紅迷遊園 題字


「紅楼夢」────
中国清代(1791年発刊)の口語小説、従来より熱狂的愛読者が多く、この書に取り憑かれた人を「紅迷」と呼びます。

華やかさと繊細さ、風雅と世俗、純情と諧謔、現世と夢幻。
多種多様の人間と神仙が、四季の移ろいの中で、笑いさざめき、嘆き憂える・・・
歳月が過ぎて人は去り、栄華は色褪せ、詩稿は空しく風に散る。 





   「黛玉の死」滝平二郎 「紅楼夢」(曹雪斤 作) 盛光社

私が紅楼夢と出会ったのは中学時代。図書館で偶然手にとった、いまでは幻の盛光社版。これはジュビナル版だったので「艶書」と言われるような嫋々連綿とした心の丈や、一夫多妻の家庭の様子、不倫の末の縊死、それとなく触れられた男女の道などは一切カットされていて、主に主人公の純愛悲恋物語と神仙境の物語がミックスされたような趣のある何とも不思議な香りのする本でした。

剪紙風の挿し絵は滝平二郎氏の手によるものでした。白黒のコントラストと妥協のない線が斬新で、それまで中国ものの小説と言えば「西遊記」や「三国志」程度しか知らなかった私に、中国文学の静的な一面を教えてくれました。
その後、現在に至るまでに平凡社版(伊藤漱平訳)、集英社版(飯塚 朗訳)講談社版、岩波文庫版(ともに松枝茂夫訳)などを何度も読みかえしてきました。文学部を選んだのも紅楼夢を原文で読みたいがためでした。(結局、中文には進みませんでしたが)
その魅力を一言で表すのは難しいのですが、敢えて言うなら物語の二重構造と登場人物の魅力的キャラクター、横溢する叙情的な文学性とでも言えましょうか。

特に主立った女性達の性格描写はまさに近代のフランスの小説を思わせる巧みさ。
読者の感情移入を誘うヒロインの憂い、人々は大きな運命の糸に操られながら、栄華きわまる所に生じる悲哀と、徐々に忍び寄る衰退の影の哀しさ。それらが読者の心の琴線を震わせて、寝食を忘れるほどにのめり込む「紅迷」を生み出したと言います。

       
「紅楼夢」またの名を「石頭記」

石頭そもそも物語の始まりは、神話時代の女帝、女氏(じょかし)が岩を鍛えて天の破れを繕ったときのこと。
大荒山(たいこうざん)の無稽崖(むけいがい)で高さ十二丈、四辺が二十四丈もある大岩を三万六千五百と一個鍛え上げて、そのうち一個だけが残ったので、この山の青峯(せいこうほう)に捨てたところから始まります。ところがこの岩、天を繕うために作られただけあって霊性を備え、役に立てなかった我が身の不運を日夜嘆いていました。
そこへひょっこり現れた二人の僧と道士が石の下で人間界の栄華富貴の話をするに及び、この石、我慢ができずに声を掛け、どうか人間界に連れて行ってほしい、栄華富貴を味わいたいと頼み込みます。
僧と道士は、楽しみの絶頂に悲しみが湧き、人は死に、畢竟全て夢、万堺は空、と諭しますが石の決意は変わりません。そこでこれも定めと、大岩を透き通った美しい玉に変え「通霊宝玉」となして人間界に下ることになりました。この石は紅楼夢の主人公、賈宝玉(かほうぎょく)が生まれながらに持っている玉となり人生の離合の哀感を十分に味わった末に、また天上に還りその顛末を語ることになります、紅楼夢はその石の物語を記したものです。

もう一つの天上の話

西方は霊河のほとり、三生石のかたわらに絳珠草(こうじゅそう)という霊草がはえていました。そこに赤瑕宮(せっかきゅう)の神瑛侍者(しんえいじしゃ)が来て毎日甘露を濯いで育てたので仙草は女人の姿をとることができるようになりました。いつも離恨天の外に漂ってあそび、蜜青果を食べ、濯愁海の水を飲むという仙女になったのです。
ところがどういう気の迷いか神瑛侍者が人間界に下るというのを聞いて、この絳珠仙女、今まで濯いでもらった甘露の恩に報いていないのを心苦しく思っていたので太虚幻境(たいきょげんきょう)を治めている警幻仙姑(けいげんせんこ)に、自分も人界に下って一生の間に流せるだけの涙をそのお返しにしたいとお願いしてともに転生します。

これを聞いた他の薄命司の仙女達もわれもわれもと大勢が下界に下ることとなりました。 神瑛侍者の転生である賈宝玉と絳珠仙女の後身の林黛玉を中心に多くの仙女の転生の女性達が彩なす物語が紅楼夢なのです。

