立正安国論

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立正安国論 

立正安国論の概要
               【文応元年七月、北条時頼、聖寿三十九、真筆−完存】

〔第一問答〕災難の由来について

  旅客(りょきゃく)来て嘆て曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)飢饉疫癘(ききんえきれい)(あまね)く天下に満ち広く地上に(はびこ)る。 牛馬(ちまた)(たお)骸骨(がいこつ)(みち)に充てり。死を招くの(ともがら)既に大半に超え、悲まざるの(やから)敢て一人も無し。

現代語訳
 旅の客人が来て嘆いていう。近年から近日に至るまで、大地震や大風雨などの天変地異や飢饉・疫病が流行し、広く地上にはびこっている。牛や馬はいたるところで死に、人の屍と骨は道にあふれ、命を失った者はすでに大半に及んで、この惨  状を悲しまない者は一人もいない。


 然る間、或は利剣即是(りけんそくぜ)の文を専にして西土教主の名を唱へ、或は衆病悉除(しゅうびょうしつじょ)の願を持て東方如来の経を誦し、或は病即消滅(びょうそくしょうめつ)不老不死の詞を仰て法華真実の妙文を崇め、或は 七難即滅(しちなんそくめつ)七福即生の句を信じて百座百講(ひゃくざひゃっこう)の儀を調へ、有るは秘密真言(ひみつしんごん)の教に因て五瓶(ごびょう)の水を灑ぎ、有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し 、若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、若くは天神地祇(てんじんちぎ)を拝して四角四堺(しかくしかい)の祭祠を企て、若くは万民百姓(ひゃくせい)を哀て国主・国宰(こくせい)の徳政を行ふ。

現代語訳
 そのために、ある者は「苦悩と罪業を断ち切る利剣は弥陀の名号を称えること」という善導(ぜんどうく)の『般舟讃』の言葉を信じて、ひたすら西方浄土の阿弥陀仏の名を唱え、ある者は「わが名号を聞けばすべての病気が直る」という東方浄瑠璃世界の薬師如来の誓願を信じてこの経文を読誦し、ある者  は法華経薬王品の「病気は消滅して不老不死となる」という経文を仰いで、真実の妙文と崇め、ある者は仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)の「七難がすぐに消えて七福がたちまちに生ずる」という経文を信じて、  仁王会の百座百講(ひゃくざひゃっこう)の儀式を調え、ある者は、真言秘密の教えによって五つの瓶に水を注いで祈祷を行い、ある者は、すべては空と観じる坐禅によって苦しみから逃れようとし、あるいは七鬼神の名を書いて門ごとに貼り、あるいは五大力菩薩  の像を描いて家ごとに懸け、あるいは天地の神々を拝んで四角四界祭という除厄の祈祷を行い、また国主は万民を憐れんで徳政を施している。


 然りと雖も唯肝胆(かんたん/rt>)を摧くのみにして弥飢疫に(せま)られ、乞客(こつきゃく)目に溢れ死人眼に満てり。臥せる(かばね)(ものみ)と為し並べる(かばね)を橋と作す。観れば夫れ二離璧(じりへき)を合せ五緯珠(ごいたま)を連ぬ。三宝も世に在し百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃れたるや。是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤に由るや。

現代語訳
 けれども、ただ心を砕くだけで何の効果もなく、飢饉や疫病はいよいよ盛んになり、物乞いの者がみちあふれ、死骸は物見台のように重なり、橋のように並んでいる。 思いめぐらせば、天には日と月が昼夜を照らし、木・火・土・金・水の五星も玉を連ねたように正しく運行している。地には仏法僧の三宝が敬われ、国王の命運が尽きるという百王もまだ先のことなのに、この世が早くも衰亡し、仏法も王法も廃れたのはどうしてだろうか。これは如何なる罪、如何なる過ちによるのだろうか。

 主人の曰く、独り此の事を愁て胸臆(くおく)憤悱(ふんび)す。客来て共に嘆く、(しばしば)談話を致さん。 夫れ出家して道に入る者は法に依て仏を期するなり。而るに今神術も協はず仏威も験しなし。 具に当世の体を観るに、愚にして後生(こうせい)の疑を発す。然れば則ち、円覆(えんぶ)を仰て恨を呑み、方載(ほうざい)に俯して(うらおもい)を深くす。(つらつ)微管(びかん)を傾け(いささ)かか経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまはず。 是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。

現代語訳
 主人は答えていう。私も独りこれを憂いて深く胸を痛めていたが、折りしも貴殿が来られて、同じく嘆かれるのを聞いた。ついてはしばらく語り合おう。そもそも出家して仏道に入るのは、仏の教えにしたがっ  て成仏したいからである。ところが今は神への祈りも叶わず、仏の霊験もいっこうに現れていない。そんな世の中の惨状を見ては、愚かにも後生の成仏に疑いを起こしている。よって、天を仰いでは恨みに思い、地に伏しては災難の起こる要因を深く考えた。 そこで浅学ながら、少しく経文を開いてみると、世間はみな正しい道に背き、人々はことごとく悪い教えに帰依している。それゆえ善神は国を見限って捨て去り、聖人は所を去って帰ってこない。そのために悪魔や悪鬼が押しよせて災難を起こす、と記されている。どうしてそれを人々に言わずにおれようか。どうしてこの経文を恐れずにいられようか。 

〔第二問答〕災難の経文証拠について

 客の曰く、天下の災・国中の難、余独り嘆くのみに非ず、衆皆悲む。今蘭室(らんしつ)に入て初めて芳詞(ほうし)を承るに、神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや。其の証拠を聞かん。

現代語訳
 客人はいう。うち続く天下の災や国中の難は、私ひとりが歎くのではなく、多くの人々が悲しんでいる。今、貴僧の御室にまいって初めてご高説をお聞きしたが、善神や聖人が国を去って、災難が並び起こるとは、どの経典に説かれるのか。ぜひその文証をお聞かせ願いたい。

 主人の曰く、其の文繁多にして其の証弘博(ぐばく)なり。金光明経(こんこうみょうきょう)に云く「其の国土に於て此の経有りと雖も、未だ甞て流布せしめず。捨離の心を生じて聴聞せん事を楽はず。亦供養し尊重し讃歎せず。 四部の衆、持経の人を見て亦復た尊重し乃至供養すること能はず。遂に我等及び余の眷属・無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ざらしめ、甘露の味に背き正法の流を失ひて、威光及以び勢力有ること無からしむ。 悪趣を増長し人天を損減し、生死の河に墜て涅槃の(みち)に乖かん。世尊、我等四王並に諸の眷属及び薬叉等斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護(おうご)の心無けん。但だ我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん。 既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍(さいか)有て国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無く、唯繋縛(けいばく)・殺害・瞋諍のみ有て互に相讒諂(あいざんてん)し、()げて(つみ)無きに及ばん。 疫病流行し、彗星数ば出で、両日並び現じ、薄蝕恒無(はくしょくつねな)く、黒白(こくびゃく)二虹(にこう)不祥の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨悪風時節に依らず、常に飢饉に遭て苗実成らず、 多く他方の怨賊(おんぞく)有て国内を侵掠(しんりゃく)し、人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」〈已上〉。

現代語訳
 主人は答えていう。それを説く経文は多くあり、文証は広く一切経にわたっている。その中から幾つか示してみよう。
金光明経(こんこうみょうきょう)には「その国にこの経典があっても、まだ世間に弘まらず、人々はそれを捨てて顧みず、聞きたいとも思わない。まして供養したり、尊重したり、讃めたたえるようなことはない。また僧も俗も男も女もみな、この経を持つ人を見て、尊重すること も供養することもない。それゆえ我ら四天王とその従者や多くの諸天は、この尊い妙法の教えを聞くことができず、身を養う甘露の法味も味わえず、正法から遠ざかって威光と勢力を失ってしまった。そうなると、その国には地獄・餓鬼・畜生・修羅の悪趣が 増えつづけ、人界と天界の善心は衰え、人々は生死 の迷いに沈み、悟りへの道に背くことになろう。世尊よ、我ら四天王とその従者の神々や夜叉等は、こうしたあり様を見て、その国を捨てて擁護(おうご)の心を失うだろう。ただ我らだけが国王を見捨て るのではなく、国土を守護すべき多くの善神もすべてこの国を捨て去ることになろう。 そして神々がいなくなれば、その国にさまざまな災禍が起こり、王は位を失い国は滅びてしまうだろう。すべての人々は善心を忘れ、人を縛りつけたり、殺害したり、争いごとをくり返し、互いに誹ったり諂ったりして、無実の者までも罪に陥れるようになる。病が流行し、彗星がたびたび見えたり、日が二つ並んで現れたり、日蝕と月蝕が無秩序に起こり、白黒二色の不吉な虹が出現し、星が流れたり地が揺れ動いて、井戸の中から不気味な声が響き、季節はずれの暴風雨が起こり、飢饉が頻発して作物は実らなくなるだろう。さらには、他国から多くの外敵が国内を侵略し、人々は筆舌に尽くしがたい苦悩を受け、安心して暮らせる土地は失われてしまうだろう」と。〈已上経文〉 

 大集経(だいしつきょう)に云く「仏法実に穏没せば鬚髪爪(しゅほつそう)皆長く、諸法も亦忘失せん。当の時虚空の中に大なる声あつて地を震い、一切皆遍く動かんこと猶水上輪(すいじょうりん)の如くならん。城壁破れ落ち下り、屋宇(おくう)悉くれ()け、樹林の根・枝・葉華・葉菓・薬尽きん。唯浄居天を除て欲界の一切処の七味三精気損減して余り有ること無く、解脱の諸の善論当の時一切尽きん。生ずる所の華菓の味い希少にして亦美からず。諸有の井泉池一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、敵裂して丘澗と成り、諸山皆燋燃して天竜雨を降さず。苗稼も皆枯死し、生ずる者皆死し尽き、余草更に生ぜず。土を雨らし皆昏闇にして日月も明を現ぜず。四方皆亢旱して数ば諸悪瑞を現ず。十不善業の道貪瞋癡(とんじんち)倍増して、衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん。衆生及び寿命色力威楽(しきりきいらく)減じ、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是くの如き不善業の悪王悪比丘我が正法を毀壊し、天人の道を損減し、諸天善神王の衆生を悲愍する者此の濁悪の国を棄てて皆悉く余方に向はん」〈已上〉。

