最悪の任務だった。

 隠密裏に遂行しなければならなかった殺しの現場を、よりにもよってその標的の娘に目撃された。

 変わり果てた父の姿を目の当たりにして、悲鳴を上げようとする幼い娘の口を無理に塞ぎ――………

 ………そして、何の罪もない無垢な命を一つ、またこの指で奪った。

 最悪の任務。

 胸の悪くなるような、嫌な夜。

 そんな日には決まって、音のない雨が降っていた。

 

 

 

 氷 雨 

 

 

 

「――いくら慈雨とはいえ、こうまで続くと流石に気分が滅入りますね」

 何気ない様子で話しかけられて、桟に頬杖をついたまま、カカシは微かに首だけを動かした。

「ええ………確かに」

 半開きになった障子窓の向こうには、いつ止むとも知れぬ雨の気配。

 畳の上で胡座を掻いていた足を少しずらして、彼の目線はまた外へと向けられる。

 いつもの上衣を脱ぎ、黒い一対の軽着になって――………額当ても口布も、全てが畳の隅へと放り出してあった。

 誰にも見せない素顔を、カカシはイルカの前だけでは簡単に晒して見せる。

 それは決まって、こうして彼の家でくつろぐ時。

 イルカは、黙って窓の外をばかり眺めているカカシを別に気にした風もなく、酒と肴を乗せた懸盤を持って、相手の傍に置いた。

 そうして、自分も壁際に落ち着くと、書を開いて静かに眼を通し出す。

「………………」

 サァサァと音ならぬ真砂に似た音色を奏でる春霖。

 僅かに水の気配を含んだ、透明な室内の空気が、深く染み入るようだった。

 この中忍の先生といる時は、いつもこんな感じ。

 自分の方から押しかけるくせ、気のきいた会話もしなければ目線を合わそうともしない無作法者を、しかし相手は自然に受け止めてくれる。

 心地よい沈黙。

 こういうつかず離れずの雰囲気が、カカシは好きだった。

 勿論、その雰囲気を何気なく作り出してくれる、情人に対しても。

「………ねぇイルカ先生」

「はい?」

「酒、飲みませんか?」

「ええ」

 くるりと窓から身体を反転させ、傍らで書に眼を落としていたイルカに語りかけると、実にすんなりと応じる様子を見せる。

 そうして盃を交わし合い、ほぼ同時にそれをあおった。

「んー、いい酒だ」

「でしょう?昔からいい酒屋さんに付き合いがありましてね」

 にこ、と柔らかく微笑む相手にカカシも微笑で返し、つい、とまた視線を雨にやった。

 

 

 空を覆う雲は、けして陰ってはいないのに。

 どうして雨だけが、気づかぬままに天から零れ落ちてくるのか。

 

 

 

