そんなあなたが




 



 最近、どうもイルカの身辺が落ち着かない。

 別に、ナルトが歴代の火影像にペンキで落書きをするとか、火影様に変な術をかけて出血多量で危ない目にあわせるとか、まあその辺をどうこう言いたいわけではない。いずれ言わなくてはいけないだろうが。

 ………ともかく、日々に精神の安定を見出すことが出来なくなっている。

 それというのも、

 




「ねえイルカ先生。食事でもどうですか?」

「遠慮しておきます」

「じゃあ飲みにいきません?」

「結構です」

「それなら俺の家に来ませんか?」

「しつこいですね、あんたもっ!」

 おさまるどころか段々調子付いてくる誘いに、堪えようと思って結局堪えきれず、イルカは記入していた簿記をばんっ!と机に叩きつけて立ち上がった。

 そこでまた後悔する。

 あわせたくもなかった相手の右目と、かなりばっちり視線を絡ませてしまったからだ。

「やっと俺の顔みてくれましたね」

 額を抑えるイルカに、眼前の背高い美丈夫はにっこりと笑う。とは言っても、窺い知れるのは片目だけなので、あまり細かな感情の起伏は掴めないのだが。

 はたけカカシ。今、教え子であるナルトの面倒を見てくれている上忍である。

 その比類無き強さと生徒に対する愛情の深さは、イルカも素直に尊敬しているが、いかんせん自分にむけられる性格はお世辞にもいいとは言えない。どころかはっきり言ってとてつもなくタチが悪い。

 飽きっぽそうな外見に似つかず(偏見)、非常にしつこい人なのだ。自分が決めたことなら、それが例えどんなに理不尽であっても、けして曲げようとはしない。

 そう、今の場合であれば、何が何でも自分を晩酌に連れ出すつもりらしい。

「まったく、何であなたはそう………」

 大体、男が男を飲みに誘って何が楽しいというのか。

 彼ほどの容姿ならば、そのけったいな口布と額当てさえはずせば、言い寄るものなど数多といるだろうに。

 などと今愚痴ったところでどうにもならない。イルカは何とか気を取り直して、もう一度帳面に向かおうとした。

 が、ひょいと間髪を置かず、それを目ざとい指にさらわれる。

「カカシ先………!」

「俺と飲みに行ってくれますか?なら返します」

 まるで子供のような言い分。わかってやっているのだから手におえない。

「カカシ先生。ここが職員室だってわかっていただけてますか?」

「勿論」

「なら職務の邪魔をしないで下さいっ!」

 それは明日までに処理しなきゃいけないんですから、と仕事を武器に申し出を辞退しようとしたのだが、当然無駄だった。

「んー、でも俺には関係ないですし」

 などとふざけたことを呟いて、至極楽しそうに書類をもてあそびつつ、イルカの返答を待っている。

 このまま返してくれる気色などさらさらなさそうだった。

 そんな不毛な口喧嘩に、ハア、とイルカは溜め息をつき、渋々両腕を軽く脇に上げる

「わかった、わかりました。喜んでご一緒しますから………とりあえず、それ返してください」

「約束ですよ?……それにしても、毎度毎度懲りないですよねぇ、イルカ先生も」

 嫌がっても無駄なんだから素直に同意してくれればいいのに、とおよそ賛同できそうもないことを口にして、カカシはイルカに書類を手渡す。

「じゃ、早くしてくださいね。俺、あそこで待ってますから」 

 と、隅に置かれている仮眠用の椅子を指差して、にっこりと笑った。

 既にその手には、愛用のいかがわしい本が納まっている。

 ………どうやら、仕事を不必要に長引かせる作戦は通用しそうになかった。

「…………わかりましたよ。すぐに終わらせますから」

 うんざりした表情で頬杖をつきながらも、イルカは鈍り気味だったペンの速度を心持ち速めたのだった。


 

□□□□

 

 