現代語訳
 大集経には「仏法が滅びてしまえば、僧はひげや髪や爪を長く伸ばし、さまざまな教えも忘れ去られよう。そのとき、虚空から大きな声が響いて大地を震わせ、あらゆるものが水車のように揺れ動くだろう。城壁は崩れ落ち、人家はすべて倒壊し、木々の根や枝葉や花や実はみな枯れて、その滋味は尽き果てるだろう。ただ、再び苦しみの世界に戻ることのない聖者が住む浄居天は別として、この欲界のあらゆる世界から人々を養う七味と三精気は、すべて消え失せるだろう。人々を解脱に導くもろもろの善き教えも、この法滅の時にすべて消滅するだろう。地に生える草木の花や実も少なくなって、その実などは殆ど味気なく美味くない。すべての井戸や泉や池はすっかり涸れ果てて、大地はことごとく塩分を含み、ひび割れて丘や谷となるだろう。山は暑熱で焼かれ、天竜も雨を降らさず、穀物の苗は枯れ死し、大地に生ずるものは死に尽くして、一本の雑草すら生えない。大風に舞った土砂が雨のように降って、ただ薄暗く、日も月も照ることはない。四方のあらゆるところが干上がり、たびたび不吉な兆しが現れて、人々には十種の悪業や貪瞋痴の三毒が盛んに起こり、父母に対してさえ、あたかも臆 病な鹿が人に追われ、自分だけ助かろうとして仲間のことをかまわずに一目散に逃げるように、冷淡なものとなるだろう。人々は寿命も体力も勢いも楽しみも減らし、人界や天界の安楽からも離れ、ついにはみな悪道に堕ちるだろう。このような悪業を行ずる悪王と悪僧が、我が正法を毀り破って、人界や天界の正しき道を損なうだろう。そうなれば、衆生を憐れみ救わんとする諸天善神も、この濁り切った悪国を見捨てて、みなどこかへ去ってしまうだろう」と。〈已上経文〉

 仁王経(にんのうきょう)に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱る。賊来て国を劫かし、百姓亡喪し、臣君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。天地怪異し、  二十八宿星道日月時を失ひ度を失ひ、多く賊起ること有らん」と。亦云く「我今五眼をもつて明に三世を見るに、一切の国王は皆過去の世に五百の仏に侍へるに由て帝王主と為ることを得たり。是を為て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に  来生して大利益を作さん。若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん。若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」〈已上〉。

現代語訳
 仁王経(にんのうきょう)には「正法が行われず国土が乱れる時は、善神が国を捨てるので、まず鬼神が乱れる。鬼神が乱れると、万民が悩乱するようになる。また他国の賊が襲来して国を脅かし、  多くの人々は命を失い、国王や太子・王子・百官の間にも争いが起こるだろう。天変地異が生じて、二十八の星座の位置や、星・日・月の運行も不規則となり、国内の賊が各地で蜂起するだろう」と。
 さらに仁王経(にんのうきょう)には「われが今、仏の眼をもって過去・現在・未来をみるに、国王は皆、過去世に五百の仏に仕えた功徳によって帝王となることができた。このため、あらゆる聖人・賢者がその国に生まれ来て、大いなる利益を施すだろう。しかし、もし王の積んだ福徳が尽きる時には、すべての聖人はその国を捨て去ってしまうだろう。すべての聖人が去ってしまえば、必ずや七難が起こるだろう」と。〈已上経文〉

 薬師経(やくしきょう)に云く「若し刹帝利(せつていり)・灌頂王等の災難起らん時、所謂(いわゆる)人衆疾疫(にんしゅうすつえき)の難  ・他国侵逼(たこくしんぴつ)の難・自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難・星宿変怪(せいしゅくへんげ)の難・日月薄蝕(にちげつはくしょく)の難・非時風雨(ひじふうう)の難・過時不雨(かじふう)の難あらん」〈已上〉。

現代語訳
 また、薬師経(やくしきょう)には「もし王族や国王が仏法を信じないで、国に災難が起きる時には、疫病が流行する難、 他国が侵略する難、自国の内乱の難、星の運行が変異する難、日蝕月蝕で光が失われる難、時ならぬ暴風雨の難、異常な日照りの難の七難が起こるだろう」と。〈已上経文〉

 仁王経(にんのうきょう)に云く「大王、吾が今化する所の百億の須弥、百億の日月、一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮堤に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七つの畏るべき難有り。一切の国王是を難と為すが故に。 云何なるを難と為す。日月度を失ひ、時節返逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずるを一の難と為すなり。 二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・12733.gif(2330 byte)星・南斗・北斗五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是くの如き諸星各各変現するを二の難と為すなり。大火国を焼き、万姓焼尽せん、或は鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是くの如く変怪するを三の難と為すなり。大水百姓をF没し、時節返逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬時に雷電霹G(らいでんへきれき)し、六月に氷霜雹(ひょうそうはく)を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙礫石を雨す。江河逆に流れ、山を浮べ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。大風万姓を吹殺し、国土山河樹木一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん、是くの如く変ずるを五の難と為すなり。 天地国土亢陽し炎火洞燃(えんかどうねん)として百草亢旱し、五穀登らず土地赫燃と万姓滅尽せん。是くの如く変ずる時を六の難と為すなり。四方の賊来て国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて百姓荒乱し刀兵劫起せん。是くの如く怪する時を七の難と為すなり」

現代語訳
 次に、仁王経(にんのうきょう)には「波斯匿王よ、私が今まで教化した百億の世界には、それぞれ百億の須弥山があり、百億の日と月があり、その一つ一つの須弥山の周囲には四つの大陸がある。  南方の南閻浮提(えんぶだい)には十六の大国、五百の中国、一万の小国があるが、この無数の国々には、七つの恐るべき災難があり、どの国王もこの難を恐れている。その災難とはどのようなものか。日と月の運行が乱れて季節の寒暑が逆になり、赤い日や黒い日、二つ三つ四つ五つの日が現れ、日蝕で光を失ったり、日輪が一重乃至、二、三、四、五等と重なって出現する。これを第一の難とする。 次に、二十八の星座の運行が乱れ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・(ちょう)星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星など、さまざまな星が変わった現れ方をする。これを第二の難とする。次に、大火災が国土を焼き払い、万民を焼死させてしまう。あるいは鬼神が起こす火・竜の降らす火・落雷による火・山神による火・人災による火・樹木から生ずる火・賊が起こす火など、怪しげな火がしきりに発生する。これを第三の難とする。次に、大水が万民を流し去り、気候が不順になって冬に雨が降り、夏に雪が降り、冬に雷が落ち、夏に氷・霜・雹が降る。あるいは赤色・黒色・青色の雨が降ったり、土の山や石の山が降ったり、砂や礫や石が降ったりする。あるいは河が逆流したり、山を浮かべたり、石を押し流したりする。これを第四の難とする。次に、大風が吹き荒れて多くの人々を殺し、国土・山河・樹木が一瞬のうちに失われ、時ならぬ大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風が吹きあれる。これを第五の難とする。 次に、日照りが続いて国土が干上がり、ひどい暑さにあらゆる草は枯れ、五穀も実らず、大地は焼けて人々がすべて死んでしまう。これを第六の難とする。次に、四方の外敵が攻めて来たって国を侵略し、それに応じて内乱がしきりに勃発し、火賊・水賊・風賊・鬼賊が諸方に暴れて、人々の生活は荒れすさみ、しまいには国を挙げての戦乱となる。これを第七の難とする」と。

  大集経(だいしつきょう)に云く「若し国王有て無量世に於て施戒恵(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てて擁護(おうご)せずんば、   是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失して、其の国当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴・二には兵革・三には疫病なり。一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも人随従せず、常に隣国の侵H(しんにょう)する所と為らん。   暴火(よこしま)に起り、悪風雨多く暴水増長して人民を吹Fし、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄の中に生ずべし。乃至、王の如く夫人・太子・   大臣・城主・柱師・郡守(ぐんじゅ)・宰官も亦復た是くの如くならん」〈已上〉。

現代語訳
  さらに、大集経には「もし国王がいて、計り知れない過去世に布施・持戒・智恵を修行して、その功徳で国王に生まれても、仏法が滅びゆくのを見捨てて護らなければ、それまでの善根はすべて消滅し、その国に三つの忌まわしい災が起きるだろう。一つは飢饉、二つには戦乱、三つには疫病である。すべての善神が国を捨ててしまえば、国王が命令しても人々は従わず、常に隣国から侵略されるだろう。また、大火や暴風雨・洪水が起こって人々を漂流させ、国王の身内や家来たちも謀反を起こすだろう。国王はやがて重病を患い、死後に地獄に生まれるだろう。(中略)国王のみならず、その夫人・太子・大臣・城主・師匠・郡守・役人たちも国王と同じ運命となろう」と。〈已上経文〉

 夫れ四経の文朗かなり。万人誰か疑はん。而るに盲瞽(もうこ)の輩、迷惑の人、妄に邪説を信じて正教を弁へず。故に天下世上、諸仏衆経(しゅうきょう)に於て捨離の心を生じて擁護(おうご)の志無し。仍て善神聖人国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道災を成し難を致す。

現代語訳
 これらの金光明経(こんこうみょうきょう)・大集経・仁王経・薬師経(やくしきょう)の経文は、すべて正法を守らなければ災難が起きると説いている。誰がこれを疑えようか。それなのに、仏法を知らない盲目のような人や、道理に暗い人たちは、みだりに邪説を信じて正しい教えを理解しようとしない。  そのために、国中が多くの仏や経を捨てて、擁護の志しを少しも持とうとしない。したがって善神や聖人は国を捨て去り、これ幸いと悪鬼や外道が災難を起こしているのである。

〔第三問答〕謗法の相状について
 客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟て白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構を成す。爾しより来、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専にす。然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道、仏経は星の如く羅なり堂宇は雲の如く布けり。syuusi.gif(5431 byte)(しゅうし)の族は則ち鷲頭(じゅとう)の月を観じ、鶴勒(かくろく)の流は亦鶏足(けいそく)の風を伝ふ。誰か一代の教を(さみ)し三宝の跡を廃すと謂んや。若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。

現代語訳
 客人は顔に怒りの色を浮かべていう。中国では後漢の明帝が釈尊の夢を見て、尊い仏教が渡来することを知り、使者を遣わして仏教を求めさせた。日本の聖徳太子は、仏教に反対する物部守屋を誅して四天王寺を造立し、その興隆の礎を築いた。それ以来わが国では、上は天皇から下は万民に至るまで仏像を崇め、経巻を  尊んできた。それゆえ、比叡山延暦(えんりゃく) 寺や南都の諸大寺、園城寺や東寺をはじめ全国各地に、仏像や経典は満天の星のごとく安置され、寺院は雲のように建ち連なっている。 そして僧たちは、舎利弗のように智恵を磨く修行をしたり、迦葉のように一心に禅の修行をしている。これほど仏法が盛んなのに、いったい誰が釈迦一代の教えを軽んじ、三宝を廃れさせたというのか。証拠があるなら詳しくお聞きしたい。

