月夜の睦言




 



「イルカ先生のバカ――っ!!大っ嫌いだ―――っ!!」

 始まりはその一声。

 涙まじりの啖呵を叩きつけた後、ナルトはばんっと襖を開け放った。

「ナ、ナルトっ!!ちょっと待………!」

 そうじゃないんだ、とイルカが不得手な弁解をする前に、ばたばたと忙しない足音が遠ざかっていき………

 ………やがて、玄関の扉がぴしゃりと閉まる音が聞こえた。

 これで当分、あの可愛い教え子の機嫌は直らないだろう。

「あぁ、もう………」

 仕方ないな、と疲れた顔で額を抑え、イルカは深い溜め息を吐いた。





 そもそもナルトの機嫌が思わしくなかったのは、結構前のことになる。

 夕飯を食べにいっていいか、という願いを断ったり、

 修行の相手になってほしい、などの健気な言葉を聞き入れなかったり、

 諸事情により、自覚はなくとも何だかんだと彼をないがしろにしていたようで………

 ………それで、今夜は前約束無しに突然訪ねてこられたのだ。

 まあそこはいいのだが、問題は「一緒に風呂に入りたい」と駄々をこねられたことで、自分としては断る以外に道はなかった。

 ……………そして、今の有様である。

 風呂ぐらい、自分だって一緒に入ってやりたかったのだが………

 

 

 

 

 

 

 

 



「イルカセーンセ。残業終わりました?」

 そんなことがあって、数日後の夜。

 職員室で、上司から押しつけられた仕事を黙々とこなしていたイルカの元に、もう耳慣れた声がかけられてきた。

「……………」

 片眉を下げつつ、無言で窓の方に目をやれば、予想にたがわぬ上忍の姿。

 素直にドアから入ってくればいいのに、と半ば呆れてイルカはペンを置いた。

 この男が現れては、もう仕事はできそうにない。

「今夜はまた何の御用ですか?カカシ先生」

「え~、理由もなく恋人に会いに来ちゃいけませんか?」

 そういうことを言っているのではない。

「いや、別に構いませんから……声、抑えてください」

 さり気に釘を刺しながら、スッとイルカは窓際にまで歩み寄る。

 どうも今宵は月が格別明るいらしい。

 光源が自分の仕事机にしかないのにもかかわらず、溢れるような青白い光が、カカシの銀髪を妙味な色に染め上げていた。

「それで?………理由はないんですね?」

「ああ、嘘です。イルカ先生、今夜は月が綺麗ですよ?」

 喰えない笑みを口端に浮かべつつ、カカシは答えになっていない返答をする。

 だが、彼の掌に酒瓶がしっかり握られているのを見て、イルカは小さく肩を竦めた。

「月見酒……ですか」

「ご名答。満月の夜ぐらい、快く承諾はしてはくれませんか?」

 ませんか、と尋ねてくる割に、口調は既に決め付けているもののそれだ。

 第一、満月だろうが新月だろうが、自分がこの男に逆らって勝利をおさめた試しがない。

 にこにこと、随分圧迫感のある笑みを押しつけてくる上忍に、イルカは腕組をしながら小さく嘆息して、

「わかりました。………ご一緒しますよ」



 これで、明日も残業決定である。

 

 

 

 

 



「やー、壮観。………いい場所でしょう?イルカ先生」

 てっきり自分か彼の家で月を見るとばかり思っていたイルカは、引っ張るようにして連れ来られた場にいささか面食らっていた。

 里に面した山の中腹辺り。木々の開けた、観月にはもってこいの良場である。

 冴々とした蒼暗の光を纏う満月は、思わず背筋が粟立つほどに凄絶だった。

「ええ、驚きました」

 素直に感嘆の意を述べ、イルカはひとつの平らで大きな岩の上に腰を下ろす。

 枝葉の合間を縫って流れ来る涼やかな夜風が、肌にとても心地よかった。

「どうぞ」

 同じく隣の岩に落ち着いたカカシが、盃を差し出してくる。

 断る理由もなかったので、それを受け取り、注がれた酒を少し喉に通した。

 それなりに酒には強かったイルカであるが、とてもこのウワバミな上忍には適わない。

 彼との晩酌のときは、酔いつぶれないよう、殺して呑むのが常だった。

「ヤダなぁ、イルカ先生。そんな大人しい飲み方しても、味なんてわかんないでしょ?折角の吟醸酒なんですから、ぐいっといってくださいよ」
 そんな彼にわざと苦笑して、カカシは言葉通り一気にそれを飲み干す。