「やー、気持ちのよい夜ですね」

「………そうですね」

 月が中天に輝き、肌に触れる夜気の心地よい街道。

 おざなりな返事をかえしつつ、イルカは不機嫌さを思いっきり外に表していた。

 言葉で適わないのだから、態度で示すしかない。

 しかし、

「やだなぁ、そんなに可愛い顔してたら襲っちゃいますよ?」

 敵もさるもの。そんなおぞましい台詞を真顔で囁かれれば、素直に聞かざるをえなかった。

 そして、この天邪鬼な上忍には何をしても言っても無駄だと悟ったのか、はたまた自棄になったのか、イルカは仕方ないと言った様子でカカシに語り掛ける。

 こうなったらもうどうでもいい。さっさと付き合って帰宅しよう。

「で、どこに行くんですか?俺、美味い店何軒か知ってますけど」

「んー、それもいいですね。でも俺、任務を終えたばっかで懐があったかいんですよ」

 ようやく協力的になったイルカににっこりと笑いかけ、カカシは的の得ないことを言う。

「はあ……それが何か?」

「ええ、だから豪遊といきませんか?こっちですよ」

 言って、カカシはぐっとイルカの腕を引き掴みつつ、ひとつの角を曲がった。

「は……ちょ……ちょっとカカシ先生……!」

 行きませんか?と問いかけておいて自分で肯定していれば世話はない。

 反論の間すら許されず、上忍特有の身軽さと強引さで、イルカは引き摺られるようにして歩き慣れた道を後にしたのだった。



「……………それで?」

「え?」

「何なんですか、ここは」

 とある、言えば有名な街路。

 その入り口付近で仁王立ちになって、イルカは冷え切った声でカカシに話しかけた。

 不機嫌とか呆れたとか、そんな感情を通り越した顔つきになっている。

「何って言われましても……見たままですが」

「だから、何だってこんなところに飯食いに来なくちゃいけないんですかっ!!」

 そらとぼけた口調に怒りを逆撫でされ、イルカはびっとその路地を指差しながら非常識な男に食って掛かる。

 街路の名は、別称遊楽街。

 夜になれば桃色や黄色の派手な灯りが花咲き、朝まで喧騒の絶えることのない、里で一番大きな遊郭通りである。

 勿論、イルカは一度だってお世話になったことはなかった。

「付き合ってられません。帰らせていただきます」

「まあまあ、そう言わず。こう見えて楽しいところなんですから」

 くるっと回れ右して去ろうとしたイルカの衿を掴み、カカシは問答無用で中に足を踏み入れる。こちらの言い分などしったことではないらしい。

「ちょ……っと、カカシ先生!」

 何でたかが晩酌で、こんなところに連れてこられなくちゃいけないのか、堅物なイルカは混乱寸前だった。何より、この風貌の目立つ男と仲良く並んで歩きたいとは思わない。

 ………が、客引きの芸妓がひしめく中、子供よろしく手を引っ張ってゆかれるのも、言葉に出来ないくらいイヤだった。

「~~~わかりました、お付き合いしますから!手を離してください!」

「………本当ですか?」

 その勝ち誇った台詞に噛みつく余裕もなく、渋々頷くイルカを見て、どこか名残惜しそうにその手は離れる。

 そして、そのままひどく自然な様子で彼の肩を抱いた。

「!?!?」

 一息をつく間もなく、次のカカシの馴れ馴れしい動作に、イルカは完全に惑乱の体を見せた。

 遊郭街で、男同士意味もなく触れ合うのがイヤだと言っているのに、この男には耳がないのだろうか。

「だ………」

 肩ぐらい別にいいでしょう?そう知らぬ仲でもなっ………」

 ばきっ。

 往来でとんでもない台詞を口に仕掛けたカカシの後頭部を、思わずイルカは拳で殴りつけていた。

 しかし流石は腐っても上忍。大したダメージを受けた風もなく、患部を軽くさすりながら、拗ねたように口を尖らせるだけだ。

「痛いじゃないですか、酷いなぁ」

「それ以上何か言うなら、その口縫い付けますよ。場所をわきまえてください、場所をっ!」

 本当に何を考えてるんだか、この上忍は。

 どう素直に見積もっても、自分を困らす為としか思えない。

 第一、知らぬ仲も何もあれは………

「あーら、そちらのお兄さん方。仲がおよろしくて結構ねぇ」