  主人喩して曰く、仏閣(ぶっかく)甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦(ちくい)の如く侶は稲麻(とうま)に似たり。崇重年旧り尊貴日に新たなり。但し法師は   諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し。
仁王経(にんのうきょう)に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴し横に法制を作て仏戒に依らず。是を破仏・破国の因縁と為す」〈已上〉。

現代語訳
 主人は静かに諭していう。たしかに寺院も経蔵も、僧の数も非常に多い。人々の尊崇の念も年を経て、いっそう厚くなっているようだ。しかし、それも表面上のことで、僧たちは上に媚びて教えを曲げて人心を惑わし、国王や臣下は愚かにして、仏法の邪正を見分けられない。 この現状を見越して、仁王経には「多くの悪僧たちが、名誉や利益を求めて国王・太子・王子に近づき、自ら仏法を破り、国を滅ぼす原因となる妄説を説くだろう。国王はそれを分別できずにその言葉を信じ、勝手気ままな法律や制度を作って、仏の戒めに背くだろう。これが仏法や国を破滅させる原因となるのである」と。〈已上経文〉

 涅槃経に云く「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」〈已上〉。

現代語訳
 涅槃経には「菩薩よ、凶暴な象は少しも恐れる必要はないが、人々を悪道に導く悪知識は恐れなければならない。凶暴な象に踏み殺されても地獄・餓鬼・畜生の悪趣に堕ちることはないが、悪僧たちに善心を奪われたならば、必ず地獄等の三悪道に堕ちるからである」と。〈已上経文〉 

  法華経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ我慢の心充満せん。或は阿練若(あれんにゃ)に納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行ずと謂て人間を軽賎する者有らん。利養に貪著するが故に白衣の与めに法を説て、世に恭敬せらるること六通の羅漢の如くならん。 乃至、常に大衆の中に在て我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士、及び余の比丘衆に向て誹謗して我が悪を説て、是れ邪見の人外道の論議を説くと謂はん。 濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入て我を罵詈し毀辱(きにく)せん。濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙(ひんしゅく)数数擯出(さくさくひんずい)せられん」〈已上〉。

現代語訳
 法華経の勧持品には「悪世の僧たちは邪智に長けて心根が曲がっており、まだ悟りを得ていないのに得たと思うなど、慢心に満ち満ちている。ある者は、山林などの閑静な場所で粗末な袈裟をまとい、自分は真実の仏道を修行しているといい、人を軽んじ見くだすだろう。利養を貪ぼるために在家の人たちに法を説き、あたかも六神通を得た聖者のように人々から敬われるだろう。(中略)そして、彼らはいつも大勢の中にいて、正法を弘める我らを謗ろうとして、国王・大臣・バラモン・在家の人々やその他の僧たちに我らの悪口をいいふらし、邪見の者たちが外道の教えを説いていると誹謗するだろう。(中略)濁り切った悪世には、じつに多くの様々な恐怖があろう。悪鬼が彼らの身に入って、我らを罵り、謗り、辱めるだろう。濁世の悪僧たちは、仏が法華経に導くために説いた方便の教えを知らず、それに執着し、我らの悪口をいって誹謗中傷する。そのため私たちは度々住むところを追われるだろう」と。〈已上経文〉 

 涅槃経に云く「我れ涅槃の後無量百歳四道の聖人悉く復た涅槃せん。正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。持律に似像して少く経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。外には賢善を現し内には貪嫉を懐く。唖法を受けたる婆羅門等の如し。実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」〈已上〉。

現代語訳
  涅槃経には「仏が入滅して幾百年かが過ぎると、四つの道を悟り得た聖人たちもみな入滅するだろう。そして正法時代が過ぎて像法時代に入ると、その時代の僧がまた現れる。彼らは戒律を持ったように見せかけ、少しばかりの経文を読み、食物を貪ぼって身を養うことに執着する。袈裟を付けてはいても、猟師が獲物をねらって目を細め、静かに近づくごとく、あたかも猫が鼠をねらうがごとく世の中を生きている。そして、常に私は聖者の悟りを得たというだろう。しかし外見は聖者のように見せかけていても、内面は貪りと嫉みに満ちている。それはちょうど、無言の行をして悟り澄ましているバラモンのようだ。じつは彼らは僧ではなく、ただ偽って僧の姿をし、邪悪な気持を起こしては、盛んに正法を謗るだろう」と。〈已上経文〉

  文に就て世を見るに、誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば(あに)善事を成さんや。

現代語訳
  これらの経文に照らして今の世の中を見渡せば、まさに説かれるとおりである。これらの悪僧たちを誡めないで、どうして善事が成し遂げられようか。

  
〔第四問答〕謗法の人と法について

 客猶憤て曰く、明王は天地に因て化を成し、聖人は理非を察して世を治む。世上の僧侶は天下の帰する所なり。悪侶に於ては明王信ずべからず。聖人に非ずんば賢哲仰ぐべからず。今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざるを知る。何ぞ妄言を吐て強ちに誹謗を成さん。誰人を以て悪比丘と謂ふや。委細に聞かんと欲す。

現代語訳
 客は憤っていう。賢王は天地の道理によって万民を導き、聖人は道理を明らかにして世を治めるものである。世の高僧たちは天下の帰依するところであり、彼らが悪僧ならば、賢明な王が尊信するはずはない。また聖師でなかったならば賢人や哲人が敬うはずはない。今、賢人や聖人が尊敬するのをみても、高僧たちが偉大な存在であることが分かる。どうして貴師は、でたらめなことを言ってむやみに彼らを謗るのか。いったい誰を指して悪僧だというのか。くわしくお聞きしたい。

  主人の曰く、後鳥羽院(ごとばいん)の御宇に法然と云ふもの有り選択集(せんじゃくしゅう)を作る。
 則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。其の選択に云く「道綽(どうしゃく)禅師、聖道(しょうどう)・浄土の二門を立て、聖道(しょうどう)を捨てて正しく浄土に帰するの文。初に聖道(しょうどう)門とは之に就て二有り。乃至之に準じ之を思ふに、応に密大及以び実大をも存すべし。然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意正しく此に在るなり。 曇鸞(どんらん)法師の往生論の注云く、謹て竜樹菩薩の十住毘婆沙(じゅうじゅうびばしゃ/rt>)を案ずるに云く、菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。此の中、難行道とは即ち是れ聖道(しょうどう)門なり、易行道とは則ち是れ浄土門なり。 浄土宗の学者先ず須らく此の旨を知るべし。設ひ先より聖道(しょうどう)門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は、須らく聖道(しょうどう)を棄てて浄土に帰すべし」。
 又云く「善導(ぜんどうく)和尚、正・雑の二行を立て雑行を捨てて正行に帰するの文。 第一に読誦雑行(どくじゅぞうぎょう)とは、上の観経(かんぎょう)等の往生浄土の経を除て已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く。 第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除て已外、一切の諸仏菩薩等及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名く。 私に云く、此の文を見るに須く雑を捨てて専を修すべし。(あに)百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之を思量せよ」。
 又云く「貞元入蔵録の中に、始め大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻より法常住経に終るまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。 当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には還て定散の門を閉ず。一たび開て以後永く閉じざるは唯是れ念仏の一門なり」と。
 又云く「念仏の行者必ず三心を具足すべきの文。観無量寿経(かんむりょうじゅきょう/rt>)に云く、同経の疏に云く、問て曰く、若し解行の不同邪雑の人等有て外邪異見の難を防がん。或は行くこと一分二分にして群賊等喚廻すとは、即ち別解・別行・悪見の人等に喩ふ。私に云く、又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは是れ聖道(しょうどう)門を指す」〈已上〉。  又最後結句の文に云く「夫れ速かに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道(しょうどう)門を閣て選て浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正・雑二行の中に且く諸の雑行を抛て選て応に正行に帰すべし」〈已上〉。
 

現代語訳
 主人は答えていう。後鳥羽上皇の時代に、法然という者が『選択集(せんじゃくしゅう)』を著した。
  これがそもそも、釈尊一代の聖教を破して、多くの人々を迷わせる原因となった。 その『選択集(せんじゃくしゅう)』には次のようにある。「道綽(どうしゃく)禅師が仏教を聖道門と浄土門の二つに分け、聖道門を捨てて浄土門に帰依せよと述べること。その聖道門には大乗と小乗の二つがあり、大乗の中には顕教と密教、権教と実教の相違がある。道綽(どうしゃく)禅師は小乗と大乗の中の顕教と権教とを指して聖道門としたが、私・法然がこれに準じて考えたところ、密教と実教も含まれるべきである。そうしてみると、現在の真言・禅・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論の八宗は、すべて聖道門として捨て去るべきである。また曇鸞法師の『往生論註』には、おそれつつ竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)の 『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を読んでみると、菩薩が悟りを求めるのに二つの道がある。一つは難行道、もう一つは易行道である、と説かれている。ここにいう難行道とは聖道門、易行道とは浄土門のことである。 浄土宗を学ぶ者は、是非ともこのことを知らなければならない。たとえ以前から聖道門を学んでいる人であっても、もし浄土門を信ずる志しがあれば、迷わずに聖道門を捨てて浄土門に帰依すべきである」と。
 また『選択集(せんじゃくしゅう)』には次のようにある。「善導(ぜんどうく)和尚が修行法を正行・雑行の二つに分け、雑行を捨てて正行に帰せよと述べること。第一に捨てるべき読誦雑行とは、観無量寿経・大無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経を除き、それ以外の大乗・小乗、顕教・密教の諸経を信じたり読んだりすることである。次いで第三の礼拝雑行とは、阿弥陀仏以外のすべての仏・菩薩・諸天善神を礼拝し敬うことである。私・法然が考えるに、この善導(ぜんどうく)和尚の文によれば、是非とも雑行を捨てて正行を専修すべきである。どうして百人のうち百人が確実に往生できる専修念仏の正行を捨てて、千人に一人も往生できない雑行に執着する必要があろうか。修行者はよくよくこのことを考えよ」と。
  また「貞元入蔵録という目録には、大般若経六百巻から法常住経までの顕教・密教の大乗経、総じて六百三十七部・二千八百八十三巻が記されているが、これらはみな観無量寿経が説くところの『読誦大乗』の一句に入ってし まうのだ。まさに知るべきである。方便の教えとして説かれた随他意の経には、一時的に定善・散善による救済の門が説き開かれているが、真実の教えたる随自意の経が説かれれば、それらの門は閉じられ廃止されてしまう。ひとたび開いて、以後永く閉じられないのは、ただ念仏の一門だけである」と。
  さらには「念仏の行者は、必ず至誠心・深心・回向発願心の三心を具えるべきこと。観無量寿経には三心を具えよと説かれているが、これを注釈した善導(ぜんどうく)和尚の『観無量寿経疏』の中に、もし仏法の理解と修行の不同を主張して、浄土念仏を否定する邪見雑行の人があれば、その難を防ぐために一つの喩えを示そう。西方に向かって歩み始めた旅人に対して、東岸にいる群賊がこの道は危険なので引き返せと叫んでいるが、彼らこそ浄土念仏を妨げる別解・別行・悪見の人たちなのだ。私・法然が考えるに、ここにいう別の見解や別の修行、異なる学問や主張等とは、まさしく聖道門を指すのである」と。〈已上選択集(せんじゃくしゅう)
  また『選択集(せんじゃくしゅう)』の結びの文には、「そもそも速やかに生死の苦しみから離れたいと思うならば、二門のうち、まさに聖道門をさしおいて、浄土門に入りなさい。浄土門に入ろうと思うな らば、正行・雑行の修行法のうち、まさに雑行の修行をなげうって、正行の念仏を選び取りなさい」と記されている。〈已上選択集(せんじゃくしゅう)

