法 華 取 要 抄

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法 華 取 要 抄の概要

   【文永十一年五月二十四日、富木常忍、聖寿、真筆完存】 
                                                扶桑沙門 日蓮之を述ぶ 
夫れ以れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり。
其中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後、自見に任せて之を弁ふことは其の分に及ばず。人に随ひ宗に依て之を知る者は其の義紛紕す。
所謂、華厳宗の云く「一切経の中に此の経第一」と。法相宗の云く「一切経の中に深密経第一」と。三論宗の云く「一切経の中に般若経第一」と。真言宗の云く「一切経の中に大日の三部経第一」と。

禅宗の云く、或は云く「教内には楞伽経第一」と、或は云く「首楞厳経第一」と、或は云く「教外別伝(きょうげべつでん)の宗なり」と。
浄土宗の云く「一切経の中に浄土の三部経末法に入ては機教相応して第一なり」と。
倶舎宗・成実宗・律宗云く「四阿含並に律論は仏説なり。華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」。或は云く、或は云く。
而に彼れ彼れ宗宗の元祖等、杜順・智厳・法蔵・澄観・玄奘・慈恩・嘉祥・道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑑真・曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)・善導・達磨・恵可等なり。
此等の三蔵大師等は皆聖人なり、賢人なり、智は日月に斉く、徳は四海に弥れり。
其の上各各に経律論に依り、更互に証拠有り。随て王臣国を傾け土民之を仰ぐ。末世の偏学設ひ是非を加ふとも人信用を致さじ。

爾りと雖も、宝山に来り登て瓦石を採取し、栴檀に歩み入て伊蘭(いらん)を懐き取らば悔恨有らん。
故に万人の謗りを捨て猥りに取捨を加ふ。我が門弟委細に之を尋討せよ。
夫れ諸宗の人師等、或は旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き、或は自宗の曲に執著して己義に随ひ、愚見を注し止めて後代に之を加添し、株杭に驚き騒て兎獣を尋ね求め、智円扇に発して仰て天月を見る。
非を捨て理を取るは智人なり。今末の論師・本の人師の邪義を捨て置て、専ら本経本論を引き見るに、五十余年の諸経の中に法華経第四法師品の中の已今当の三字最も第一なり。

諸の論師・諸の人師定めて此経文を見けるか。然りと雖も、或は相似の経文に狂い、或は本師の邪会に執し、或は王臣等の帰依を恐るるか。
所謂金光明経(こんこうみょうきょう)の「是諸経之王」。密厳経の「一切経中勝」。六波羅蜜経の「総持第一」。大日経の「云何菩提」。華厳経の「能信是経最為難」。般若経の「会入法性不見一事」。大智度論の「般若波羅蜜最第一」。涅槃論の「今者涅槃理」等なり。
此等の諸文は、法華経の已今当の三字に相似せる文なり。然りと雖も、或は梵帝四天等の諸経に対当すれば是れ諸経の王なり。或は小乗経に相対すれば諸経の中の王なり。或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中に勝れたり。
全く五十余年の大小・権実・顕密の諸経に相対して是れ諸経の王の大王なるに非ず。

所詮、所対を見て経経の勝劣を弁ふべきなり。強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり。
其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深なり。全く多宝・分身の助言を加ふるに非ず。私説を以て公事に混ずる事勿れ。
諸経は或は二乗凡夫に対揚して小乗経を演説し、或は文殊・解脱月・金剛薩z等の弘伝の菩薩に対向して、全く地涌千界の上行等には非ず。
今法華経と諸経とを相対するに、一代に超過すること二十種之有り。其の中最要二有り。所謂三五の二法なり。
三とは三千塵点劫なり。諸経は或は釈尊の因位を明かすこと、或は三祇、或は動逾塵劫、或は無量劫なり。
梵王云く、此の土には二十九劫より已来知行の主なり。第六天・帝釈・四天王等も以て是くの如し。
釈尊と梵王等と始めて知行の先後之を諍論す。爾りと雖も、一指を挙げて之を降伏してより已来、梵天頭を傾け、魔王掌を合せ、三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる是なり。

又諸仏の因位と釈尊の因位と之を糾明するに、諸仏の因位は或は三祇、或は五劫等なり。釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来、娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり。
此の世界の六道の一切衆生は、他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し。

法華経に云く「爾の時に法を聞く者は各諸仏の所に在り」等云云。天台云く「西方は仏別に縁異り、故に子父の義成せず」等云云。
妙楽云く「弥陀・釈迦二仏既に殊なり。○況や宿昔の縁別にして化導同じからざるをや。結縁は生の如く、成熟は養の如し。生養縁異れば父子成ぜず」等云云。
当世日本国の一切衆生弥陀の来迎を待つは、譬へば牛の子に馬の乳を含め、瓦の鏡に天月を浮ぶるが如し。
又果位を以て之を論ずれば、諸仏如来或は十劫・百劫・千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。
大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮ぶ是なり。
華厳経の十方台上の毘盧遮那、大日経・金剛頂経両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。

