遅いぞ、B場さん!(武蔵風)
 平成15年5月17日(土)午前11時40分、山口県徳山駅北口。幹事のO嶋は心配していた。まだあと2人来ていない。もう集合時刻11時30分を10分も過ぎていた。既に、M月さん、Kさん、M重さん、N里さんは来ていた。M留さんからは30分前に少し遅れるとの連絡が入っていた。B場さん、一体どこで何をしているのだろうか。O嶋は、Kさんと一緒に改札口から身を乗り出すようにして、来るとすればここから来るであろう乗降階段の方を不安げに眺めていた。もしかして、当初の集合場所だった小郡駅に行っているのでは、乗り遅れたのでは、1週間前に送ったメールの返事が無かったし、メールを見ていないのでは、等々、様々な不安が脳裏をよぎった。と、その時、全く逆方向の送迎用駐車場の方からB場さんとM留さんがM重さんに連れられてやってきた。
 訳を聞くと、どうも新幹線を降りた後、新幹線口(南側)に出てしまったらしい。O嶋は、集合場所を徳山駅の北口にしていたが、実際には北口という表示がなかったので迷ったらしい。北口(在来線口)と伝えていれば大丈夫だったかもしれない。M留さんもB場さんも同じ行動パターンをとったらしく、幸いにも2人が新幹線口でばったり出会ったので、気を取り直して何とか反対側の在来線口にたどり着き、M重さんの姿を見つけたらしい。とりあえず全員集合したので、N里さんとM重さんの車に乗り合わせてフットサルコートに向かうことになった。
 
 
アウェイの厳しさ
 みんなが到着したとき、そこには既に美人の奥さんを連れ立ったK畑会長の姿があった。鹿児島からはるばる乗用車で駆けつけていた。ただ、その車が軽自動車であったことには、皆びっくりさせられた。
 今回は、O嶋が所属する地元チーム「フジヤマ」との試合が企画されていた。自治大フットサルクラブ(以下「自治大FC」と記す。)は、基本的に対外試合に関してはドイツ大使館としかやったことがなかった。国内チームとは初めて。しかもアウェイ。自治大の頃からだと5年ぶり、前回の静岡大会からだと3年ぶりの試合だった。5年前は、無謀にもドイツ大使館に試合を申し込むようながむしゃらな気力と体力があったが、今はそういうわけでもなかった。練習不足もあるが、まあ楽しくケガなくやれればいいといった感じだった。一方、フジヤマは山口県職員を中心とした女性1人を含む同好会的雰囲気のチームであった。初心者中心だが、毎週練習しているためか、それなりに体は慣れていた。試合前のフジヤマの練習風景を眺めていた自治大FCの面々は、正直怖じ気づいていた。O嶋は、「そんなに実力差はないので心配ない。」と言うのだが、K畑会長までが試合前から弱気な発言をこぼすのであった。
 いざ、試合が始まってみると、その精神的な不安が的中し、最初から大量失点を許す展開になってしまった。言い訳になるが、旅路の疲れが原因の1つであった。試合は、10分間ゲームを休憩を挟んで何回か行う形で進んでいった。最初、自治大FCの面々はすぐに息が上がってしまい、動けなくなって交替を繰り返していた。しかし、ひと汗かいて体が次第に慣れてくると、3連続得点を契機に6−3まで追い上げた。やっと、往年のストライカーK畑、M月、B場さん達のエンジンがかかってきたなという感じがしてきた。
 しかし、疲れは予想していた以上に早くやってきた。相手チームもだんだん疲れのために動きが鈍くなっていたが、それ以上に自治大FCの衰えが早かったので、点差は開く一方になった。14時過ぎに最後のゲームを終えた時には、スコアを覚えている人間は誰一人としていなかった。ただ、ドイツ戦の時ほど点差は開いていないだろうということだけは何となくわかった。
 自治大FCは、結果はともかく、打ち上げのため下関に向かった。M重さんの車には、M月さん、M留さん、O嶋。N里さんの車にはB場さん、Kさんが乗った。余談だが、途中、K畑会長がコートに靴を忘れたことに気づき、後で宅急便で送ってもらうことになった。何かしら未練が残った試合であったことを暗示しているかのようなできごとだった。ただ単に疲れていただけなのかもしれないが。
 
関門海峡を眺めながら
 午後4時30分には、海峡ビュー下関という国民宿舎に到着した。フットサルと旅路の疲れをいやすのは、やはり温泉に勝るものはない。とりあえずみんな風呂に直行した。湯船からは、本州と九州を結ぶ関門橋を一望することができた。こうして、海峡を行き交う船を眺めながら、ゆっくりと湯船に浸かっていると、さっきの試合の結果も、日常の些細なできごともどこかにふっ飛んでいってしまうのであった。幹事のO嶋とM重も、5時30分頃には2次会の買い出しを終え、ゆっくりと湯船に浸かりながら「こうしておるんが一番ええねえ。(山口弁)」と至福のときを過ごしていた。と、そのとき、突然サウナからM月さんとB場さんが出てきた。O嶋は、時間的にみんな風呂から上がっていたとばかり思っていたのでびっくりした。話を聞けば、フットサルで疲れた体にいいということで、K畑会長に言われたとおり、サウナと水風呂を交互に繰り返して入っていたらしい。さすが、試合後の体のケアも怠りない2人であった。
 
