ副会長全員が、池田を「永遠の師」と定めた誓書を出し、許しを乞うたというのである。どこに池田学会の反省・懺悔があったというのか。

 日達上人の求められた教義の厳正化は勿論、「院政をしかない」「民主的な組織体制」など池田氏の到底容認するところではなかったのである。

 しかし池田氏と創価学会を熟知している日達上人も是正したとは断定しておられなかった。あくまで「学会の路線が正しく実現されるということの上で」「しばらく様子を見る」「見守る」という姿勢であった。

 その注意と懸念は的中していた。学会員と直接相対する末寺でご奉公する心有る正信会の者には、その是正が形だけのものであり、更に形をかえた池田氏の絶対化と、教義の変質が進行していることは明白なものであった。従って収束などとの認識を持つことなく運動を展開し続け、今日、その判断が誤りでなかったことが証明されているのである。

【阿部師の悔恨、思い込みがあった…】

 今まで述べてきたように、学会が反省も懺悔もしていないと自ら回答し、その実態が今日明らかなものである以上、「52年路線の是正」等との言は撤回するべきである。

 阿部師は現在どのような心境なのか、阿部宗門の僧俗は次の甚深のご指南を謹んで拝受するべきであろう。

 今年8月20日発行の富士学報29号の“法主上人講評”によれば、「昭和五十二年路線と言われる頃、宗門の僧侶の人達もそれに気付いて、色々と破折をされたという事がありました。私はあの頃教学部長をしておって、迂闊だったけれどもあまり創価学会のことに関する邪義を破折する事を、初めのうちは行わなかった意味がありました。……私がそういう事をしなかった理由は今までも述べたかも分かりませんが、しなかったのではなく、ある一つの思い込みがあったのです。……当時の宗門の若い僧侶の人達が創価学会の間違いをどんどん感じて言い出した頃、私は逆に、何か創価学会擁護、というよりも一番心の根本のところで、創価学会がやはり仏勅の団体であり、広宣流布の団体で、何としても揺るがない正義がそこに存在しているんだという事を思い込んできてしまっていましたから、そこらへんがどうにも私自身が先にたって批判する形が取れない。気持ちがあるところに思い込みがありますと、なかなか一つの物を読んでも素直にそういうふうには取れなかったんですね。その点は当時の若い人達、今は相当の年齢になっているけれども、そういう人達が色々な面から創価学会・池田大作などの間違いを正してきた、あの形が全く正しかったと思います。……当時の人達に大講堂に集まってもらって、創価学会のあらゆる論文等の中から色々間違っている面を全部抜き出して、そしてそれについて創価学会に指摘をしていくという事の内容の一番基となるものについて、教学部長としてやったのであります。何もしなかった訳ではありません」と発言している。

 齢を重ねてかなり正直になってこられたのか、若干の言い訳はしているが、自らの非を認め、あわせて正信会僧侶の有り様を素直に正しかったと認めている。ではその責任をどう取るおつもりかお尋ねしたい。

 いずれにせよ、真実は一時その姿を隠しても、時を経、求めに応じて必ずその姿が明らかになるのである。

故意に事実を歪曲する宗門の疑難

【前文】

 阿部宗門による正信会への疑難(「正信会破折」)を糾すこのキャンペーンは、今回で第3弾です。宗門は正信会に対して、どのような論戦を仕掛けているのか、この宗門からの「破折文」には、ほぼその全容が記されているといってよいでしょう。

 継命では、B5判21頁に及ぶ宗門側の「破折文」を順を追って掲示し、そこに展開されている阿部宗門の主張を逐一検証しつつ、正信覚醒運動の正当性が、宗門の論難によっていささかも揺らぐことがないということ、またその論難がいかに欺瞞・すり替えに満ちたものであるかを明らかにしていきます。

 第1回では「正信会破折」のあらまし、創価学会の昭和52年路線にまつわる阿部師サイドと正信会の対応の歴然たる違い、第2回では、現宗門が主張するように、学会の謗法逸脱路線が、いったんは収束したものなのかどうかを検証しました。今回は阿部師が相承の無資格者であったこと、また法主詐称後に行なった日達上人の事跡への破壊行為等について検証しました。

…………………………………

【宗門が呈している正信会への疑難「正信会破折」】

 B日達上人のあとを受けられた日顕上人とご決意

 こうして、学会の教義逸脱問題にいちおうの収束を見た直後の昭和五十四年七月、日達上人は安祥としてご遷化あそばされ、六十七世日顕上人猊下がご登座されました。そして、日達上人が最後に示された方針を引き継がれ、次のような「院達」及びご指南を発せられたのです。

 「僧侶にあっては、上求菩提下化衆生の誓願に徹して慈悲の精神に立ち、法主上人のもと一結して僧俗和合協調の右基本路線に添い奉るべきである。(中略)

 もちろん、もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきであり、またそこに何らかの複雑な問題を含むときには、宗務院に報告して善処を委ねるなり、あるいは地方協議会等の機関に諮る等を講ずべきである。

 創価学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明徹底することを怠ってはならない。

 すなわち、そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分を明確にし、またそのような指導を行なったことについて卒直に反省懺悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない」(院達第十八号)

 「私は言うのですが、『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、あらためて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは多くの人が、直ちに、あらためて日蓮正宗に入ってくるでしょう。(中略)

 もしも、そのようなことが本当にあったならば、そのときは徹底的にやればよいでしょう。しかし、そうすると『その間に準備をされてしまう』と言う。準備ぐらいされてもよいではないか。(中略)誤りを改めると云っている以上、容認してやるべきではないか、と思います」

 このように、御法主日顕上人猊下も、ご先師日達上人がそうであられたように、学会が「誤りを改めていく」と誓っている以上は、ひとまず容認して今後を見守っていく、という方針を示されたのです。

 池田大作も、翌昭和五十五年四月二日、「恩師の二十三回忌に思う」と題する所感の中で、

 「私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります」

 「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『六・三〇』(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります」

 と、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、すべて池田自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また「六・三〇」は創価学会として、万代にわたって絶対に破るべからざる規範と明記したのです。

 さらに、御法主日顕上人猊下は

、  「大聖人の御書の精神に照らすとき、一時の誤りはあっても懺悔があればその罪が消えることは明らかであり、まして現に正法を受持信行する人達に根本的な謗法はありえないのであります。創価学会の逸脱は、それを改めなければ謗法に帰する意味はあっても、すでに改めんと決意し、行ないつつある以上、現在において謗法をあげつらうことは大きな誤りであります」(要旨・昭和五十五年四月六日)

 とご指南されて、ここに、あとは学会執行部の懺悔の志が本心からのものであるか否か、という問題だけを残すこととなったのです。 もとより、人の心の中のことを凡夫が確答できよう筈もなく、真実をお見通しなのは御本尊のご仏智だけであります。ゆえに、日顕上人猊下は、