「本当、私達は横に侍らせていただけないのかしら?」

「ふふダメよ、お邪魔しちゃあ」

 などと、結局その体勢のままひとつの楼閣の前を通ろうとした時、妙に艶を含んだ独特の声がかけられる。

 イルカが強張った表情でそちらを向けば、見るからに客引きらしい、豊麗な芸妓達がくすくすと笑いながら佇んでいた。

 既に、何かよろしくない誤解をされたようである。

「………~~っ」

 だから言ったじゃありませんか、と今にも泣きそうな顔で睨みつけてくるイルカの視線を軽くいなし、カカシはその芸妓達に愛想良く手を振った。

「はは、やっぱそう見える?この人はにかみ屋だから、困るんだよねぇ、イロイロと」

「ふふ、いやぁねぇ惚気?あんまり奥手な人を困らせちゃあ逃げられるわよ?」

「それより、そちらの可愛いお兄さんと一緒に、どう?お邪魔じゃなければ、お酌ぐらい付き合うけれど」

 誤解された。完っ全に誤解された。

 いたたまれなくなって逃げ出そうにも、上忍の意地の悪い腕がそれを許してくれない。

「んー、サスガお姉さんがたは寛大だねぇ。でも悪いな、もう場所決めちゃってるんだ」

「あら残念、じゃあまた今度ね」

「ああ、そん時はよろしく」

 そんな簡単な会話を交わし、カカシは尚もイルカを奥へと引き連れていく。

 もう何を言う気にもなれなかった。

「もー、そんなに怒らないでくださいよー。それじゃあまるで俺が貴方を苛めて楽しんでるみたいじゃないですか」

「…………その台詞のどこに嘘があるんです?」

「あはは、バレました?」

 からからと完璧に人を小馬鹿にしたような態度で笑う男を、本気でもう一度殴り倒したくなった。

 くどいようだが、カカシは上忍である。

「おー、ここだここだ」

 嬌声や酔っ払いの怒号が飛び交う歓楽街を進み、カカシは未だにイルカの肩を抱き寄せたまま、ひとつの楼閣を指差した。

 不機嫌そのものな顔つきでそれを仰げば、随分と立派な門構えをしている。

「何でわざわざここを………?」

「ええ、俺の知り合いがいるものでね」

 訝しげなイルカの問いかけに即答すると、カカシは早速中に足を踏み入れた。

 必然で、同伴者も強制的に入らされることになる。

 華美に飾り付けられた楼閣の中は、酔漢や芸妓達でごった返しており、騒がしいことこの上なかった。

「どーも、宴会が重なってる時に来ちゃったらしいですねー」

「……宴会……ですか……?」

 こういう店の仕組みがどうなっているのかがイマイチわからないイルカは、釈然としない顔で首を傾げる。

 聞けば、ここはお偉方の接待にも使われる、高級ではあるが大衆的な妓楼なのだそうだ。

 そんなのもありなのか、と変に納得はしたものの、彼は居心地が悪そうに辺りを見回す。

 こういう雰囲気は、どうにも苦手だった。

 だがそんなイルカの戸惑いなどどっちのけで、カカシは顔見知りらしい芸妓に軽く話しかけた。

 酒を宴会場に運ぶ最中だった彼女は、突然呼び止められて少し驚いたような顔になる。

「あら珍しいじゃないの、先生。玄関口で呼んでくれればよかったのに」

「いや、忙しそうだから気づいてもらえないと思ってさ………今日は一段と賑やかだから」

「そうなのよ、三つも大きな宴会が重なって嫌になっちゃう。ああでも、先生の部屋はちゃんと空いてるわよ。女将には言っておくから、好きにあがってらして」

「じゃ、遠慮なく」

 随分と親密そうに交わされる会話を、イルカは横で大人しく聞いていた。

 これ以上下手に暴れて、余計な語弊を招きたくない。

 が、

「あら、今日はイイ人連れ?ホント珍しいわねぇ、先生が」

 その今気づいたような直球な台詞に、イルカは本気で眩暈を覚えた。

 どうしてそう、全然まともでないコトをさらりと言ってのけるのか、この界隈の芸妓達は。

「ウチの女の子達じゃあ満足していただけないのかしら?特に私とか」

「とんでもない。ただ今はこの人一筋なだけ」

「…………」

 思わずぐっとイルカは拳を握り締めたが、さすがに彼女の手前、何とか踏みとどまる。

 そうして、二、三言他愛のない言葉交わすと、カカシは勝手知ったる様子で階段をあがっていった。

 

□□□□

 



