おばあちゃんがぼけた!

最初は、郵便局の団体旅行に行った帰りのことでした。

解散場所が、私の家から、歩いて10分くらいのところだったのですが、

おばあちゃん曰く「家まで帰ってくるのに20分くらいかかった」。

よくよく話を聞くと、近道をして帰ってきたつもりだったのが、実際は、遠回りをしていました。

その時は、「ま、こんなこともあるさ」というくらいの軽い気持ちでした。

それ以降、1年くらいは、何もなしに(単に気づかなかっただけかもしれませんが)過ぎました。

 

そして、1年後。また、郵便局の団体旅行に行った帰りのことです。

解散後、反対の方向に歩いていき、2時間後に、親戚の人に見つけてもらいました。

旅行で買ったおみやげは、「重たくなったから、どこかへ置いてきた」と言い、

結局、あちこち探したんですが、見つけられませんでした。

おみやげの中身は永遠の謎です。

 

その半年後、今度は母親が旅行に行きました。

当時、妹は、大学生で春休みだったので、帰省していました。

妹が、親の布団に入って、友達に電話していたところを、目撃したおばあちゃんは、

「人の布団の中に入っていないで、早く自分の家に帰りなさい」(実際は、福井弁で)

と言ってしまいました。おばあちゃんには、妹がよその人に見えたみたいです。

妹は、とってもショックを受けてました。

(ここから)

しばらくして、おばあちゃん自身も自分が少しおかしいことに気が付き始めました。

自分の家にいるのに「早く帰らなきゃ」と思ったり、今が何年何月なのかも分からなかったり・・・

母が「一度、病院で見てもらうか?」と、おばあちゃんに聞くと、素直に病院に行きました。

病院では、自分の名前や今日の日付を聞かれたそうです。

自分の名前は、旧姓で、今日の日付は、(もうすでに平成だったのに)「昭和○年」と答えたみたいです。

病院の先生は、「普通は、ぼけた人は、自分がぼけたことを認めたくないから、家族が病院で見てもらうことを

勧めても、いやがるんだけど・・」と、おっしゃってました。

この話を、私が会社から帰ってから母親から事情を聞いたとき、やっぱりショックでした。

物忘れが激しいのは、老人特有のものと思っていたので。

 

それから、おばあちゃんのぼけ方がひどくなってきました。

今まで、おばあちゃんの仕事は、洗濯・掃除・食事の後かたづけ、でした。

まず、「洗濯」を母親に取り上げられました。

おばあちゃんが洗濯をしても、汚れがいっこうに落ちなくなってきたからです。

家の洗濯機は二層式ですが、よくよく行動を見ると、「洗濯」と「すすぎ」を同時にしていました。

それで、しばらくは、「洗濯」「食事の後かたづけ」がおばあちゃんの仕事となりました。

仕事をするときに、おばあちゃんは母親のエプロンを間違って着てしまうので、

母親は嫌がり、彼女は、おばあちゃんのエプロンを名前入りで作りました。

そのエプロンをおばあちゃんはすごく気に入ったみたいで、「そのエプロンかわいいね」

と、誉めると「そーか」と、うれしそうに笑ってました。

 

このころから、

「自分の家は、ここではない。早く帰らなければ・・・」

と思うようになり、朝の自分の仕事が終わると、

自分の部屋に戻り、ありったけの自分の荷物を風呂敷に包み、

その風呂敷を持って、外へ出るようになりました。

外へ一歩出れば、見たことのある風景・ふと振り返ると住み慣れた自分の家。

「なんだ、ここが私の家だ」と思い直し、家に戻ってくる。

しかし、家の中に一歩入れば、「やっぱりここは自分の家とは違う。早く帰らなければ」

となり、また、荷物を持って出ていく。という繰り返しでした。

他には、自分が学生時代に戻ってしまい「袴がないから貸してくれ」と、親戚の家(歩いて約15分)に行ったり、

「○○さんが死んだ」といって、近所の人を騒がせたり。(おばあちゃんの言っている○○さんは、実家の近くの○○

さんで、たまたま近所にも同じ名字の人がいたので)

そして、疲れて、親に「明日、迎えに来てもらえばいいから、今日はここで泊まったら?」

と、説得され、家にとどまり、夜の仕事(食事の後かたづけ)をして、寝ていました。

でも、おばあちゃんは、寝るときも不安だったみたいで、

寝付くまで、母親や私を何度も呼び、私たちの言葉に安心すると眠りに入る、という繰り返しでした。

時々、おばあちゃんの部屋で”ごそごそ”と音がするので覗いてみると、

おばあちゃんがタンスの引き出しを引っぱり出し、帰る準備をしていました。

この頃の、母親は、「自分の親が惚けるはずがない。何回か言えばきっと分かってくれる」

と思っていたのかどうか知りませんが、おばあちゃんが何か失敗や変なことをするたびに、

怒鳴り散らしており、「あのくそババ」(本人の目の前では言っていないと思うけど)と口にすることもありました。

私の目から見ると、おばあちゃんのぼけを認めたくなかったような気がします。

 