  之に就て之を見るに、曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどうく)の謬釈を引て聖道(しょうどう)浄土・難行易行の旨を建て、法華・真言惣じて一代の大乗六百三十七部・二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道(しょうどう)・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ、此の四字を以て多く一切を迷はし、剰へ三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ。 近くは所依の浄土の三部経の「唯除五逆 誹謗正法(ひぼうしょうほう)」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終て阿鼻獄に入らん」の誡文に迷ふ者なり。 是に於て代末代に及び人聖人に非ず。各冥衢に容て並に直道を忘る。悲いかな、瞳朦をLたず。痛いかな、徒に邪信を催す。故に上国王より下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外の経無く、仏は弥陀三尊の外の仏無しと謂へり。

現代語訳
 これらの『選択集(せんじゃくしゅう)』の諸文によれば、法然は曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどうく)の誤った解釈を引いて、聖道門と浄土門、難行道と易行道を立て分け、法華・真言をはじめ釈尊一代の大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、およびすべての仏・菩薩・天神を、みな聖道門・難行道・雑行の中に入れて、それらを捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよと説いている。この「捨・閉・閣・抛」の四字によって、多くの人々を迷わせ、そのうえインド・中国・日本の高僧や仏弟子すべてを「群賊」と呼んで罵ったのである。これらの誹謗の言葉は、近くは自ら拠りどころとする浄土三部経の「ただし五逆罪を犯した者と正法を謗る者は救いから除く」という阿弥陀仏の誓いに背き、遠くは釈尊一代の肝心たる法華経譬喩品の「もし人が法華経を信ぜずして謗ったならば、(中略)その人は死後に阿鼻地獄に堕ちるだろう」という誡めに迷う者である。 今また世は末代に入り、人は凡夫ばかりで聖人などいない。みな迷路に入り込んで、悟りの正しい道を見失っている。そして悲しいことに、誰もその迷いから目覚めさせようとせず、痛ましいことに、誤った信仰が広まるばかりである。よって、上は国王から下は万民に至るまで、みな頼るべき経は浄土三部経の外になく、頼るべき仏は阿弥陀の三尊の外にないと思い込んでいる。

 仍て伝教(でんぎょう)・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉て渡せし所の聖教、或は一朝の山川を廻て崇むる所の仏像、若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し、若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す。 釈迦・薬師の光を並ぶるや、威を現当に施し、虚空地蔵の化を成すや、益を生後に被らしむ。 故に国王は群郷を寄せて以て灯燭を明にし、地頭は田園を充てて以て供養に備ふ。

現代語訳
  振り返ってみるに、伝教・義真・慈覚・智証等の先師たちは、万里の波濤を越えて唐に入っては聖教を、各地の山川をめぐっては尊い仏像を我が国に招来し、あるいは比叡山の頂に堂塔を建てて安置し、あるいは深い谷に堂舎を建てて崇めて来た。すなわち 比叡山の東塔には薬師如来、西塔には釈迦如来が安置されて、威光は現在・未来までも及び、横川には虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)と地蔵菩薩が祀られて、来世までも人々を利益する。それゆえ国主は郡や郷を寄進してその灯明を輝かし、地頭は田園を寄進して供養してきた のである。

  而るを法然の選択に依て則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び、付属を抛て東方の如来を閣き、唯四巻三部の経典を専にして、空しく一代五時の妙典を抛つ。 是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め、念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る。 故に仏閣(ぶっかく)零落(れいらく)して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。然りと雖も各護惜の心を捨てて、並に建立の思を廃す。 是を以て住持の聖僧行て帰らず、守護の善神去て来ること無し。是れ偏に法然の選択に依るなり。悲しいかな数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩かされて多く仏教に迷ひ、傍を好て正を忘る、善神怒を為さざらんや。円を捨てて偏を好む、悪鬼便りを得ざ らんや。如かじ、彼の万祈を修せんよりは、此の一凶を禁ぜんには。

現代語訳
 ところが法然の『選択集(せんじゃくしゅう)』が広まったせいで、人々は教主釈尊への信仰を忘れ、西方の阿弥陀仏を貴び、伝教大師から 付属の続く東方の薬師如来をさしおいて、ただ四巻三部の浄土経だけを信じ、釈迦の一代五時の経典はむなしく忘れ去られてしまった。かくして人々は、阿弥陀堂でなければ供養せず、念仏僧でなければ布施もしないようになった。そのため、仏堂はさび れて屋根に苔むし、僧房は荒れはてて、庭には雑草がはびこる始末である。そのようになっても、人々は護り惜しむ気持もなく、御堂を建て直そうとも思わない。こういう状況なので、住持の聖僧もどこかへ行って帰らず、守護の善神も去って戻らない。 これらはもっぱら法然の『選択集(せんじゃくしゅう)』が原因なのである。悲しいことに、ここ数十年の間、百千万の多くの人々が法然の魔縁・悪説にたぶらかされて、仏教の正邪に迷っている。誰もが謗法を好んで、正法を忘れている。これでは守護の善神が怒らないわけがない。みな円満な正しい法華経を捨てて、偏った浄土念仏を信じている。これでは悪鬼が乱入しないわけがない。天変地異を鎮めようとするならば、多くの祈祷を行うよりも、災難の根源たる法然の専修念仏を禁止することが先決なのである。

〔第五問答〕災難の実例について
 客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞(どんらん)法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、  道綽(どうしゃく)禅師は涅槃の広業を閣て偏に西方の行を弘め、善導(ぜんどうく)和尚は雑行を抛て専修を立て、恵心僧都(えしんそうず)は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす。 弥陀を貴重すること誠に以て然なり。又往生の人其れ幾ばくぞや。就中、法然聖人は幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並に八宗を究め具に大意を得たり。其の外一切の経論七遍反覆し、章疏伝記究め看ざることなく、智は日月に斉しく 徳は先師に越えたり。 然りと雖も猶出離の趣に迷て涅槃の旨を弁へず。故に遍く覿、悉く鑑み、深く思ひ、遠く慮り、遂に諸経を抛て専ら念仏を修す。 其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む。故に或は勢至の化身と号し、或は善導(ぜんどうく)の再誕と仰ぐ。 然れば則ち十方の貴賎頭を低れ、一朝の男女歩を運ぶ。爾しより来た春秋推移り、星霜相積れり。而るに(かたじけな)くも釈尊の教を疎にして、恣に弥陀の文を譏る。 何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ、強ちに先師を毀り、更に聖人を罵るや。毛を吹て疵を求め、 皮を剪て血を出す。昔より今に至るまで、此くの如き悪言未だ見ず、惶るべく慎むべし。 罪業至て重し、科条争か遁れん。対座猶以て恐れ有り、杖に携はれて則ち帰らんと欲す。

現代語訳
 客人はいっそう怒り、顔色を変えていう。我らの本師たる釈尊が浄土三部経をお説きになってから、中国の曇鸞法師は 『中論』『十二門論』『百論』『大智度論』の講説をやめて浄土の教えに帰依し、道綽(どうしゃく)禅師は涅槃経の広汎な教えを捨ておいて、もっぱら西方往生の念仏行を弘めた。善導(ぜんどうく)和尚は法華の修行を雑行となげうって専修念仏の行を立て、我が国の恵心僧都(えしんそうず)は 諸経の要文を集めて念仏の一行を採用した。昔から阿弥陀仏を尊崇することはこのとおりである。また念仏によってどれほど多くの人々が往生したろうか。とりわけ、法然上人は幼少にして比叡山に登り、すでに十七歳にして天台大師の 『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観(まかしかん)』、妙楽大師の『玄義釈籤』『文句記』『止観弘決』等の六十巻に通達し、八宗の教えを究めて、ことごとくその大綱を習得した。その他、すべての経典や論釈を七回も読破し、注釈書や伝記類に至るまで究めないものはなく、智恵の輝きは日月に等しく、学徳は先師を越えている。 それでもまだ、生死の迷いを離れて悟りの境地を得られなかった。そのためさらに先師の書物を読み進め、遠く深く思いをめぐらした結果、ついに諸経をなげうって、専ら念仏の一行を修行するようになられた。さらに、夢に現れた善導(ぜんどうく)和尚のお告げを受けて、広く四方の人々に専修念仏を弘め始めた。ゆえに人々は、法然上人を勢至菩薩の化身と呼び、あるいは善導(ぜんどうく)和尚の生まれ変わりとして仰いだ。国中の人々が身分の上下なく深く頭をたれ、男も女も法然上人のもとを訪ねた。それから幾年もが過ぎて、念仏の教えは全国に弘まっていった。ところが、貴師は恐れ多くも釈尊の教えである浄土教をなおざりにして、勝手な考えで阿弥陀仏の教えを謗っている。なぜ貴師は、近年の災害の原因を後鳥羽上皇の時に遡らせ、むやみに念仏行の先師を謗り、法然上人をも罵るのか。貴師の批判は、例えていえば、毛を吹き分けて小さな疵を探し出し、皮を切って血を出すようなものである。昔から今まで、このような悪言を一度も聞いたことがない。まことに恐れ、慎むべきことである。その罪業はいたって重く、処罰は免れないだろう。こうして対談しているのも憚られるので、早々に杖を携えて帰ることにしよう。

