海道をゆく かわら版

                   編集・発行 海道屋 

初荷-----------------------------------------------------------------------------

歴史探訪の海道は広がり、今、出帆!

 いろんなジャンルの内容をふくんだ講座、特定の専門分野に限らず多様な面からのアプローチです。「海」というテーマそのものの包容力がこれらを包み込み、ミックスし、風を呼び、時代を遠望しながら進んでいけるのではないかと思います。

 この講座の方向、船の針路について「どこへゆくのか?」と不安の声も聞きます。どこへ行くのかは受講された一人一人の探索の中から見えてくると思います。講義はあくまで一つの事例提供に過ぎません。受講者同士のネットワークも広げ、自分たちでこの「海道をゆく」をより楽しいものにしていきませんか。そんな思いでこのかわら版を企画しました。皆さんの参加をお待ちしています。講座の感想、自分の意見や思い、何でも結構です。どんどんお寄せください。


これから毎回の講座の報告をしていきます。講座の内容を全部フォローしていませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
第1回 

 「海道をゆく」基調講義 

      小浜市文化社会教育課 課長補佐  杉本泰俊 氏

 若狭小浜は大陸からの文化の玄関として古代より栄えてきました。日本海側で最大の港町であった小浜には、日本海諸国からの物資はもちろんのこと、大陸からの物資も入津していました。畿内の企業家たちは交易で得た富で「シンボル」となるものを建てて地域の人民の信仰を集めました。人口に比してこんなに多くの社寺があるのは驚くべき事実であり、これは当時の繁栄を裏付けるものです。こうして今も残っている町並みや文化財を保存し、それをもとに地域の活性化をすすめていくことがこの地域の課題です。

杉本さんの熱の入った講義で「海道をゆく」が勢いよくスタート。


 記念講演会

「日本に初めて象が渡ってきた港町小浜」                                                                                 京都大学名誉教授  小葉田淳 氏

 小浜市役所の玄関ロビーに、日本に初めて象が渡ってきた港町の光景を描いた屏風があります。この絵の話の原典は、実は小葉田淳先生の著書「中世南島通交貿易史の研究」です。今回の記念講演会の中で、初めてその原典のお話を聞きました。 

 「応永十五年六月二十二日に南蛮船着岸、帝王御名亜烈進卿、番使々臣問丸本阿彼帝より日本の国王への進物として、生象一疋、黒山馬一隻、孔雀二対外色々…」スマトラ島のパレンバンは貿易港として発展し、華僑の勢力下にあった。帝王御名亜烈進卿が将軍足利氏に贈ったものである。初めて象を見た人たちの驚きやざわめきが目前のワイド画面に広がってくるようです。「なぜ小浜に入港したのか」という質問もありましたが、小浜が都に近かったこと、瀬戸内海ルートが水軍等の関係で不安であったこと、潮流の関係などがあげられるそうです。小葉田先生のお話をお聞きしながら頭の中に中世の若狭の歴史のドラマが展開してゆきます。

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 第3回講座 

 「シルクロードと小浜・奈良」

            奈良国立博物館仏教美術研究室長 松浦正昭 氏 

 仏教文化圏としてのアジアという視点で仏像の素材・構造の比較を通じて、文化伝来のルートとしてのシルクロード、そこから〈海道〉を通じた日本への移入という大陸とのつながりについて、実例を交えながらの興味深いお話を伺うことができました。また、奈良・新薬師寺の十二神将像について、貴重なスライド写真を用いての詳細な解説がありました。十二神将像は土を素材とした塑像ですが、スライドからはその詳細なディティールが手にとるように感じられ、いまにも動き出さんばかりの迫力を味わうことができました。

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第4回講座 

  「港湾貿易都市小浜の交易」

               南山大学名誉教授 須磨千頴 氏

 さまざまな古文書での記録から歴史的に「小浜」をみていこう、ということで数々の印象深いお話がありました。「小浜」という地名はいつごろから書物に登場するのか? 今から七○○年以上さかのぼった一二六五年が最初ではないか、とのことです。さらに、鎌倉時代から戦国時代にかけての小浜をめぐる流通では、交易の担い手として大きな富と力を誇った〈問丸〉〈刀袮〉〈借上〉の存在について、そして日本海の〈海道〉での交易ルートが北は蝦夷地・津軽、西は出雲・山陰、さらには隠岐・博多にまでひろがっていたなど、港湾都市小浜の隆盛が偲ばれるスケールの壮大な内容でした。