 普段は隠されている、異彩な容貌。

 本当に血が通っているのかと疑いたくなるぐらいに、俗な気配が窺えない。

 こんな美丈夫が、何だって自分のようなものに過度に構うのかわからず、イルカは小さく首を振った。

「………あなたに迷惑かけるのもかけられるのも嫌ですからね………大人しく飲ませてもらいますよ」

 さらりと刺のある台詞を呟いて、彼はまた僅かに盃をあおる。

 要するに、酔いつぶれて世話になるのも嫌だし、それをいいことに寝台にもつれ込まれるのも御免こうむると言っているのだ。

「言ってくれますねぇ。………まあ、否定できないのが辛いトコですか」

 くくっと可笑しそうに唇を歪め、カカシは組んでいた足を投げ出す。

 不意に、伝わってくる雰囲気が変わったのを感じ、イルカは首を右に傾げた。

 途端、眼に否応なく飛び込んでくる、一文字の傷が刻まれた鮮眼。
 みつほむら
 三つ焔の宿る、希有な光だ。

「どうしました?」

 思わず見惚れていたところに声をかけられ、イルカはハッと弾かれたように表情を戻す。

 そして、照れ隠しのように酒に口をつけた。

「いえ、何も」

「……そうですか?俺に見惚れてくれるのは嬉しいんですがね、折角月見に来たんですから、前を見ないと」

 見透かすように笑みを深められ、イルカはじろりとカカシを睨みつけた。

「……意地が悪いですよ、あんた」

「はは、自覚は有ります」

 それじゃ尚更わけが悪い、と言おうとして無駄かとやめ、顔を前方に向ける。

 眼下に映る森と里は、あまりに深い静謐に満ちていた。

 その音のない景色、というのは一種異様なもので。

 どこか落ち着かなかった。

「ねぇイルカ先生」

 そうして、思い出したように酒を飲んでは、静かに月を眺めていたところに、相手からいきなり話しかけられた。

 少々眼を見張って、そちらを向けば、いつのまにか岩の上に横になっていたカカシと眼が合う。

 何度目の当たりにしようと慣れることのない色に、知らず背筋が緊張した。

「………何でしょう」

「俺といて楽しいですか?」

 屈託のない感を装った、唐突な問いかけ。

 思わず盃から唇を離して、イルカはカカシを凝視した。

 にこにこと、相変わらず小気味良さそうに笑っている。

 冗談か本気か、人心の機微に疎いイルカでは、それすらも掴むことが出来なかった。

 ………だが。

 それでも何となく、いつもの冗談とは違うような気が、した。

「……………別に嫌だとは思いません、けど………」

「うーん、上手な返答ですねぇ」

 幾分淀んだ声音で言うイルカに、カカシは苦く笑みながら膝を叩く。

 それを眼の端に映しながら、彼は気づかれないように顔を伏せた。

 嫌ではない。

 けれど楽しいという訳ではない。

 この孤独で気高い瞳に見つめられると、どうしようもなく居心地が悪くなる。

 …………それは多分、引きずり込まれることを恐れている所為。

 捕らわれれば、もう離れることが出来なくなる。

 自分に対する彼の異常な執着が、ただの遊びなのはわかっていたから。

 ……………終わりが来たとき、余計な迷惑を与えることは本意ではなかった。

 ……それとともに、自分の微かな自尊心にも。

「………そろそろ、一刻は経ちますね。夜気も冷えてきましたから、もう戻りませんか?」

「え~、もうそんなに経ちました?イルカ先生といると、どうも時間を忘れてしまうなぁ」

