読後メモ:NARRATIVE ANALYSIS - by Catherine Kohler Riessman 1993 (in Boston University) -

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1 データとしての個別の物語

 個人が経験することを,分析を目的としたお話としてみなすことはけっして難しいことではない。そういうことは日常生活では頻繁におこなっている。日常会話の中に登場する,誰が何といったのか,次に何が起こるのかなどという話は,そのとき,その当事者にとって特別な意味をもっていたものであり,こういったことがごく普通の日常会話の中で取り上げられるという事実を見れば,会話というものがいかに重要かがわかる。心理療法士(サイコセラピスト)は,クライアントが語る自分の経験に常時接しており,それを言い直したり,構成し直したりして,クライアントの日常生活の見方を変えるのに役立たせている。人はよく過ぎ去った出来事について語るが,それは,さまざまな社会的背景をふまえながら自分を語っているのであり,われわれはこの方法を子どものころから死ぬまで用いている。知っていることはそのまま話せるのではなく,ある種の翻訳がそこではおこなわれるのだが,どう翻訳すればいいのかという問題がそこにはあるはずである。人は語ろうという衝動に駆られるというのがその1つの答であるが,その場合,語るということの枠組みに注目すべきである。

 研究の中で用いるインタビューもその例外ではない。インフォーマントは,特別な注意さえなければ,冗長な言い回しを用いたり,長い物語のような答え方をしたりするかもしれない。こういったインタビューデータに対して,従来の質的分析では,結果を一般化することをねらっていることもあって,内容の中心とならない部分を取り去ったり,文脈を離れた解釈をしたりして,応答を粉々に分解することがある。これによって,物語的なデータのよさ,すなわち連続的であることや文脈の中で構造化されているという点が失われてしまうのである。

 個人の談話とは何かを正確に定義することは重要であり,以下ではそのことについて議論を進める。ここで,その人にとって重要な出来事についての談話に焦点を当てることにする。語り手は,談話を通して聞き手を過ぎ去った時間や過去の世界に誘い,その中に出来事や教訓を凝縮する。ところが,質的研究でインタビューをおこなうと,それは談話ではなく,質疑応答の形になってしまう。

 インフォーマントは,自分の経験を物語のように仕立て上げるのだが,実際とは異なっていたり,個人的な解釈が集団の場でのものとは違っていたりするものである。たとえば,自分たちの離婚について説明するために自分たちの結婚のことを持ち出すことはよくあることである。あるいは,自分の生きてきた道筋をとらえるのに混乱している場合は,談話の中で首尾一貫したものに作り替えることがある。このように,自分を物語の中で具体的にいきいきと表現することは,実際には混沌としている場合に意義があるのであり,このことは病院での検査に似たところがある。

 何かを談話として話すということに特別な技能や難しい理屈があるわけではないが,実際にには,経験したことをそのまま話すことには困難がつきまとう。たとえば,行政や司法の世界では,日常的な出来事でも,それが語られることによって現実のものであったことが認められる。しかし,経験した出来事が思い出したくないような残虐な行為である場合などは,その人は語ろうとはしないであろう。また,政治的な拷問を受けた人や,戦争からの帰還者,あるいは性犯罪の被害者などは,経験した出来事を語ることだけではなく,聞くことさえも拒否するであろう。そのため,こういった人たちは沈黙し,同時にこのような出来事は沈黙の中に閉じこめられるのである。実際,レイプの場合などは,聞き手がそれを暴行とみなすとは限らないため,被害者は自分が受けた恐ろしい経験について語ることはできないのである。このような状況の下では,被害者が自分の身の上に起こった出来事に「レイプ」という名前を付けることさえも難しい。たとえその経験が語られるようなことがあったとしても「談話」というものにはならないであろう。すなわち,語られたものは事実の羅列であり,話し手の心情はそこには含まれることはない。しかし,社会的な支援運動は,人々が自分の経験した被害に名前を付け,経験したことと他の事柄との関連づけをし,経験したことを社会的活動に引き入れることの助けとなる。研究インタビューもそのような活動のための証拠を生み出すことに貢献しうるのである。

 (以下 つづく)


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