いつの頃か。

 血の色は己に陶酔をもたらすようになっていた。

 噎せ返るような赫い香りのなかに佇んで、

 俺は歪んだ愉悦に浸りながら、ひとつ笑いを浮かべる。

 数え切れぬ命を屠った血濡れの手指。

 闇の揺籠に甘んじて留まるこの身は、もうとうに狂っているのだろう。

 

 

 


黒宵―kokusyou―


 

 



 月のない深夜。

 沈黙がうずくまる室内に、戸を叩く音が響いた。

 どこか素っ気のないそれは既に耳慣れたもので、イルカは溜め息をつきつつ寝台をおりる。

 ふと時計に眼を向ければ、もう丑寅の刻を回っていた。

 無意識に落ちてくる瞼を堪え、肩掛けを羽織って、玄関口に足を進める。

 そうして、カラリと扉を横に開けた。

「こんばんは」

 途端、妙に澄んだ声が、辺りを包む夜気に反響を残す。

 イルカはその男の姿態に一瞬眼を見張り、強く顔をしかめた。

「なんて格好で来るんですか、あんたは………」

 別に初めてとは言えなかったが、それでも慣れようと思って出来るものではない。

 紺色の下衣や上着に、べったりとはりついた血痕。

 手甲や銀髪、わずかにのぞく顔からもその色が窺える。

 それどころか、まだポタポタと指先から紅い雫が滴り落ちていた。

「その様子じゃ、任務が終わったばかりなんでしょう……?付き合えというなら、いくらでもお付き合いしますから……せめて着替えくらい………」

「イルカ先生」

 目線を逸らしつつ、わざと口早に言って捨てて翻そうとした上体を、ぐっと強い腕に遮られる。

 それに抗議しようとする前に、背中から掻き抱くようにして拘束された。

「………ッ…………」

 耐え難い血臭が鼻を突く。

 イルカが血を嫌うことを知って、わざとやっているのだろうか。

「離して……ください………。今、あなたの着替えを取って………」

「いいんです、そんなもの」

「な……カカシ先生………!」

 揺らいだ言葉を冷たく遮り、カカシはイルカの身体を引き摺るようにして土足のまま廊下に上がる。

 そして、居間の戸を開け放つなり、彼を畳の上に押し倒した。

「何、を……やめ………!」

 イルカの焦った叫びは、噛みつくようにして重なってきたカカシの唇に吸い込まれる。

 混乱の所為で奥に張りついていた舌を絡め取り、思う様口腔を犯した。

 粘液の湿った音が、闇の巻かれた部屋を支配する。

「………っ、ん…………」

 声を殺しながら、イルカは仕方なくそれに応えた。

 こんな状態のカカシには、何を言っても無駄なことを知っている。

 誰かの身体に流れていた命の、匂い。

 吐き気すらこみあげる、どこか常軌を逸した雰囲気を纏う男を、それでもイルカは大人しく受け入れていた。

 いつからこんな関係になったのか、あまりよくは覚えていない。

 ただ、今日とよく似た色合いの夜に、血に濡れたこの上忍と出会って、

 ………任務、ご苦労様ですと声をかけ、それから確か………

「何を考えてるんです?」

 微かに笑いを含んだ、それでいて冷たさを失わない声に、イルカはハッと我に返って息を詰めた。

 既に額当ても口布も取り去った、端正な男の顔が眼の前にある。

 夜目のきく忍の習性が疎ましくなるのは、こういう時。

 もしお互いに表情を見合うことさえなければ、自分はこんな罪悪にも似た心境を抱かずにすむかもしれないのに。

「別に、何も………」

「嘘ばっかり。………現実逃避したいなら構いませんから、せめて俺にわからないようにしちゃくれませんか?」

 茶化した調子で無茶なことを言う。

 自分にそんな器用な真似が出来ないことぐらい、分かっているだろうに。

「意地が悪いですね、あんたは………」

 観念したように大きく嘆息して、イルカはカカシの首に手を回した。

 情交の時、言葉のやり取りを嫌う彼の、承諾の合図のようなものだ。

 それに満足気に微笑んで、カカシは彼の首筋に舌を這わせ始める。

「……できれば、早く終わらせてくださいよ………」

「………ええ、善処します」

 けして嬉しいとはいえない顔つきで、黙って触れてくる掌の熱をやり過ごすイルカに、カカシは知らず眼を細める。

 自分が異常な行為を強いていることぐらい、よく分かっていた。

 誰が、たった今人を殺してきたような男の腕で酔いたいものか。

 他人の血に染まった指で愛撫を与えられても、そんなものはただ不快なだけ。

 寒気を覚えこそすれ、快感など紡ぎ出せるわけもないのに。

 それでも、血は己を酩酊させる。

 陰ることのない鮮やかな色に、この上ない興奮を覚える。

 ………あなたに、触れたいと。

 命を消した瞬間に思うことは、一つ覚えのようにそれだった。

 苦痛を殺して、呻きを隠して……そうまでしても、この人は自分を拒もうとしないから。

「甘えてるんだろうな……結局………」

 子供が不安でどうしようもないとき、親の温もりを求めるのと同じ。

