Music Column
絵はここからもらいました。

about recent popular music scene



 私は音楽の話をする際に、”メロディーが美しくなければ音楽じゃない!”というメロディー絶対主義を提唱することにしています。音楽というものの不思議さは、単なるこの音のつながり、流れに、楽しかったり悲しかったり切なかったりさまざまな感情が引き起こされることではないでしょうか。たとえばピアノで出せる音域は7オクターブくらいあるわけですが、普通ある一つの曲のメロディー(主旋律)に使われる音の音域はまず2オクターブくらいでしょう。とすれば音階としては、12×2で24くらいしかないわけです。24個の音を、それぞれ長さも変えることが出来ますが、さまざまに組み合わせて一つの”つながり”をつくるということがメロディーを作ることなのですが、数学的な”組み合わせ”こそ天文学的な数字が出ますが、最初の音が決まると次の音は自ずとある程度の制限を受けることになりますし、そのなかでも人間に美しいと感じさせる”組み合わせ”がそれほどたくさん出来うるとは(単に頭の中だけでは)考えにくいのですが、しかし、世の中にこれほど音楽が溢れていて、古典の時代から想像できないくらいの数のメロディーが作られているにもかかわらず、いまだに我々に新鮮な感動をもたらすメロディーが出現するということに大いなるロマンと可能性を感じます。音程のつながりを人間が(空気振動の周波数変化を人間の脳が)どんな風に認識するのかなんて、すごく興味深いです(が、きっとここから先はわけのわかんない世界でしょうね)。



 と、いうわけで、メロディー絶対主義な私はここ数年(といっても90年代になってからか)の世界のポピュラーミュージックシーンにおける状況を実は好ましく思っていませんでした。というのは、単刀直入に言うと、ハウスミュージックとか、ラップ(ヒップホップとか、ニュージャックとか言うのもこの際、十把ひとからげです)の台頭によるアンチ-メロディアス(誰もそんなこと言ってないか)なムーヴメントのことを指します。一言で解説すると、メロディーなんてどうでもよくってリズム重視な曲のことです。これらは何回聞いても受け入れがたいモノがあります。しかしこれにはそれなりに、バスドラムやスネアドラムの音質に関してかなりのはやりすたりもあって(そのうちにシンセ色が濃くなってバスドラム、スネアドラムという分け方自体ナンセンスになってたりしますが)、リズムこそが重要な音楽構成要素なだけにその音質にきびしいアイデンティティーが要求されたりしている状況もあって、”こんなものはしょうもないものだ”と安易には批判できないような成長を遂げているという評価も出来ないではないです。まあこれらの音楽が、「その時代において単なる”一つのジャンル”として存在している」というあり方ならばなにも否定するものでも何でもないのですが、ことはそんなにお気楽なものではなく、アメリカではヒットチャートはすべて(これらのジャンルに)席巻されているなんて状況が、しかも何年も続きました、また日本でもバンドブームから派生したビートロックなんてぇのがはやったとこらあたりからなんだかおかしくなった、和製ラップも出てきたし・・・という事態にさすがに、”美しいメロディーはもはや死に絶えたか”と感じさせられたりして、私にとってはポピュラーミュージック冬の時代か、それにしても冬が長い、と、ただただ昔から聞いてる老骨ミュージシャンの”何年ぶりかのニューアルバム”なんてのしか聞かない年月が流れていました。まあ、一人気を吐いていたボン・ジョヴィには敬意を表しますが。そのあとのガンズと。(しかしこの反動としてアコースティックブームっていうのが出てきたとも考えているので、それほど悪いことばかりでもないかなという気もしている)
 とにかくわたしは”美しい”メロディーしか音楽とは認めたくないのです。と言い切ってはばからないのです。(実はここに少なからぬ自己矛盾を感じている点があるのですが、このことはまた別のところで)