此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依て今に覚知せずと雖も他方の衆生には似るべからず。
有縁の仏と結縁の衆生とは、譬へば天月の清水に浮ぶが如し。無縁の仏と衆生とは、譬へば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向ふが如し。
而るに或る人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し、或る人師は世尊は無縁なり、阿弥陀は有縁なり。或る人師の云く、小乗の釈尊と。或は華厳経の釈尊と。或は法華経迹門の釈尊と。
此等の諸師並に檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世(あじゃせ)太子の頻婆沙羅王を殺し、釈尊に背て提婆達多に付きしが如し。
二月十五日は釈尊御入滅の日、乃至十二月十五日も三界慈父の御遠忌なり。善導・法然・永観等の提婆達多に誑されて阿弥陀仏の日と定め畢ぬ。
四月八日は世尊御誕生の日なり。薬師仏に取り畢ぬ。我が慈父の忌日を他仏に替るは孝養の者なるか如何。
寿量品に云く「我も亦為れ世の父、狂子を治する為の故に」等云云。
天台大師云く「本此の仏に従て初めて道心を発す。亦此の仏に従て不退地に住す。乃至猶百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生すること亦復是くの如し」等云云。

問て云く、法華経は誰人の為に之を説くや。答て曰く、方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り。
上より下に向て次第に之を読めば第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫なり。
安楽行より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍なり。
滅後を以て之を論ずれば正法一千年・像法一千年は傍なり。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為すなり。
問て曰く、其の証拠如何。答て曰く「況滅度後」の文是なり。
疑て云く、日蓮を正と為す正文如何。答て云く「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん」等云云。
問て曰く、自讃は如何。答て曰く、喜び身に余るが故に堪へ難くして自讃するなり。
問て曰く、本門の心如何。答て曰く、本門に二の心有り。一には涌出品の略開近顕遠は、前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり。
二には涌出品の動執生疑より一半並に寿量品分別功徳品の半品、已上一品二半を広開近顕遠と名く。一向に滅後の為なり。
問て曰く、略開近顕遠の心如何。答て曰く、文殊・弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・衆星・竜王等、初成道の時より般若経に至る已来は一人も釈尊の御弟子に非ず。

此等の菩薩天人は、初成道の時、仏未だ説法したまわざる已前に不思議解脱に住して、我と別円二教を演説す。
釈尊其の後に阿合・方等・般若を宣説し給ふ。然りと雖も全く此等の諸人の得分に非ず。既に別円二教を知りぬれば蔵通をも又知れり。勝は劣を兼ぬる是なり。
委細に之を論ぜば或は釈尊の師匠なるか。善知識とは是なり。釈尊に随ふに非ず。
法華経の迹門の八品に来至して始めて未聞の法を聞て此等の人人は弟子と成りぬ。
舎利弗・目連等は鹿苑より已来初発心の弟子なり。然りと雖も権法のみを許せり。
今法華経に来至して実法を授与し、法華経本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り、又妙覚の位に入るなり。
若し爾れば今我等天に向て之を見れば、生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり。
問て曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答て曰く、寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。

疑て云く、此の法門前代に未だ之を聞かず。経文に之れ有りや。答て曰く、予が智前賢に超えず。設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。■和が啼泣、伍子胥が悲傷是なり。
然りと雖も略開近顕遠・動執生疑の文に云く「然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん」等云云。文の心は、寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり。
寿量品(じゅりょうほん) に云く「是の好き良薬を今留めて此に在く」等云云。文の心は上は過去の事を説くに似たる様なれども、此の文を以て之れを案ずるに滅後を以て本と為す。先ず先例を引くなり。
分別功徳品に云く「悪世末法の時」等云云。神力品に云く「仏滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現じ給ふ」等云云。

薬王品に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶せしむること無けん」等云云。又云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」等云云。
涅槃経に云く「譬へば七子の如し。父母平等ならざるに非ざれども、然も病者に於て心則ち偏に重し」等云云。
七子の中の第一第二は一闡提謗法の衆生なり。諸病の中には法華経を謗ずるが第一の重病なり。諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。

此の一閻浮提(いちえんぶだい)は縦広七千由善那八万の国之れ有り。正像二千年の間未だ広宣流布せざるに、法華経当世に当て流布せしめずんば釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。
疑て云く、多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出、此等は誰人の為ぞや。答て曰く、世間の情に云く、在世の為と。
日蓮云く、舎利弗・目■等は、現在を以て之を論ずれば智恵第一神通第一の大聖なり。過去を以て之を論ずれば金竜陀仏・青竜陀仏なり。未来を以て之を論ずれば華光如来、霊山を以て之を論ずれば三惑頓尽の大菩薩、本を以て之を論ずれば内秘外現の古菩薩なり。
文殊・弥勒等の大菩薩は過去の古仏、現在の応生なり。梵帝・日月・四天等は初成已前の大聖なり。其の上前四味・四教一言に之を覚りぬ。
仏の在世には一人に於ても無智の者之れ無し。誰人の疑を晴さんが為に多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出し、地涌の菩薩を召さんや。方方以て謂れ無き事なり。