 ぱたん。どかっ。

 ある奥まった小奇麗な一室。そこの襖を閉めた途端、イルカはカカシを思いっきり蹴り飛ばした。

 ようやく押さえ込まれていた肩が楽になって、数回ぐるぐると回転させてみる。

 案の定、馬鹿力で掴まれていた所為で感覚がないほど痺れていた。

「うーん、ひどい扱いですねぇ。もしかしてイルカ先生なりの愛情表現ですか?」

「んなわけないでしょう!」

 身軽く背を返して、スッとそのまま敷かれた座布団の上に座り込むカカシに、イルカは堰切ったように怒鳴りついた。

 既にその顔は羞恥か怒りの所為で赤らんで、カカシの眼を楽しませるに至っている。

「大体、誤解されるようなことをベラベラと……あんたには羞恥心ってもんがないんですか?ここは陰間でもないのに………」

 さすがに後半はもごもごと言葉を濁らすイルカに、カカシはん
?と上機嫌な様子でにやついて、

「あはは、そんなことありませんよ?表立ってないだけで、この通りにもたくさん陰間ぐらいありますって」

「えっ?」

「第一、店側としては金稼げりゃいいんですから、そいつが女連れてようが男構ってようが関係ないんですよ」

 なかなかネタを割った台詞をすらすらと言ってのけて、カカシはイルカをちょいちょいと手招きする。

「それよりほら、そんなところに突っ立ってないで座ったらどうです?ずっと緊張してたみたいだから、疲れたんじゃありませんか?」

 くくっと喉を奥で笑いつつ揶揄するカカシを、イルカは心底悔しそうな表情で睨みつけた。

 どう抵抗しても、結局この人の言いなりになっている自分に腹が立つ。

 別にこういう行き付けの店があるのなら、誰も誘わずにくればいいのに。

 それもわざわざ、知り合って間もない自分なんかを………

「イ・ル・カ・先・生」

「うわぁっ!」

 少しうつむいていた視界にカカシの顔が突然飛び込んできて、イルカは思わず頓狂な声を上げてしまう。

 そのままほとんど足払いに近い動作で、彼の身体は鮮やかに押し倒されていた。

「そんなに拗ねないでくださいって。ここの料理も酒も美味しいんですよ?機嫌直してくれるぐらい、ご馳走しますから」

 などとのたまう側から、自分を組み敷くようにのしかかってきたカカシに、イルカはついぞない脱力感すら覚える。

 これでは機嫌を損ねろと言っているようなものではないか。

「着いて早々何をするんですか、あんたはっ!!重いんですから、退いてください!」

「え、重いですか?これで結構細い部類に入ると思うんですけどねぇ………」

 焦って抵抗するイルカに嫌みったらしく笑いかけつつ、カカシは完全に論点のずれた返答をする。

「嘘ばっかりつかないでくださいよ……」

 確かにこの上忍見た目は細いが、ほとんど非常識なほどに筋力があることを知っている。

 だから、脱いだときには意外に逞しい、豹のような身体つきで………

「…………っ…………」

 連想するようにイヤなことを思い出して、イルカは更に顔を真っ赤に染める。それが誘導されたのだということに、勿論彼は気づかない。

「あれ?何赤くなってるんですか、イルカ先生」

「~~……っ、な、何でもないです!いいから…っ、もうどいてくださいって言ってるでしょう!」

 叫んで、力の限り身体を押し退けようとしても、やっぱり岩の如くビクともしない。体躯から見ればそうそう違いなんてなさそうなのに、とイルカは卑屈な気分すら抱きそうになった。

「勘弁してくださいよ………」

 遊ばれていることを頭では承知しているけれど、こういう飛びぬけたスキンシップに彼は慣れていない。

 そして勿論、カカシはそれを踏まえた上でやっていた。

「つれない人ですねぇ、折角こーいう場所まで足を運んだっていうのに」

「俺が来たいって言ったわけじゃありませんっ!」

「二度目なんだから、そう過度に警戒することもないじゃないですか」

「………っ………!あ、あんなもんほとんど………っ!」

 ――――――無理矢理じゃないですかっ!!