 血に自身を見失うことが怖いから、こうして酷い方法で確かめるのだ。

 まだ、あなたと同じ場所に存在することができると。

「何の……ことですか………」

 押し入ってくる感覚に、身体を強張らせて汗を浮かべながら、イルカは切れ切れな声を漏らす。

 辛そうな顔。

 きっと、苦痛しかないんだろう。

「いいえ………動きますよ」

 返事を待たずに、カカシはイルカの腰を抱いて更に奥を抉る。

 びく、と腕の中の四肢が不自然な強張りを見せた。

「………ぁっ………く………」

 イルカの眦に尚濃い苦汁の色が浮かぶ。

 ともすれば激しい拒絶を吐きそうになる唇を、必死に噛んで押し留めた。

 いくらされても慣れない。身体が千切られそうに痛い。

 唇に乗せて言ったことはないと思うが、意識の薄い時にはそれも自信がなかった。

「………辛いですか?」

 乱れた衣服の端を握り締めていたイルカの手を取って、カカシはそれに軽く口付けた。

 痛みに霞む目をうっすらと開けば、じっと様相の違う両眼が自分を睨めるように見ている。

 希少な輝きを放つ、左眼の色彩。

 どこか、捨てられた者のような………そんな確信のない感銘を受けて、

「いえ………もう、平気です………」

 実際そんなわけがないのに、無意識に口が勝手なことを呟いていた。

 それを取り消す間もなく、また深く突き上げられる。

「………っ、………ぁ………」

 瞬間で遠退きかけた意識が、間断なく襲ってくる苦痛に引き戻される。

 本当なら、こんな理不尽な仕打ちに耐える必要も、また甘んじる理由もないのに。

 それでも、自分はこの孤独を宿した眼を持つ男を拒めない。

 こんないびつな形がもし愛だというなら………それは多分、正しいんだろう。

「ねぇ、イルカ先生………ひとつ、聞いてもいいですか?」

 眉目をひそめて与えられる感覚に必死に耐えているイルカに、そんな含んだ声がかけられた。

「何……を、ですか………?」

「ええ…………あなたは、ずっと俺の側にいてくれますか?」


 側に、いてくれるか。

 あなたは……ずっと…………


 そのどこか神妙に聞こえる台詞に、イルカは涙と汗でぼやける眼を見開いた。

 もうはっりきとした像をつくらない視界に、それでもあの三つの篝り火が鮮やかに映る。

 あの……初めて会った日と同じ、瞳を彩る感情………

「…………それは、どう応えればいいんでしょう」

「肯定してくれれば、俺は一番嬉しいですがね」

「そうですか………なら、そうしておき……ます………」

 苦痛に泣く喉ではもうそれ以上の言葉が紡げなかったのか、イルカは気力尽きたように顔を衣服の上に落した。

 既に意識など半分以上とんでしまっているのだろう。

 幾度か小さく呼びかけても、顕著な反応は見られない。

「………何だか引っかかる返答ですがね」

 諦めたように苦く笑い、カカシはイルカの頬にひとつ唇をおとす。

 優しいこの人は、きっと自分を傷つけないよう、辺り障りのない言葉を選んでくれたのだろうけれど。


 …………もう、それで、いい。

 同情でも何でも構わないから、自分の側にいて欲しい。

 ……………………二度と、大切な人をこの腕から失いたくはないから。




「あなたがどう思ってても………俺は、あなたを愛してますよ、イルカ先生」


 歪んだ愛執だと罵られてもいい。

 昏い炎を宿すこの眼に、もう光は映らない。

 情なく手折った屍を背負って、自分はどこまでも堕ちてゆくのだろう。

 全てを知ってなお手を差し伸べてくれる、この優しい男の腕に縋りながら。

 

 

 


 ……ああ、あれはいつのことだったか。

 暗殺の勅令を終えた直後、月のない宵闇のなかで出会った一人の男。

 血に塗れながら、殺気の余波を抑えるができずにいた自分に、臆することなくご苦労様です、と話しかけてきて、




『………どうして、そんな哀しそうな顔をなさってるんですか?』

『……俺が?何のことです?』

『だって………眼が、泣いていますよ?』


 涙なんかを流していたわけではない。

 それでも俺が泣いているのだと、彼は当たり前のように言った。

 初めて自分に向けられた、忘れられない鮮烈な台詞。

 

「………多分………」


 ………そう、多分あの瞬間から、俺の眼はあなただけを見ていたんだろう。





 

 

――END――


ひえ~初書きだっていうのに何書いてるんだ、私は……;;
異常に暗いです。申し訳ありません。カカシ先生壊れてます。
なんてゆーか…辛い過去を背負った二人を書きたかったんですが、まるで傷の舐め合いに…(死)
ああ、もっと精進します。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

 

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