 「私は、皆さんに、仏智ということを信じていただきたいと思います。(中略)この仏智ということは、凡智・凡見で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがあるのであります。(中略)日蓮正宗の歴史において、そこにさまざまの形はあったとしても、一貫して流れる仏智というものを、お互いに信ずることが信仰の根本であると思います。それを忘れたならば、宗門の僧侶ではありません」(要旨・昭和五十五年七月四日)

 とも仰せられているのです。
 
正信会よりの破折

  
所詮、詐称であれば証明は不可能

 間違いなく阿部師には相承もその資格もない

【猊座を奪った阿部師】

 下段に掲載した「破折文」によれば、「学会の教義逸脱問題にいちおうの収束を見た直後の昭和五十四年七月、日達上人は安祥としてご遷化あそばされ、六十七世日顕上人猊下がご登座されました」とある。

 阿部宗門では、当然のことながら無条件で阿部師を法主と認めてはいるが、本人をはじめ誰人も客観的な事実をもって日達上人からの相承を証明できる者がいない。阿部師は日達上人が遷化されるや、以前からの野心むき出しに、自己申告一本で法主・管長の座を簒奪した。

 昭和五十四年七月二十二日、日達上人が遷化されると、阿部師は自ら「実は昨年四月十五日、総本山大奥において、猊下(日達上人)と二人きりの場において、猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについて甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」との実に曖昧な発言をなし、日達上人御遷化という宗内混乱の最中、椎名重役が通夜の席でその旨を公表したことによって猊座に座ってしまった。

 宗制宗規の上からも、またあらゆる化儀伝統の上からも、阿部師が正当に第67世を継ぐことはできないにも関わらず、多くの宗門人が内心おかしいと思っていても遮ることができない状況の中、一瞬の間隙を縫っての阿部師の離れ業は、見ようによっては見事という他はない。我々正信会が疑義を呈したのも、それから一年五ヶ月が過ぎてからのことであった。

 我々は阿部師の信仰観を知るにつれ、また、学会教導の在り方についても、あまりにも御先師とは異なるばかりか、一方では客観的事実が次第に明らかになったために、阿部師の相承について疑義を質す「お尋ね」をしたが、納得できる回答がないばかりか、いたずらに権威権力をふり回す愚かな姿を目の当たりにし、「管長の地位の存否」を裁判に問うたのである。

 阿部宗門は我々に対し、「管長の地位の存否」を裁判に問うこと自体が血脈否定の謗法者であるとのレッテルを貼っているが、我々が提訴したのは、信仰上の問題を裁判所に判定してもらうためではなく、あくまでも相承の事実の有無を問題とし、規則に照らして正当か否かを法的に求めたものである。

 ここでいう規則とは「日蓮正宗宗制宗規」であり、宗教法人日蓮正宗で定めた規則に則った場合、阿部師は法主管長に就任できるのかどうかという判断を求めただけのことである。もとより日蓮正宗の教義そのものを裁判所において審議するように訴えたものではなく、富士日興門流に流れる血脈法水を否定したものでもない。

【宗制宗規の選定規定】

 宗教法人日蓮正宗の法的規範となる「宗制宗規」によれば、阿部師は法主管長には就任できない。次期法主(貫首)の選定については『日蓮正宗・宗規』第14条2項以下に、次のように明確に定められている。

「2 法主は、必要を認めたときは、能化(注=日号の公称を許された者)のうちから次の法主を選定することができる。但し緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる。

 3 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する。

 4 次期法主の候補者を学頭と称する」

 この選定規定によって阿部師を検証すると、まず第2項に被選定資格者は「能化のうちから」とあり、昭和五十三年四月十五日当時はもちろん、日達上人の遷化に至るまで、阿部師が能化に補任された事実はない。

 次に第2項の例外規定である「緊急やむを得ない」事情があって、日達上人は当時大僧都だった阿部師を選定したのであろうか。これはその後、一年三ヶ月もの間、日達上人が法主として滞りなく法務を執行されていた事実からしてあり得ない。

 万が一、日達上人が健康に不安を覚えられるなど、何らかの緊急の事態を認められ、昭和五十三年四月十五日に阿部師を次期法主の候補者として選定したとすれば、第4項の規定にもとづき、遷化までの一年三ヶ月の間に「学頭」に任じ、また「能化」に昇級させたはずである。 第3項は、前法主が次期法主を選定しないで遷化した場合の規定である。これは阿部師自身が「昨年の四月十五日云々」と述べて、そのとき選定を受けたと主張していることからして該当しない。

 このような明確な事実をふまえた上で、我々は何回も「お伺い書」等を提出したが、一度として回答が得られなかった。ただ「俺以外に受けた者がいるのか」「俺が受けなければ仏法がなくなってしまう」「御仏智によるんだ」等とうそぶき、学会幹部ばりの道理なき信仰観をさらすばかりであった。所詮は詐称である以上、証明が不可能ということなのである。

【相承の大事】

 六十五世日淳上人は相承の大事について、「仏法においては相承という事が誠に大切でありまして、これが明確でないと仏法が混乱してしまう」「仏法においては正法が混乱しないように相承の道を立て明らかにされるのであります。相承とは相い承けるという事で、師の道をその通り承け継ぐ事であります。すでに、師の道を承け継ぐのでありますから、必ず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したと言ってもそれは相承ではない」と仰せである。 日淳上人は、相承は厳格にして誰にでも分かるようにハッキリ証明されなければならず、授けた師の証明もなく、弟子が勝手に受けたと言っても、それは当宗の相承ではないとご教示になっている。

 またご自身も六十四世日昇上人から明確に相承を受けられ、六十六世日達上人に明瞭に授けておられる。さらに「仏法において相承の義が重要視されるのは仏法が惑乱される事を恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。その為、展転相承を厳にして、それを確実に証明し給うのである」(いずれも『日淳上人全集』から)と述べ、今日あるを予見されて、相承が明確でなければ仏法が惑乱されると警鐘を鳴らされ、我ら末弟が信仰の正邪に迷わぬようにとの配慮をなされている。

道理を無視し仏道修行を疎外

 ご都合主義で出てくる「御仏智」発言[阿部師]

 【阿部師の「御仏智」】

 相承の問題、またその他の問題について、阿部師はしばしば「御仏智」という言葉を口にしている。宗門側の「破折文」にもこの「御仏智」が登場する。それはおそらく「御仏意」の間違いであろう。この言葉は阿部師の常套語の一つといえる。破折文の中にも、

 「私は、みなさんに、仏智ということを信じていただきたいと思います。(中略)この仏智ということは、凡智・凡見で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがある」

