海道をゆく

韓国へ


海は人をつなぐ (上) 日韓の海道          2000(上)
 それにしても大時化(しけ)であった。台風並の低気圧。舳先(へさき)からかぶった波しぶきが操舵室の窓に激しく当たる。艫(とも)でスクリューがガラガラと空をかく。海の洗礼。さすがの生徒たちも顔面蒼白で、ほとんどが船酔い。逆巻く波を越えて来た。

 丹後の経ヶ岬を回り、西へ真っ直ぐ航路をとれば韓国の浦項に向かう。夢に見た韓への海道に同行。7月22日、小浜港を出航してから三百三十海里、一昼夜半の航海。小浜水産高校のテクノコース、バイオコースの2年生25名が乗船しての沿岸航海実習。

   土限りあり 海限りなし 限りなき海こそ 我らが庭なれ

   限りなき海の幸 限りなきこの業 風をつき 波をけり 励めよやわが友〜

 校歌が船内に響く。

 7月23日、雨も上がり、浦項港がくっきりと見えてくる。12時、雲龍丸は、浦項港17番バースへ歴史的な着岸。小浜水産高校の英断によって初めて小浜と韓国の海道がつながった。 

 浦項水産高校は、ムクゲの花咲く坂を上っていった海を見下ろす高台にあった。歓迎式典で張炳哲校長と山内雅夫校長が固い握手。21世紀の共存と親善交流を誓い合う。生徒代表の山下良介君が「海の学習を通して、世界が仲良くなるようにしたい。来月8月に日本へ来られるのを待っています。」とあいさつ。

 8月9日、浦項水産高校のハエマジ号が生徒43名を乗せて小浜港に入港。市をあげて心からの歓迎。新しい歴史が小浜からつながる。ハエマジ号は小浜港に三日間停泊。船名のハングル文字が小浜の風景にあっていた。初めて見る大型の韓国船を市民がカメラに収めていた。ハングル語の「ワッサカッサ」(行ったよ来たよの意)が「若狭」の由来とも言われる。両水産高校の交流はまさに「ワカサ」。この町の存在が大きく見えてくる。

 小浜水産高校での歓迎式で、生徒代表の伊藤晃子さんが「日本では韓国映画も人気。韓国の文化に興味があります。お互いの文化交流もしましょう。」とあいさつ。

 浦項水産高校生徒代表の李 真君が「21世紀は地球村の時代、同じ海に学ぶ若者同士が交流し、国境を越え手を携え合い若者の夢がかなうよう努力しましょう。」とあいさつ。若者たちの新しい時代が来た。

 近くて遠かった隣の国。今、海道がつながって近くて近い国になった。古来より朝鮮半島から多くの歴史や文化が渡ってきたこの町の存在を改めて実感。思えば、このまちの道路標識にハングルの標記ぐらいあってもいい。陸の発想に閉じこめられて、嘆きばかりが多い昨今、このまちを海から再度見つめたい。小浜からつながる海の道がある。海を学べる水産高校がある。海はこのまちの未来をつなぐ。海を失えばこのまちを失う。


海は人をつなぐ(中)感動がつなぐ海道           2000(中)
 風速2,7メートル、霧はれて視界もよし。「スローアヘッド」「スローアヘッド、サー」韓国のパイラーと荒木船長のかけ声で雲龍丸は麗水港に歴史的な入港。麗水港は、朝鮮半島南岸の主要商港、漁港。「二代目の校長が麗水を訪問し、まちの美観に感動して、同窓会名を『麗水会』としました。美しい風景、先輩の校長が感動されたのと全く同じ感動をしています。」と小浜水産高校の山内雅夫校長が訪問のあいさつ。

 美しい風景や人との出会い、感動が、次の出会いを生み、新しい交流を創造する。「雲龍丸が麗水に入港できたらいいな。」小浜水産高校の「麗水会」の文字を見て感動した知人で麗水出身の声楽家朴路眞さん。彼が夢見ていた小浜と麗水への海道がつながった。

 麗水の風景は懐かしい感じがする。入り江に囲まれた小浜湾とよく似ているからか。包容力がある。

 人口90万を越える麗水と小浜と数字で比較できないが、交流や人の出会いは数字ではなく、感動しあう人の心のつながりで続いてゆく。麗水大学の高速船にて湾内見学。オドンドー(悟桐島)、将軍島、突山大橋、美しい風景が迎えてくれる。

