海道をゆく

佐渡へ


 若狭から佐渡へ---雲龍丸で北前船の海道をゆく--- 1999 (上)

 音海から若狭湾が一望できる。晴れた日には残雪の白山も眺められる。海からの発想でこの国を遠望できる場所である。この海を北に向かえば能登半島、 禄剛崎を越せばやがて佐渡が見える。海道はゆったり、のったりと続く。空まかせ、風まかせ、山を見、星に祈る。

 小浜から直江津まで車で5時間、フェリーに乗って小木港まで2時間、合わせて7時間。陸路から佐渡は遠い。雲龍丸に乗って、一昼夜はあっという間の時間だった。若狭図書学習センター主催の講座「海道をゆく」での船旅。小浜から佐渡まで海上の道を行くのが魅力である。

 大佐渡の高台に立つと、西に能登半島、北に男鹿半島が見える。佐渡は、日本海が見渡せる位置にあって海道の要所だと実感。江差、松前など北の湊を出船した船乗りたちは、佐渡に着いて半ばに来たと、ほっと一息ついたのだろう。隆盛期に小木の湊に四百艘のも舟が停泊し、小木の町には一晩中三味の音が響いていたそうだ。そして、風を待って出船、能登を越せば若狭はもう近いのである。

 宿根木の佐渡国小木民俗博物館を訪問。当時の板絵を元に、優秀な船大工を全国から集めて実物大の千石船「白山丸」を実物大に復元したものがあった。圧巻である。海の歴史を大事にしている佐渡の人の情熱が伝わってくる。白山丸を目前に佐藤利夫先生のお話を聞く。小浜の丹後屋、木綿屋、塩屋などの商人との取引の記録も紹介、小浜と佐渡のつながりを知る。

「今こそ、古いものを残し、記録しておきなさいよ。今、私たちの時代にやらないと、何もかも消えてしまう。この国が、何なのかも分からなくなってしまう。みんなが競争してリトル東京をつくろうとしている。滑稽ですね。こんなにすばらしい日本海文化があるのに。がんばんなさいよ。」と私の手を握り励ましてくださった。「みちよお!」(いい旅をという佐渡の方言)と言って見送ってくださった。佐渡にこの人あり。

 海上交通が、鉄道と飛行機に奪われ、同時に海が運んだ芸能、言葉、習慣、風俗も消えていく。「日本海にいる人が自信をなくして、太平洋側に取られている。日本海文化を再生し、元気を取り戻して!」佐藤先生の言葉が今も頭の中を回っている。

 「海道をゆく」このテーマは、若狭の歴史や文化を再発見するにとどまらず、日本海文化の再発見、この国の生き方、アイデンティティーを探すキーワードである。

 このまちに素晴らしい歴史や文化あり、美しい港あり、北前船時代の倉庫あり、この町にしかない風景と生活と人情がある。見せ方によって、もっともっとすてきな町になる。このまちを文化発信の港にしたいものです。


狭から佐渡へ---雲龍丸で北前船の海道をゆく--- 1999(下)
 能登からの海上の道は、まっすぐに佐渡に続く。暖流の影響を受けた海岸線は、タブノキ、トベラ、ツバキなど照葉樹が生い茂り若狭湾の植生とよく似ている。夏前の佐渡にカンゾウの花が咲き誇る。島の人は、海辺のこの花を「漁告花」(ヨーラメ)と呼ぶ。魚(ヨー)孕み(ハラミ)花の略で、この花の咲く頃には産卵の魚たちが浜にやって海は生き返り、魚が生き返り、村が生き返るらしい。「魚は季節の花で釣る」というのは、咲き出す草花を見て漁期を知ることだそうだ。何と海の臭いがする話であろう。海の暮らしは厳しいけど、何て美しい生活文化なのだろう。

 海に生き、海に生かされる村が日本海側に多くある。私の住む村もその村である。蘇洞門の断崖の下の岩場は磯見漁の豊かな漁場である。小舟に乗って、ねり櫂を巧みに操りながら、箱眼鏡を覗き込み、長い竿を刺してサザエ、アワビをとる。二百メートルも高く切り立つ岩壁、落石に気をつけ、特に危ないところでは般若心経を唱えながらの漁である。 昭和40年の前半までは、村の漁師の多くが磯見漁をしていた。民宿ブームを経てレジャー産業が入り込んでからは、海で磯見をして生活する者はどんどん少なくなり、ついに専業で磯見をするのは村でただ一人になってしまった。五十年間この暮らしをしてきた父は、密漁などでほとんど獲物のいなくなった海の底を今日も眺めにいく。

 佐渡にも、磯見漁があると聞いて、 見てみたいと雲龍丸で共に佐渡に渡った。尖閣湾の漁村の浜を歩く。船揚げ場の漁具を見れば、海で何をとっているのかが分かる。そこで、イソネギ漁師、浜辺さんに出会った。イソネギ専門はこの村で浜辺さんただ一人という。漁から帰ってきた浜辺さんの船を曳くのを手伝いながら声をかける。ひたすらに海の底を見続けてきた男同士の嬉しい会話が弾む。

 サザエとりの三また、ケエカギ(アワビかけ)、たもなど、漁具に至るまで興味あることばかりだ。海の地形や、潮の流れなどの違いか漁具も若干違う。浜辺さんののケエカギは、なんと十ヒロ(10メートル)以上もあって、佐渡は若狭の海に比べて透明度が深いのだと分かった。船から半身を乗り出して貝をとる技術は長い経験によって身に付く伝統漁法だ。同じ日本海で同じ漁法で生活する海民の漁業文化だ。「頑張って」別れ際、若狭の磯見漁師が、自分より少し年若い佐渡のイソネギ漁師にそう声をかけている光景を写真に納めた。


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