ボート 競 技

 

美 浜 ロ ー イ ン グ ク ラ ブのお話!

我が、漕艇クラブは昭和45年にY.T氏により結成されたチームです。(シングルスカルで??国体?位の時期があったそうです。国民体育大会夏季大会のプログラムの過去の成績に名前はとりあえずのってます。)写真のバウに乗っている方です。

初代監督(Y.T氏)は、漕艇を経験していない者を誘い、職場の異なった者を集めクラブ育成に苦慮したと言っておられます。

我がクラブチームは、各地方の大会で活躍する様になり、昭和54年第34回宮崎国体で、全国大会初の入賞を果たしました。(ナックルの全盛期突入ですわ!)

翌年からは、やっと各地方の大会で決勝進出が出来る様になるが、全国の大会(国体)では、決勝進出の壁は破れませんでした。しかし漕艇の楽しさ苦しさをT監督からクラブ員が教えられ、昭和57年T監督から2代目監督A氏に代わりました。

A監督は、N大学卒業後地元に帰って来た者を我がクラブに誘い,始めてシェルフォアーを購入しエントリーする様になりました。2クルーを作成する選手不足になやみ、1度降りた監督みずから漕がなければならず大変であったと思います。(練習は監督の乗艇している艇は、ロング等の疲れる練習はありませんでしたので後の3人は大変楽しかったと思います。又長い距離を漕がなければならないと、大変機嫌が悪く、単漕のA監督とクラブ員は言ってました。)

A監督の時代は、各大会で予選結果のみ騒がせ、クラブ員みんなで漕艇を楽しくして参加し、国体決勝を目指し頑張ってきましたが、昭和59年の朝日レガッタで、時期監督になるN氏の「4はいレースの6ぱいあがりと」言ったおおぼけにあきれ(冗談か本気かいまだに不明である。)A監督は仲間を増やしたが、昭和60年にN監督にゆずりました。

N監督になって、2年目昭和62年沖縄国体、大会前に県漕からのコーチがわがクルーを見て「ダメダナ」と一言残し練習に来なくなった。そのため観光中心で国体に行こうと、みんなが観光の沖縄と言って固まりました。沖縄に入ってからも練習はほとんどせず予選にのぞんだら何と予選で最高となりおおにぎわい。その日夕方から、陸上でトレーニングを今までの様に行い2次予選に向かいました。前日の最高タイムで気を良くしレースに挑んだら(東京と鹿児島)、に敗れ敗者復活へ・・・・、みんなガックリきました。翌日敗者復活で準決勝に進み、再び東京との組み合わせとなりました。この段階で決勝をあきらめ、「順位決定で楽しもう」と、みんなで準決勝に挑んだら・・・・・・何と準決勝を勝ち進み、国体初決勝に進む事が出来ました。N監督はみんなの緊張を解くのが大変上手な監督として始めてクラブの名を載せる事ができたのです。

N監督の時代は翌年国体が京都に戻った時の3位を最後に第2のN監督に代わりました。

第2のN監督は、北海道国体で選手2人を地元に返し、クラブで練習をし、無しペアで優勝。やっとの思いで国体で最高の成績を残す事が出来ました。

翌年クラブ員も多く「クラブチームでエイトを」と第2のN監督は頑張、

その後すぐエイトを某実業団から譲ってもらい、大会でエイトのエントリをする事になりました。

ある大会でクラブチームでのエイトは少ないと思いみんな頑張ろうと思ったら、トリプルエントリーを第2のN監督が!!!・・・エイト、4+、KFと予選は時間の余裕があったが、エイト決勝の前レースがKFの決勝で何とか2位の成績で、桟橋にエイトに乗り換えに向かったが、直後のレースが決勝になるダブルエントリーは、休む間も無く選手の苦しみを見て第2のN監督は大笑いしていました。ダブルエントリーの第2のN監督と言われる様になっていました。

現在クラブ員がみんな年を取り。若い者も頑張るM・R・C(美浜ローイングクラブ)は楽しくやってます。現在初代監督を中心に現在の監督までみんなで、素人の方に漕艇の楽しさを教えて頑張っています。又今後我がクラブチームが大会に参加しているときは、声でも掛け応援してください。

ヨロシク!!!

漕艇を楽しんで仲間を大切にしている美浜ローイングクラブです!