 主人咲みを止めて曰く、辛きを蓼葉に習ひ、臭きを溷厠(こんし)に忘る。善言を聞て悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑て悪侶に擬す。 其の迷誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け、委しく其の趣を談ぜん。
  釈尊説法の内、一代五時の間に先後を立て権実を弁ず。而るに曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどうく)、既に権に就て実を忘れ、先に依て後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。 就中、法然其の流を酌むと雖も其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並に一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の字を置て一切衆生の心を薄んず。是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言ても比ひ無く、責めても余り有り。 人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経(しゅうきょう)を抛ち、極楽の一仏を仰て諸仏を忘る。 誠に是れ諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり。此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す。
  抑近年の災難を以て往代を難ずるの由強ちに之を恐る。(いささ)かか先例を引て汝が迷を悟すべし。
 止観第二に史記を引て云く「周の末に被髪袒身(ひほつたんしん)礼度に依らざる者有り」。 弘決の第二に此の文を釈するに左伝を引て曰く「初め平王の東に遷りしに、伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及じ、其の礼先ず亡びぬ」と。爰に知ぬ、徴は前に顕れ、災は後に致ることを。 又「阮藉(げんせき)が逸才なりしに蓬頭散帯(ほうとうさんたい)す。後に公卿の子孫皆之に教て、奴苟(どこう)相辱しむる者を方に自然に達すと云ひ、節兢持(そんせつこうじ)する者を呼て田舎と為す。是を司馬氏の滅する相と為す」〈已上〉。

現代語訳
  主人は客人を引きとめ、穏やかにほほ笑んでいう。蓼の葉を好んで食べればその辛さに慣れ、厠に長く入っていればその臭気を忘れてしまう。それと同じで、悪に染まり切ってしまえば、善悪の分別がつかなくなり、善言を聞いても悪言と思い、謗法の者を指して聖人と敬い、悟りに導く正師を悪僧ではないかと疑う。貴殿の迷いはまことに深く、その罪も軽くはない。何はともあれ、事の起こりをもう少し聞かれるがよい。くわしくその訳をお話ししよう。
  そもそも釈尊の説法は、ご一代を五時に分けて前後の順序があり、前の四時には方便の教えが説かれ、その後に真実の教えが説かれたことを知らなければならない。しかし曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどうく)らは、先に説かれた方便教の浄土三部経を憑んで、後に説かれた真実教の法華経を忘れ去ってしまった。いまだ仏法の根底を究めない未熟な者である。とりわけ法然は、浄土教の三師の流れを酌んでいるが、仏教の根源が法華経にあることを知らない者である。なぜなら、法然は『選択集(せんじゃくしゅう)』にて、大乗経の六百三十七部・二千八百八十三巻、並びにすべての諸仏・菩薩・諸天善神などを「捨てよ・閉じよ・閣けよ・抛てよ」と説いて、人々の心を惑わせたからである。これはただ、法然が手前勝手な言葉を並べただけで、まったく正しい仏説に基づいてはいない。その妄語と悪口の罪は、他に比べようもなく、どんなに責めても責めたりない程である。 それなのに、人々はみな法然の妄言を信じて『選択集(せんじゃくしゅう)』を貴び、浄土の三部経だけを崇めて他経をなげうち、阿弥陀仏だけを拝んで、他の諸仏を忘れている。まことに、法然こそ諸仏と諸経の怨敵であり、聖僧と万民の敵である。今ではこの邪教が国中に流布し、隅々にまで蔓延してしまった。
 そもそも貴殿は、私が近年の災害の原因を往年における念仏の流布にあると言ったことに、ひどく恐れを懐いているようだが、少し先例を引いてその迷いを晴らそう。
  天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』の第二に『史記』を引用して、「周代の末に、髪を乱し、肌を露わにする、礼儀をわきまえない者がいた」と述べている。これを妙楽大師は『止観弘決』の第二に『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』を引いて次のように注釈する。「周の平王が外敵に侵略されて都を東に遷す時、伊川のほとりで髪を乱した者たちが野で祭りを行っていた。それを見た識者の辛有は嘆いていう、周は百年も過ぎないうちに滅びよう。礼儀がすでに廃れてしまったからだ」と。これで分かるように、大きな災いが起きる前には必ず予兆が現れるのである。また『摩訶止観(まかしかん)』には続けて、「阮籍(げんせき)は偉才の人であったが、いつも髪を乱し、帯も締めていなかった。そのうち、公卿の子弟たちも真似をして、ついには下品な言葉で罵りあうのが自然だと思い、礼節をわきまえる者を田舎者と蔑んだ。これが司馬氏の滅びる前兆であった」と記している。

 又慈覚大師(じかくたいし/rt>)入唐巡礼記(にっとうじゅんれいき)を案ずるに云く 「唐の武宗皇帝(ぶそうこうてい)会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へ令む。寺毎に三日巡輪すること絶えず。 同二年回鶻国(かいこつこく)の軍兵等唐の堺を侵す。同三年河北の節度使(せつどし)忽ち乱を起す。其の後大蕃国(だいばんこく)更た命を拒み 、回鶻国(かいこつこく)重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱秦項の代に同じく、災火邑里の際に起る。
何に況や、武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す。乱を撥ること能はずして遂に以て事有り」〈已上取意〉。

現代語訳
 また慈覚大師の『入唐求法巡礼行記』には、「唐の武宗皇帝(ぶそうこうてい)は会昌元年に、章敬寺の鏡霜法師に勅命を下して、諸寺に弥陀念仏の教えを伝え、寺ごとに三日ずつ念仏の講会を行わせた。すると、同二年にはウイグル国の兵士が唐の国境を侵し、同三年には河北の節度使が反乱を起こした。その後、チベット国が唐の命令を拒絶し、ウイグル国はふたたび唐の領地を奪った。かかる大乱は、秦から漢へ時代が移るときと同じであり、戦火は町や村を焼き払った。 のみならず、武宗は大いに仏法を迫害して多くの寺塔を滅ぼした。その結果、兵乱を鎮めることができず、ついに自分の命も尽きたのである」と。〈已上取意〉

 此れを以て之を惟ふに、法然は、後鳥羽院(ごとばいん)の御宇建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。 然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す。汝疑ふこと莫かれ、汝怪むこと莫かれ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截べし。

現代語訳
  この歴史に照らして我が国のことを考えてみるに、法然は後鳥羽上皇の時代、建仁年中の僧であるが、その上皇が承久の乱に敗れて隠岐の島に流されたのは、紛れもない事実である。このように念仏が災難をもたらすことは、中国に先例があり、我が国でも証明されている。貴殿はその事実を疑ったり怪しんではならない。今はただひたすら、念仏の一凶を捨てて法華経の一善に帰依し、災害の源を塞いで、謗法の根を断ち切らなければならない。

〔第六問答〕上奏の可否について

 客(いささ)か和て曰く、未だ淵底を究めざれども数ば其の趣を知る。但し華洛(からく)より(りゅうえい)営に至るまで、釈門に枢ノ(すうけん)在り、  仏家に棟梁在り。然るに未だ勘状を進らせず、上奏に及ばず。汝賎身を以て輙く莠言を吐く。其の義余り有り、其の理謂れ無し。

現代語訳
 客人は少しばかり怒りを和らげていう。まだ奥深い事柄は分からないが、話の趣旨はおよそ了解した。ただし疑問なのは、京都から鎌倉に至るまで、仏教界には優れた碩徳や立派な高僧が多いのに、今まで朝廷や幕府に意見書を差し出した例は聞き及ばない。貴師は身のほども弁えず、軽々しく諫言するなど、世を愁う気持は分かるが、とても道理に適った行動とは思えない。

主人の曰く、予少量為りと雖も(かたじけな)くも大乗を学す。蒼蝿驥尾(そうようきび)に附して万里を渡り、碧羅松頭(へきらしょうとう)に懸て千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生れて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。

現代語訳
 主人は答えていう。たしかに私は身分もなく智恵も少ないが、かたじけなくも大乗教を学ぶ者である。例えば、青蝿でさえ駿馬の尾にしがみつけば万里をわたり、蔦も松の大木にからみつけば千尋の高さにまで伸びる。それと同じく大乗に心を寄せれば、きっと仏意を究めることができる。私のような者でも仏の子と生まれて、諸経の王たる法華経に仕える身である。どうして正法が衰えていくのを見て、哀惜の念を起こさずにいられようか。

 其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置て呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子・真の声聞なり」と。余、善比丘の身為らずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に、唯大綱を撮て粗一端を示す。

現代語訳
 そのうえ、涅槃経には「もし善良な僧がいて、正法を破壊する者を見て、放置し、叱り責めず、追い出さず、処罰しないのであれば、その人は仏法の中の怨敵である。もしよく追い払い、叱り責め、処罰するならば、その人こそ真の我が弟子である」と説かれている。私は善僧にあたるとは思わないが、「仏法の中の怨敵」という責めを受けないために、仏法の大綱に準じて、その一端を述べたのである。

 其の上、去る元仁年中に延暦(えんりゃく)興福(こうふく)の両寺より度度奏聞を経、勅宣御教書を申し下して法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしめ、法然の墓所に於ては、感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず。(あに)未だ勘状を進らせずと云はんや。

現代語訳
  さらに、去る元仁年間に延暦(えんりゃく) 寺と興福寺からたびたび専修念仏の禁止の訴えが起こり、勅宣・御教書による許可をえて、『選択集(せんじゃくしゅう)』の版木は比叡山の大講堂の前で、三世の仏恩に報いるため焼き捨てられた。さらに法然の墓所は、祇園神社の犬神人に命じて打ち壊された。法然の弟子である隆観・聖光・成覚・薩生らは、遠国に配流されて、いまだに赦されていない。これだけの先例があるのに、まだ貴殿は意見書を提出した者などいないと言うのか。

〔第七問答〕災難の対策について
 客則ち和て曰く、経を下し僧を謗ずること一人として論じ難し。然れども大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、並に一切の諸仏・菩薩・及び諸の世天等を以て捨・閉・閣・抛の四字を載す。其の詞勿論なり、其の文顕然なり。 此の瑕瑾を守て其の誹謗を成す。迷て言ふか、覚て語るか。賢愚弁ぜず、是非定め難し。  但し災難の起りは選択に因るの由、其の詞を盛に、弥よ其の旨を談ず。 所詮、天下泰平・国土安穏は君臣の(ねが)ふ所、土民の思ふ所なり。夫れ国は法に依て昌へ、法は人に因て貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。 先ず国家を祈て須く仏法を立つべし。若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。