 真面目に言っているイルカの言葉に、カカシはごろごろと岩上で転がりながら茶化した返事を返す。

 態度から、どう見ても肯定とは取れなかった。

「…………嬉しいですよ。まあ嫌だと仰るなら、俺一人で………」

 帰りますから、と何気なく口にする前に、澄んだ音が辺りに響いた。

 ふたつの朱塗りの盃が、岩肌にあたる音。

「……ちょっ……!カカシ先生!?」

 持ち上げかけた上体を、常にない強力で岩に押し付けられる。

 驚いて顔を返せば、いつのまにか自分のいた岩場にカカシが飛び乗ってきていた。

「なに………」

「前から思ってたことなんですけどねぇ」

 肩の関節を拉がれそうな強さで押さえつけられて、早くも部位が痺れ始める。

 それに眉目をひそめて、抗議の声を出そうとすれば、図ったような美声に遮られた。

「………カカシ先生?」

「何だってあんたはそんなにつれないんです?……別に怒ってるつもりはありませんけど、拗ねたくはなりますね」

 怒ってない。

 その言葉を信じようと思っても、こんな異常な力で身体を組み敷かれれば無理な話だ。

「一応あなたの情人なんだから、もーちょっと優しくしてくれてもいいでしょう?……身体は許すくせに、心の方はからっきしだ。さすがに俺も参りますよ」

「そんなこと………」

「あるんです。自覚が無いんなら、余計腹が立つ」

 ………やはり怒っているようである。

 もしかすれば、自分を月見にと誘い出した時点からそうだったのかもしれない。

 しかしそう突然に切り出されても、イルカはどう対処していいのか分からなかった。

 逃れられないカカシの腕の中で、抵抗とも言えないほどの身じろぎをする。

 月を背負った、美しい上忍。

 その鮮やかな眼光に心ごと射抜かれそうで、知らず胸中が騒擾としだした。

「………肩、痛いんですが………」

「何で視線逸らすんです?…………ちゃんと俺のこと見てください」

 目を逃がして四肢をずらそうとすれば、もう一方の手でぐっと顎を持ち上げられる。

 その仕草も酷く手荒なもので、イルカは痛みに細く息を吐いた。

 責めるような色合いが塗り込められている、息も間近な双眸。

 見たくなかった。

 その光に魅せられてしまえば最後、もう忘れることが出来なくなる。

 すぐに訪れるであろう破局を嘆くような、そんな無様な真似はしたくないから。

 …………だから……………

「……つれなくなんてしてるつもりはありませんよ。あなたがここにいろと言うなら、別にそれを断りは………」

「だから、そうじゃないんですってば」

 ふい、とイルカの揺らぐ台詞を夜気に散らして、カカシは酒瓶を手に取った。

 それをおもむろにあおり、そのまま組み敷いている男の唇を奪う。

「………ッ…………」

 顎を押して口唇を開かせ、含んだ酒を流し込んで、柔らかい内部を舌で味わった。

 無理な体勢のまま酒を喉に追いやられ、イルカは小さく咳き込む。

 そうして、口端を伝う雫を舐め、カカシはようやく顔を上げた。

 その行為の意図を掴めず、イルカの心中は余計模糊なものになってゆく。

 飲まされた酒の余韻が、頭に甘い痺れを訴えた。

「確かに俺の誘いを断ったことはないですけど、あんたから誘ってくれたこともないでしょ?いつも受け身な立場にいて、いつはなれても不思議じゃないくらい、あんたは俺に何も望まない」

