an opinion
絵はここからもらいました。

マリリン・マンソンと銃社会



 マリリン・マンソンというバンドがアメリカ国内で弾圧を受けているらしい。マリリン・マンソンというのは先の高校生銃乱射事件で、銃を乱射した生徒が”信奉”していたロックバンドだが、ステージではヒトラーを模したようなパフォーマンスを繰り広げたりするらしい。で若者達にそれらしい影響を多大に与えているということで、なんでもネオナチを標榜する若者も急増しているとか!件の生徒もこれに影響されたと見られているようだ。アメリカ国内ではこれを受けて、コンサートの中止や不買が叫ばれているとのこと。しかし、考えてみると90年代に入ってから、いや80年代を入れても体制側から弾圧を受けたロックバンドなんてあったろうか?多少の過激さから非難されたバンドはあっても、ある種政治的にコンサートのボイコットまでを受けたバンドはなかったように思う。これはもう”ロックバンド”の勲章を手に入れたと言ってもイイじゃないか!金字塔だ!。「ウッドストック」の再現とか言ったって、集まった人数だけでそう呼ぶ野外イベントばかりの昨今、ほんとに、一般ピープルに忌み嫌われてしまったバンド、彼らこそ「ロックバンド」と呼んであげよう。とはいえ、当のマリリン・マンソンは「変態」と言われてるみたい、音は聞いたことがないので何とも言えないけど...。
マリマン虎の穴
VIVI HOUSE Marilyn Manson

 ところでその”引き金”となった銃乱射事件以来、さすがの米国も銃規制を考えざるを得ないかという議論。日本ではこれでもまだ二の足を踏んでいることが信じられないといった反応。この温度差は国民性とか言うよりは国としての成熟度の違いと思える。日本という国は、”こうした方が良い”、”これはしない方が良い”といった規範をことごとく法制化しないと秩序が保てない国のように思える。ポルノ(性風俗)とか薬品・薬物関係はもちろん、道路交通法なんか典型だ。法規制しないと自己規制能力がなく、際限なく暴走してしまうというわけだ。要するにそうやってずっと国民が過保護に子供扱いされてきたために、人々は上から指示をしてもらわないと自分を律することができなくなっているのではなかろうか。ま、国自体が50年間子供のまま守り続けてもらってるのだから仕方ないのか(いや日本の話ではなかった)。
 銃の規制については、米国では「銃は悪くない、悪いのは撃った人間だ」とよく言われるが、僕も理想的には、いくら武器が普及していても、所持する人間(市民)の良識で全く問題なく運用されている、というあり方の方が望ましいと思う。尤もそれも、小さな子供に求めるのはムリかも知れないのでその点の規制は必要だと思うが...。(ということはやっぱり”子供”である日本人には自分で判断してうまく使いなさいというのは無理な相談だろうと思うので、日本はやっぱり何でも法規制してもらわないとダメなんだろう。)簡単に人を殺せる武器が当たり前に身近にあって、だけれども平和な市民生活が営まれているというのは、”自由”あるいは”民主主義”の究極の姿のように思える。なぜなら、一人一人が自己を確立していてどのような行為も許される、しかし他者の生存を脅かすようなことはしないということを全市民が相互に信用し合わなければ暮らしていけないのだ。このようなあり方が理想と思いたい。アメリカには、簡単に銃規制を導入するよりはそのような”健全”な市民社会の姿をなんとか維持してもらいたいものだ。ま、そんな中でなら他者を傷つける武器自体がやっぱり不要なんじゃないかと思えるのも確かなのだけど、犯罪が世界一多様化しているのもアメリカだろうから、もう一つ望むとすると、やはりお上の取り締まりに依るのではなく、”健全な銃社会”によって犯罪も自己浄化できる社会であってほしい。いずれ手本にできるように。(いや、市民が自ら「銃など不要」と言えることがいちばんいいと思いますが。)
                          ('99.5.18)

 とここまで書いて思ったが、ローカルな社会に置ける”治安”に対する考え方はそのまま国家間の安全保障に置き換えられるなぁ...。ということは世界の警察国家たらんとしている米国の国内事情は国際社会における安全保障のありかたに密接に反映しているのでは?要するに銃乱射が発生してしまうお国柄の生理(病理)が、やっぱりユーゴスラビアでも展開されているのではないだろうか。
                          ('99.5.20)




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