「鳥羽野の辺り・・・」



 昨年、神明の地開祖松平忠直卿の没後350年を記念して、当地の忠直卿菩提所長久寺で節目の大祭が執り行われた。

 地元の信仰者はもとより、遠くは忠直卿配流の地大分の萩原から詣でられたことは、誠に感謝に耐えないところである。

 また、神明公民館では神明のまちづくり事業に松平忠直卿をメインテーマとし、区長会あげて事業推進に努められたことは、これまた誠に心強くまた頼もしく感じているところです。

 さて、忠直卿は暴君のイメージで語られがちであるが、これは菊地寛の「忠直卿行状記」によるところが大きく影響していると、わたしは感じている。

 約400年前烏ヶ森(神明神社の森)から福井境にかけては、人切りや追い剥ぎが出没したとされるが、このような鬱蒼とした未開の地を拓き、人の往来が盛んになるような諸事を講じられたことにより、今日の神明があるとしたら大いにこの遺徳を称えねばならない。

 また、後世にも正しく伝えねばならない。

 特に、忠直卿が配流のとき当寺に立ち寄り、鳥羽野の繁栄を祈り旅立ったといわれる。

また、1650年に亡くなられてから、その三回忌に鳥羽野の住民代表 庄屋 山森助左衛門(末裔 神明町3山森達雄)が豊後に詣で、墓所の土を持ち帰って長久寺境内の宝筐印搭に収められたとある。

約350年前に、大恩人の法要にこの地から、どの道を辿り遥かかなたの豊後の国まで訪ねられたのであろうか?

この御苦労を思うと、当時の鳥羽野住民の忠直卿への深甚なる畏敬の念にあらためて心に響くものがあります。

この地には、このように偉大なる記録が残っているだけでも大変に尊いことである。

さて、この旧北陸道のあたりはウッソウとした森であったであろうとのことは、今もその雰囲気は苦もなく感じることはできます。そして、この森に沿って黒津川が蛇行をしながら流れていたことも、私らの年代なら鮮明に思い出すこともできます。

私が子供の頃は、田圃と森が視界を大きく占めていたものが、今や大住宅団地と工場群となってしまいました。

黒津川についても当時の面影を失してしまった。

当時は、しじみ蜆、ババガイ(カラス貝)がいたほどである。窪地には清水の水も流れ込んでいた。

魚(ジャコ)は、ウグイやチャナンペ(タナゴ)、ガコブツ(アラレガコ)がいた。サワガニもいた。

これは、水が美しかった証拠でもある。(今から、当時の美しさを取り戻すことは到底困難ではあるが・・・)
                       
今の黒津川を見ると、淀んだ水と堆積した泥の川で大きな鯉が泳いでいる。そして、そのなかには、緋鯉も混じっている。

私には、この大きな鯉が異様に映る。

不気味でもある。

私が子供の頃は、川辺の木々は大きく覆い被さっていたものである。

長閑さもあったし趣もあった。

その面影は微塵も残っていない。

私は、往時の当地の純真な村人たちが刻まれた尊い歴史と、子供の頃の美しかった光景を胸を張って吹聴したい。

そして、その美しかったことを取り戻すことは無理でも、今よりは状態を悪くさせないために、なにか "力" になりたいと密かに思っています。



                                                仙人堂住人 沢田 栄