 麗水大学を訪問。「小浜は水の美しいところ。魚のおししいところ。小浜と麗水は姉妹です。」と金教授。壱五三水産でハモ料理をごちそうになる。

 生徒達も麗水大学の学生に町を案内してもらい、有意義な交流ができたようだ。すっかりご機嫌。船に戻ればもう会えない。別れの切なさを味わっている。

「海の男は人を好きにならなあかんでよ。」興奮気味に会話がはずんでいる。7月26日、生徒たちもデッキで別れを惜しみながら8時半麗水を出航。

 麗水の港に、豊臣秀吉の水軍を撃退した亀甲船が係留され観光名所になっている。総指揮をとった李舜臣将軍の銅像は韓国の至る所で今も日本の方に向かって立ちはだかる。韓国では、秀吉の朝鮮侵略は「倭乱」と呼ばれている。京都の耳塚、鼻塚にまつわる話が小浜にある。殺戮の証として塩漬けの耳、鼻を積んだ船は小浜に入港したという。そんな遠い話ではない。

 ソウルに残っていた日帝時代のシンボルの朝鮮総督府は数年前に取り壊された。麗水で唯一の日本家屋である朴路眞さんの生家もいつか取り壊される運命にあると彼がが語っていた。しかし今回訪ねたらまだ壊されずに残っていた。反日感情は依然として強い。歴史の共通認識をするまで真の善隣友好の道は開けないのだろう。同時に若者の交流が新しい時代を開いてゆく。

 7月27日、一週間ぶりの若狭湾。韓への海道の旅も終わる。朝鮮半島から遠望すればこの形が見える。日本は大海に浮かぶ島。小松から飛行機でわずか1時間20分でソウルに着く。雲龍丸で麗水まで40時間かかる。波の間を行ったり来たりした海民の時間があったのを忘れていたことに気がづく。海の時間はあわてずゆったりと流れて行く。心ある道だけをひたすらに行けば、そこにあなたの国が見える。戻れば、私の国が見える。

  


海は人をつなぐ(下)風の吹いてきた村           2000(下)

 船酔いすると気力まで落ちてくる。100年前の韓国船遭難救護の時の93名は、強靱な生への意志と助け合い励まし合いで生き延びたのだろう。そんなことを想いながら浦項に入港した。

 釜山の協成海運代表理事王太殿氏がファックスで、「百年前、水産講習所(東京水産大学前身)の練習船が迎日湾で遭難して、教官はじめ多くの学生が遭難死亡、その慰霊碑が浦項にある。」と教えてくださった。バスは遭難慰霊碑へ向かった。碑は浦項から南へ30分の岬にあった。白い記念碑が建っていた。建立年月日の「明治」という字がコンクリートで塗られていて、反日感情を印象づけていた。碑は東の海を遠望して建っていた。すぐ近く軍事監視小屋、銃をもった若い兵士が警戒にあたっていた。すぐ近くで合歓(ねむ)の花が海を見て咲いていた。

 記念碑のある漁村の民家の玄関に腰掛けている老婆。「アンニヨンハセヨ」と挨拶。「日本から来た」と言うと、老婆は、目の前の海の彼方を指さした。東の方角だ。老婆は玄関で海を見ている。いつも日本の方を向いて座っている。日焼けした顔に刻まれたしわに、くぐり抜けてきた幾多の歴史を感じた。老婆の住む村は小浜の漁村と同じ風景だった。

 8月9日、浦項水産高校の船が小浜に入港。「泊村の韓国船遭難救護の記録「風の吹いてきた村」を読んで感銘しながら船で来ました。どんな状況にあっても民衆は助け合って来た。このことを大切にして今後の交流を進めていきたい。」と浦項水産高の張炳哲校長が入港一番に挨拶。

 8月11日、一行は内外海半島の岬の村まで碑を見学に来てくれた。海の美しい午前。「海は人をつなぐ母の如し」記念碑は光を浴びている。碑にまつわる日韓交流のドラマを紹介。熱心に聞き入る生徒たち。「感動して涙がでました。」と李宗哲先生。今年1月の韓国船遭難救護百周年記念事業で記念碑が出来て以来、初めての韓国からの団体の来訪者。両国の国旗が海風に心地よくはためいていた。

「それにしても、よう来てくれたなあ、こんな遠いところまで船で。」村の古老が感心する。この小さな漁村は盆を迎える、当時、遭難救護で活躍した祖先たちは土に眠る。美しい平安の風景の中に記念碑はある。1月に植樹した韓国の木ムクゲと日本の桜は公園で緑の枝を広げ始めた。21世紀を迎える来年には花が咲き誇るだろう。100年前の民衆の出会いがこうして人をつなぎ、新しい時代をつなぐ。海は人をつなぐ母の如し。今年になって急に進展してきた日韓、日朝の関係、南北の関係。この小さな漁村に吹く風は、同じ海を抱き合う民と同じ気持ちを歌っている。


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