現実的物語の推移

物語は全百二十回を大きく四部に分割した構成をもちます。
第一部  
舞台となる長安の大貴族賈家、そこの御曹司宝玉は一家の長である祖母、史氏の寵愛を一身に受ける眉目秀麗なる貴公子。口に透き通った「通霊宝玉」を含んで生まれた主人公で物語の狂言回し役。
ここに父方の従妹、林黛玉(りんたいぎょく)、母方の従妹、薛宝釵(せつほうさ)を初めとして多くの美貌と文才を持った姉妹、侍女が加わります。しかし華やかな暮らしの中にも、行く手に立ちこめる暗雲と悲劇的結末について既に暗に示しています。

第二部 
貴妃として入内している宝玉の長姉、元春(げんしゅん)が里帰りする事になり賈家は大観園という大庭園を造営し、この世に仙境を作り出します。
その後宝玉をはじめ金陵十二釵と言われる女性達はこの園に住んで、連日宴を催し詩才を競う風雅の暮らしをします。黛玉と宝玉の木石縁による微妙な恋愛感情や女達の憂愁、嫉妬など細やかな心理描写は近代フランス文学を思わせます。

第三部   
栄華の絶頂に既に見えていた衰退の影、ある者は他家に嫁ぎ、ある者は不始末から園を追われ、病改まって死ぬものも出て、諸方離散、悲劇到来の足音が聞こえてきます。 


象徴的結末

第四部は物語の終焉。さしも栄華を誇った栄・寧両賈家も元春妃の薨去と共に内部から崩壊を始めます。
宝玉らに私怨を抱く父の側室の謀反がおこり、宝玉の守り玉が紛失します。惚けたようになった宝玉に心を傷める黛玉、しかし宝玉は金玉縁のある宝釵を娶る、という心ない軽口を漏れ聞いて、世を儚んだ黛玉は胸の病が重くなり、ついには宝玉と宝釵の婚礼の時に息を引き取ります。

元妃の薨去により一族の汚職をはじめ傲慢に振る舞ってきた人々の不祥事が露見して家産を官に没収されます。史後室はついに悲嘆のうちに儚くなります。
霊玉が仙界に戻るおりに、一時的に離魂の状態になった宝玉は再び薄命司に赴き、以前は見てもわからなかった十二釵等の運命を記した帳簿を見て、己の周囲に張られた宿命の大きなシナリオをやっと悟ります。

失踪から戻って、その後人が変わったように学業にいそしんだ宝玉は挙人で第七席合格を果たすも、行方知れずとなってしまいます。家族の悲嘆は例えようも無いものでしたが、後に僧形となった宝玉は遠方の任地にいる父親にいとまごいに現れます。
追いすがる父親の耳に、二人の僧と道士の声が聞こえてきます。「はや、俗世との縁もこれまで・・」 こうして宝玉は太虚に戻り、かの玉ももとの如く青峯の麓に収まることなります。
年月が経ち、この石の下を歩いた空空道人という人がこの岩の表面に書き記されている物語を一部始終書きとって世に表したのがもとの名「石頭記」、つまり「紅楼夢」です。


究極のフェミニスト、賈宝玉

賈宝玉賈家栄国邸の若君。神瑛侍者の幻身として、口中に通霊宝玉を含んで誕生しました。祖母史太君の寵愛を一身に集めて、何不自由なく育った利発な貴公子で、この物語の主人公。
しかし世間で重きを成す科挙に向けての学問を形だけの物として故意に無視します。この世でいちばんきれいで尊いものは女の子だと言って憚らず、姉妹や侍女達に取り囲まれて大観園では怡紅院(いこういん)に住んで書斎の名を絳芸軒(こううんけん)と号します。どの侍女達にも分け隔てなく優しく接するので彼をにくく思うものは一人も居りません。
美しく繊細で怜悧な黛玉を心から愛しているのですが狷介な黛玉はついあらぬ方へ想像を逞しくしては意固地になるところがあって、感情と行動の齟齬に悩みます。二人は常に自分の心に正直であろうとしながら誤解し、和解し、また行き違いし、これを繰り返しながら時の経過と共にお互いの存在を深く心に据えていきます。
しかし天機の定めによって二人は現世では結ばれ得ない間柄でした。黛玉は病篤くなり、通霊宝玉の失せた宝玉は祖母や父母の謀で、宝釵と結婚させられてしまうのでした。

  金陵十二釵と呼ばれる女性達
林黛玉 林黛玉(りんたいぎょく)