 ところが最近、やっとそれらしい、美しいメロディーに目覚めようじゃないか!的動向が、FMやMTVから伺えるように思えます。つとに目につく(耳にする)のは、80年代のアメリカンポップス全盛時代(「小林克也のベストヒットUSA」みたいな世界)のナンバーがFMで結構かかっている(テレビでもやってるか!)という状況です。僕らが学生時代に(年がばれるが、まさに80年代前半に)テレビ、ラジオで聴いていたアメリカンポップス、ロック、さらにはヨーロッパ系、オーストレイリアン等々を再び耳にし、ああ、あのころのポピュラーミュージックシーンってなんて楽しくってカッコヨクってキモチいいんだろう!!と再認します。これは、今の時代にそぐった新しいモノ(90年代のメロディー)がなかなか出てこない苛立ちか、80'sが再びFMでかけられるという事態には、もういい加減無味乾燥なリズムばかりを聴かせられるのは飽きてきた、というDJ、あるいはディレクターの意図を感じずにいられません。(どの辺のことを言ってるのかわからない方のために具体例を挙げておくと、当時ヒットチャートを賑わせたミュージシャンと言えば、・・・マイケル・ジャクソンの「スリラー」を筆頭にビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーン、U2、10CC、ドン・ヘンリー、ホール&オーツ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、スターシップ、etc...(思いつくままに挙げたので当たってないものや重要な人を忘れてたりするかも知れません。また、大物も依然として元気良かったというのが、ストーンズ、ポール・マッカートニー、エリック・クラプトンらも現在よりは精力的なアルバムを多数出した)
 しかしこれだけでは、ジジイが単に昔を懐かしがってるだけですから、もう少し前向きな動向に目を向けると、現在も60年代70年代のサウンドやファッションを追いかける方向は懐古主義的に根強く存在していますが、それらは本質的な”メロディー主義復権”とは言えません。が、ここへきて、それら6〜70年代モノをベースにした新しいサウンドが生まれていることに注目したいということなのです。具体的にはカーディガンズとかシャンプーとかですね。でも彼(女)らについてはあんまり知らないので、詳しい解説は避けておきます!!



 さて、さらに、日本の状況について書こうと思います。上記の経過は日本ではやはりすこし違うものでした。80年代末〜90年代初期のバンドブームでは”イカ天”によって(フライング・キッズのような)間違いなくその時代を代表すべき、”カルチャー”を作り上げるパワーのあるグループが世に出ました。しかしポスト・バンドブームは喜べるものではありませんでした。”ブーム”の”燃焼”の代償のように、目に見えるあからさまな反応は、テレビで”歌”が流れなくなったということです。べつにわれわれの音楽指向、嗜好、思考がテレビに左右されるとは言いたくありませんが、テレビが世の中の音楽ムーブメントを一側面で支えている、触発していることは否定できません。そして、ポスト・バンドブームに残ったのは、”ビートロック”、”タテノリ”という潮流でした。メジャーなメディアが扱わなかったために、結果として全体的にマイナーな方向性のモノがもてはやされたという見方を私はしています。その結果としては”ビート”などと呼ばれるわけわかんないモノが、”メジャー”不在の中での一番大きなうねりだったりしたわけですけど。そして、そのような時にやっぱり地道に強く支持されるのはパンクだったりします(ブルーハーツは支持しますが)。まあ、日本には「ニューミュージック」と呼ばれる、15年以上昔から「ニュー」と言われるジャンルがあって、団塊以降の世代の”演歌”のようなポジションでもって、その辺の世代をほっと落ちつかせてくれる音楽もあるので、「きょうびの若いモンのことはワカラン」などと言い出す人にもカタルシスを与えてくれた結果、若者達はより自分たちの独自の世界に先鋭化(この場合愚鈍化かもしれないけど)したのかもしれない。(それでも実際には”ポピュラーミュージックバンザイ!”なグループも着実にいくつかは息づいていたのですけど。プリプリとか、ユニコーンとか。ユニコーンはユニコーンでスバラシイしね。)


 さて、平たく言うと、オジサンやオニイチャン達には(私は”オニイチャン”の方ですけど)数年間音楽シーン冬の時代が続きました。ヒットチャートにはそれなりにいい曲が登りましたが、一発屋やフロックで当たったというのがほとんどだったと記憶しています。そんな中、少しめずらしい、というか、懐かしいようなオトを耳にした・・・、それは、・・・THE BOOMの「島唄」でした。こいつらはいったいどういうヤツらか、とか、この手の曲を生み出した背景は、とかを気にする以前に確かにインパクトがあり、センセーショナルだったのです。Okinawan Soundは過去に幾度かわれわれは触れる機会がありましたが、それらの多くが往々にしてその民族性を前面に出すことによって注目を集めたものだったのに対し、彼らの音楽は少し違っていました。彼らには、民族の悲哀を歌う、といったような暗さがありません。いや、前者の人たちが暗いとかいうわけではなく、今までは、”本土”のポピュラーミュージックのある種の”軽さ”に比べ、彼ら(沖縄県民)が生来背負っているところの”重さ”や、島民なら誰でもが持っている”問題意識”のようなもの(勝手に我々が感じているだけかな?)を、沖縄の音階という手段が、暗喩的に、または暗黙の内に表出せしめていることが、彼らに注目を集めさせている一つの理由だったのですが、ところが、BOOMの音楽は全く種類の違うサウンドだったのです。 だいたいが、沖縄の出身かと思っていたらぜんぜん関係なかったみたいだし。今の言い方で言うと、”軽さ”と”重さ”を融合させたのです。”軽い”ということをなにも悪く語るつもりはありません。”戦争を知らない”どころか、それを二世代くらい下った”平和ボケ”ニッポン世代の”カルさ”を巧くアレンジして垣間見せただけ、確実に90年代の”メロディー”なのだと実感させるのです。