現代語訳
 客人は次第に態度を和らげていう。私には本当に法然上人が諸経をさげすみ、僧を謗ったのかどうかは分からない。しかし、大乗経の六百三十七部・二千八百八十三巻、並びにすべての諸仏・菩薩・諸天善神を「捨・閉・閣・抛」の四字をもって捨てさせたことは、どうも『選択集(せんじゃくしゅう)』に明らかなようである。しかし「捨・閉・閣・抛」のわずか四字にこだわって、念仏を非難する貴師の行為は、果たして迷って言うのか、それとも悟って語るのか。賢者か愚者かも分からず、私は是非を決めかねている。ただし、災難の原因が『選択集(せんじゃくしゅう)』にあることを、貴師は言葉を尽くして丁寧に教示してくださった。  結局のところ、天下が泰平で国土が安穏であることは、国主も臣下も万民もみな願っている。そもそも国は正しい仏法によって栄え、仏法は人民に仰がれて尊くもなる。もし国が亡び人々が滅したならば、誰が仏を崇め、誰が仏法を信ずるというのだろうか。それゆえ、まず国家の安穏を祈って仏法を立てていくべきだろう。もし災難を防止する手立てがあれば、お聞かせ願いたい。

 主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず。唯経文に就て(いささ)かか所存を述べん。 抑も治術の旨、内外の間、其の文幾多ぞや。具に挙ぐべきこと難し。 但し仏道に入て数ば愚案を回すに、謗法の人を禁めて、正道の侶を重んぜは、国中安穏にして天下泰平ならん。

現代語訳
  主人は答えていう。私は凡愚にして、賢明な手立てを知っているわけではないが、経文に従って少々考えを述べてみよう。そもそも災難を鎮める方策は、仏法やそれ以外の教えにも多く示されているので、そのすべては挙げられない。ただし仏説に基づいて愚考するならば、謗法の人を罰して、正法を信ずる人を重んずれば、おのずと国中は安穏となり、天下は泰平となるだろう。

 即ち涅槃経に云く「仏の言く、唯だ一人を除て余の一切に施さば皆讃歎すべし。 純陀(じゅんだ)問て言く、云何なるをか名けて唯除一人と為す。仏の言く、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。
純陀復た言く、我今未だ解せず、唯願くば之を説きたまえ。仏純陀(じゅんだ)に語て言く、破戒とは謂く一闡提(いっせんだい)なり。其の余の在所一切に布施すれば、皆讃歎すべし、大果報を獲ん。 純陀(じゅんだ)復た問ひたてまつる、一闡提(いっせんだい>)とは其の義云何。仏言く、純陀(じゅんだ)、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有て、麁悪の言を発し、正法を誹謗し、是の重業を造て永く改悔せず、心に懺悔無らん。 是くの如き等の人を名けて一闡提(いっせんだい)の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯て発露せず。 彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して言に禍咎多からん。是くの如き等の人を亦た一闡提(いっせんだい)の道に趣向すと名く。唯此くの如き一闡提(いっせんだい)の輩を除て、其の余に施さば一切讃歎せん」と。

現代語訳
  それについて、涅槃経には「仏は、ただ一人を除き、他のすべてに施すことは、みな讃めたたえるべきであると説かれた。すると弟子の純陀(じゅんだ)が、ただ一人を除くとはどのような人を指すのかと尋ねた。仏は、この経に説くところの破戒の者であると答えられた。さらに純陀(じゅんだ)は、まだよく分からないのでどうぞ詳しくお説き下さいと願った。仏は純陀(じゅんだ)に、破戒とは一闡提のことである。一闡提を除くすべての人々への布施は、みな讃めたたえるべきであり、その功徳によって大果報を得るだろうと答えられた。 そこで純陀(じゅんだ)は、一闡提とはどういう人のことかと尋ねた。仏は次のように答えた。純陀(じゅんだ)よ、もし僧や尼、男女の信徒の中で、ひどく悪しざまに正法を謗る重罪を犯しながら、いつまでも悔い改めず、懺悔の心もない。その者たちを、一闡提の道を進む者と名づけるのである。もしまた殺生・偸盗・邪淫・妄語という四重禁戒を犯し、殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血という五逆罪を行って、それを重罪と知りながら、初めから恐れもせず、懺悔もせず、自ら罪を告白する気持もない。正法を護り惜しむ心もなく、逆に謗り軽んじて、言葉に過失の多い者がいるだろう。このような者を一闡提の道を進む者と名づける。この一闡提を除いて、その他の人々に施すことは皆讃めたたえるべきである、と」と説かれている。

 又云く「我れ往昔を念ふに、閻浮提(えんぶだい)に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉有ること無し。 善男子、我爾の時に於て心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已て即時に其の命根を断ず。善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず」と。又云く「如来昔国王と為て菩薩の道を行ぜし時、爾所の婆羅門の命を断絶す」と。又云く「殺に三有り、謂く下中上なり。下とは蟻子(ぎし)乃至一切の畜生なり。唯だ菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微善根有り。是の故に殺す者は具に罪報を受く。 中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで、是を名けて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。 上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提(いっせんだい/rt>)を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提(いっせんだい)なり」〈已上〉。

現代語訳
  また、涅槃経には「過去世のことを思い起こせば、私はこの世に生まれて大国の王となり、仙予という名だったことがある。大乗経典を深く敬い、心は善良で、嫉みや惜しみの悪心がなかった。そして善男子よ、私は大乗の教えを重んじていたから、バラモンが大乗を謗るのを聞くや否や、ただちにその命を絶った。善男子よ、私はこの善行によって、その後は一度も地獄に堕ちなかった」といい、 また「仏は過去世に国王となって菩薩道を修行していた時、多くのバラモンの命を絶ったことがある」とあり、 また「殺生には上中下の三種類がある。下の殺生とは、蟻などを初め、すべての畜生を殺すことをいう。ただし菩薩が人を仏道に導くために畜生に生まれ変わっている場合は除く。下殺を犯した者は、その因縁によって地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちて、下の苦しみを受ける。なぜならば、これらの畜生にもわずかな善根があるので、殺せば罪の報いを受けるのである。中殺とは、凡夫から悟りに達した聖者に至るまでの人々を殺すことをいう。その悪業によって地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちて、下の殺生より重い、中の苦しみを受ける。上殺とは、父母や声聞・縁覚・菩薩を殺すことである。この罪を犯せば阿鼻大地獄に堕ちて、最も重い大苦を受ける。しかし善男子よ、もしたびたび一闡提を殺したとしても、この三種類の殺生の苦しみは受けない。かのバラモンたちは、みな正法を謗る一闡提だから、殺生しても罪にならないのである」と。〈已上経文〉 

仁王経(にんのうきょう)に云く「仏波斯匿王(はしのくおう)に告げたまはく。是の故に諸の国王に付属して、比丘・比丘尼に付属せず。何を以ての故に。王のごとき威力無ければなり」〈已上〉。

現代語訳
  仁王経には「仏が波斯匿王に告げていわれるには、もろもろの国王に仏法を護持し弘通することを付属したが、僧や尼には付属しなかった。なぜかというと、僧や尼には王のような威力がないからである」と。〈已上経文〉

 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相及び四部の衆に付属す。正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」と。

現代語訳
  また、涅槃経には「今、最も優れた正法を諸王・大臣・役人、及び僧俗の仏弟子に付属する。もし正法を謗る者がいれば、大臣や僧俗らは厳しく対治しなければならない」と。

 又云く「仏の言く、迦葉能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せず、應に刀剣・弓箭・鉾槊を持すべし」と。 又云く「若し五戒を受持せん者有らば名けて大乗の人と為す事を得ず。五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名く。正法を護る者は当に刀剣器仗を執持すべし。刀杖を持すと雖も我是等を説て名けて持戒と曰はん」と。

現代語訳
  さらに「仏は仰せられた。迦葉よ、私は過去世に正法を護った功徳により、この金剛の仏身を成就することができた。善男子よ、正法を護る者は五戒を持たず、威儀を整えず、刀剣・弓矢・鉾を手に取るべきである」と。 さらにまた「もし五戒を持つ者がいても、それをもって大乗を信じる人とは言わない。たとえ五戒を持っていなくても、正法を護る者は大乗の人と名づける。正法を護る者は刀剣や武器を持つべきである。刀杖を所持していても、私はその者を持戒の人と名づける」と。

 又云く「善男子、過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき。歓喜増益如来と号したてまつる。 仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り、名を覚徳と曰ふ  爾の時に多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞て、皆悪心を生じ、刀杖を執持し是の法師を逼む。 是の時の国王名けて有徳と曰ふ。是の事を聞き已て、護法の為の故に即便ち説法者の所に往至して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。 爾の時に説法者厄害を免ることを得たり。王爾の時に於て身に刀剣鉾槊の瘡を被り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋て王を讃めて言く、善きかな善きかな。王今真に是れ正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。 王是の時に於て法を開くことを得已て心大に歓喜し、尋て即ち命終して阿N仏の国に生ず。而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。 其の王の将従・人民・眷属戦闘有りし者、歓喜有りし者、一切菩提の心を退せず。命終して悉く阿N仏の国に生ず。 覚徳比丘、却て後、寿終て亦阿N仏の国に往生することを得、而して彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。 若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持し擁護(おうご)すべし。迦葉、爾の時の王とは則ち我が身是なり。説法の比丘は迦葉仏是なり。 迦葉、正法を護る者は是くの  如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳し、法身不可壊の身を成す。 仏、迦葉菩薩(かしょうぼさつ)に告げたまはく、是の故に法を護らん優婆塞等は、応に刀杖を執持して擁護(おうご)する事是くの如くなるべし。
善男子、我涅槃の後、濁悪の世に国土荒乱し、互に相抄掠し、人民飢餓せん。爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん。是くの如きの人を名けて禿人と為す。 是の禿人の輩、正法を護持するを見て、駈逐して出さしめ、若くは殺し若くは害せん。是の故に我今持戒の人、諸の白衣の刀杖を持つ者に依て、以て伴侶と為すことを聴す。 刀杖を持すと雖も、我是等を説て名けて持戒と曰はん。刀杖を持すと雖も、命を断ずべからず」と。

