静 夜 想







 透き通るような漆黒の天。闇におちた大地に銀の粒子を零すのは、ただ豊かな晧い満月。
 その導きを受けて、聞仲は殷王墓の前に来ていた。
 夜の執務を済ませ、部下達と別れて。
 こんな月が空に輝く夜は、無性にこの場に足を運びたくなる。
 今宵もそうだった。
 来ようと思って、太師府を忍び出てきたわけではないのに。
 気づくと、いつも自分はひとつの墓の前に佇んでいる。
 愛していたのか否かもわからぬ……ただ己に必要だった女性の、今は遠い情景を探して。
「………朱子…………」
 口をついて出た呟きに一人自嘲して、聞仲は近くの岩に腰をかけた。
 情けない。
 二百年以上の時を過ごしていながら、今だたった一人の人間に執着しているなど。
 ふっと口元を歪ませ、無意識に聞仲が首を振った瞬間。




 視界を、ひとつの影がよぎった。

 

 

 

 

 



「お前、こんなところで何してるんだ?」
 その出現の唐突さに完璧に虚をつかれた上、本来自分が言うべき台詞を先に問われて、聞仲は押し黙る以外なかった。
 なぜ、このような夜刻に民草が出歩いているのか。
 それを僅かに思ったが、すぐに考えを改めた。
 簡易な青色の貫頭衣に、白い下衣と皮の靴。
 服装こそ至って質素なものではあるが、身体から発せられる一種異様な気は隠しようもない。
 俗世から逸脱した、高潔な雰囲気。
 透った蒼の瞳が、酷く印象的だった。
「崑崙の仙人、か……それはこちらの台詞。見れば位高い仙のようだが、殷の領地内で何を嗅ぎ回っている?まがりなりにも殷の太師として見過ごすわけにはいかんな」
 ぎらりと紫の眼を見開き、禁鞭を手に取った聞仲を見て、しかしその男は少しも恐れる様子なく、微かに首を傾げただけだ。
「殷の太師………?ああ、じゃあお前があの高名な聞太師か。噂は崑崙でもよく聞いてるぞ」
 そして、まるで顔見知りにでも話しかけるかのような砕けた声。
 禁鞭を構えていた聞仲の指が、不信感を残しつつも僅かに弛む。
 警戒の欠片すら抱かず……目の前の仙人は笑っていた。
 誰もが畏怖する殷の父と、正面から向き合いながら。
「………そんなことはどうでもいい。私の質問に応えろ」
 さもなくばその五体引き裂いてやる、とけして口先だけとは思えぬ脅しに、それでも彼は態度を崩すことはなかった。
「ああ、そういえばそうだな。とはいえ、別に改まって言うほどのことでもないんだが……
 ………花を、探してるだけなんだ。白木蓮、知ってるだろ?」
「………何?」
 あまりに突飛な内容に訝しむ聞仲に、男はなおもにこにこと笑みつつ一枝の木蓮を取り出した。
「ほら、これ。そんなにキレイな色じゃないだろ?人間界のは、もっと鮮やかな白なんだと」
 くるくると枝をまわしつつ、彼はそんな会話を交わす。
 不思議な笑顔。
 見ているだけで、荒れた心が和むような。
「………本当にこんなものだけを探しに?」
「ああ」
「それはずいぶんと閑な仙人なのだな………花を探して殷王墓に迷い込んだものは初めて見る」
「仕方ないだろ。本当にヒマなんだから。言っとくがオレの歳はおまえの十倍やそこらじゃきかないんだぞ」
 その少し膨れた台詞を何気なく耳に通して、聞仲は禁鞭を取り落としそうになった。
「何だと?」
「あ、酷いな。何だよ、その疑わしそうな顔は」
 そうは言われても仕方がない。
 仙人の年齢が外見で判断できないのは勿論承知の上だが、それにしても雰囲気というものがある。
 彼の持つ気は、あまりに明朗無垢なもので、到底何千年も生きている仙人だとは思えなかった。
「生憎と、そういう冗談はあまり好まないのだがな………」
「だから本当だって言ってるだろ!嘘ついて何になるんだ」
 確かに、聞仲相手に意味のない虚栄を張ったところでどうなるものでもない。
 それを考えて、聞仲は柄にもなく思い淀んだ。
 なぜこの男には、こんなにも邪気が無いのだろう。
 今、ともすれば殺し合いになるかもしれぬ……他島の道士の傍にいながら。
「お前は………」