日が経つにつれて、「ここが自分の家だ」と気づく時間が遅くなりました。

歩いて、1kmくらい行ったり、時には、電車に乗って隣の市まで行ったり(たいてい、母親が後ろからついて歩いていました)。

母親も、だんだんと開き直ってきて、おばあちゃんが納得するまで、どこまでも行かせるようになりました。

そして、近所の人にも、おばあちゃんが惚けたことをおおっぴらにしたので、

おばあちゃんが母親の目を盗んで、どこかに行ってしまうと、近所の人が言いに来てくれたりしました。

おばあちゃんが、小心者だったせいか、ありがたいことに、夜の徘徊はほとんどありませんでした。

夜、帰ろうとして、玄関を一歩出て、「真っ暗で怖いから、今日はここで世話になるわ」といって、Uターンしたこともありました。

しかし、こんな生活が長く続くと、母親の体調も悪くなってしまうので、病院に行って、

「徘徊しないような薬をくれ」と、頼み、その薬を飲ませ始めました。

すると、おばあちゃんは、ぐったりとしてしまい、しゃべる言葉もろれつが回らなくなってきてしまいました。

これでは、おばあちゃんが、かわいそうです。でも、薬を止めると、またまた、徘徊再開。

夏には、徘徊していたおばあちゃんも、後を付けていた母親も真っ黒に日焼けしてしまいました。

 

かかっていた病院で紹介してもらった金沢の病院で、おばあちゃんが元に戻るかどうかの検査を受けました。

しかし、結果は最悪。母親は、やはり大ショックを受けたみたいです。

この頃から、母親、父親の名前を3〜4回に一度は、間違えるようになりました。

「おんちゃん」「おばちゃん」、親戚の人の名前、いろいろな、名前で、両親を呼びました。

でも、私の名前だけは、ほとんど間違えません。うれしいやら、複雑な気持ちです。

その頃、私は、自分の部屋が狭くなったせいで、寝る場所に困るようになりました。

で、「どうせなら、おばあちゃんと一緒に寝よう!」ということになり、この頃から、現在まで一緒に寝ています。

一緒に寝ることを知ったおばあちゃんは、うれしがりました。

「眠るとき、寂しかったのかな・・」っていうのが、私の感想です

夜中に寝ていると、起こされことがありました。

「家が分からない」「お金がない」etc・・・様々な理由で一晩に何度も起こされたこともありました。

そのたびに、おばあちゃんを説得し、寝かせました。

「夜、目を覚ましたとき、家の人(この場合、私)がそばにいる」「昼間疲れるまで歩かせる」「おばあちゃん自身が、

小心者」だったせいで、夜の徘徊がなかったのではないか・・と母親と話しています。

 

翌年の春、母親が愛育会というボランティアのような仕事を手伝っていたおかげで、市の福祉課の人と話をするように

なりました。その人は、たまたま、私の高校の時の同級生なんですが。(私とこの人の関係はこの話には関係ないです)

母親が、彼女に家のおばあちゃんのことを話したところ、彼女はデイケアサービスを紹介してくれました。

このデイケアサービスには、大変お世話になっています。

最初、週1回ということでした。しかし、おばあちゃんが、徘徊しているときに、たまたま通りかかると、

一緒にバスに乗せてくれて、1日、面倒を見てくれました。

 

おばあちゃんは、実家にいるより、今の家にいる方が長いのに、いつも「実家に帰りたい」と、言っていました。

そこで、私に時間のあるときは、車で実家まで連れていきました。実家の近くになると、「ここ、知ってる。あそこ知っている」

と言い始め、それで満足してました。

最初の1年くらいは、文字を書かせたらどうだろうということで、日記を書かせていました。

でも、次第にいやになり終いには、「あんた、書いてくれ」と言っていました。で、これは、あんまり効果がありませんでした。

母親が、おばあちゃんが「家に帰る」といって、徘徊するのを防止するために、私をだしに使い始めました。

「奈美ちゃんが5時30分過ぎに帰ってくるから、JRの駅まで迎えに行こう」

私の仕事は、ほとんど残業がなく、帰宅するときのJRの時間が一定していたので、

おばあちゃんは、その時間の頃になると、母親に言われなくても、自主的に迎えにくるようになりました。

暇な時は、3時頃から、JR−家を2〜3回往復することもあったそうです。JRの待合室で2〜3本列車を見過ごし、

私の顔が見あたらないと、帰ってくる。そして、しばらくすると、さっき行ったことを忘れて、もう一度行く。の繰り返しでした。

私の顔が見えると、うれしそうに改札口から手を振ってくれました。(もちろん母を携えて)

小さな駅なので、「名物ばあちゃん」になっていたかもしれません。

そして、帰りは、私と手をつないで、今日あったことを聞きながら、帰りました。

ちなみに、私は、おばあちゃんとそうやって行動することは全然恥ずかしくありません。

もう、そんな日々がこないかと思うと、寂しい限りです。(理由は、次のページで)

 

あと、おばあちゃんのことを名前で呼ぶと、うれしそうな顔をします。そして、その時は、私を学生時代の友達と思い、

学生時代の話を、よくするようになりました。

学生(小学校の時)は、やんちゃだったとか。

いろいろと、おもしろい歌も歌ってくれました。

たとえば、結核の歌。「♪結核よ、結核よ、紅顔美麗な少年も、鬼を欺く少年も・・」(後は歌ってくれませんでした)

化粧の歌。「♪おしゃれしゃれても、惚れ手がなけりゃ、よいしょよいしょ、つけた白粉(おしろい)無駄になる」

英語の歌。「♪ゴットセーバーアウアグレシャース・・・」(後から調べたらたぶんイギリスの国歌では・・と思われる)

その他。「♪そーだ、そーだ、そうぜんどんの村長さんが死んだそーだ。葬式饅頭小さいそーだ」

今では、考えられないような歌ばかりです。

おばあちゃんが、まともだったときは、学生時代の友達がよく遊びに来てくれました。

しかし、おばあちゃんが惚け始めると「そんなおばあちゃんは見たくない」といって、ほとんど、来てくれなくなりました。

残念です。でも、話してもトンチンカンなことばかりなので、仕方がないのですが・・・・