永平寺の宮大工(志比大工)



大本山永平寺 唐門

 永平寺は寛元元年(1243)開祖道元禅師が越前志比の庄に入山以来、伽藍の整備を進め永平寺五世義雲禅師のころにはほぼ七堂伽藍が整備され、その後、幾多の火災等により焼失しましたが、その度に修理改築を重ねてきました。

 伽藍は中国宋時代の建築様式により建てられ、これらの伽藍の整備・維持を技術的に支えてきたのが志比大工集団でした。これらの志比大工集団の祖は、開祖道元禅師が宋から伴ってきた建築技師玄盛繁といわれています。

 古くから永平寺に奉仕する門前と呼ばれる集落が存在し、行者(寺の雑務に携わる在家の人)、百姓、番匠(大工)が、永平寺の支配下にありました。この門前は、江戸時代には大工村と百姓村に分かれ、大工村を統括したのは、玄盛繁 の子孫で「永平寺草創以来棟梁の家筋」と言われた大工頭源左衛門で早くから名主を勤めていました。

 志比大工の技術は永平寺の伽藍建築で磨かれ、社寺建築界で確固たる地位を築いてきました。志比大工は本来、永平寺の伽藍を維持するための技術者としての職分がありましたが、永平寺の作事に携わる一方、越中(富山県)、近江(滋賀県)あたりまで出かけ各地の寺社造営にあたってきました。

 志比大工の永平寺以外の進出活動をめぐって、その土地の大工との間で訴訟が生じたこともありました。その例をあげると、天保12年(1841)から天保14年(1843)までの3ケ年をかけて造営した、越前和紙で有名な五箇郷(現在の福井県今立郡今立町)の総鎮守、大滝神社本殿および拝殿です。

大滝神社本殿および拝殿

 天保11年(1840)の文書によると、地元の五箇村大工4人の連名で「工事は地元の五箇村大工に請け負わせていただきたい。また、他所の者に落札しても、棟梁は五箇村大工としていただきたい。その実力は充分に備えている」と神主を通じて世話人に願い出ています。

 しかし、この願いは却下され、永平寺門前大工大久保勘左衛門が請け負うことになりました。客観的に見て技術力の差があったものと思われます。勘左衛門 は天保7年(1836)に永平寺より大工棟梁職免許状を受け、天保10年(1839)には永平寺の唐門(勅使門ともいう)を造営した名棟梁でした。

 勘左衛門は、すぐれた彫刻装飾を施した独創的な社殿を建てました。一間社流造本殿の屋根を入母屋造、妻入りの拝殿の屋根に葺き降ろして連結し一棟とした複合社殿で、江戸時代後期を代表する建物として、国指定の重要文化財(昭和59年)に指定されています。