ぱんだが我が家へきた事情

新婚旅行は中国の上海−蘇州−抗州−桂林でした.昭和天皇の倒れた年,天安門事件の前の年と言えばだいたい時期がわかるでしょう.毛沢東すでになく,ケ小平の時代といえる当時の中国は“最もいい時期”だったと思います.近代的な建物の壁によしかかってバラックが建っているというアンバランスを各地で見て戸惑いながらも,多くの人がひしめいているエネルギーにはすなおに脱帽でした.昭和2030年の日本がこんな感じだったのでしょうか.

で,ぱんだのはなし.抗州での宿泊先は抗州飯店でした.このホテルの売店(外国人向けの土産物)に入っていくと,誰かが見ているのです.シルクや骨董・美術品などではなく誰かが私を見ているのです.ふと気が付くと棚に座ったパンダの“手遊び”.真っ白なふさふさした毛皮のなかのボタンの目がこっちを見ています.日本にあるような化学繊維ではなく,おそらくウサギの毛皮でしょう,手触りはふわふわです.たしか80元だったから,80×40円=3200円.私は彼の視線に負けて日本へ連れて帰ることにし,彼は我が家の子供になりました.

中国といえばパンダで,その後桂林の動物園で本物のパンダに会いましたが,遠くの部屋できたないおしりをこちらに向けてトドのように寝ているだけでした.がっかり.

我が家の長男“ぱんだ”ですが,しばらくは幸福な日々をすごしました.旅行やスキーにも行きました.お洋服も作ってもらいました.ただ,翌年計画した再びの中国行きはかの天安門事件で流れました.我が家の長男はお嫁さんと巡り合う機会を失いました.

失意の彼にまた不幸が降りかかります.毛皮ということは“ぬける”“破れる”ということです.数年後新たな天敵たちが我が家に訪れます.子供たちです.子供の愛情表現には手加減というものがありません.幼いうちはよだれをたらされ大きくなると振り回されます.ふたりで平気で取り合いをします.今では私同様毛は擦り減り,黒と白の毛皮の縫い目は大きく口をあけ,当時のふさふさ頭は見る影もありません.生活の苦労が忍ばれます.もうお嫁さんがきてくれるような姿ではありません.

いまではぱんだは本棚の中に収まっているはずなのですが,ときどき妻子の布団にいます.このパソコンは彼からとって“ぱんだ”と命名.また,アドレスのPANPAは,幼い子供はなかなか“ぱんだ”と発音できずに“ぱんぱ”と発音します.このフレーズが気に入ってPANPAとしました.

去年我が家のぱんだは南紀白浜で本物のパンダと面会しました.でも,パンダがつがいだったのがショックでまた毛が薄くなったようです.

好物はささだんご

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