 との発言が引用されている。阿部師はここで自身の相承に対する宗内からの疑念を押さえるために、事実の証明や宗制宗規による対応ではなく、それらを一気に超越しているかのようなニュアンスを持たせるため、信仰的な「御仏智」という表現を使い、あたかも大聖人の御意志によって自分が法主になり、また自分の言動が大聖人の御意志に従っているかのように宗内の僧俗に思い込ませようとしているのである。

 阿部師によるこの「御仏智」は、大客殿や正本堂の破壊の際にも言い訳として用いられたばかりか、まったく道理の通じない場面でも、必ずご都合主義で出てくる言葉である。

 本来の語意を離れた阿部師の「御仏智」は、僧俗の正しい仏道修行を疎外する危険極まりないものであるが、仏法を恣(ほしいまま)に私する阿部師にとっては、これ以上ない重宝な言葉となっているようだ。

 この一事をもってしても、阿部師による仏法私物化の謗法の相を見ることができる。

【日達上人と阿部師の相違】

 「破折文」では、阿部師は日達上人の跡を忠実に踏襲したかのように表現しているが、所詮阿部師は詐称の法主である。日達上人と阿部師にはあまりにも相違があり、師資相承が行なわれていないことは、その言動に明瞭である。

 ここに言動の相違を何点か取り上げて対比してみよう。

 まず、本山守護について、日達上人は次のように仰せになっている。

 「一人でもお山を守りたい、もうどんどん(学会と)手を切ってもいいから、百姓してもいいからやろうと、皆お山の連中にもそう言ってるんです。結局百姓して食わなきゃ駄目だぞと。それ迄決心して私は言ったんですから、どうか皆さんもしっかりしてですね、自分のお寺の収入というものに胡座(あぐら)をかかないで、一所懸命に教義を大事にしていくと」(昭和49年7月27日、宗門の現況と指導会)

 この点について、阿部師はどう発言しているだろうか。

 「『宗門は金のことばかり言う』と言うけれども、毎日何千人と来る登山会の、その内の九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしてくれるのは、実質的に学会員なのです。これは決まりきったことです」(昭和541010日、全国宗務支院長会議)

 日達上人は教義を大事にしていくと仰せになり、阿部師は宗門の灯燭は学会が守ってくれていると述べている。ここには大きな差異がある。

 創価学会の教導についてはどうだろうか。日達上人は、

 「どこまでも、たとえ会長であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならばどんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していっていただきたい。(中略)又、学会が昔よく宗門に尽くしてくれたその恩に報いるためにやるのです。“白烏(う)の恩を黒烏に報ずべし”まったくその通りである。我々はどこまでも正しい法をもって人を導き、人々に教えて、宗門を守っていこう」(昭和54年3月31日、第18回妙観会)

 と仰せである。これに対して阿部師は、

 「思うに創価学会のあくまで御本尊を中心根本とする信心や体験、組織等のあり方、そして池田名誉会長の過去における七百八十万世帯までの未曽有の折伏を果たされた指導性、平和文化に関する世界的な実績等を考えるとき、将来の世界に渉る広宣流布の為、大いに必要な団体であり、人物であると私は信ずるのであります」(昭和55年4月6日、御代替奉告法要)

 と述べている。その差は歴然としている。

阿部師の正信会抑圧に歩調を合わせ

 「御法主」への絶対忠誠を表明した学会

 それでは、法主の立場についてはどうだろう。日達上人は次のように仰せである。

 「根本の我々即身成仏の師匠は、宗祖大聖人である。私はただ、その大聖人の御本尊、すなわち大聖人をお護りしておるにすぎないのであります。皆様の直接に戒壇の御本尊にむかって唱えるところの題目こそ、即身成仏の題目である」(昭和511128日、第2回全国法華講青年部大会)

 「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目は座主である。……その日目上人の後は、皆筒の流れのようにそれを受継いで行くにすぎない。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい」(昭和52年5月26日、寺族同心会)

 これに対して、阿部師の発言を挙げれば、

 「法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけは、はっきりと申し上げておきます。ですから、『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じくそういう人の唱えるお題目には功徳はない、と私は申し上げるものであります」(昭和55年7月4日、全国教師指導会)

 と。このように、日達上人と阿部師の相違は、数え上げればきりがないほどである。  それも当然であろう。昭和五十三年六月二十九日、全国教師指導会が開催された時、阿部師はこの内容を即刻創価学会に連絡・通報している。つまり創価学会と結託し、日達上人の意に反した行動をとっていたのである。これを知った日達上人は、大勢の僧侶を前にして「こちらから通報するなんて阿部はとんでもない。学会にべったりでどうしようもないヤツだ。向こうが聞いてくるまでほおっておけばいいんだ」と声を荒らげたという。

 こうした事例を挙げるまでもなく、阿部師が相承の儀に関する御言葉を頂いたとする当時、阿部師をはじめ宗務役僧への日達上人の信頼はまことに稀薄であり、相承など想いもよらぬ状況なのであった。

 今や日蓮正宗を名乗る団体にして、阿部師を「法主」と認めるのは阿部宗門だけとなってしまった。かつて組織防衛のために最大限に日蓮正宗の法主を利用した池田学会。池田を切り、正本堂を破壊した阿部師を利用しようと目論んだフシのある浅井顕正会。共に今では法主としての阿部師を認めてはいない。もとより時の貫首を御法主として絶対者に祭り上げ、謂われもなく生き仏のように奉ってしまうところに富士の法門があるわけがない。いつの間にか宗祖御開山の御聖訓よりも、貫首の言葉の方が重く受け止められてしまうのは正に本末転倒であり、それこそ謗法であると断ぜざるを得ないのである。

【阿部・池田の野合】

 法主を詐称した阿部師は、登座するや、覚醒運動に理解を示すようなポーズを取りながら、陰に陽にわたりこの運動の妨害を始めた。訓諭・院達の発行はもとよりあらゆる機会を用いて覚醒運動の押さえ込みにかかったのである。池田学会もこれ幸いとばかりピッタリと呼吸を合わせて二人三脚。御法主・宗門への絶対忠誠を表明して、学会の本質を見抜いている正信会の宗門追放を企てたのである。

 「破折文」では「池田大作も、翌昭和五十五年四月二日、『恩師の二十三回忌に思う』と題する所感の中で、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、すべて池田自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また『六・三○』は創価学会として、万代にわたって絶対に破るべからざる規範と明記したのです」と語って反省したとしているが、これは、すでに天下に知られた茶番劇である。(次頁へつづく)

宗創の正信会対策だった池田所感

 同床異夢に気づき、骨肉相食む醜争へ

 宗門側が、池田の所感「恩師の二十三回忌に思う」を反省の証拠として挙げて正信会を「破折」しようする試みは、あまりに無防備で稚拙である。池田の所感は阿部宗門の要請によって作成されたものであり、本人も後の裁判証言で「茶番」である旨を語っている。その所感が池田の本心でないことぐらい、今や宗の内外を問わず周知の事実となっている。