経文に随て「況滅度後 令法久住」等云云。此等の経文を以て之を案ずるに、偏に我等が為なり。
随て天台大師、当世を指して云く「後の五百歳遠く妙道に沾はん」。
伝教大師、当世を記して云く「正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り」等云云。「末法太有近」の五字は、我が世は法華経流布の世に非ずと云ふ釈なり。

問て云く、如来滅後二千余年竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや。答て云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。
問て曰く、正像等に何ぞ弘通せざるや。答て曰く、正像に之を弘通せば、小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽すべきなり。
問て曰く、仏法を滅尽するの法何ぞ之を弘通せんや。答て曰く、末法に於ては大小・権実・顕密共に教のみ有て得道無し。一閻浮提(えんぶだい)皆謗法と為り畢ぬ。逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁なり、日本国は逆縁なり。
疑て云く、何ぞ広略を捨て要を取るや。答て曰く、玄奘三蔵は略を捨てて広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨て略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。

日蓮は広略を捨てて肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。
九包淵が馬を相するの法は玄黄を略して駿逸を取る。史陶林が経を講ずるには細科を捨てて元意を取る等云云。
仏既に宝塔に入て二仏座を並べ、分身来集し、地涌を召し出し、肝要を取て末代に当てて五字を授与せんこと当世異義有るべからず。
疑て云く、今世に此の法を流布せば先相之れ有りや。答て曰く、法華経に「如是相乃至本末究竟等」云云。天台云く「蜘虫掛て喜び事来たり、■鵲鳴て客人来る。小事猶以て是くの如し、何に況や大事をや」〈取意〉。

問て曰く、若し爾れば其の相之れ有りや。答て曰く、去ぬる正嘉年中の大地震、文永の大彗星。其より已後今に種種の大なる天変地夭、此等は此先相なり。
仁王経の七難・二十九難・無量の難、金光明経(こんこうみょうきょう)・大集経・守護経・薬師経(やくしきょう)等の諸経に挙ぐる所の諸難、皆之有り。但し無き所は二三四五の日出る大難なり。
而るを今年佐渡の国の土民は口口に云ふ、今年正月二十三日の申の時、西の方に二の日出現す。或は云く、三の日出現す等云云。二月五日には東方に明星二つ並び出ず。其の中間は三寸計り等云云。此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか。
最勝王経の王法正論品に云く「変化の流星堕ち、二の日倶時に出で、他方の怨賊来て国人喪乱に遭ふ」等云云。首楞厳経に云く「或は二の日を見し、或は両つの月を見す」等。
薬師経(やくしきょう)に云く「日月薄蝕の難」等云云。金光明経(こんこうみょうきょう)に云く「彗星数ば出で、両つの日並び現じ、薄蝕恒無し」。大集経に云く「仏法実に隠没せば、乃至日月明を現ぜず」。
仁王経に云く「日月度を失ひ、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出ず。或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ぜん」等云云。
此の日月等の難は七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり。

問て曰く、此等の大中小の諸難は何に因て之を起すや。答て曰く、最勝王経に云く「非法を行ずる者を見て当に愛敬を生じ、善法を行ずる人に於て苦楚して治罰す」等云云。
法華経に云く、涅槃経に云く、金光明経(こんこうみょうきょう)に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、星宿及び風雨皆時を以て行はれず」等云云。
大集経に云く「仏法実に隠没し乃至是くの如き不善業の悪王・悪比丘、我が正法を毀壊す」等。
仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起る」等。又云く「法に非ず律に非ず比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす。爾の時に当て法滅せんこと久しからず」等。
又云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別まえずして此の語を信聴せん」等云云。
此等の明鏡を齎て当時の日本国を引き向ふるに、天地を浮ぶること宛も符契の如し。眼有らん我が門弟は之を見よ。
当に知るべし、此の国に悪比丘等有て、天子・王子・将軍等に向て、讒訴を企て聖人を失ふ世なり。

問て曰く、弗舎密多羅王・会昌天子・守屋等は、月支・真旦・日本の仏法を滅失し、提婆菩薩・師子尊者等を殺害す。其の時何ぞ此の大難を出さざるや。
答て曰く、災難は人に随て大小有るべし。正像二千年の間、悪王・悪比丘等は、或は外道を用ひ、或は道士を語らい、或は邪神を信ず。仏法を滅失すること大なるに似たれども、其の科尚浅きか。
今当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小を以て大を打ち、権を以て実を失ふ。人心を削て身を失はず、寺塔を焼き尽さずして自然に之を喪す。其の失前代に超過せるなり。

我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋らして鏡に向へ。天瞋るは人に失有ればなり。
二の日並び出るは一国に二の国王並ぶ相なり、王と王との闘諍なり。星の日月を犯すは臣王を犯す相なり。日と日と競ひ出るは四天下一同の諍論なり。明星並び出るは太子と太子との諍論なり。
是くの如く国土乱れて後、上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無からん者か。

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