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これまでの  Photo 
Photo は、管理人の興味のおもむくままにフォーカスした情景や物事をご紹介しています。  → 最新の Photo 

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◆イタリア旅行(2003年)
  ・ポンペイ、カプリ島
  ・(以降、中断中)

◆中欧旅行(2006年) =下の欄
  1.カレル4世と「黄金のプラハ」
  2.「眠れる森の美女」チェスキー・クルムロフ


◆欧州旅行(2005年)
  1.ドイツ最古の大学を擁する街・ハイデルベルク
  2.“生きている中世都市”と呼ばれるローテンブルク
  3.中世への憧憬が築いたノイシュヴァンシュタイン城
  4.ヨーロッパ最古の木橋だった(!?)カペル橋を渡る
  5.ヨーロッパ最高標高の駅・ユングフラウヨッホへ
  6.ヴェルサイユ、そしてパリ
  7.聖地、そして要塞のモンサンミッシェル




 「眠れる森の美女」チェスキー・クルムロフ

 3日目の11月3日(2006年)朝には、プラハに初雪が降り、ホテルの周りはうっすらと雪に覆われていました。この雪の中を、チェスキー・クルムロフに向かいます。
 プラハから南へ約150キロ、オーストリアまでもうすぐの、南ボヘミヤ地方のそのまた南端にある町で、大きく湾曲するヴルタヴァ川に囲まれた旧市街地が中世のたたずまいを残しています。1992年にユネスコの世界文化遺産に登録されたこの町は、「ヨーロッパで(世界でと言う人もいる)最も美しい町の一つ」と称えられています。



 写真上左はプラハからの途中、バスの窓からの雪景色。そして、チェスキー・クルムロフに到着、市街地から少し離れた駐車場から、滑る足元を気にしながら中心部へ向かいます。写真上右は、お城を旧市街地の反対側(北側)から見たもので、右手に目える城内の建物を結ぶ陸橋の下をくぐり、ヴルタヴァ川に架かる橋を渡るともう旧市街地です。



 チェスキー・クルムロフ城は、旧市街地を見下ろす北側の丘に築かれましたが、丘と丘の間の深い谷に橋を架け、三層の“渡り廊下”で城の上層部と庭園をつないでいます。このプラーシュチョヴィー橋(写真上左)は単に「城の橋」とも呼ばれ、元々は木造の跳ね橋だったようですが、何回か架け替えられて現在のような姿になったそうです。
 「城の橋」をくぐると、ヴルタヴァ川の向こうに旧市街地の眺望が開け(写真上右)、思わずカメラを構えてしまいます。そして、川を渡る橋からは下の写真のような情景が望めます。中央にそびえ立つ「城の塔」については、後ほど詳述することにしましょう。



 13世紀に築かれた城を中心に、蛇行する川と起伏の大きい丘陵を活かす形でチェスキー・クルムロフの町は開かれ、手工業と商業の発展とともに16世紀を頂点に繁栄します。しかし、こぢんまりと緩やかに歴史を刻んできたために、この町は中世の美しい街並みをそのまま残してきました。産業革命の波に取り残され、「死の街」とさえ呼ばれたこの町は、そのことによって工業化や戦争による破壊を免れたのです。ナチス・ドイツによる占領と、その後の共産党政権下で城も荒れ果て、廃墟同然となってしまいましたが、チェコが民主化された後、職人達の手で見事に修復されたのでした。
 ボヘミアの深い森に静かに守られて、中世の趣を今に伝えるチェスキー・クルムロフは、その街並みの類い希な美しさゆえに「眠れる森の美女」と呼ばれ、共産圏の崩壊とともに取り組まれた町の再興は「美女の目覚め」と称えられたのでした。
(2007.7.23)





 旧市街の中心はスヴォルノスティ(統一)広場です。迷いやすい横町は、結局この広場に通じています。この広場には、すぐ上の写真左手に見えるように、チェコの町によく見られるペスト記念塔が建っています。この記念塔は、1716年に造られたバロック様式の作品だそうです。