 にもかかわらず、その池田所感をわざわざ「池田学会是正の証」として引用するとは笑止の至り。そこには、上っ面の辻褄さえ合わせておけば何とかなるだろうという、誠意のかけらもない阿部宗門の姿勢がよく顕われている。

 この所感は池田の裁判出廷前までは利用できても、池田の証言以後は全く使えぬシロモノである。阿部・池田の奸策を糾弾する時にこそこの所感を引用しなければならないのに、適切な引用ができないのは浅はかという他はない。

 正信会を「破折」するのに、「池田学会の反省懺悔」の証として「池田所感」をふり向ける前に、裁判における池田証言の信憑性の高さから、阿部・池田の宗教者らしからぬ卑劣で邪悪な奸策の存在を認識し、その是非を考えるべきであろう。

 このご両人は、自らの利益のためならばどんなことでもするのである。それが阿部・池田の共通の本性である。だからこの二人が同床異夢と気づき始めた時から、骨肉相食む醜争となるのである。

 ちなみに、昭和五十八年十月三十一日、山崎正友裁判(第四十七回公判=東京地裁)に証人として出廷した池田の証言を再録してみよう。

      ◇◇

 弁護人 これは証人の所感と題する文章ですが、全文、池田証人が当然お書きになったんでしょうね。

 池田 ではありません。

 弁護人 内容について池田証人はご存知ないんですか。

 池田 いや、若干は知っておりますが、これは宗門の方から私に、まだ正信会等がおさまんないから、問題が納まんないから、何とかもう一回名誉会長に何らかの詫びを書いて出してもらいたい、こういうことが本部に来まして、それで私は、首脳達がどうしても原稿を作成するからお願いしたい、ああ結構です、こう言いました。

 弁護人 この文章の内容について、証人としては責任が持てないとおっしゃるんですか。

 池田 そうは言いません。首脳に一切委任しましたもんですから。ただ宗門との打ち合わせは何回もやった所感であることは間違いありません。

 〈略〉

 弁護人 証人として当時、創価学会会長として、会員に対して誤った指導をしたという認識はなかったんでしょうか。

 池田 ない。

 弁護人 ない?

 池田 ありません。当時ありません。

      ◇◇

 この証人尋問で、池田は正直に本心をうち明けている。これが一読すれば子どもでも分かる「恩師の二十三回忌に思う」の所感発表の真実である。

 この池田発言が明らかになった時、宗門は何らの抗議も批判もせずに池田発言を黙認することによって、それが事実であることを間接的に証明した。

 このような阿部宗門執行部と学会首脳との奸計を既に読み切っていた正信会は、そんな茶番劇には惑わされず、阿部宗門と池田学会の協調路線の実態を正確に把握した上で、ひたすら大聖人の御眼を畏れ、富士の清流を求めて精進を重ねてきたのである。

 いうまでもなく反省懺悔は偽りであってはならず、繰り返されるものであってもならない。欲心なく冷静に創価学会の歩みを見るならば、その体質は一目瞭然である、それに騙されることこそ愚かしいといわざるを得ない。

【池田の本心】

 聖教新聞紙上に随時掲載されている随筆「新・人間革命」では、池田の本音が存分に語られている。そこでは昭和五十二年から五十六年当時、池田学会は反省懺悔どころか正信覚醒運動を実に悪しざまに罵っていたことがうかがえる。たとえばこんな具合である。  「宗門の邪悪な坊主によって、純信純朴なる学会員が理不尽な嫉妬の迫害にさらされていたのである。私が会長を辞めた年(一九七九)の夏。当時、悪辣な反逆者、悪侶たちの策謀によって、私は自由に会合に出たり、大勢の同志に会うこともできなかった」(平成11年7月10日) 「当時の寺は学会攻撃の謀略に狂った、悪の巣窟そのものであった」(同8月12日)

 「当時、聖職の仮面をかぶった魔性の悪坊主による、学会攻撃の策謀が始まっていた。翌年、名誉会長になってから二年半の間、私は、学会破壊の邪悪な謀略によって自由に動くこともできなかった。すべて、私の存在を恐れ、恐がり、焼きもちを焼いた、宗門の邪悪な坊主をはじめ、奸智と強欲の退転者らの一大結合による陰謀・謀略であった」(同1021日)  これらの発言からは池田の反省懺悔も学会の是正等も、微塵もうかがうことはできない。

離脱僧侶が続き、僧俗間の不協和音も聞こえる…

【阿部師の誤算】

 「破折文」では阿部師の指南として、「『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、あらためて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは多くの人が、直ちに、あらためて日蓮正宗に入ってくるでしょう(中略)」等と太平楽に引用している。しかし、少しでも現実を見ているならば、平気でこういう引用ができるとはとても思えない。学会との戦端を開いて九年、宗門は阿部師が語ったようには全く進んでいない。そればかりか阿部宗門を離脱する僧侶が続出し、さらに末寺における僧侶間の猜疑心、僧俗間の不協和音が伝わるなど閉塞状況で、まさに前途多難を思わせる。これも信仰心なく猊座をかすめ奪った仏罰であろう。

【日達上人の事跡を破壊】

 日達上人は明治四十三年八月十二日得度以来、大正・昭和と宗門激動の時代を歩まれた。時代の波にもまれ、眼前の富士門流の疲弊と窮状に常に心を悩ませ、その興隆を望んでおられたことは想像に難くない。



 池田はじめ学会幹部の本質はともかく、信徒団体として宗門・大石寺のために外護の任を務めた多くの学会員の力に支えられ、宗門、ことに大石寺は境内の拡大、伽藍の充実をはかることができたのは事実である。

 昭和三十年代には大講堂、奉安殿、大化城、大坊、そして大客殿が建立された。昭和四十年代にも正本堂建設を中心に、六壺、総坊、納骨堂、裏塔中等が建立整備されている。

 疲弊と困窮を知る日達上人にとって、それらの一つひとつの建設に寄せられた念いは格別のものがあったことと拝する。しかし今、それら伽藍の大半はその姿を見ることができない。

 全国信徒の心血をそそぐ浄財と日達上人の誓願のもとに妙法の護持と流布を願って建立された諸堂宇は、上述したように、法主を簒奪した阿部師の「御仏智」という怪しい言葉のもとに破壊されてしまったのである。 もちろん、境内整備のためにはやむなく解体せざるを得ないという例もあるだろうが、その場合でも御先師の御心を思い、信徒の心血に想いを馳せ、最小限にとどめるべきであろう。阿部師による大客殿、そして正本堂の破壊には、日達上人の御心と信徒の浄財供養の志を想うとき、驚きと同時に怒りすら覚えるものである。

 阿部師にいわせれば、諸堂宇の解体理由は「神戸の大震災」「願主池田の大謗法」などという屁理屈であり、打ち続く破壊もすべては「御仏智のしからしむるところ」とまで御指南をたれるのであるから、怒りを通り越してあきれてしまう。

