
| 上味見地区のおいたち 上味見地区は、旧美山町の南東に位置し、東は足羽川の上流にあたる飯降山麓で深山零谷の由来深い山里である。 上味見の中心地、中手地籍 旧上味見小学校付近は東経136度25分4秒、北緯36度57分20秒に位置する。戸数については、1673年(延宝1年)82戸の記緑がもっとも 古く歴史の重さを感じる地域です。 人ロなどは別記のとおり 。 四方連山に囲まれ日射時間短く作物栽培上影響度大きい地域で交通の便も悪く古来より努力するも収穫物の販売には苦労したところです。 しかし、明治のころより道路改修(大野市、東河原方面)、トンネル(大野市へ)などを成し、また桑園の増殖、養蚕振興、木炭増産、蓄牛の増産など官民一体となって努力 した結呆、明治末期には貧村から富村へと変化を遂げた。明治44年には天長節の圭節に当り内務大臣より模範村として選奨の栄誉に浴した経緯がある。 この地城の歴史は長く、平安末期、即ち荘園時代は長承2年(1133年)参議、藤原成道の私領荘園として立荘された(醍醐寺文章より)地域である。現在の上、下味見地域は、小山荘内の「河原郷」と呼ぱれ折立村、河原村、味美村、有羅河内村の4箇所が書き記されている。 その中の「味見村」は中手を中心とした村、「有羅河内村」は小山庄小山郷と考えた時、河内区 的坂の山を越えた裏の河内ど呼ぱれたものであろ(醍醐雑事記)と推察できる。 次に室町時代の初め、永淳12年(1440年)の頃は、春日神社領即ち興福寺一条院領で「小山庄内紙山保五箇村の内」とI呼ぱれていた。(越前国大野郡小山庄田数諸済等帳) 安土挑山|時代は、天正3年(1575年)大野領主、金森長近の領となり、長谷川秀一、徴 田秀雄へと領主が経緯している.。 慶長.5年(1600年)大野郡が福井藩となったときは、大野木本領主、加藤宗月領5000石の内にあり、宗月は伊自良氏や村民とともに中手、樺神社の再建に協.力している。 江戸時代は大野藩、土井氏の領となり、明治の廃藩置県にいたるまで続いてきた。近世になって、昭和30年美山村合併で大野郡から足羽郡になった。 (平成15年9月 上味見地区区長会作成「上味見地区新まちづくりプラン」より) 平成17年2月に福井市、美山町、清水町、越廼村の1市3町が合併し、新たな歴史を歩みはじめた。 |
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上味見地区の人口経緯
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