 上の写真は横町の街並みを撮したものからピックアップしたものですが、結構派手な色遣いがされているにもかかわらず、全体として調和がとれた落ち着いたたたずまいを見せているのが不思議です。

 狭い横町の先に「城の塔」が見えてきました。
 この円形の塔は、城が築かれた13世紀に、初めは質素なゴシック様式で建てられましたが、16世紀後半にルネッサンス様式へと外観が大きく変えられたそうです。その時に、アーケードと呼ばれる回廊を持つギャラリーが設けられ、壁面にも優雅な装飾が施されました。ピンクと緑色が印象的なこの壁面も、18世紀頃には相当みすぼらしくなってしまったようですが、その後、19世紀と20世紀に修復が行われ、チェスキー・クルムロフのシンボルとして甦ったとされています。
(2007.8.28)






 旧市街の中心部から、もう一度ヴルタヴァ川を渡って城へ向かいます。橋のたもとでは初雪にはしゃぐ子ども達が見られました。どこへ行っても天真爛漫な子ども達の様子は同じですね。


 城の東側には正門と思われる「赤い門」(写真上の左)があり、前庭を進んで、写真上の中の正面の建物とは中庭を挟んで、向かって左手に「城の塔」があります。入場料を払って塔のらせん階段を登ると、途中、写真上の右のような丸窓から早くも旧市街地の美しい光景が垣間見られます。期待に胸を膨らませて、息を切らせながらさらに階段を登ります。
(2007.10.13)





 カレル4世と「黄金のプラハ」 

 2006年には、勤続30年ということで5日間の休暇をちょうだいしたので、11月初めに中欧…チェコ、オーストリア、ハンガリーの3ヵ国を巡るツアーに参加しました。以前は、休暇の他にわずかな軍資金が当たったのですが、せちがらい世の中になったもので、数年前に麗しい制度は打ち切りになってしまいました。

 プラハ、ウィーン、ブダペストでそれぞれ2泊ずつする日程で、まず2日目の午前中は、プラハ郊外のカルルシュテイン城へ向かいました。写真下は背面側から見たもので、左端が王宮、真ん中がマリア塔、右端が「高い塔」と呼ばれる建物です。



 この城は、プラハの南西約30キロ、ベロウンカ川を見下ろす高台にカレル4世の別荘として建てられました。14世紀に建設されてから幾度となく増改築が行われましたが、外観、王宮の講堂、カレル4世の寝室などは当時のまま保存されているといいます。



 麓の駐車場からは上右の写真のように舗装道を馬車や専用のバスで向かいますが、それとは別の遊歩道に沿った両側は土産物屋やカフェで結構賑わっていました。
(2007.3.4)


 さて、このカレル4世(1316.5.14−1378.11.29)とはボヘミア王であり、神聖ローマ帝国の皇帝(在位:1346−1378年)でもありました。そして、名君としてかなりの善政を行い、今日でもチェコの人々から「ボヘミアの父」として尊敬されているそうです。

 神聖ローマ帝国というと、世界史の授業で習ったことがあるなといった程度で、よくわからないのですが、ヨーロッパの人々にとっては、特に為政者にとっては、ギリシャやローマというと何か特別の敬意、憧憬の対象のようですね。そんな気分の中で、かつての西ローマ帝国を引き継ぎ、ローマ教皇の関与で権威付けされたこの帝国は、10世紀から約千年にわたって生き永らえることになります。
 カレル4世が即位する14世紀のさらに百年ほど前は「大空位時代」といわれ、教権と王権がせめぎ合って皇帝が置かれなかった時期すらあった訳ですが、その後も皇帝となるはずの「ドイツ王」が2人併立して相争うといったことが長く続きました。こうした中でボヘミア王となったカレル1世(ボヘミア王としては1世、皇帝としては4世)が当時の教皇の後ろ盾もあって「ドイツ王」に選ばれ、たまたま対立するもう1人の「ドイツ王」が事故死したことにより“1人王”となったのでした。