「まあそういうわけでだ、この辺に木蓮はないか?ないんなら他の場所を探すんだが」
 迷惑かけて悪かったな、とにこやかに話す高仙は、どこか聞仲の眼に眩しい。
 同時に、胸の内で燻っていた疑心が消える。
 聞仲は、意識無く禁鞭をおろした。
「木蓮、か………よくは知らぬが、この先の森にでもあるだろう。そう希少な木ではないからな」
「そうか?それは有り難い……なら玉鼎も子守りの合間を縫って来れるな」
「何か言ったか?」
「いーや。それじゃ、礼を言うよ聞太師」
 それとだけ言い残して、彼は無造作に身を翻す。
 そのあまりの警戒の薄さに、聞仲は険しい顔つきになった。
 元は武人だった自分。見れば、眼の前を歩く男からも同じ匂いがする。
 だとしたら、何故。
 問い掛ける前に、指が動いた。
 収めたはずの禁鞭を奮い、触れるだけで消し飛ぶほどの威力を以って、今だ振り向こうとしない高仙めがけてそれを振り下ろす。
「…………――――」
 大地に振動を伝える轟音。夜気を裂き、岩盤には深い亀裂が刻まれる。
 それは、目標とした者から、爪の先ほど逸れた所での出来事。
 にも関わらず、彼は携えている宝貝を抜くことはおろか、臨戦体勢を取ろうともせず……警戒心を表に出そうとすらしなかった。
 ただ、聞仲の意を悟ったような表情で、闇に溶けるように佇んでいるだけだ。
 訪れた、束の間の沈黙の後。
「…………何故」
 ぽつ、と聞仲は顔を地におとしながら呟いた。
 笑顔を絶やさず、ん?と彼が首を傾げるのを見て、たまらずもう一度口にする。
「何故、宝貝を抜かない?………あと僅かで、お前の四肢は引き裂かれていたのに」
「何故…って………別に殺気の無い攻撃を避ける必要なんてないだろ?」  
 きょとんとした顔つきで、当然のように返される返答。
 聞仲は、小さく嘆息した。そう応えられることはわかっていた。
 だがおそらく、自分が同じ状況下にあったとしても、この男と同じ真似は出来ないだろう。
 逸らされた筈の刃が、己の喉に食い込まない確証はない。
 この心は何も信じることができないから………頑ななまでに自分は全てに反駁するのだ。
 だがその度に、嫌というほど思い知らされる。
 自分の、弱く脆い心を。
「………そうか。そうだな。その、通りだ」
 タン……と禁鞭を下げ、聞仲は自嘲気味に笑った。
 そして、端然と自分を見つめる仙人に、どこか遠い目線を合わせ、
「不躾で悪いが…………問うていいか?崑崙の仙」
「何をだ?」
「お前はこれから………大きな戦が起こると思うか?」
 戦いと争い。
 人間界に留まらず、仙人界にまで及ぶほどの。
 おびただしい数の屍が、累々と横たわりゆくような。
「ああ、起こるな。そう遠くない内に」
「……何故、そう言い切れる?」
「はは、何となくだよ。………ただ永いこと生きてると、世を流れる気質を読めるようになるだけだ」
 匂いがする。
 欲望と狂気と憎悪を孕んだ……世をたゆたう、血なまぐさい風の匂い。
 それを感じてしまうことこそが、何よりの兆候で。
「こんな感覚あったって嬉しくもなんともないけどさ………まあ、いきなり戦に巻き込まれるよりはマシなんだろうな」
 言葉の重みに比例しない、先から何も変わらぬ笑顔のまま、仙人は淡々と語り綴ってゆく。
 聞仲は薄く眼を伏せると、
「戦が起これば………私は多くの命を奪うだろう。殷に害なそうとする者達の………例えそれが、崑崙の仙道であったとしても」
「ああ」
「………だから私は、お前を殺すかもしれない」


 この手で、その魂魄を抉り取るかもしれない。
 暴言を吐いているつもりはなかった。
 確かに近い未来、戦はその重い腰を据えているに違いない。
 あの女狐が再び殷に現れた瞬間、世は這い上がることも適わぬ泥沼と化す。
 心ある者達は、新しい国を率いて殷に反旗を翻すかもしれない。
 だが、それを己が許すことは無い。
 全てを失っても、誰を踏み躙ってでも、私は最後まで殷を守るだろう。
 唯一、自分がここに存する理由のために。
 しかし、


