古代都市と日本のつながり

 古代メソポタミアには幾つかの都市国家が存在しました。シュメール地方と呼ばれる南部にはウルやウルク、イシン、ニップル、キシなど、バビロニア地方と呼ばれる北部はバビロン、アッシュール、イランにはスサなどが存在しました。ほとんどはチグリスとユーフラテス川とその支流に隣接して造られ、飲み水だけでなく水運として河川を利用ました。特に、ウルやウルクは最初にシュメール人が建国し、城壁で囲まれた都市内は、中央に宗教施設、住宅などが整然と建てられ、上下水道が整備されていたといいます。
 この都市国家には、現在の日本とつながりがあるような名を持つものがありますので、推測を交えながらお伝えしたいと思います。


アワン(Awan)
 アワンはイラン西部にあるエラム地域にあった古代国家あるいは地域です。メソポタミア初期の歴史の中でスーサとともに現れることが多く、シュメール人のウルやウルクと多くの対立がありました。アワンはエラム王朝の一つである「アワン王朝」が名付けられています。
 アワンは紀元前2450年頃にウル第1王朝を終わらせ、その後3人のアワン王がシュメール南部地域を支配したといいます。紀元前2300~2200年頃アワンは、アッカド帝国のサルゴン王とリムシの支配の下で、戦いを多数勝利に導きました。その後アワン王朝はアッカド人から独立を勝ち取りましたが、最後の王Kuikインシュシュナクの没落によって終わりを迎え、紀元前2100~2000年頃には第3ウル王朝がこの地域を支配しました。これを最後にアワンの名は歴史から消えます。
 ところで、阿波踊りで有名な四国の徳島は古来より阿波と呼ばれていました。最近の調査では、徳島では数多くの弥生遺跡や古墳が発見され、九州北部に劣らぬ勢力が存在したと言います。 メソポタミア初期にシュメールと対立しながら勢力を誇るものの、最後はシューメール人に破れたアワン王朝の末裔が遠く離れた日本の地へ黒潮に乗ってたどり着けば、丁度玄関口にあたる場所が四国の徳島となります。そこには、故郷メソポタミアのチグリスユーフラテス川に似た吉野川による肥沃な土地が待っていたとすれば、徳島を阿波と名付けても理解できる様な気がします。


ニップル(Nippur)
 ニップルは、古代メソポタミアの重要な宗教都市でした。シュメールにおける嵐の神エンリル神崇拝の中心地であり、シュメールの心のよりどころとなっていました。宗教的重要性のため、古代の王達によってこの都市の争奪が繰り返えされました。その後、紀元前18世紀ごろには、ハムラビ王死後の内戦により荒廃しましたが、前9世紀以降、新アッシリア帝国の下で再建され、セレウコス朝時代まで重要な都市として存続したといいます。日本で言えば日本文化を感じさせる京都や奈良のような存在でしょうか。
 日本の話としては、7世紀の奈良時代に天武天皇は日本書紀の編纂を指示します。天武天皇は争いごとが続いていたわが国を何とかまとめようと、古きメソポタミアで存在した宗教都市のニップルに倣って、わが国をニッポーと名付けたと言います。同時に、日の出国を意味ずる日の本の漢字を当てました。 現代のわが国では、当たり前のように日本という名を使っています。しかし、どの時期に、どういう経緯で日本となったかを知る人は少ないと思います。これを機会に、日本の名をあらためて考えて見てはいかがでしょうか。


アッシュール(Assur)
 現在のイラク北部で、古代メソポタミア時代に存在した古代都市です。現在はアッシリア遺跡として残っています。神話では日本は葦原の中つ国と呼ばれますが、葦原はアッシュールとハランがモデルだそうです。アッシュールはサルゴン王率いるアッシリア王国の最初の都市であり、アッシリア人の最高神アッシュールと同じ名を持っています。紀元前14~9世紀にはアッシリア帝国の首都となり、宗教的拠点として繁栄しました。
 神武天皇が東征をしたときに道案内したとされるのが猿田彦ですが、この猿田彦はサルゴン王が由来となっていると言います。「Assur」を英語読みすると「アッシュアー」と読めます。このアッシュールが日本における阿須波神や足羽の起源となっています。万葉集に詠まれている阿須波神やなじみの深い福井の足羽山、足羽川、足羽郡などの名の起源と考えられます。阿須波や足羽の漢字は「あすわ」の後世の当て字であったのでしょう。



阿須波神の由来はアシュール神

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