「………止みませんねぇ」

「……そうですね」

「俺、雨嫌いなんですよね。………濡れるし、足は汚れるし………冷たいし、ホント嫌になる」

「……………カカシ先生?」

 ただの愚痴にすぎない筈の呟きに、何か違和感のある響きを覚え、イルカは僅かに首を傾げた。

 盃を指先に乗せ、桟に肘をついて雨降る空を仰ぐ美丈夫。

 透けるような白晳の肌に、凛と開かされた異相の眼。

 本当に、綺麗な横顔だった。

 憂い、悲観、怒気………そんなやり場のない感情を秘めた表情に、知らず吸い込まれそうになる。

「ん?何ですか?」

 イルカの思慮深げな視線に気づいたのか、カカシは小さく苦笑しながら相手に眼だけを向ける。

 それに、イルカはにっこりと真率な微笑を浮かべて、

「いえ、本当にカカシ先生って美人だなぁと思いまして。明眸皓歯、ってのはアナタみたいなことを言うんでしょうねぇ」

 澄んで美しい瞳に、白い歯並び。

 その予想だにしなかった麗句に、カカシは一瞬虚を突かれたような顔になったが、

「ハハ、またお上手な。………でも俺の眼は、そんなに澄んでるわけじゃありませんよ」

 どころか、時折、濁りすぎて何も見えなくなることがある。

 この手を染めた血の数は、罪と呼べるものがあまりにも多すぎて。

「そうですか?………俺はカカシ先生の眼、大好きですけどね」

「え?」

 唐突にひょいと前髪を掻き上げられ、イルカの手指がそっと左の眦辺りに触れてくる。 

 暖かくて、優しい指先。

 何よりも、自分安心させてくれる………

「………ねぇ、イルカ先生」

 その微かな温もりにゆっくりと瞼を下ろしながら、カカシは彼の手に自分を重ねた。

 許してくれるだろうか。

 この人は、俺の罪を。

「はい?」

「俺、昨晩任務だったんですよ」

「………ええ、聞いてましたが。確か、暴利を貪っていた悪徳商人を………」

「そいつにね、まだ幼い子供がいたんです」

 相手の白い掌に口づけながら、カカシはにこりと辛そうにひとつ笑う。

 軽蔑されるかもしれない。

 綺麗だと言ってくれたこの眼を、幼い血糊で染めたのだから。

「真夜中だったから……ちょっと油断があったんでしょうね。そいつの首落とすのと同時に、部屋に入ってこられちゃって……まだ十にも満たない女の子だったなぁ」

 だった、と、そう言い切る彼に、イルカは一瞬眼を見開き、そしてすぐに戻す。

「父親の首なし死体を見せつけられた上、もろに血を被ったもんだから、失神寸前になっちゃって………いっそ、そのまま気を失っててくれればよかっ………」

「もういいですよ、カカシ先生」

 自身を責めるように笑うカカシの呟きを遮り、イルカは彼の頭を引き寄せた。

 彼の首元に顔を埋めながら、暫し黙した後、カカシはきつく瞑目する。

 気を、失っていてさえくれれば。

 あの子の細い頸骨を砕く音を、この耳に聞くこともなかったろうに。 

「………イヤですよねぇ、こういうの………」

「……?先………」

 みなまで言い終えるより早く、力強い腕の中に抱き込まれた。

 襟髪の近くに顔が寄せられ、イルカはくすぐったさに僅かに身を捩る。

 が、

「………………!」

 その瞬間、彼の瞳は瞠目したまま一点に吸い寄せられていた。

 絹糸のようにしなやかな銀の髪に、透いた真白い肌。

 ……そうして、鮮やかな三つの燎火が刻まれた瞳から伝う、一筋の雫。

 泣いているのだと、そう感じられないほどに静かな………美しい、涙。

「………あんまり、俺を惑わせないでくださいよ、カカシ先生」

 そんなカオされると、こっちまで辛くなるじゃないですか。

 言って、僅かに微苦笑をたたえながら、イルカは指先でそっとその雫を掬い取る。

 だが、カカシは彼の仕草にようやっと気づいたような表情を作って、

「ああ………俺、泣いてます?」

「………みたいですね」

「変だな………そんなつもりないんですけど………」

「たまにはいいんじゃありませんか?………いつもは、俺が甘えてばっかりですからね」

 柔らかな揶揄を囁きながら、眦を濡らすそれを拭おうとしたカカシの腕を止め、イルカは代わりに自らの唇を寄せた。

 そうして啄ばむような動作で涙を舐め取り、そのまま彼の額に口づける、

 泣かないでくださいと。

 不安を覚えるほどに優しい仕草が、今は逆に辛かった。

「………何で、あなたはそんなに優しいんです?」

 仮にも上忍の称号を渡されながら、決して犯してはいけない過ちを歩んだ俺に。

 ………あなたがそんな風だから、俺は自惚れてしまうんですよ。

 ………………この人だけは、何があっても自分を裏切らないと………そんな傲慢な思いを。

「………俺のこと、許してくれるんですか?」

「ええ」

「………どうして?」

「だってカカシ先生は、自分で自分を許そうとなさらないでしょう?」