 しかし、阿部師は破壊だけではおさまらず自身の独善名誉心のために、新たに新客殿・奉安堂を建立するというのであるから、とうてい許せるものではない。また、これらの破壊は一人阿部師の責任ではあるまい。それを見ながら聞きながら諫めようとしない者すべての罪過が問われるのである。

 「師資相承」の在り方からすれば、阿部師による日達上人の御事跡破壊の一つひとつが、阿部師への相承がなかったことの証左となる。そこに気づかないとは、愚かという他はない。

 それにしても、一人の諫言者もいない阿部宗門の行く末は想像がつくというもの。また日達上人の御恩徳を蒙りながら、上人の憂宗の声が聞こえぬ者の何と多いことか。その不明と臆病さは、必ず師匠より厳しい叱責を蒙ることになるであろう。

【糞を栴檀と申すとも…】

 阿部師もその支持者も、共に世間でいう「嘘も百遍いえば真になる」と思い込んでいるフシがあるが、実に愚かしい。道の真偽を問わんとする仏法において、そのようなことが通用するはずがない。嘘はどこまで行っても嘘、真は隠そうとしても顕われてくるものである。

 宗祖は日妙聖人御書に「糞を栴檀と申すとも栴檀の香なし」と仰せられ、大石寺所蔵の窪尼御前御返事(日興上人書写)にも「譬へばくそ(糞)をほしてつきくだき、ふるいて、せんだん(栴檀)の木につくり、又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども、火をつけてやき候へばべちの香りなし、くそくさし」とご教示である。  阿部師への相承はまさに臭気ふんぷんであり、その法主詐称・猊座簒奪は、真摯な懺悔がなされぬ限り、永遠に指弾されるに違いない。 

  【前文】  「富士の清流を問う」第4弾では、宗門側が主張する「正信会問題の発生と経緯」を検証し、彼らが言うところの正信会の「根本的二つの誤り」が、実は絶対信の希薄に起因する彼ら自身の誤りだということを指摘しました。また最近の阿部師の「御指南」をみるとき、そこには正信会僧俗が進めてきた正信覚醒運動の正当性を結果的に裏づけるような発言が頻出しています。このことについても、本稿末尾で「正信会を非難するその口舌が盛んであればあるほど、阿部宗門は自らの非を露わにして行くのであるから仏法の道理は厳正」であると指摘しました。宗門側からの疑難を象徴するものとして、正信会が相承否定・三宝破壊・戒壇本尊蔑如を犯したということが挙げられていますが、次回(第5弾)は阿部宗門こそが富士の法門を混乱せしめているということを論証します。

【宗門が呈している正信会への疑難「正信会破折」】

  二、正信会問題の発生と経緯

 このような創価学会の教義逸脱を発端として起こったのが、「正信会」を自称する本宗の元僧侶および檀徒等の異流義問題でした。 当初彼らは、創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくことを標榜していました。実際、日達上人のご指南に沿って学会の誤りを糺しているかのように見えたのです。しかし実際には、昭和五十四年のいわゆる「五・三」に際して、日達上人が「学会の反省懺悔を受け容れ、しばらく学会の様子を見守っていく」旨を決定あそばされるや、彼らは総本山の日達上人に公然と反抗しはじめたのです。

 表面に出た具体例を一、二挙げてみますと、当時の彼らの機関紙には、

 「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず。また学会を責める者を咎めることは、謗法者を庇い立てることであるから、かえって謗法になる」(要旨・「継命」第二号)

 等、日達上人のご指南に背反する檄が掲載され、また、これを注意すべく日達上人が彼らに宛てられた通告(院達第三〇四七号)に対しては、ただ「拝見しました」と書いただけの無礼きわまりない返書を送り付ける、といった具合でした。

 同年七月、日達上人のご遷化により六十七世日顕上人がご登座されると、彼らは、一時、状況分析のためか静まっておりましたが、新御法主の方針が日達上人と少しも変わらぬことを知るや、いよいよ正面きって御法主日顕上人猊下を誹謗攻撃しはじめたのであります。

 御法主上人猊下はたいへん御心を痛められ、再三にわたって彼らを説得されましたが頑として随おうとせず、かえって彼らに随う多数の檀徒を巧みに煽動して、活動を激化させてきました。

 これでは大聖人様の法義の乱れを誘発し、一宗の統制と秩序が破壊されるため、やむなく昭和五十五年九月、宗門は彼らを懲戒するなどして事態を鎮めようとしました。しかしそれに対して彼らは、同年末から翌五十六年初めにかけ、ご先師日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七世御法主ではない。ゆえに、日顕上人のなした懲戒は無効である等、とんでもない言い掛かりをつけ、あろうことか御法主日顕上人猊下を裁判所に告訴するという、およそ宗門人としては考えられぬ暴挙に出たのです。

 これは大聖人様の仏法の根幹を破失する重大な謗法であり、ここに至って彼らは本宗から擯斥(破門)されるところとなったのです。 この経緯を概観すると、彼ら、正信会と称する人々には二つの大きな根本的誤りがありました。

 三、根本的二つの誤り

 まず第一は、手段と目的を取り違えて本末転倒した、ということです。そもそも全国の僧俗が学会の謗法を責めたのは、あくまでも根本の大御本尊と三宝を護り、総本山を護るためであった筈です。しかるに、いかに学会許しがたしの想いが昂じたからとて、学会を責めること自体が最重要目的であるかのごとき錯覚に陥り、そのためには総本山・御法主上人をも誹謗攻撃するというのでは、日蓮正宗の宗徒として本末顛倒の謗りを免れません。

 要するに彼らには、大御本尊・三秘・三宝を根本と仰ぎ奉る絶対信が稀薄だったのです。

 第二は、正法を正しく信仰しておれば自ずと具わるべき慈悲心に欠けていた、ということです。正信会の人々は、ことあるごとに「真の慈悲は相手の謗法を責めてあげることであり、我々は、慈悲心に立つが故に学会の謗法を責めるのだ」と主張しておりました。しかし、五十九世日亨上人のご指南には、

 「宗祖聖人も、阿仏房尼に告げて、『謗法にも、浅深軽重の次第ありて、あながちに悉く取り返しのつかぬ重罪にあらず。軽き浅き謗法を知らず知らず行なうといえども、その人が色心相応の強信者ならば、強い信心のために弱い謗法は打ち消されて罪とはなるべからず』というふうの仰せがありしは、まったく門外折伏、門内摂受の意もありて、信徒を将護し給う大慈なるべし。いわんや、末輩にありては、自他互いに警策し勧奨して、寛厳宜しきを得て異体同心の実を挙ぐべきなり。厳にも寛にも、折にも摂にも、根底に大慈大悲の溢るるあらずんば、万行いたずらに虚戯に帰せんのみ」(有師化儀抄註解・富要一|一四九)