 カレル4世の治世については後日さらに触れるとして、話をカルルシュテイン城に戻しましょう。この城は王の別荘であると同時に、財宝の保管庫として利用されました。このため、比較的に敵に発見されにくい谷間の地点が選ばれたようです。写真上左は王宮の中の謁見の間の玉座です。背後に窓があり、王からは相手が見やすく、王の表情は読みとりにくい配置にしてあるとの説明がありました。ところで、玉座の背もたれと窓までの間が1メートル以上もありますが、これがこの建物の壁の厚みです。当時の兵器の発達に即応したものなのでしょう。
 写真の真ん中はマリア塔に展示されていたボヘミア王の王冠です。ただし、これはレプリカで、本物は後にご紹介しますプラハ城のヴィート大聖堂内に収蔵されているそうです。右の写真が宝物庫である「高い塔」と呼ばれる建物ですが、内部の見学は許されていませんでした。
(2007.3.21)


 さて、そのカール4世は1356年、後世に大きな影響を残した「金印勅書」に署名し発布しています。選帝候たちの特権を大幅に認めるのと引換えに、皇帝選出の方法を確定し、帝国内の混乱を収拾しようとしたのです。教皇にひれ伏し、ドイツ諸侯、とりわけ選帝候の権益を認めて、皇帝の権威よりも平和を確立する現実主義の道を選んだことになります。
 カール4世の本拠地であるプラハは帝国の首都となり、プラハ城は拡張され、現在のカレル橋がヴルダヴァ川(モルダウ川)に架けられ川の東岸の市街地が整備されるなど、「プラハはローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほど」(Wikipedia)になりました。このほか、1348年には中欧で最も古いプラハ大学(カレル大学)も創立され、文化都市としても栄華を極めることになります。



 11月2日(2006年)の午後はプラハに戻り、ヴルダヴァ川西岸(プラハ城側)で昼食後、プラハ城を訪れましたが、写真上は昼食場所付近から城内の大聖堂の尖塔を望んだものです。写真下もその付近の市街地で見掛けた路面電車です。



(2007.4.3)


 プラハはヴルタヴァ川(モルダウ川と言った方がなじみ深いのですが、チェコではこう呼ばれます。)の両岸に発達した街で、旧市街の中心部からは対岸になる、同川西岸の丘の上にプラハ城がそびえています。この城は、歴代ボヘミア王の居城で、9世紀に建設が始まり、カレル4世の時代にほぼ現在の姿になったといわれます。
 直立不動の衛兵が建つ門から城内に入ると、宮殿、大聖堂、そして修道院などが所狭しと建ち並んでいます。写真下左が城の正門、右は今も大統領府として使われている宮殿です。



 城内の圧巻は何と言っても聖ヴィート大聖堂でしょう。チェコで最も大きく、プラハ大司教の主座として最も重要な教会で、ゴシック様式の代表的な建築物でもあります。大聖堂が現在の場所に建てられたのは925年とされ、その後、14世紀半ばからゴシック様式で本格的な建築が進められました。しかし、資金不足などによってたびたび中断されることになり、最終的な完成は20世紀の初頭まで約600年待たねばなりませんでした。



 上の写真は大聖堂の正面ですが、前の広場が狭いため上下分けての撮影になりました。左の写真の中央にあるのがバラ窓といわれ、下の左の写真が内部から見たものです。また、下の真ん中の写真は大聖堂の一番奥にあるステンドグラスです。



 写真上の右は、色とりどりの土産物屋が軒を連ねる「黄金の小径」。ボヘミア王で神聖ローマ皇帝でもあったルドルフ2世(1576〜1612在位)が、化学者や錬金術師を集めてここに住まわせ、不老不死の薬などを作らせたという言い伝えから黄金の小径と名付けられたそうです。実際は、王宮を守る兵士や召使い達の住まいとして建てられたようで、城壁に沿って大変窮屈な家々が並んでいます。
(2007.5.3)