 あなたは、本当に己に厳しい方だから。

 罪から眼を背けるような、そんな真似が出来る筈がない。

 ………だから、もしあなたが俺を頼ってくれるのなら、

 道理に背いてでも、多少なりとその苦悩を和らげたいんですよ。

 だって、俺はあなたのことが大好きなんですから。

「………は、は………適わないなぁ、ホント」

 その告白を、カカシは暫し薄い自嘲を醸した笑みで聞いていたが、やがて吹っ切れたように、イルカを畳の上へと押し倒した。 

「うわっ…と。……カカシ先生?」

「あなたは、俺の喜ばせ方が上手すぎですよ、イルカ先生………そんなこと言われた所為か、酔いが回っちゃったみたいです」

「酔いって………まだ盃に一杯程度しか………」

「ハイハイ、黙ってー」

 実に尤もな言い分を都合よく受け流し、カカシは早々にイルカに覆い被さってくる。

 別に抵抗する気はないが、あまりの変わり身の速さに頭がついていけないでいた。

「で、俺すっかりその気なんですけど、いいですか?」

「………駄目って言えば、聞いてくださいます?」

「んー、良い愚問ですねー。じゃあいただきます」

 会話になっていない会話をさっさと打ち切り、カカシの細い指が上衣の中に入ってくる。

 肌を煽るように愛撫する淫靡な手の蠢きに、僅かに身を捩ってかわそうとしたが、それもやんわりと阻まれた。

 それに、やれやれと諦めたような顔つきになり、イルカはふと相手の容貌に眼を止める。

 普段は無粋な布に遮られて、ほとんど表に現れることのない、銀色の繊細な美貌。

 線が細いわけではないのに、どこか儚くもある、それ。

(………っとに、綺麗だよなぁ………)

 少しも俗なところがないから、知らず眼を奪われてしまう。

 何でこんなに強い人が、俺なんかを頼ってくれるのだろう。

 何気にそんなことを考えていれば、流れるようにして滑ってきた相手の目線と、しっかり絡み合う羽目になった。 

「どうしました?イルカ先生」

「あ、いや、あなたに見惚れてました」

「………またそんな。照れるって言ってるでしょうが」

「だって本当のことですし。………俺だけが知ってるなんて勿体無いですよ、こんな端麗美人」

「んー、誉め殺しですねぇ………いいんですよ、あなた以外に、素顔見せる気はありませんから」

 あなただけが知っていてくれれば、それでいいんです。

 俺が唯一、虚飾を纏わずに己を曝け出せる人。

 

 

 

 

「………っ………ふ、っ………」

 堪えようと思っても、与えられる衝撃に息が漏れる。

 しつこいほどに慣らされた秘処は、多少の抵抗を見せながらもカカシを受け入れていった。

 それでも、やはり痛みがないわけではない。

 苦しげに顰められるイルカの眉間に、綺麗な情人はそっと唇を落とす。

 先程、イルカがカカシに口づけたのと同じ処。

「………………あー、雨止みませんねぇー………そういや、長雨って、淫雨って言うんですよ。知ってました?」

「………何が言いたい……んですか………?」

 巧みに腰を抱き込んで揺さ振られ、イルカは畳に散った衣服に爪を立てて背を反らせた。

 痺れるような快感が、カカシの身体を包んで行くのを感じる。

 どう我慢しようと思っても、彼相手には歯止めがきかないらしい。

「いーえ、別に。……ただ、早く止まないかなー、ってね………
 ………俺は、雨が嫌いだから………」

 

 

 

 ……………そう、雨は嫌いなんですよ。
                                  
  オレ
 あの冷たい雫の檻は、残酷に、そしてあまりに簡単に罪人を捕える。

 ………そんな透明に濁った氷針の向こうに、あなたのぬくもりさえ忘れそうになるから。

 

 

「………ねぇ、イルカ先生」

「……何ですか?」

「あなたが、いてくれてよかった」

 

 

 

………だから、お願いだから俺の傍にいて下さい。
             
 うぎり
 これ以上、この昏い雨霧のなかで、ひとり彷徨うことのないように。

 

 

<終>


ぎゃぁぁぁっ!何か二人とも性格が違うっ!(叫)
リクは「イルカ先生の前で涙を流すカカシ先生+ヤバさあり」とゆう素敵なものだったのですが…
折角のリクエストをここまで裏切ってどうするよ、私っ!(TT)
たまには、ちょっと余裕のあるイルカ先生もいいかと思いまして………
………しかし前半、何だかイルカカのような感じになってしまったり(汗)
加えてちっともヤバくなくて申し訳ありません;ああ修行の旅に出ます(戻れ)

懸盤…四本足のついた料理を載せる盆。
真率(しんそつ)…正直で飾り気のない様。
燎火(りょうか)…かがり火。

 

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