 と仰せられ、すでに入信せる門内の人々に対しては、何よりも、その人の信心を守り育てる大慈悲心を根底に、寛容を表として(さらに必要に応じては寛容と厳格を適宜に用い)、異体同心の実を挙げるべきこと等を示されています。

 このご指南に照らすならば、いかに不審な点は残るにせよ、いちおう誤りを反省して改めていくと表明している者を、とことん謗法であるとして責め続ける正信会のごとき行き方は、どう考えてみても慈悲と呼べるようなものではなく、とうてい大聖人の御意に適うものではありません。むしろ、それは慈悲を隠れ蓑にした瞋恚・怨念の振舞いと言うべきであります。

 このような心根であるから、正信会の人々には、ご信徒お一人おひとりに対する日達上人と日顕上人の大慈悲が拝しきれず、あたかも両猊下が学会の権力・財力に屈したかのごとき、とんでもない思い違いをしたのです。  ともあれ、この二つの基本的誤りが元となって、ついに正信会の者たちは、ご相承を否定し、三宝を破壊し、戒壇の大御本尊を蔑ろにする等の数々の大謗法を犯すに至ったのです。ここでは、その主なものを挙げて破折することにします。      「日蓮正宗を護る」の意味を考えよう
 
正信会よりの破折

  
 「依法不依人」は宗祖求道の基本姿勢

【本文】

 下段の「破折文」は、四百字詰原稿用紙三枚半で正信会問題の発生と経緯を述べている。しかしその内容はあまりにも短絡的・皮相的なものである。ここでも何ひとつ裏づけのない阿部宗門の「権威」を大前提として一方的に「正信会は異流義」とレッテルを貼り、宗内に通用すれば事足れりとしている。そこには不誠実極まりない彼らの信仰姿勢が顕わに示されている。それにしても彼らの批判は大雑把で乱暴である。この程度で正信会を「破折」したつもりでいるとは呆れるばかりであるが、もしかすると「破折文」の筆者は、正信会からの正鵠を射た批判を期待し、それをもって阿部宗門の邪義非道をあぶり出し、正信覚醒運動の正しさを証明することで仏恩に報謝しようとしているのかも知れない。  ここには阿部宗門側の視点に立って正信会問題の発生と経緯が述べられているが、では、なぜ権威権力をものともせずに覚醒運動が進められ、今日まで継続しているのかという点については全く触れられていない。

 彼らは、自らの論理に与せぬ者はすべて邪義に狂った謗法者であると一方的に罵って恥じないばかりか、相手の思考や行動の背景を探ろうともしない。仏法の求道者としては、基本的心構えが欠如していると言わざるを得ないのである。

 さて、「破折文」には「当初彼らは、創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくことを標榜していました。実際、日達上人のご指南に沿って学会の誤りを糺しているかのように見えたのです。〈中略〉日達上人が『学会の反省懺悔を受け容れ、しばらく学会の様子を見守っていく』旨を決定あそばされるや、彼らは総本山の日達上人に公然と反抗しはじめたのです」とある。この文節の二か所に、彼ら阿部宗門の根元的な誤りを見ることができる。

 第一に、彼らは「日蓮正宗を護る」ということの意味に迷っている。第二に、彼らは我々の運動に対して「日達上人の御指南に沿って学会の誤りを糾していたのに、あとになって日達上人に反抗した」という筋書きを作り、覚醒運動の本質を故意に隠蔽している。

 彼らは宗祖求道の基本姿勢である「依法不依人」の精神に立つことなく、ひたすら自身の俗的名聞名利と現実教団の利害損得にのみ執着し、そこに価値の基準を置いて物事を考えているようである。そこには、普遍の真理を求めてやまぬ仏道修行者のあり様を見ることができない。また仏法の道理に照らし、宗開両祖のお振舞いに照らして、事の是非・善悪を判断するという富士日興門流の信仰姿勢を、彼らの言動に見ることはできない。首尾一貫した主張や行動がないばかりか、常にフラフラして腰が定まらない彼らの姿は、実に残念である。

 阿部師が登座してからの二十年に及ぶ語録を見れば、「甚深の御指南」とやらも、まさにダッチロール状態と言わざるを得ないだろう。その自己矛盾の弁を詳しく併記して論証することが今回の連載の目的ではない。しかしいずれ何らかの形で整理公表し、それが池田語録と同じように抱腹絶倒ものであることを証明しなければなるまい。

【日蓮正宗を護る】

 「破折文」のなかで彼らが使っている「日蓮正宗を護る」という言葉は、いったい何を意味するのであろうか。彼らも述べているように、正信会は運動の当初より「創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬく」姿勢を一貫して堅持し今日に至っている。

 「日蓮正宗」という名称は、上代においては法華宗とも富士日興門流とも永く自称し、その門流名を時代に合わせた形にしたものである。従って「日蓮正宗を護る」とは、富士日興門流を護ることを意味する。仏道信仰者が集って形成された団体である以上、それは団体そのものを護るということではなく、その団体のなかに伝承されてきた法義を護るということである。 御開山日興上人は、民部日向師等の軟風に染まった身延山にこだわることなく、富士の大石が原に法華の道場を建立し、法義を確立して末法万年の礎を築かれた。我々が日興上人から継承しなければならない精神は何か。それは原殿書に示されている「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え」との依法不依人の精神であり、正法正師の正義を堅持するということである。遺誡置文の冒頭にも「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」と示されている。先師日達上人が「一人になっても護る」と仰せられたのは、「富士の立義」つまり日蓮大聖人の法義そのもののことであることは言うまでもない。

 我々正信会が「日蓮正宗を護る」ということは、宗開両祖の御心である御法門を護るということである。それは二十余年を経過した覚醒運動に貫かれている、いささかも変わることのない不動の理念である。

阿部師は教団から得られる

 自分の利益を守ろうとしていた

 仏法の護持伝承にこそ正宗の存在価値がある

 修行者は自らの意志と思考を持て

 一切衆生を平等に成道へと導くのが仏法

【教団と教法】

 「日蓮正宗を護る」ということの意味の取り方の違いが、実は正信会と阿部宗門との大きな違いということになる。

 日蓮正宗は、その団体が所持する仏法の護持伝承があってこそ、はじめてその存在価値が認められる。もしそこに仏法が存在しないのであれば、では、どこに存在価値を認めようというのだろうか。決して教団があるから教法があるのではない。教法があってこそ教団存在の意味があるのである。また、この関係を転倒させて、教団の維持・運営のために教法が歪曲・改竄されるというようなことがあっては断じてならない。