現代語訳
  さらにまた「善男子よ、過去世にこの拘尸那城に仏がおられた。歓喜増益如来と仰せの仏であった。の仏が入滅されて無量億年もの永い間、この世に正法が行われていた。しかし最後の四十年、ついに正法が滅びようとする時に、一人の持戒の僧がいた。名を覚徳といった。当時、世の中には多くの破戒僧がいた。彼らは覚徳比丘が法を説くのを聞いて悪心をいだき、刀杖をもって迫害した。 その時の国王を有徳といったが、この事件を聞いて、仏法を護るため、直ちに覚徳比丘を助けに向かい、破戒の悪僧らと激しく戦闘した。その甲斐あって、覚徳比丘は危害を免れることができた。しかしながら有徳王の代償は大きく、全身に無数の刀や鉾の傷を受け、芥子粒ほども無傷なところはなかった。爾の時に覚徳、尋いで王を讃めて言く、善きかな善きかな、王今真に是れ正法を護る者なり。当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし。 王はそれを聞いて大いに喜び、やがて寿命が尽きて、阿仏(あしゅくぶつ)の国に生まれ、阿仏(あしゅくぶつ)の第一の弟子となった。また王に従って戦った家来や人民、そしてこれを見て歓喜した者たちも、みな仏道を求める心を起こして、命終して後、ことごとく阿仏の国に生まれた。もし正法が滅びようとする時には、いかなる世でも、このように仏法を護り切らなければならない。迦葉よ、その時の有徳王とは今の私であり、法を説いた覚徳比丘とは迦葉仏である。
 迦葉よ、正法を護る者はこのような計り知れない果報を得るのである。この過去世の因縁によって、私は今、種々の優れた相で我が身を飾り、何ものにも破られない仏身を得たのである。仏は続けて迦葉菩薩に告げていわれた。このようなわけで、正法を護る在家の信徒たちは、有徳王のように刀や杖を取って護らねばならない。
 善男子よ、私の入滅後は、世は濁悪となって国土は荒廃し、人々は互いに奪い合い、終には飢えに苦しむことになろう。その時、飢餓の苦しみから脱れるために出家する者が多く出るだろう。そのような者を名づけて『禿人』というのである。 これらの禿人は、正法を護持する者をみては、追い払ったり、殺したり、迫害したりするだろう。そのため私は今、正しい持戒の僧が、刀杖等の武器をもつ在家信徒を頼りにして、伴侶となることを許すのである。たとえ刀杖を所持していても、私はこれらの信徒を名づけて持戒の者とよぶ。とは言え、刀杖を所持していても、みだりに人を殺してはならない」と。

 法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」〈已上〉。

現代語訳
  法華経の譬喩品には「もしこの経を信ぜずして謗る人は、この世のすべての人々が仏になる種を断つものである。(中略)その人は、命終して後に阿鼻地獄に堕ちるだろう」と。〈已上経文〉

 夫れ経文顕然なり。私の詞何ぞ加へん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕して永く出る期無けん。 涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供を許すとも謗法の施を許さず。蟻子(ぎし)を殺す者は必ず三悪道に落つ。謗法を禁ずる者は不退の位に登る。 所謂(いわゆる)覚徳とは是れ迦葉仏(かしょうぶつ)なり、有徳とは則ち釈迦文なり。

現代語訳
  このように経文には明らかに説き示されている。よって、私の言葉を加える必要は何もない。法華経の経文によれば、大乗経典を謗る罪は、無量の五逆罪を犯すよりも重罪である。それゆえ阿鼻地獄に堕ちて、永く救済されることはないだろう。涅槃経の文によれば、たとえ五逆罪を犯した者への供養を許しても、正法を謗る者への布施は許されない。蟻を殺した者でさえ必ず三悪道に堕ちるが、謗法の者を殺せば、かえって不退転の菩薩の位に登ることができるという。すなわち、覚徳比丘が後に迦葉仏に、有徳王が後に釈迦仏に生まれ変わったのは、その良き先例である。

 法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。其の(いましめ)実に重し、誰か帰仰せざらんや。 而るに謗法の族正道の人を忘れ、剰へ法然の選択に依て弥よ愚癡の盲瞽(もうこ)を増す。 是を以て或は彼の遺体を忍て木画の像に露し、或は其の妄説を信じて莠言を模に彫り、之を海内に弘め之をO外に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手指を切て弥陀の印相に結び、或は東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居ゑ、或は四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、或は天台大師の講を停めて善導(ぜんどうく)講と為す。此くの如き群類其れ誠に尽くし難し。 是破仏に非ずや、是破法に非ずや、是破僧に非ずや。此の邪義則ち選択に依るなり。

現代語訳
  法華経と涅槃経は、釈尊の一代五時の中で最も肝要な経典であり、そこに説かれる戒めはまことに重く、誰もが深く帰依すべきものである。ところが謗法の者たちや正道を忘れた人々は、法然の『選択集(せんじゃくしゅう)』に惑わされてますます愚痴を増し、仏法の正邪が見分けられなくなっている。そのため、ある者は法然を偲んで御影を木像や絵像にあらわし、ある者は『選択集(せんじゃくしゅう)』の妄説を信じて版行に及び、あまねく天下に弘めている。今や彼らは、浄土念仏の家風のみを仰ぎ、法然の門弟だけに供養を施している。さらに、ある者は釈尊像の手指を切り取って阿弥陀仏の印相に変えたり、ある者は薬師如来の御堂を改めて阿弥陀仏を安置したり、ある者は四百年以上も行われてきた法華経書写の修行を取りやめて、浄土三部経の書写に切り替え、ある者は天台大師の講会をやめて、善導(ぜんどうく)の講会に代える始末である。このような愚行はじつに数え切れない。  これはまさに仏を謗り、法を破り、僧を侮辱する行為といえよう。この邪義の原因はもっぱら『選択集(せんじゃくしゅう)』にあるのだ。

嗟呼悲しいかな、如来誠諦(じょうたい)の禁言に背くこと。哀なるかな、愚侶迷惑の麁語に随ふこと。早く天下の静謐を思はば、須く国中の謗法を断つべし。

現代語訳
  ここまで仏の真実の戒めに背くとは、何と悲しいことだろうか。ここまで愚迷な法然の邪説に従うとは、何と哀れなことだろうか。一日も早く天下の安穏を願うならば、何をおいても、まず国中の謗法を禁じなければならない。

〔第八問答〕謗法の禁断について
 客の曰く、若し謗法の輩を断じ、若し仏禁の違を絶せんには、彼の経文の如く斬罪に行ふべきか。若し然らば殺害相加て罪業何んが為んや。
 

現代語訳
   客人はいう。謗法の者を断罪し、仏の戒めに背く者を根絶するには、涅槃経に説かれるとおりに斬罪に処すべきなのか。もしそうなら、殺生は果てしなく繰り返されるが、その罪業はどうなるのだろうか。

 則ち大集経(だいしつきょう)に云く「頭を剃り袈裟を著せば、持戒及び毀戒(きかい)をも天人彼を供養すべし。則ち為れ我を供養するなり。是れ我が子なり。若し彼をP打する事有れば、則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば、則ち為れ我を毀辱(きにく)するなり」。料り知ぬ、善悪を論ぜず是非を択ぶこと無く、僧侶為らんに於ては供養を展ぶべし。何ぞ其の子を打辱して(かたじけな)くも其の父を悲哀せしめん。 彼の竹杖の目連尊者を害せしや、永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼(れんげびくに)を殺せしや、久しく阿鼻の焔に咽ぶ。 先証斯れ明かなり。後昆最も恐あり。謗法を誡むるには似て既に禁言を破る。此の事信じ難し、如何が意得んや。

現代語訳
  なぜなら、大集経には「頭を剃り袈裟をつけた僧に対しては、持戒・破戒を問わず、天も人もこれを供養しなければならない。彼を供養することは、仏を供養するのと同じである。なぜなら彼は我が子だからである。もし彼を打てば、私を打つことになる。もし彼を謗り辱めれば、私を謗り辱めることになる」と説かれているからである。そうであれば、善悪を論ぜず、是非を選ばず、僧たる者には広く供養すべきだろう。仏の子である僧を打ち辱めて、父である仏を悲しませて良いものだろうか。  その昔、竹杖外道(ちくじょうげどう)は仏弟子の目連尊者を殺害して、永く無間地獄の底に沈み、提婆達多は蓮華比丘尼(れんげびくに)を殺して、久しく阿鼻地獄の炎に焼かれた。僧を殺害する罪はこの先例によって明らかであり、後世の私たちが最も恐れ慎むべきことである。貴師の主張は、謗法を戒めるように見えて、実は仏の禁戒を破るものではないか。とても信じがたく、どのように心得ればよいのだろうか。

主人の曰く、客明に経文を見て猶斯の言を成す。心の及ばざるか。理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるには非ず。唯偏に謗法を悪むなり。 夫れ釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍(のうにん)の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さず皆此の善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災か競ひ来らん。

現代語訳
  主人は答えていう。貴殿は謗法を戒める明白な経文を見ながら、なおこのような疑問を起こすとは残念なことである。私の誠意が及ばないのか。それとも、貴殿に道理は通じないのか。私は仏弟子を殺害せよというのではなく、ただひたすら謗法を責めて禁ぜよというのである。そもそも謗法を禁ずる方法として、釈尊の過去世の事蹟を語るときは、仙予王や覚徳王のように謗法者の殺害を説いたが、釈尊がこのたび世に出現されて以後は、殺害ではなく布施の禁止を説かれたのである。そうであるから、世界中のすべての人々が謗法への布施を止め、正法たる法華経に帰依すれば、どんな災難も消滅するに違いない。

〔第九問答〕謗法対治と立正安国
客則ち席を避け襟を刷て曰く、仏教斯れ区にして旨趣窮め難く、不審多端にして理非明ならず。 但し法然聖人の選択現在なり。諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て捨閉閣抛と載す。其の文顕然なり。(ここ)に因て聖人国を去り善神所を捨て、天下飢渇し世上疫病すと。今主人、広く経文を引て明かに理非を示す。故に妄執既に飜り、耳目数朗かなり。 所詮、国土泰平・天下安穏は一人より万民に至るまで、好む所なり、(ねが)ふ所なり。 早く一闡提(いっせんだい/rt>)の施を止め、永く衆の僧尼の供を致し、仏海の白浪を収め、法山の緑林を截らば、世は羲農の世と成り、国は唐虞の国と為らん。然して後、法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。

現代語訳
  客人は席を下がり、襟を正していう。仏の教えはいろいろあって、その真意を理解するのは難しい。よって疑問も多く、何が道理であるかも私にははっきり分からない。ただし、法然上人の『選択集(せんじゃくしゅう)』はいま眼前にあり、そこに諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等のすべてを「捨てよ・閉じよ・閣けよ・抛てよ」と書いてあることは明白である。それによって、聖人は国を去り、善神はこの地を捨て、天下は飢饉となり、世には疫病が蔓延した。今、貴師は広く経文を引いて、ことの道理を明らかに示された。それゆえ私の迷いは晴れ、耳目は明るく開かれた。  およそ、国土が泰平で天下が安穏なことは、国王から万民まで、同じく好み、願うところである。速やかに謗法者への布施を止め、正法の僧尼を永く供養し、仏法の盗賊や邪魔を退治するならば、世は中国上代の伏羲・神農のような、国は唐尭(とうぎょう)・虞舜のような理想郷となるだろう。その後に、仏法の浅深をよく見分け、仏教の正しき棟梁を崇めることにしよう。

