永平寺の開創



 寛元元年(1243)夏、波多野義重公の勧めによって義重公の領地、越前国志比庄(しひのしょう)に移錫されることになり、約10年間住みなれた京洛を後にされました。 本師天童如浄禅師(てんどうにょじょうぜんじ)の遺誡(ゆいかい)に従って深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して一個半個を説得し、一人でも多く佛弟子を育成されることになりました。
 翌2年7月、義重公や覚念(一説に斉藤基尚)等の外護者(げごしゃ)によって大佛寺(永平寺の前身)が建立され開道説法(かいどうせっぽう)されました。 寛元4年6月、47歳の時大佛寺を永平寺と改めて上堂説法されていますが、それは釈迦牟尼佛の誕生になぞらえ、永平寺の隆盛を尽未来際(じんみらいさい)にわたって祈念されたものでした。この頃盛んに修行僧を指導されると共に、教団の確立のために清規(しんぎ)を定められています。

鎌倉下向
 宝治元年(1247)8月、北条時頼一族の北条重時や波多野義重公の請を断ち難く在俗教化(ざいぞくきょうか)の為に鎌倉へ下向し、約半年間名越(なごえ)の白衣舎(びゃくえしゃ)に在って説法され、翌2年3月に帰山されました。
 その折りの上堂法語(永平広録巻三)に
  山僧(さんぞう)出で去り半年余り、
  猶(な)ほ孤輪(こりん)の大虚(たいこ)に処するが若(ごと)し、
  今日山に帰り山気(さんき)喜ぶ、
  山を愛するの愛初より甚(はなはだ)し
と帰山の心境を説かれました。これは永平寺山居の心情を強められたものであり、同時に只管打坐(しかんたざ)の峻巖綿密(しゅんげんめんみつ)な家風を物語るものです。

紫衣(しえ)の辞退
 また、この頃の出来事として後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が道元禅師に紫衣を贈られようという一件があり、禅師は再三辞退されましたが許されなかったので拝受されましたが、しかし紫衣を一生身につけることなく
  永平谷浅しと雖(いえど)も、
  勅命(ちょくめい)重きこと重重(じゅうじゅう)
  却(かえ)って猿鶴(えんかく)に笑われん
  紫衣の一老翁(しえのいちろうおう)
という偈(げ)を作って上謝(じょうしゃ)されたといわれます。これは禅師の名利・世俗に対する超然とした態度の一端をあらわしています。

道元禅師の入滅
 建長4年(1252)秋頃より道元禅師は病に罹(かか)られました。この年最後の示衆(じしゅ)となった「正法眼蔵八大人覚(しょうぼうげんぞうはちだいにんがく)」は、釈尊最後の垂誡(すいかい)である「遺教経(ゆいきょうぎょう)」にもとづいたもので、禅師の入寂近きを暗示されていました。
 翌5年7月弟子懐弉禅師(えじょうぜんじ)に永平寺の住持を譲られ、8月5日には波多野義重公の勧めを受けて療養すべく上洛されました。 越前国を後にされた禅師は、この折弟子義介に永平寺の後事を託して木ノ芽峠より帰山させましたが、これが最後の訣別となりました。
 道元禅師は上洛して高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の俗弟子覚念の屋敷に入り、8月23日夜半入滅。世寿54歳でありました。
 弟子懐弉禅師をはじめ波多野義重公、覚念等は遺骸を荼毘に附し永平寺に持ち帰られ、9月12日に入涅槃の式を挙げ本山の西北隅に塔を建て「承陽庵(じょうようあん)」と名づけました。

文献 「永平寺」平成8年12月20日発行。大本山永平寺の許可を得て転載(一部変更)したものです。
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