 そして、BOOMがいよいよ本物であると感じさせられる頃には、テレビでは音楽番組ブームがやってきました。ドラマの主題歌から出て、音楽バラエティーへと続くという、テレビがマジョリティーに受けるフォーマットで送り出すものは、やはりマジョリティーに支持されるのでした。これらは、単にメディアに作り上げられた”幻想”のようなもので終わるのではないかという危惧も持たれたところへ、やはりメジャーな舞台が用意されればメジャーな支持を受けるサウンドが登場するのでした。
 スピッツというそのバンドは、今までにない、頼りない声、線の細いサウンドで、歌謡曲!っぽいの?とか思わせながら、じつはよく聞くと頼りないのではなくて、心の不安定さというか、不安感、さみしさのようなものを、線が細いというよりもその表現の繊細さを、さらにはそれらを、シンプルでありながら不思議にその不安さや繊細さに非常にマッチした魅惑的なメロディーでもって綴ってくれたのです。今日も私は「チェリー」を聞きながら何年も昔から味わえなかった、”胸がキュンとさせられるメロディー”にいつまでも浸っていたい気分になっているのでした。  私が加入しているローカルのBBSで、現在のニッポンの音楽がタダの西欧のコピー文化に過ぎない、といって現状への危惧を露にされる方がいらっしゃいましたが、このサウンドだけは、ニッポンのロックにしかできないセンシティブなサウンドなのだと、胸を張って言いたいと思います。

ちなみにこの曲「チェリー」のコード進行は、
イントロ |C G|Am F|繰り返し
うた   |C|G|Am|Em|F|C|F|G|
     |C|G|Am|Em|F G|C Am|F G/F|C|
サビ   |AmEm|FC|AmEm|FC|AmEm|FC|AmEm|
     |F(Em7・D)C|
(ほぼあってると思いますが、一部ケーデンスの部分(おっとマニアックで失礼)などはもう少しテンションが入っていたりするかも知れません。あしからず。)
という、皆さんも中学校の時にギターなどで押さえたことのあるごくありふれたコードネーム達で構成されています。ここに私はさらなる驚異を感じずにはいられないのです。なにか曲を作ってみようと試みたことがある方なら、今までにない新鮮な響きでしかも親しみやすい、あるいはカッコいいメロディー、というのがそう容易には出来ないことは実感しているでしょう。なんかどっかで聞いたことあるようなのになっちゃいます。それ故、リズムや使われるコードに少し変わった要素を取り入れようとしたりコードはやたらテンションの多いむずかしいものになったり、コード進行を通常ないようなものに変えてみようと試みたり、とにかく今までにないものをなんとかひねり出そうとします。しかし、スピッツの曲を聴くと、そんな風に、曲作りに策を弄することがいかに愚かな、はしたないことであるかを痛感させられるのです。(まさにこれを言いたいがためにここまで書いたといって過言ではありません。)いまだに、こんなに簡単なコード達だけで、こんなにもすばらしいメロディーを作ることができるのです。音楽のフトコロの深さをしみじみ感じますね。(音楽はやっぱりアイディアや頭でするものではないです。才能や感性がさせるのですね。)ここに再び歓声を上げたいと思います。「ポピュラーミュージック、バンザイ」です。



ちなみにBOOMのブラジル公演なんてしなくてもいいのに、ポルトガル語?で「風になりたい」歌うのもやめてほしい。名曲が台無しだ!



 じつはこれは、春頃、それこそチェリーを聞いた頃から考えていたのですが、時機を逸して今日になってしまいました。ちょっと遅きに失したカンジ!






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