「松平忠直卿」物語



 松平忠直卿は、徳川家康の孫で結城秀康の子。秀康の死後越前国68万石の二代城主となり、叔父の将軍秀忠の娘・勝姫と結婚しました。

 また、大坂夏の陣での大活躍で、家康から「天下に並ぶものなし」と褒め称えられ、名品といわれた「初花の茶入」拝領しています。

 そして、“褒美はのちほど”と言われたため、加賀藩(100万石)に近い加増を期待しておりました。

 ところが、一向にその気配がないため猜疑と苛立ちにさいなまれ、ついには狂人化していったと江戸時代に編集されたに書誌に著されています。

 また、菊池寛の忠直行状記では、さらに前述の悪行・非道を小説化したことから、乱行・暴挙の非道の限りをつくしたとまことしやかに伝えられることとなりました。

 

 一方、400年前追い剥ぎや千人切りが棲むと恐れられていたこの神明の地は、忠直卿により拓かれたとことが歴史に記されているところでございます。

 その一つは、街道を拓かれたことがあげられます。そして、その街道沿いに人を住まわせるため、間口6間の土地を無償で分け与えられました。

また、さらに開拓を推進するため、役務や租税を免じ商いを自由にするという大胆な手段を講じたとされています。

これらのことから、神明の地の礎となる鳥羽八丁へと発展してまいりました。

このとき、忠直卿に従えて、開発の指揮をとったのが渡辺牛兵衛長久とされています。

(この功績を称え、寺名を長久寺とした)

 

さて、忠直卿は参勤の不履行やお家騒動、さらには数々の乱行・不行跡などから、ついに豊後(大分)萩野へ配流の身となります。

(悪名名高いお殿様と伝えられていましたが、真実は将軍職を狙う最も危険な大名として恐れていたことから、幕府の陰謀を策略に翻弄されたとの見方もあります)

 

そして、配流の豊後へ向かうなか、自身が指揮をとった神明の地に至ったとき“ここを わが地としたい”といわれたと伝えられています。

ここが、現在の長久寺でございます。


 

 善政を布かれた忠直卿は、神明では大恩人。昨年(2000年)は、没後350年を記念して、当菩提所では厳粛に350年大祭の法要を執り行わさせていただきました。

歴史を学び真実を知り、そして遺徳を偲ぶとともに、歴史を後世に正しく伝えようと思

うところでございます。                           合掌

 

長久寺住職 橘 照泰

 

参考著書  松平忠直公 黒田傳兵衛著