この小説のヒロイン。実は珠草の化身。進士出身の官僚である林如海の愛娘で年は賈宝玉の一歳年下、父方の従妹に当たります。多愁多病で神経質ながら才貌共にすぐれた少女。母の死を機にその実家の賈家栄国邸に引き取られます。
大観園では瀟湘館(しょうしょうかん)に住んで「瀟湘妃子」(しょうしょうひし)と号します。
鋭い感性の持ち主でそのため必要以上に些細なことにも気をもんで、内向的性格のために却って人から狭量だと誤解されたりします。愛している宝玉にまで心と裏腹な突き放した態度をとったりもして、その後結局後悔してまた嘆くことになります。 後見の無い我が身を嘆き、宝玉を慕いながらも、宝玉と宝釵の持つ護身符の「金玉縁」を前世からの定めと諦めて、身を引こうとします。
しかしそんな黛玉を宝玉は愛し続けます。二人の定めは「木石縁」で、この世では決して成就しない恋だったのです。
命と引き替えにするかのように黛玉は多くの歌を詠みます。「葬花歌」「海棠歌」「桃花歌」などどれをとっても冴え冴えと華やかで悲哀に満ちています。宝玉を慕って病床にあり、宝玉が瞞されて薛宝釵と結婚の式を挙げているとき寂しく息を引き取ります。                    
薛宝釵 薛宝釵(せつほうさ) 

賈宝玉の母方の従妹に当たり、聡明で重厚な人柄。才貌は林黛玉に匹敵します。
母と兄の薛蟠と共に上京して宝釵は大観園の[草衡]蕪苑(こうぶえん)に住みます。号は[草衡]蕪君(こうぶくん)。才徳兼備の人柄で結局賈家の人気も宝釵に集まり史大君に気に入られて宝玉の妻となります。
史湘雲 史湘雲(ししょううん)

両親を幼時に失い、叔父に養われています。賈の後室はその従祖母。
叔父の地方官赴任中、賈家に引き取られて他の姉妹達と大観園で何不自由ない暮らしを送ります。
不幸にもめげぬ快活で近代的な気性の少女。宝玉の玉と対になる金の麒麟をもっていて、暗に「金玉縁」と言われます。
後に良縁を得て衛若蘭(えいじゃくらん)に嫁しますが、若くして夫に死別してしまいます。
賈元春(かげんしゅん)    

宝玉の長姉。才徳すぐれ、宮女に召されて貴妃として入内します。賈家にあるときは宝玉をかわいがり自ら手を執って文字を教えた間柄。
親省の際に記念に大観園が作られますがこ幸少なく病を得て早くに薨去します。
賈迎春(かげいしゅん)   

栄国邸当主、賈赦の娘。優柔で事なかれの性格。
大観園では最初綴錦閣(てっきんかく)に住み、後に紫菱洲(しりょうしゅう)に住まいします。
温柔だが成見なく、孫家に嫁しますが後に夫に虐待されて病死します。
探春 賈探春(かたんしゅん)    

宝玉の異母妹(生母は側室)聡明でしっかり者。賈大観園では秋爽斎(しゅうそうさい)に住みますが、都を離れて遠い周家に嫁がされます。

賈惜春
(かせきしゅん)      
寧国邸当主、賈敬の娘。大観園では藕香[木射](ぐうこうしゃ)に近い蓼風軒(りょうふうけん)に住みます。絵に巧みで大観園の風物を描くが孤介な性格で結局は出家して尼となります。
王煕鳳 王煕鳳(おうきほう)    
賈lの妻。賈政の奥方王氏の姪に当たります。男勝りの気性の持ち主で史後室のお気に入りで、奥方の信頼もあって栄国邸の奥向きを切り回す辣腕家でしたがいささかやりすぎて人の恨みを買い賈家衰運の中で亡くなります。
秦可卿 秦可卿(しんかけい)        
賈珍の息子賈蓉の妻。心優しい美女で黛玉、宝釵の双美を兼ねた佳人ではありますが、情にもろく舅珍との情事を女中に目撃されて恥じて縊死します。宝玉に雨事を手ほどきしたともいわれています。
[糸丸](りがん)     
宝玉の亡き兄、賈珠の妻。未亡人で貞淑な賢母。大観園では稲香村(とうこうそん)に住み姉妹達の監督に当たります。温厚な人柄で一粒種の賈蘭は後に宝玉と共に郷試に合格して賈家再興を果たすことになります。
妙玉 妙玉(みょうぎょく)     
賈家とは血縁はありませんが大観園の[木龍]翠庵(ろうすいあん)に住む美貌の有髪の尼僧。
読書人の家に育ち文筆に長じていますが正確は狷介。
宝玉を慕いその煩悩に苦しみますが賈家没落後に盗賊に拐かされて、その後生は
巧姐(こうしゃ)      
lと煕鳳の娘。賈家没落に際し、叔父達の食い物にされようとしましたが栄国邸に出入りしていた劉婆さんに助けられて結局婆さんの田舎で周という農家に嫁して生き延びます。
 色を添える侍女たち

紅楼夢の魅力の一つはその多彩な登場人物にあるともいえます。老若男女貴卑賢愚、実にさまざまな人々が登場します。
中でも上記の金陵十二釵や史太君に仕える侍女たちはキャラクターもしっかりと書かれており、ストーリー上も脇を固める重要な役割をになっています。