 主人悦て曰く、鳩化して鷹と為り、雀変じて蛤と為る。悦しきかな、汝蘭室(らんしつ)の友に交て麻畝の性と成る。 誠に其の難を顧て専ら此の言を信ぜば、風和らぎ浪静かにして不日に豊年ならん。 但し人の心は時に随て移り、物の性は境に依て改まる。譬へば猶水中の月の波に動き、陣前の(いくさ)の剣に靡くがごとし。汝当座に信ずと雖も後定めて永く忘れん。 若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速に情慮を回らしHで對治を加へよ。所以は何ん。 薬師経(やくしきょう)の七難の内、五難忽に起り二難猶残れり。所以他国侵逼(たこくしんぴつ)の難・自界叛逆(じかいほんぎゃく)の難なり。 大集経(だいしつきょう)の三災の内、二災早く顕れ一災未だ起らず。所以兵革の災なり。 金光明経(こんこうみょうきょう)の内の種種の災過一一起ると雖も、他方の怨賊(おんぞく)国内を侵掠(しんりゃく)する此の災未だ露れず、此の難未だ来らず。 仁王経(にんのうきょう)の七難の内、六難今盛にして一難未だ現ぜず。所以四方の賊来て国を侵すの難なり。加之、国土乱れん時は先ず鬼神乱る、鬼神乱るるが故に万民乱ると。
 今此の文に就て具さに事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是れ明かなり、後災何ぞ疑はん。 若し残る所の難、悪法の科に依て並び起り競ひ来らば、其の時何んが為んや。 帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。 而るに他方の賊来て其の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆(じかいほんぎゃく)して其の地を掠領せば、(あに)驚かざらんや、(あに)騒がざらんや。 国を失ひ家を滅せば、何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思はば、先ず四表(しひょう)の靜謐を祷らん者か。 就中、人の世に在るや各後生を恐る。是を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。 各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て、妄りに邪義の詞を崇めんや。
  若し執心飜らず亦曲意猶存せば、早く有為(うい)の郷を辞して必ず無間の獄に墜ちなん。 所以は何ん、大集経(だいしつきょう)に云く「若し国王有て無量世に於て施戒恵(せかいえ)を修すとも、我が法の滅せんを見て捨てて擁護(おうご)せずんば、是くの如く種ゆる所の無量の善根悉く皆滅失し、乃至其の王久しからずして当に重病に遇ひ、寿終の後大地獄に生ずべし。 王の如く夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡主・宰官も亦復是くの如くならん」と。

現代語訳
  主人は喜んでいう。中国には鳩が鷹となり、雀が蛤となるという故事があるが、貴殿が速やかに心を翻されたことは、じつに喜ばしい。蘭の室に入れば身は芳しくなり、麻の畝に蓬を植えれば真っ直ぐ育つように、貴殿は正しい信仰へと目覚められた。近年の深刻な災難を顧みて、仏の金言を信じるならば、世の中の天変地異も次第に収まり、日ならずして豊かな実りを迎えるだろう。 ただし、人の心は時にしたがって移ろいやすく、物の性質も環境によって変わる。例えば、水面に映った月が波によって揺れ動き、いざ戦場に臨んだ兵士が敵の剣を見て動揺するようなものである。貴殿も今は私の述べたことを信用したとしても、時とともに永く忘れてしまうだろう。もし国土の安穏を心から願い、現世と来世の安楽を祈るのであれば、速やかに心を改めて、早急に対策を講じなければならない。
  なぜならば、薬師経(やくしきょう)に説かれた七難のうち、五つの難はすでに起こり、残る二難がいま現れようとしている。それは他国からの侵略と、国内における反乱である。また大集経に説かれた三災のうち、二災は既に現れたが、戦乱の一災がまだ起こっていない 。また、金光明経(こんこうみょうきょう)に説かれた種々の災禍は大体起こったが、他国が侵略する災難だけはまだ現われていない。仁王経の七難の内、六つの難は今まさに盛んであるが、「四方の賊が国を侵す」という難は現われていない。それに加えて仁王経には、「国土が乱れる時には善神が去るので、まず鬼神が力を得て乱れ、鬼神が乱れる故に万民が悩乱する」と示されている。
  今この経文に照らして世の中の状況を見渡すと、多くの悪鬼がしきりに力を得て、人々はみな亡んでしまった。このように諸経に示された災難の先例は明らかであり、残された災難が今後に競い起こることは疑うまでもない。もし残っている外寇と内乱の二難が、悪法を放置したがために競い起こったならば、その時はどうするのか。本来、帝王は国家を基幹として天下を治め、臣民は田畠を耕作して世の中を保っている。しかし、他国から襲われて我が国が侵略され、国内に反乱が起こって領地が奪われれば、どうして驚かずにいられようか。どうして騒がずにいられようか。混乱は必至である。 国が失われ、家が滅んでしまえば、人々はどこに遁れるところがあろうか。貴殿がもし一身の安泰を願うのであれば、まず何よりも、天下が穏やかに治まることを祈らなければならないだろう。とりわけ世の人々は、みな後生のことを憂慮し、それがために誤って邪教を信じたり、謗法の者を貴んだりもする。人々はそれぞれ、仏法の是非や善悪に迷うことを恐れつつも、実際は誤った教えに陥り、しかも自分では仏法に帰依したと思っているのはじつに哀れである。どうして同じく信心を求めていながら、邪教の言葉を敬い崇めるのだろうか。
  もし邪教への執心が翻らず、いつまでも間違った考えを持ち続ければ、空しくこの世を去って必ず無間地獄に堕ちるだろう。 なぜならば、大集経には「もし国王が過去世の永い間にわたって、布施・持戒・智恵の修行を積んだとしても、正法が滅び去ろうとするのを見捨てて護ろうとしないならば、それまで積んできた無量の功徳善根もすべて消え失せるだろう。(中略)その王はほどなく重病にかかり、死して後は大地獄に生じることになろう。王のみならず、夫人や太子、大臣をはじめとする百官等もみな同じ苦しみを受けるだろう」と説かれている。

 仁王経(にんのうきょう)に云く「人仏教を壊らば復た孝子無く、六親不和にして天竜も祐けず、疾疫悪鬼(しつえきあっき)日に来て侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出て人と為らば兵奴の果報ならん。 響の如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。

現代語訳
  また、仁王経には「仏教を破る者は孝行の子に恵まれず、親類は仲違いして諸天の助けもない。病魔に日々おそわれ、始終どこでも災難がついて回り、死すれば地獄・餓鬼・畜生に堕ちるだろう。たまたま人間と生まれても兵士や奴隷となって恐怖を味わうだろう。あたかも音と響き、光りと影のように、また、夜に人が灯りの下で書いた文字は、灯りが消えても必ず残っているように、この世で犯した悪業の罪は消えることがない」と。

 法華経の第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。同第七の巻不軽品に云く「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。涅槃経に云く「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在て、受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。

現代語訳
  法華経第二巻の譬喩品には「もし人がこの経を信じないで毀謗すれば、(中略)その人は死して後に阿鼻地獄に堕ちるだろう」と。 同じく法華経第七巻の不軽品には「千劫もの長いあいだ阿鼻地獄に堕ち、大いなる苦しみを受けた」と。 また涅槃経には「悟りに導く善き師を遠ざけ、正法を聞かないで悪法に執着すれば、その因縁によって阿鼻地獄に堕ち、その身の至るところに八万四千もの苦しみを受けるだろう」と説かれているからである。

 広く衆経(しゅうきょう)を披きたるに専ら謗法を重んず。悲いかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。 愚なるかな、各悪教の綱に懸て、鎮に謗教の網に纏る。此の朦霧の迷、彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。(あに)愁へざらんや、(あに)苦まざらんや。 汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰んや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。 国に衰微無く土に破壊無んば、身は是れ安全、心は是れ禅定ならん。此の詞、此の言、信ずべく、崇むべし。

現代語訳
  このように、広くさまざまな経典を開きみれば、正法を謗る罪が最も重いと示されている。しかし悲しいことに、人々は皆正法の門を出て、邪法の獄舎に捕らわれている。また愚かしいことに、上下万人ことごとく悪教の綱にかかり、永く謗法の網に捉えられている。今生では濃い霧の中に迷いつづけ、来生には地獄の炎にむせぶのである。どうして歎かずにいられようか。どうして苦しまずにいられようか。 貴殿は、一刻も早く信仰の一念を改めて、速やかに真実の教えたる法華経に帰依せよ。それが叶えば、今の生死に迷う三界はそのままで仏の国である。仏の国は決して衰えない。十方の地はすべて正法の浄土である。浄土は決して破れない。 国が衰えず、国土が破られなければ、人々の身は安全で、心は平穏となるだろう。この言葉は必ずや真実なのだから、信じなければならない。崇めなければならない。

 客の曰く、今生後生誰か慎まざらん、誰か恐れざらん。此の経文を披て具に仏語を承るに、誹謗の科至て重く、毀法(きぼう)の罪誠に深し。
我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰て諸経を閣きしは、是れ私曲の思に非ず、則ち先達の詞に随ひしなり。十方の諸人も亦復是くの如くなるべし。 今の世には性心を労し、来生には阿鼻に堕せんこと、文明かに理詳かなり、疑ふべからず。 弥よ貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開けり。速に対治を回して早く泰平を致し、先ず生前を安じて更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。

現代語訳
  客人はいう。人は誰もが現世の安穏、後生の成仏を願っている。どうして慎まない者があろうか。どうして正法に従わない者があろうか。今ここに経文を引いて詳しく仏の教えを承り、仏を謗る罪がいかに重く、正法を破る罪がいかに深いか、よくよく身に染みて了解した。私が今まで、阿弥陀の一仏を信じて諸仏をなげうち、浄土の三部経だけを仰いで諸経を蔑ろにしたのは、私自身の考えではなく、浄土宗の先師の言葉に随ったものである。国中の人々も、おそらくは私と同様だろう。このままでは、今生ではむやみに心を疲れさせ、来生には阿鼻地獄に堕ちることになる。これは経文にも道理にも明らかで、まったく疑う余地はない。 今後はさらに、貴師の教導と訓戒を仰いで、ますます愚痴と迷妄の心を晴らし、ただちに謗法の教えを根絶して世の泰平を実現させ、まず現世を安穏にして、さらに来世の成仏をも願おうと思う。ただ私一人が信ずるだけでなく、他の人々の誤りをも糾して行きたい。

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