おばあちゃんの入院
96年秋に、市から補助を得て、トイレを改装することになりました。
これは、”ぼけ”という理由ではなく、今から約15年ほど前に、おばあちゃんが、股関節骨折をしたときに、
人工の骨を入れており、それが、障害者になるのでは・・・ということで、申請しました。
実際は、障害者手帳を取得していなかった&おばあちゃんがいつもは「足が痛い」と言っていたのに、
市の職員の方がおばあちゃんの障害の程度を見に来たときに限って「足なんて痛くない」と、言ってしまった
ために、補助を受けられないかと思っていたのですが、なんとか一部を援助してもらい、
和式トイレから洋式トイレに替え、手すりを3カ所付けました。
「こんなことをしてもらっていいのかな・・・」と内心思っていたのですが、
これが、半年後には、「こんなことしてもらってよかった」と、なりました。
ちなみに、障害者手帳も申請して、4級障害者の認定を受けました。
97年春、おばあちゃんを誘って近所の公園(歩いて約15分くらい)に花見に行きました。
桜はまだ咲いておらず、肌寒い日でしたが、おばあちゃんも満足した様子でした。
でも、その散歩が私との最後の長距離散歩となりました。
その2週間くらい後、近所で建物の取り壊しがあり、おばあちゃんが見に行き、帰りに道の真ん中でけつまずきました。
その時は、自分で帰ってきたのだけれども、夜になって「足が痛い足が痛い」と言い出しました。
母親は、「捻挫じゃないのか」といって、おばあちゃんの言っていることにまともに取り合いませんでした。
いつも「足が痛い」と言っていたので、「狼少年」ならぬ「狼おばあちゃん」となってしまっていたのです。
今度は、家で転びました。そしてその晩、
ずーっと「足が痛い」と言っていたので、私は、眠ることもできず、一晩中おばあちゃんの足をさすってあげていました。
「おおきんのー、おおきんのー」(ありがとうの意)と言ってくれたときには、
「やっぱり、まともなんじゃないんか」と思ったりもしました。
翌日、母が病院へ連れていったら、股関節(以前骨折した方じゃない足)と反対側の膝が骨折していました。
そして、約3ヶ月の入院。
年寄りは、骨の付き方が遅いためか、骨折箇所に、ボルトをいれてつなぎました。
それからが、大変です。
母親は、病室に泊まることもあまりできず(というか、病室にそのようなスペースがなかったため)
朝、昼、晩、食事の頃になると、病院へ通っていました。
頭が、まともな人だったら、ほっといてもいいのでしょうけど、おばあちゃんは、ぼけているので、
ただでさえ歩けなくて、看護婦さんに手間をとらせているのに、
それ以上におかしなことをするものですから、やはり、家族が付いていなければいけません。
最初は、トイレに連れていくこともできなかったので、いつも管を入れていました。
すると、おばあちゃんは、その管が気になるのか、とってしまい、結んで、ベッドの横にくくりつけていました。
他にも、点滴の管を抜いてしまったりしていたので、かわいそうでしたが、管を体の中に入れているときは、
ベッドにくくりつけられていました。
でも、そのくくりつけれられているひもを器用にはずしてしまうこともたびたびでした。
最初は、看護婦さんの目のよく届く病室にいれられていました。
しかし、たまたま、母親の友達のお姑さんが、危篤で入院され、おばあちゃんのいたところに入ったため、
おばあちゃんは、別の病室に移されました。
その病室は、意識のない人たちばかり(それも男の人ばかり)で、おばあちゃんがよく騒ぐ
(といっても、家にいたときと同じ「家に帰らなきゃ」とかまぬけなことを言っていたのですが)ので
その人たちに、”迷惑がかかる”&”おばあちゃんがそのような人の中にいる”のは、かわいそう
ということで、また、別の病室に変わりました。
その病室には、退院するまで、いました。
そこの人たちには、よくしてもらったと思っています。
おばあちゃんに、ベッドの上で、タオルをたたんでもらったことがあります。
私と違いおばあちゃんは、ちゃんと端と端をあわせて、タオルをのばしながらたたんでいきました。
それを見た同室の患者さんたちは
「ぼけの人でも、ちゃんとたたむんだ」とおっしゃって、びっくりされていました。
それまで、彼女たちが思っていたぼけとは、おばあちゃんは、違っていたようです。
おばあちゃんは、入院する前、洗濯物をたたむのを家で任されていたため、そのようなことは、お手の物でした。
聞くところによると、デイサービスでも、そのような仕事を任されていたようです。
おばあちゃんは、日に日に食事を自分で食べようとしなくなりました。
病院の食事がまずかったのか、それとも、