 などとあからさまな台詞をこの男が口にできる筈もなく、不承不承そこで勢いを沈めるしかない。

 確かに純粋に初めて…とは言い難かったが、それでも前回のあれは強姦だった。

 晩酌に誘われ、度が五十を越えるような酒をそれこそ浴びるほど呑まされて、八割方夢うつつの状態のときに挑まれたのだ。

 途中で完全に酔いが覚めるのに、そう時間はかからなかった。

 しかもどれだけ暴れようと罵ろうと、泥酔した四肢では抵抗の意味がなく、本気で気を失うかと思うぐらいに苦痛しかない行為を強要された。

 痛くて辛くて、どんなに屈辱を呑んで懇願しようと、許すどころか手加減すらしてくれず………

 それで、明け方まで解放されなかった身体は、寝台から置きあがれるまでに回復するのに、たっぷり三日はかかったことを記憶している。

 ………おかげで、毎日自分を訪ねてくるナルトへの言い訳がどれだけ大変だったか………

 …………そんなメに人をあわせておきながら、翌日から臆面もなく話しかけてくるのだから、この図々しさには呆れるどころか感心したほどだ。

 ……まあ、そんな前歴のある男に、のこのこついてくる自分も、救いようがないほどにどうかしているとは思うが。

 余計なことを思い起こして、かなり深い自己嫌悪に陥りながらも、イルカはそれこそ必死で抗った。

 こんな場所で動けなくなるなんて、死んでもごめんである。

「大体俺なんかで遊んで何が楽しいんですがっ!ここには綺麗な人がたくさんいるじゃないですか!」

「ああ、妬いてくれてるんですか?」

「いーから、俺の上からおりてくださいっ!!」

 意図を持ってのらくらと滑らされる会話に、いい加減精根尽き果てそうになったとき、

「あらあら、お盛んねぇお二人さん」

 唐突にカラリと襖があけられ、酒とつまみを持った芸妓が入室してきた。

 いや、芸妓というか………

「ああ、悪いな女将。ちょっとじゃれて遊んでただけだ」

 言うと、カカシはひょいっとイルカの上から離れ、ついでに彼を引き起こす。

「……………」

 何かよく分からないが、とりあえず助かったらしいと、イルカの上気した頬を宥めながら座り直した。変な場面を見られた、と言うことはとりあえず棚の上である。

 そうこうしている内に、部屋に備え付けられている鼈甲色の卓の上に、慣れた手つきで酒と肴が並べられた。

 カカシの言った通り、随分といい酒のようで、置かれた瞬間に気品のある香りが鼻腔をついてくる。

「久しぶりじゃない、先生。この頃はご無沙汰だったわよねぇ」

「んー、安月給の身分じゃなかなかね」

「ま、よく言う。個室まで作っておいて言う人の台詞じゃないわよ」

 全く気紛れなんだから、と笑いつつ、次には何気にイルカの両肩に手を置いてきた。

「え?」

「で、こちらの方はどなた?」

「俺の恋人」

「殴りますよっ!!」

 しゃあしゃあと言ってのけるカカシに、揶揄でなく頭の血管が切れそうになる。

 だが女将は至って平素な様子で、ふぅん、と返事をしただけだ。

 しかも、その響きには何だか面白げなものが混じっている。

 更に、

「ホントに珍事ねぇ………どれどれ」

 意味の汲み取れない台詞を呟いた後、ぐっとイルカの顎を細い指で持ち上げた。

 わけもわからず固まる彼の眼に、彼女の容姿がまっすぐ飛び込んでくる。

 完璧な化粧の施された、圧倒されるような豪華な美貌。

 知らず腰がひける。

「あ、あの………」

「随分と真面目そうな方じゃない。………もしかして強制?」

「さあ、ど-でしょうね」

「ふぅん………何も言われたくないところを見ると、ご執心のようねぇ」

「………わかっちゃいます?」

「遊郭歴の長い私をなめないでくれるかしら?」

「はは、そーですよねぇ、もう数十年だもん」

「……お酒に毒入れるわよ、先生」

 まるで狐と狸のばかしあいである。

 まだ平静を取り戻していなかったはイルカは、その早い言葉の応酬にほとんどついていけなかった。

「ま、いいわ。ゆっくりとしてらっしゃって。一階はあのとおりだけど、この辺は静かだから………それで、食事でも持ってきましょうか?」

 スッと着物の裾を揺らして優雅に立ち上がる女将に、イルカはようやく食事にありつけるのかと息を吐く。

 今日は昼から働き詰めだったから、まともなものを口にしていないのだ。

 が、しかし。

「いや、この一升瓶だけで結構。食事は朝にくれます?」

「な……!?」

「はいはい、それじゃあ………あんまりイジめちゃいけませんよ、先生」

「努力しますよ」

 口を開けたまま微動だにしないイルカを後目に、女将は全く動じない様子でぱたりと襖を閉めて去って行く。