「カカシ先生………?」

「不安なんです、まるでガキみたいな言い方ですけどね」

 言い捨てて、カカシの指は迷わずイルカの服に伸びた。

 上衣を器用に取り去って、衿をくつろげさせそこに舌を這わせる。

 驚いたのはイルカだ。

 よもやこんな野ざらしの場で、挑まれることになろうとは。

「ちょ……っと………何、する気です?」

「わかりませんか?」

「いやそうじゃなくて………」

「じゃ、大人しくしててください」

 一方的に囁き返し、カカシは手を休めることなく彼の身体を苛んだ。

 逃れる術もなく、イルカはただ言いなりになるしかない。

 冷たい筈の清風が、やけに肌に熱く響いた。

「は……ぁッ………」

 涼しげな容姿に似合わず、濃厚な愛撫を与えてくる男に、必死で噛み殺していた声が洩れる。

 それに気づいて慌てて口を抑えても、襲ってくる羞恥に変わりはなかった。

「大丈夫ですよ、我慢しないで声出してください。………誰も来たりしませんから」

「……そう言う……問題じゃない、でしょう………」

 状況云々の前に、道徳心の問題だ。

 そう言ってぷいっと横を向いてしまうイルカに、カカシは笑って宥めるように口づける。

 先程から何度も口移しで酒を飲まされていたので、身体が過剰に火照っていた。

 内で生まれる熱が苦しくて、いい加減退くようにカカシに訴えるが、勿論聞き入れてくれるわけがない。

「………ッ………ぅ………」

「…………辛いですか………?……まあ、今夜はたっぷりと味わってください。俺を焦らした罰ですよ」

「……っ……だ、からっ……そんなつもりはなかった、って………」

「嘘ばっかり。あなたの場合見え見えなんですよ。どうせ俺があんたを離したときのことばっかり考えてるんでしょう?」

 さらりとそう口にされて、イルカは思わず潤んだ眼を見開いた。

 その素直な反応に、やっぱりか、とカカシは小さく溜め息をつく。

「………まあ、断言してもいいですけどね。俺からあんたを離すことはありませんよ、逆は分かりませんけど」

 それでも、絶対離してなんてあげませんが、と茶化すように口にして、カカシはなおも続けた。

「俺達は一応恋人同士なんですから、もっとあんたを見せてくださいよ」

 何だかんだ言っても、結局あんたは俺に背を向けたままだから。

 受け入れられないことより、信じてくれないことに腹が立つ。

 まぁ鈍感のこの人のことだから、そこまで自覚はないと思いますけど。

「………っ、カカシせんせっ………もう、やめ………」

「ああそうだ。イルカ先生、ナルトと今喧嘩してるでしょ」

 酷い圧迫感に眉根を寄せて耐えるイルカに、そんな脈絡のないことを聞いてくる。

 痛みに竦む喉を堪え、それでも彼は何とか返答しようとした。

「何故………それを………?」

「そりゃ勿論、ナルトから聞いたんですよ。………風呂ぐらい一緒に入ってあげればいいのに、可哀相ですねぇ」

 にやにやと意地悪く笑いつつ、カカシはイルカの肢を引き寄せながら含んだ台詞を囁く。

 その表情を見て、彼は何とも複雑な顔つきで低く声を出した。

「………わかって言ってるでしょう、あんた………」

「ええ、だってそれを狙ったんですから」

 しゃあしゃあとそう口にされて。イルカは開いた口が塞がらなくなる。

 それでは、とんでもなく大人げないのではないか。

「口づけ痕をたくさん残しておけば、あんたの肌は誰にも見られずに済みますもんね。自慢じゃないけど、女には残したことないんですよ」

「……そんなあからさまに言わないでください………第一、相手は子供………」

「ん~、だから言ってるじゃありませんか。そんなガキみたいなことをしちまうぐらい、俺はあんたに惚れてるんですって」

「………な…………」

 そんなことをにっこり笑いながら言われてしまえば、もうイルカは何も言い返せない。

 そうして、暫くはこめかみを抑えていた彼だが、やがてその腕はゆっくりとカカシの首に回された。

「イルカ先生?」

 悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。

 嫌われないよう、今の関係を崩さないよう、一人で鬱陶しく悩んで、何も言い出せなかった事こそ、既にこの男に溺れている証拠だったのに。

「………俺なんかにそんなこと言って、後悔しても知りませんよ?」

「さぁ、望むところです。あんたこそ、俺みたいなのに捕まって不運でしたね」

 俺はしつこいですよ、とけして冗談とは思えぬ口調で嘯く彼に、イルカは苦笑して腕に力を込めた。

 そして近づいてくる綺麗な顔に、初めて自分から唇を落として、



「俺の方こそ、望むところです」

 

 

 

 

 

 

 





「ねーイルカ先生ーっ!今日は一緒に風呂入ってもいいだろぉっ!?」


 そうして、挑発に乗ってしまったばかりに散々な目に会わされた日から三日後。

 まだ体調の芳しくない夜に、自分から啖呵を切ったはずの教え子が訪ねてきた。

 しかもその内容はまた風呂だと言う。

 折角機嫌を直してくれたと言うのに、またそれを損ねるのはイルカとしても辛いことだったが、かと言って、今の身体状況では絶対に彼の願いを聞き入れることはできない。

「なーいいだろっ!先生オレのこと嫌いなのかー?」

 ぷうっと頬を膨らませて再度拗ねだしたナルトに、イルカは慌てて手を振って、

「そんなことないぞ。オレはナルトのこと大好きだよ」

「じゃあいいっ!?」

「…………あー………えっと、風呂は無理だけど、一緒に寝よう。な、それでいいだろ?」

「ホント!?でももう子供じゃないんだから、一緒に寝るのはダメってイルカ先生言ったじゃんか」

「いやあの……今日は特別だ。この頃お前も頑張ってるからな」

 しどろもどろになってつがれるイルカの言葉を、それでもナルトは子供特有の単純さで疑いもなく信じたようだった。

「じゃあそれで許してやるってばよ!センセー、今日はオレ肉がいい!」

「ハイハイ。でもちゃんと野菜も食わせるぞ」

 ナルトの機嫌が直ったことに心底ほっとし、イルカは安堵の息を吐きつつ、台所へと向かったのだった。



 だが後日、ナルトと仲睦まじく寝入ったことが、何故かあの上忍の知るところとなり、またそれをネタにさんざっぱらいたぶられたイルカであった。



 苦労忍、イルカ先生の悩みは、今日もまた絶えない。

 

 

 

 

 

END


えーっと、折角リクしていただけたというのにこんな内容でいいのだろうか……(いや良くない)
甘甘で、カカシ先生と対等に張り合うイルカ先生、というのを書きたかったんですが……やっぱり文才の敗北です(TT)
うう、こんなので申し訳ありません。

 

 

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