 この後、プラハ城の丘を下り、路面電車が走る大通りを歩いてカレル橋へ向かいました。
 カレル橋はヴルタヴァ川に架かるプラハ最古の石橋とされ、全長約520メートル、幅は10メートル近くあって、両側の欄干に並ぶ30体の聖人像が有名です。ここには12世紀には既に木橋が架けられ、その後、石の橋になりましたが洪水で流されて、カレル4世の命で14世紀後半から60年かけて完成されました。当時の技術の粋を集めて築造されたゴシック様式の頑強な石橋は、以来600年、2002年8月も含め何度もの洪水に耐えてきたわけです。
 この橋の完成で、チェコの街は城側のいわば山の手から、川を挟んだ対岸の下町にまで旧市街地を発展させることになりました。



 上の写真は、対岸の橋のたもとからプラハ城(右上方)を望んだものですが、夕刻でかつ逆光のため美しい街が今ひとつ再現できていません。下の写真左は城側から橋上の様子を撮したもので、楽器を演奏したりするストリートパフォーマーや、銅版画などの土産物屋が所狭しと並んで賑わっています。奥には旧市街側のタワーゲートが見えています。



 カレル橋の名物はこの賑わいとともに、欄干に設置された片側15体ずつの聖人や英雄達の像で、上の写真右がその一つです。計30体の中には日本でもお馴染みのフランシスコ・ザビエルの像(写真下の左)もあり、彼を支えるように足下にうずくまるちょんまげ頭の東洋人も彫られています。

 

 さて、地球温暖化の影響か、ヨーロッパにも激しい異常気象が起こっています。2002年の8月にはドナウ川上流などでの集中豪雨で同川の流域などが洪水の大きな被害を受けましたが、ヴルタヴァ川の沿岸地域でも洪水に見舞われました。河川敷が整備されていて普段はカレル橋の橋桁の下をくぐることができ、私達も一旦橋の下を通って橋に上がる階段を登ったのですが、そこでその時の痕跡を見付けました。上の写真真ん中は橋の下をくぐっているところで、背後の橋脚に上方の黒い部分と下方の白っぽい部分とくっきり境目が見られます。この境目の所まで川の水位が上がり、水に浸かった部分が洗い流されて石積みの模様がはっきり見えるようになったということのようです。

 写真上の右は、旧市街地側の橋のたもと、フランティシェク教会前に建てられたカレル4世像です。城や橋の方向とは90度違う南の方角、ヴルタヴァ川の上流方向を向いているのですが、果たして何を見詰めているのでしょうか。
(2007.5.13)


 カレル橋を後にした私達は、たそがれ迫る石畳の路を旧市街中心部へ向かいました。旧市街地の中心と言えばやはり旧市街広場でしょう。この広場を囲むように、旧市庁舎、ティーン聖母教会(写真下左)、そして聖ミクラーシュ教会(写真下右)といった各時代の様式で建てられた美しい建物が並んでいます。
 また、その中央にはヤン・フスの銅像(写真下中央)が建っていて、歴史に残る民衆蜂起などの舞台となった広場を見下ろしています。ヤン・フスは、15世紀初頭にプロテスタントの先駆けとなる宗教改革を唱え、焚刑に処せられたチェコの最大の英雄です。彼を慕うチェコ人は「フス派」を結成し、この後、神聖ローマ帝国との間で長年にわたりフス戦争が戦われ、17世紀の三十年戦争にも影響を与えることになります。



 旧市庁舎は、旧市街広場の南西端にあり、建物が手狭になるに連れて裏側へ増築されていきました。このため、南側から見ると写真下左のように、建築当時のそれぞれの様式でつぎはぎに建てられているのですが、色とりどりの建物がそれでも調和を保って見えるのが素晴らしいですね。
 写真下左の最も右側の建物を大写ししたのが右の写真ですが、この壁面には有名な「天文時計」が設置されています。上の時計は24時間目盛りが刻まれ、盤面に見える丸い輪が時刻に合わせて回ります。作られた当時の宇宙観(天動説)に基づき、天体の動きを表しているそうです。



 その上部に2つの窓が見えますが、毎正時になると扉が開き、12使徒の人形が次々と現れるからくり時計になっていて、毎時その頃になると観光客がたくさん集まってこの時計を見上げます。
(2007.6.3)




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