 その遠のく足音を耳にした瞬間、今度こそイルカの堪忍袋は爆発していた。

「どういうことですか、カカシ先生っ!食事に来たって、さっきあんたが言ったんでしょうがっ!」

 ここの料理は美味しいから、鱈腹食わせてやると聞いて、そこだけは喜んだのに。

 肝心の夕餉の誘いを蹴るとはどーいうことか。

「えー。だって食った後に激しい運動はキツイでしょ?いや、俺は構わないんですけど、イルカ先生がね」

「…………は?」

「だからコトの済んだ朝に食べようって………ああでも、またあなたは動けなくなっちゃいますかね絵、そーしないように手加減するつもりではいるんですけど」

 何だか物騒な響きのあるカカシの呟きを、イルカは慣れない感性を使ってどうにか分析しようとした。

 食後の運動は辛いから朝にまわして、でも自分は起き上がれなくなって、いやそもそもなんだって朝までここに………

「…………って……………」

 と、そこまで考えて、彼の顔から気の毒なぐらいに血の気がひいた。

 今の今まで、ほんとを言うと、カカシの行動をタチの悪い冗談としか考えていなかったのだ。

 だって何故にわざわざ『女芸妓』と遊ぶ楼閣まで来て、そんな行為に及ばなくてはいけないのか。

 羞恥心も道徳心も人並み以上にある彼には、とてもじゃないが耐えられなかった。あらゆる意味で。

「じょ、冗談じゃない………俺、帰りますからね」

「ははは、ここまで来といてそりゃ通用しませんって、イルカ先生………ダメですよ、逃げたりしちゃあ。拒まれるだけ男ってのは燃えますからねぇ」

 にこにこと表面だけは茶化して口にするものの、いかんせんその内容はえげつない。限りなく不本意ではあったが、イルカの肌は本気で粟立った。

 混乱した頭で脱出策を錬ろうにも、襖の前にはカカシが陣取っているし、窓はご丁寧にも飾り格子だ。

 しかも相手は音に聞こえた上忍。

 …………結論から言ってしまえば、かなり絶望的な状況だと言うことになる。

「さて、と………それで布団しきます?俺は畳の上でもいいですけど」

 蒼白になって石化してイルカに、追い討ちをかけるようなカカシの声。

 カタリ、と卓に手をついて、こちらに殊更ゆっくり近づいてくる。

「………っ………カ、カカシ先生………っ!もう悪ふざけは………!」

 やめてください、と叫ぶ寸前に、ぐいっと襟元を引き寄せられ、否も応もなく唇を塞がれる。

 それは宥める為の口付け、とかいう生易しいものではなく、イルカはそのあまりの激しさに酸欠に陥ったほどだ。

「………っ、ふっ……ごほっ………」

 つ、と糸をひいて口唇を離され、カカシに肩を掴まれたまま咳き込む彼を、実に楽しそうな顔で暫し眺めると、唐突に強く抱き締めた。

「…………?」

 涙眼で訝るイルカを余所に、彼の首元に埋められた男の表情は酷く嬉々としている。

 カカシは、イルカのこの誠実で純朴な香りが好きだった。

 素直に感情を表してくれる彼をずっと見ていたいから、こうして必要以上につきまとってしまうだけ。

 …………勿論、イルカにとってそれは災難以外の何物でもないのだが、この上忍は完全に自己完結な男であった。

「も、う………後生ですから!いい加減にしてくださいよ、カカシ先生っ!」

 今だ往生際悪く胸中で暴れる想い人に、カカシはくすりとひとつ妖しげに笑うと、なお手に力を込めて、



「イ・ヤです。…………もうご承知だとは思いますけど、俺は天邪鬼なんですよ、イルカ先生」

 

 

□□□□

 

 




 そうして、いつものように朝が来る。



 夜にハメを外しすぎた客の大半は頭痛に悩み、芸妓達もまた化粧をおとしてくつろぐ時間帯に、



「…………朝餉、食べれますか?イルカ先生」

「……………食べれるように見えますか?」

「はは、やっぱ加減できなかったですねぇ、すみません。これでも自粛したつもりでいたんですけど」

「………そう思っていただけるなら、もう勘弁してくださいませんか………?」

「イヤです」


 ……………などなどと、ほほえましい会話が褥のなかで繰り広げられていたのだった。合掌。

 

 

 

 

――END――


ぐあ~何だか散々ひいておいて、こんな変な終わり方で申し訳ありません~;;
なんていうか、この夜の内容は裏にでも書く予定でいますので、はい。
こういうイルカ先生とカカシ先生の関係ってもろツボなんですよねぇ。片方にはいい迷惑ですが(笑)

 

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