 我々正信会は仏法を護ろうとしたのであり、阿部師をはじめとする教団幹部は、日蓮正宗という団体の存在によって得られる自身の利益を護ろうとしたのである。

 正信覚醒運動は、学会の謗法・逸脱を責めると同時に、学会の暴走を許したのは宗門の責任でもあり、学会の急膨張に対応できずに宗門がその指導性を見失ったことへの反省を自覚した上で進められてきた。これはひとえに法を求め、法を護らんとしたためである。我々は学会員の覚醒を願ったのであり、富士の法門を明らかにし、成仏への道を共有しようと主張したのである。

 平成二年からの阿部宗門と池田学会の争乱では、阿部師側にいささかの反省の言葉もなく、池田学会が阿部師の意に沿わぬというだけで極悪と断じ、誠意ある善導もせずに一方的に破門にしてしまった。阿部師にはまったく、自省の上に法を求め、法を護らんがために池田学会を批判善導しようとの姿勢を見ることができなかった。

【依法不依人】

 次に彼らは、「日達上人のご指南に沿って学会の誤りを糺しているかのように見えた」と非難しているが、ここにも彼らの誤った信仰姿勢が顕著である。 仏道修行は、仏の法を求め自らの意志によって実践するものであり、他者のコントロールによってなされるものではない。「法主が白を黒といえば黒」とまで語り、法主のカリスマ絶対化が強調される阿部宗門では、一人ひとりが自ら思考し自らの責任によって行動するという人間としての基本的在り方が認められない。自らの思索や言論や行動を放棄し、ひたすら法主の指示を仰ぐばかりである。

 元来、仏法は仏と法の他に絶対なる存在を置くことなく、一切衆生を差別なく平等に仏道へと導くものであり、あらゆる呪縛を解きほどいて真の自由・真の自我にめざめさせることにその目的がある、決して絶対者にひれ伏すことを強要する宗教ではあり得ない。

 この精神を、阿部宗門の人々からうかがうことはできない。彼らは自らの意志や思考を持たず、現世に君臨しているかに見える「法主」という絶対者にひたすら忠誠を誓い、その意志に従うことが仏道修行であると思い込んでいる。

 このように批判すると、彼らは「仏法は師弟の道に極まる」と反論するかも知れないが、仏法の師弟の在り方も、実際には阿部宗門が認識しているものとは大きく異なっている。「針と糸」「常随給仕」という師弟の相はもちろん大切なことではあるが、末法の師弟は彼らが考えているように、支配者と被支配者、主人と従者という単純な関係ではない。仏の道を求める者が互いに師となり弟子となって成道を遂げてゆくところに、本来の意義があるのである。

運動には一貫した基本姿勢がある

 絶えざる自己反省により保たれる信仰

 謗法厳誡・正法護持を願う覚醒運動は、日達上人の本心に通じたものであったが、それは日達上人の指示で始められたものでもなく、いちいちに教導を仰いで進めたものでもない。創価学会による御法門の歪曲・改竄を許すことができないとして、各自の道念のもとに集い展開されてきた運動である。一人ひとりが自らの信仰心と意志に基づいて参画した運動である。決して日達上人から直接に指示を受けて行動したわけではない。

 そのような理由から、ある時は日達上人の言動と重ならず、またある時は日達上人そのものを突き動かすものであったことも事実である。しかし、このような運動の在り方は、ひとえに正法を求め、宗開両祖をはじめ富士の立義に信順してのことであり、そこには「依法不依人」という一貫した運動の基本姿勢がある。

 ひるがえって、自らの意志も思索も放棄せざるを得ない阿部宗門では、「法を求めるが故に師と共に仏法の是非邪正を峻別しよう」などという志など、現れるべくもない。

 「破折文」では、我々正信会が日達上人に反抗した具体例として、継命新聞第2号論説を取り上げ、「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず。また学会を責める者を咎めることは、謗法者を庇い立てることであるから、かえって謗法になる」と要約掲載している。 この論説で我々は、創価学会の池田大作氏や最高幹部が何ひとつ反省していないと指摘し、 「信仰というものは、一点の汚染もない清浄にして純粋なものでなくてはならない。その清浄な信仰は、絶えざる自己反省によって保たれる。これなきところ、たちまちにして濁りを生じ、信仰の目的は成就できなくなるばかりか、宗義そのものを乱す〈中略〉。われわれは誰につくのでもない。あくまでも真理につく。御本仏日蓮大聖人の正法正義につき、そしてそれを死守しなければならない」

 と訴えた。富士日興門流の信仰の継承を願った日達上人が、本音でこの正論を否定されるわけがないではないか。日達上人が当時の活動僧侶に厳しい咎め立てをされなかったことがそれを証明している。

 そもそもこの継命新聞に掲載された我々正信会の主張は間違っていたのであろうか。冷静に見るとき、この主張は当時も今も何ら間違ってはいない。もし間違っていると言うなら、阿部師の次の「甚深の御指南」を拝してみるがよい。阿部師は、

 「最近における創価学会の宗門に対する攻撃は、まさに『山崎・八尋文書』『北条文書』等の、『宗門支配か、しからずば独立か』との野望を、そのまま密かに懐き続け、機会を窺っていたことを示すものであり、昭和五十二年路線の反省が、まさしく欺瞞であったことを証する無慚無愧の著しい背信行為と言わなければなりません」(平成3年1128日「創価学会破門通告書」)

 「末法濁乱の姿をそのまま顕す、オウム真理教などというような宗教も起こってくると思われます。しかし、それよりもすさまじいのが、大聖人様の正しい法に背き、その正法を虐げておるところの創価学会であります。これが今日、オウム真理教などよりももっと根元が深い大謗法の存在であるということを私ども日蓮正宗の僧俗はしっかりと肚に入れ、この創価学会のなかから一人でも多くの人を救ってあげたいという気持ちをもって、いよいよ破邪顕正の再折伏を行うことこそ大切であります」(平成7年5月11日、法光寺本堂・庫裡移転新築法要)

 等と述べているのである。

「破邪顕正」を旨とする正信覚醒運動

我々は仏法壊乱を恐れ、阿部師は教団統制の混乱を恐れた…

富士日興門流の法義再興を願う

 理非曲直は明らか。仏法の道理は厳正

【宗開両祖の御照覧】

 前頁で取り上げた阿部師の最近の発言を見れば、継命新聞第2号論説の主張に、いささかの狂いもなかったということが理解できるであろう。

 さらに阿部師は、

 「前回の昭和五十二年路線においては自分の考えを表面に現したために失敗をしたので、今度は、創価学会中心、あるいは池田本仏的指向等、実質的には同じであるが、表には現さないように、うまくやっていこうと考えたようであります。そのように、水面下に潜った悪い考えによる洗脳がずっと行われてきたようでありますが、うかつにも私は、そのような謗法の流れがあるということをほとんど知らなかったのであります」(平成4年1129日、大阪布教区御親教)