食事をする−>トイレに行きたくなる−>でも、一人では行けない−>だったら、食事をしなければいい
と、思っていたのか知りませんが・・・
でも、人に食べさせてもらうと、口を開けました。
ある日、母親がおばあちゃんの食事の時間より少し遅れて病室に入ったときのことです。
同室の人に、まさに食べさせてもらおうとして口を開けているおばあちゃんを見たときは、情けなかったと言っていました。
身内ならともかく、他人にまで、平気で食べさせてもらうとは、恥じらいもなくなっているようでした。
おもしろいこともしていたようです。一番、私がうけたのは、
隣の人が、看護婦さんに湿布を替えてもらっている。
自分も足に何かをはらなきゃいけない。そうだ、台の上にバナナがある。バナナの皮を貼ろう。
(その時には、おばあちゃんにはバナナの皮が湿布に見えていたと思われる)
と、足に張り付けていました。看護婦さんが注意をしても、はがそうとしなかったようです。
で、おばあちゃんが忘れた頃にバナナの皮を足からはずしたそうです。
おばあちゃんは、口がうまく、よく人を誉めていました。
介護をしてもらっている看護婦さんの体格を誉めるのに、おばあちゃんは純粋に
「いい体しているの〜」と言い、(実際にがっちりとした体格をしていた)
彼女は、「ありがと」と言いながら、ちょっと複雑な表情をしていました。
ほかにも、いつも掃除をしてくれる人(掃除婦さん)には、
「掃除が上手やの〜」と言って、彼女をご機嫌にしていました。
実際、彼女は、母親に「気が滅入っているときは、おばあちゃんの部屋から掃除をして
おばあちゃんに誉めてもらって、機嫌をよくしてから他の部屋を掃除する」と言っていたそうです。
あと、入院する前から、私によく「給料いくらもらうの?」と聞いていたため、
私は、適当に「1万円」と答えていました。
すると「ぎょーさん、もらうんやの」と、いつも同じような驚き方をしていました。
それは、私が孫だから、もし給料が少なければ、おこずかいをやろうか、という意味で聞いているのかと思っていました。
しかし、私の思い違いでした。
看護婦さんにも、同じことを聞いていたのです。
おばあちゃん「いくらくらい給料もらうんや?」
看護婦さん「少ないんやって」
おばあちゃん「上の人は、誰なの?私がもっと増やせって言ってあげる」
私の目の前でそのような会話をしたので、恥ずかしくなり、看護婦さんに謝り倒しました。
でも、その看護婦さんは、冗談の通じる人で、おばあちゃんの方にも悪気がないのを知っていたので、
別になんとも思っていなかったようです。
おばあちゃんは、家族の顔と名前は、私以外はよく間違えていました。
しかし、滅多に会わない親戚の名前と、どこに住んでいるかは、覚えていました。
神戸の親戚(私にとっては、大叔母にあたる人)が、見舞いに来たときのことです。
「よく、神戸から来なったの。台所は、女中さんに見てもらってるんか?」
(現在は違いますが、数十年前は、その親戚の家には、女中さんがいた)
と、挨拶していました。
しっかりと、状況にあったあいさつをするし、名前もほとんど間違えないので、
滅多に会わない人は、私たち家族が「おばあちゃんがぼけた」
と言っても、信じない人がたくさんいました。
骨もつながったようだし、リハビリはまだでしたが、母親も疲れてきたようだったので、
おばあちゃんを退院させることにしました。
リハビリは、そこの病院の系列にもデイケアサービスをするところがあったので、
そこに、頼むことにしました。
家にいるときの話は、次の「おばあちゃんの現在」で、お話しします。
おばあちゃんの足には、まだ、膝と股関節にボルトが入っていました。
特に膝のボルトは、少し膝を曲げると、飛び出ていました。
2,3ヶ月を過ぎると、だんだん涼しくなり、おばあちゃんは、
「膝が痛い」と言い始めました。
確かに、足をさすると、ボルトが出ているのです。
かわいそうになり、膝のボルトだけでも、とろうと言うことになりました。
簡単にとれるものかと思っていたのですが、全身麻酔をし、入院も約1週間しました。
その時には、食事を食べることを拒否するようになりました。
でも、そのままではいけないので無理矢理に食べさせたり、栄養剤を飲ませたりしていました。
栄養剤も、見るからにまずそうです。もちろん、おばあちゃんは、それも飲もうとしなくなりました。
「管を鼻から入れて、その栄養剤を流し込まなきゃいけないですね」
と、看護婦さんに言われましたが、それでは、おばあちゃんがかわいそうです。
どうにかして、だましだまし、おばあちゃんに食べさせたり、栄養剤を飲ませていました。
なんとか、退院までは管を鼻に入れるようなことはしなくてすみました。