ふぐ三昧
 打ち上げは午後6時からだった。佐賀のY下さんは、家族とともに打ち上げから合流していた。料理は1人○万円のふぐフルコース。夕暮れの関門海峡をバックに、次々とふぐ刺しが敷き詰められた大皿が運ばれてきた。これを今から食べるのである。1人で大皿の半分又は3分の1を食べてもいい計算である。まさに夢のような体験である。そのうち、みんなふぐ刺しの食べ方についてあれこれルール(規則)を提案し始めたが、条例や要領といった約束事を決めることの多い公務員の職業上の性癖というよりか、やはりふぐを目の前にして気持ちが高ぶっているようなそんな感じであった。特に関西の2人は、ふぐ刺しの厚みに驚いていた。大皿に描かれた模様が見えないくらい厚いのである。 打ち上げはK畑会長の乾杯で始まった。会長は、鹿児島からいも焼酎1升を差し入れに持ってきていた。これは文句なしにうまかった。ふぐ料理にもぴったりだった。料理は、唐揚げ、鍋などいろいろと出てきたが、食べ慣れない魚なので、みんな戸惑っていた。ふぐの身は意外に骨や軟骨にこびりついているので、食べにくいし、どこまで食べたらいいのかわからないのである。ふぐ料理をつつきながらいろいろな思い出話が弾む中、K畑会長が卒業時に寄せ書きしたサッカーボールをみんなの前に披露した。これまでK畑会長が大事に保管していたのである。このボールを見ると、有栖川公園での早朝練習やコリー犬のこと、自治大体育館での紅白試合、ドイツ大使館戦、神宮プールでの紅白試合のことなどが走馬燈のように蘇ってくるのであった。
 
和室にて
 K畑会長と奥さんは、今晩は門司に泊まるらしく、1次会で別れることになった。残りのメンバーは、和室でゆっくりくつろぐことにした。みんな昼間の試合の疲れが出ているせいか、酒の進み具合もゆっくりだった。ただ、試合に参加しなかったY下さんだけは元気を持て余していて、次の日のことも考えずにK畑会長が持ってきた焼酎を思いっきり飲んでいた。一方、試合中最も動きがよかったN里さんは途中で眠りこんでしまった。11時30分には、みんな眠くなったので寝ることになった。
 
厳流島に渡る
 朝は、ゆっくり朝風呂に入り、朝食バイキングで腹ごしらえをした。9時過ぎにチェックアウトして、厳流島に向かった。島へは80人乗りの渡し船が出ていたが、NHKの大河ドラマ「武蔵」のせいか観光客でごったがえしていた。島には、急ごしらえの遊歩道と銅像があり、銅像の前で記念写真を撮る以外にこれと言ってすることはなかった。みんな昨日の今日なのでゆっくりと散歩を楽しんでいたが、1人だけ様子が違っていた。Y下さんだけは青白い顔をして全く元気がなかった。焼酎の飲み過ぎだった。そのうち、いつのまにかみんなと家族をほったらかしにしてどこかに消えてしまった。しばらくしてすっきりした顔で戻ってきたが、みんなに「海に撒き餌でもしてきたんだろう。」と言われ、黙ってうなずいた。O嶋が、「厳流島でそんなことをした人はY下さんぐらいだろう。」と茶化して言うと、ばつの悪い顔をして笑った。
 
また会う日まで
 島から戻った後、解散することになった。Y下さん家族と別れ、M重さんがM留さんを下関駅まで送り、N里さんがKさんを人道入り口まで送ってそのまま帰っていった。Kさんは人道を歩いて門司まで行くらしい。M重さんが戻ってきて、B場さんとO嶋を下関駅まで送り、最後にM月さんを小郡駅まで送っていった。こうして第2回山口県大会は無事終わった。
 思うに、久しぶりに会う瞬間の喜びはひとしおだが、こうしてまた別れていく瞬間は何ともいえない寂しさがつのるものである。卒業のときもこんな感じだったような気がする。120数名が、だんだんと細切れになって帰途についていく。みんないい大人だから顔には出さないが、子供の頃、夕暮れ時に仲のいい友達と別れて家路を急ぐときのような、もっと一緒に遊んでいたいような寂しい気持ちになっていたのではないだろうか。
 次回、また会える日が今から楽しみである。B場さん、よろしく。