 第5回講座

 「北前船」と小浜湊

             福井県史執筆者 平野俊幸氏

 「北前船」という語が,いつ頃から使われだしたのか? 例えば,江戸時代の書物には現れているのか,という話題から講義が始まりました。江戸時代の書物に残っているのは現時点で僅かに二例のみ,どちらも大阪で出された本によるものでした。では,いつ頃から頻繁に使われだしたかということでは,戦後の高度経済成長期,発展する〈オモテ日本〉に対しての〈ウラ日本〉という言葉が広まった時期と符合するようです。江戸時代の日本海海運に関わっていた交易船=北前船の明るいイメージと,経済発展に取り残されていく当時の日本海沿岸地域との対比が「北前船」という語を広める元になったといわれています。さらに,「北前船」は日本海交易に従事する様々な大きさ・形の船の総称として捉えた方がふさわしく,一般にイメージされている千石船だけが「北前船」であるとは考えない方がよいなど,従来の「北前船」観を揺さぶる興味深い話題が語られました。

 また,河村瑞堅による西廻り航路の整備によって,モノの流れが変わり相対的な小浜・敦賀の湊としての重要性が低下したこと,その後の蝦夷地交易の活発化によるニシン・シャケ・コンブなどの運搬ルートとしての小浜湊の発展,一八世紀後半からの商品流通経済の発展に伴う日本海海運の隆盛,そして,小浜ゆかりの古河屋の廻船経営の状況など,江戸時代の日本海交易と小浜湊との関わりについてのお話が熱っぽく語られました。


海道をゆく 座談会 その1

 海道屋の呼びかけで自主的な座談会が行われました。参加の長谷さんは「この講座に参加した動機は、『海道をゆく』というテーマにロマンを感じたことです」と語ってくださり、ご自身が船の設計や海のことに関わってこられた経験、雲龍丸への想いなどを語ってくれました。山本善一さんは、今回、「海道をゆく かわら版」の企画について大変歓迎してくださいました。山本さんは、以前の講座のときから、「単に話を聞くだけでなく、参加者同士の交流や、講座のまとめが欲しい」といったご提案をして下さっていました。話題が、今回の「北前船と小浜湊」に移り、さらに座談が進みました。西廻り航路(下関経由、瀬戸内海、大阪)の当時の事情について想いを馳せました。瀬戸内海の水軍の関係、潮流の関係などの面で瀬戸内海航路が難所であったことも考えながら考察していく必要があるいう事も話題に上りました。

 こうして座談会をすることによって、今までの講座で聞いた話が結びついたり、確認されたり、また新しい疑問が湧いたりといった具合に広がっていきます。これからも講座終了後、この様な座談会を設定しますので、皆様気楽に参加して下さい。


編集局「心窓去来」

 6月21。海道屋の企画第1弾として「海道をゆくかわら版」の発行、第2弾として座談会の企画実施、記念すべき大きな出発です。かわら版を手にしたみなさんからの熱い反響を得ました。座談会は人数は少なかったけれど、熱気のある充実した会になりました。今後もこのような関わり、仕掛けを通じて想いや発想、ネットワークを広げ、講座を通して大いに遊び、人生を探求していきたいものです。

 講座の冒頭の松下さんの提案もいい雰囲気でしたし、ああいう感じの講座は今までなかったんです。福井県の生涯学習の中で大きな歴史的瞬間ですよ。上から与えるといった状況があります。おしゃれじゃないんですよね。人間が進んでいくというのは、人生にロマンを感じていないとだめですし、課題意識がないと推進力が出ないと思うんです。---


◇参加された皆様からの感想をいただきました◇

「海道をゆく」という夢あるネーミングにひかれて受講させていただきました。早や5回の講座に出席させていただきました。第一回の杉本泰俊先生のお話は、小浜の話が中心だったので、小浜で生まれ育った私にとっては非常に楽しく惹かれるものがありました。以来、第二回、第三回と楽しく拝聴しました。四回、五回では小浜の話から少し遠ざかったので、私の考えていた小浜がだんだんとしぼんできました。史実は史実ですから仕方ありませんが、私勝手な解釈をしていた浅学を反省し、思いを新たにし講座を受けたいと思います。海道屋の益々の隆盛を祈ります。                    長谷勇


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               海道屋主宰 松下泰山  出前持ち 大森和良 

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