結城秀康・三将図(武生市指定文化財)

結城秀康は、天正2年(1574)に徳川家康の次男として生まれ、はじめ豊臣秀吉の養子となり、さらに同18年、秀吉の命により結城晴朝の養子となり、結城氏(茨城県)の家督を継ぎました。慶長5年(1600)関が原合戦の効により越前国68万石に封ぜられました。このとき秀康に随って越前に来り府中(武生)の地を与えられたのが龍泉寺再興本多富正であります。
慶長12年4月8日、秀康が34歳で病没すると、重臣の土屋正明(大野城主3万8千石)と永見長次(1万3千石)が殉死いたしました。
秀康は、本来豊臣家を継ぐべき立場にあり、また家康長男信康切腹後、江戸幕府2代将軍にもつくべき立場にありながら、なぜか家康からは忌避された悲運の武将でありました。
本図は141.5cm×106.5cmという大幅で、秀康を中央に、下部向かって右に土屋正明を、左に永見長次を配し、三者ともに甲冑を着用した軍陣影であります。三者の上に賛をしているのは、龍泉寺第213世で秀康葬儀の導師を勤めたといわれる舜国洞授和尚(結城家・松平家菩提寺の孝顕寺開祖)であります。
本図は三者死後まもなく描かれていることから、極めて写実的なものといえます。後に本多富正が自らの廟所を龍泉寺とした理由の一つに、舜国和尚が輪番住職を勤め秀康葬儀の導師をした経緯も存するものと推測されます。

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