 と発言し、自らの不明をはっきり認めているのである。このほかにも最近の阿部師の発言には、覚醒運動が正確な創価学会認識に基づいてなされてきたということを結果的に裏づけるものが多い。継命新聞第2号論説の主張の正しさは、現在の学会の実態を見れば明らかである。「破折文」の筆者は、しっかりと眼を開けて現実を素直に見つめるべきであろう。

 彼らは「日蓮正宗を護る」という意味に迷い、日達上人の本心を見誤り、「一宗の統制と秩序が破壊される」として正信会は懲戒に処せられたといっている。ここにおいて我々正信会は仏法の歪曲・改竄を恐れ、一方の彼ら阿部宗門は、教団統制の混乱を恐れていたことが明白である。互いの求めるところの相違は明らかである。求道者としての是非は宗開両祖の御照覧にお任せし、後世信行者の良識にゆだねよう。

 阿部師への相承とその疑義を質すために提訴したことの正当性については、すでに前号に述べた通りであるが、この問題は阿部師自身がコソコソせずに証明すれば事足りるということをここに重ねて主張しておこう。 阿部師への相承の有無を質したことが「仏法の根幹を破失する重大な謗法」になると彼らはいう。しかし疑義あるものを質し、道理を求めてゆくことは至極当然なことである。それを遮るようでは阿部宗門が自ら外道であることを認めたようなものではないか。

【どちらが本末転倒か】

 「破折文」では「全国の僧侶が学会の謗法を責めた」とあるが、これは前号までに述べた通り間違っている。学会の謗法を責めたのは正信会の僧俗であり、阿部師ならびにその側近等は本心から是正を求める言動をなすことがなかった。ちなみに当時の阿部師の創価学会認識を象徴する例を挙げるならば、

 「創価学会のあくまで御本尊を中心根本とする信心や体験、組織等のあり方、そして池田名誉会長の過去における七百八十万世帯までの未曾有の折伏を果たされた指導性、平和文化に関する世界的な実績等を考えるとき、将来の世界に渉る広宣流布の為、大いに必要な団体であり人物であると私は信ずるのであります」(『大日蓮』昭和55年5月号)

 ということになる。

 「破折文」では、正信会は学会を責めることを目的としたというが、これもまったくの事実誤認である。我々は正宗信徒を自認し正法を求める学会員を宗門から追放せよという運動を展開したのではない。従って、いたずらに悪口中傷したものでもなく、理に照らして学会員の覚醒をはかり、見失われつつあった富士門流の法義の再興を願ったのである。この運動が、阿部宗門のように問答無用とばかりに一方的に破門するような行為と混同されてはたまらない。

 さらに「破折文」では正信会が総本山と御法主を誹謗攻撃したというが、そもそも我々は相承を証明できない阿部師を法主とは認めていない。また、宗開両祖の御教示に違えば法の是非邪正を質すのは当たり前のことである。宗開両祖の御金言とお振舞いに照らして阿部師の非道を質したのは、前述のように教団そのものよりも、仏法そのものが尊いと信ずるからである。 宗祖は「法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊し」(「南条殿御返事」全一五七八頁)と御教示である。所より人、人より法が尊まれるべきである。むろん偽法主よりも、所としての総本山よりも、仏法を根本としなければならない。彼らは我々を「本末転倒」と非難するが、法を蔑ろにして、カリスマ法主にひれ伏し、教団の利害損得のみに執著する阿部宗門こそ本末転倒である。この転倒は、仏法への絶対信が稀薄であるがゆえに起こるのである。

【慈悲心に立つ】

 「破折文」では「正信会の人々は、ことあるごとに『真の慈悲は相手の謗法を責めてあげることであり、我々は、慈悲心に立つが故に学会の謗法を責めるのだ』と主張しておりました」と非難している。では、この主張のどこが間違っているのか。仏法で説かれる「慈悲」の立場からは、我々の主張はいささかも的の外れたものではない。

 彼らは眼前に繰り広げられる謗法・逸脱を見ながら、仏弟子として恥ずべき優柔不断・日和見の姿勢であったのを糊塗するために、堀上人の御言葉を引用して慈悲者を装っているのである。上人の教示については至極当たり前のもので、我々も素直に拝受するものである。しかし池田学会の謗法逸脱は、この精神をもって教導できるようなものではなかった。池田のカリスマ絶対化・組織至上主義・現世利益の偏重などは、富士日興門流の信仰そのものを歪曲・改竄するものであり、とても「すでに入信せる門内の人々」に該当するものではない。創価の酒に酔うことなく、その奸策に気がついた我々正信会は、慈悲心の上から断固その邪義を破折したのである。

 慈悲とは、衆生に楽を与える「慈」と衆生の苦を抜く「悲」とが合わせられた言葉で、抜苦与楽と理解される。宗祖は開目抄に「我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を灸せざるべしや」(全二三七頁)と仰せであり、諸御書に「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり、彼が為に悪を除くは是れ彼が親なり」と御教示である。 我々は富士門流に伝承される成仏への道を信じ、池田学会によって歪曲された邪義にたぶらかされている学会員を救済しようとしたのである。これは破邪顕正を旨とする日蓮門下の在るべき相であり、一切衆生の成仏を願う仏法の慈悲心でなくて何なのか。自身の欲得と偏見、果ては教団至上主義に陥り、池田学会の謗法逸脱を見抜けなかった阿部師やその側近には到底持ち得ぬ心であろう。

【仏法の道理は厳正】

 時々ふと我に返ることのある阿部師も、慈悲をもって学会を破折せよと指南している。

 「宗門は誤りは誤りとして、謗法は謗法として、その間違いを糾さなければ、その者達が地獄に堕ち、さらに迷う者が出ますので、慈悲の立場から堂々と論破し、教導しているのであります」(平成4年6月21日、東北第一布教区御親教)

 「今日、日本ないし世界最大の邪宗教は何かといえばまさしく創価学会であります。これをはっきり肚に入れてください。そうであるならば、生ぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、創価学会を慈悲の上から徹底して破折しなければいけないのだという気持ちを、はっきり持っていくことこそ大切だと思うのであります」(平成6年5月26日、全国教師・寺族指導会)

 阿部師の弟子たる「破折文」の筆者は、よくよくこの御指南を拝受するべきである。

 近年の阿部師の発言によって正信会の正義はいよいよ鮮明になっている。皮肉なものであるが、道理は時を経て輝くものなのであろうか。

 ここにおいて「破折文」が指摘するところの「本末転倒」と「無慈悲」という「根本的二つの誤り」は、正信会破折としては双方ともに的を射ていないばかりか、事実に照らすならば阿部宗門そのものの姿であることが明白となった。正信会を非難するその口舌が盛んであればあるほど、阿部宗門は自らの非を露わにして行くのであるから仏法の道理は厳正といわざるを得ない。阿部宗門よ、悔い改むるに憚る莫かれ、である。

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