「………そうだな、殷の父か。さすがに凄い。背負うものが、そんなにたくさんあるのにな」
 今の言葉を追求しようともせず、彼が口にした台詞を聞いて、聞仲は今度こそ絶句した。
 自分が虚言を語ったのではないくらい、この聡い仙は気づいているはずだ。
 それを判って尚、彼はこんな風に微笑むのだろうか。
「………怒らないのか?」
「え?」
「お前を殺すかもしれない、と言ったのに」
「………ああ、それはそれで仕方ないだろ。人が正しいと思って歩む道を、俺が邪魔できるはずもない………けど、オレはオレで自分の信じる道を進む。お前と戦う羽目になってもだ」
 責めてはいない、けれど強い言葉に、聞仲は微かに顔を強張らせる。
 自分から酷い台詞を叩きつけたくせに、直面したうろたえてしまうのが可笑しかった。
 ……そう、可笑しくて………胸が、痛む………
「………そんな顔しないでくれよ。オレはもう充分生きた。………だから」


 だから、躊躇わずに俺を殺してくれていい。
 それがお前の選んだ道に、必要なことなのなら。


「………何を………言って………」
「言葉のままだよ。………どうせ決められた命だ。構いやしないさ」
「!」
 変わらぬ調子で言い捨てられた台詞に、聞仲は弾かれたように顔を上げる。
 今、この男はなんと言った。
 決められた、命。
「あ、もしかしてオレは知らないと思ってたか?」
 場違いな明るい声でからかうように茶化されても、聞仲は呆然とした感情が抜けきれないでいた。
 あの狐と対峙していた自分だからこそ判ったことだ、と勝手に納得していたのに。
 彼はそんな聞仲を、さも心外そうにいなすと、
「こらこら、そこまで驚かないでくれよ。年寄りをなめるなって言っただろ……?
 いい加減疲れるほど生きてるんだ。……この世界が何かに操られ、定められていることぐらい、一応判ってるつもりさ」


 創られた道。
 創られた運命。
 いつしか、歴史の道標と呼ばれるようになった存在。
 それに、憤りを覚えないわけではないけれど。


「………本当に、幾度も驚かせてくれるな。貴方は未来が読めるのか?」
「まさか。そんなことできたら、俺は今頃おかしくなってるよ。………どうせ見なけりゃいけない悪夢なら、一度きりで充分だ」


 そう。
 オレはそんなに強くはない。
 こんな乱世に続く……大切な人達の末路を知って、それを抱えていける自信なんてないから。


「そうか………」
 聞仲は、そこで黙り込んだ。
 何かを反芻するように、頭を垂れて眼を閉じる。
 すぐに場を支配した静寂に、仙人は蒼い瞳を細めつつ木蓮を一度揺らすと、無言でその場から離れようとして、


「………ああ、そうだ」


 言い忘れたような仕草で、もう一度振り返った。
 その含んだ言葉につられて頭を上げた聞仲に、彼はにっこりと口元を綻ばせると、
「あんまり思い詰めない方がいいぞ、聞太師。地に影を落とすぐらいなら天を仰げ。闇よりも光を見た方がいい………たまには楽な一日を過ごしてみるのも悪くないものだ」
 だから、少しは笑ってみろと。
 そう諭してくる相手を、聞仲はしばし見開いた眼で凝視していたが、
「…………そう、だな…………崑崙の仙人、そういえば、まだ名を聞いていなかった」
 忠告、胸に刻み置こう。非礼をすまなかった。
 夜気に謝罪を響かせて、ふわりと微かに笑んだ殷の父に、彼は心底嬉しそうな顔をした。
 そして、濁りない蒼の明眸で、まっすぐに聞仲を見据えると、


「清虚道徳真君。崑崙の十二仙だ」


 

 

 

 

 

 

 それから、世界は無慈悲に時を刻む。

 

 


 謀略を携えた一人の仙女の出現によって、世は混迷の一途を辿った。
 人間も仙道も、荒れ狂う呪われた歴史の波に翻弄され続けて……………
 ……………そうして、操られるように終局を迎えた仙界大戦。

 

 

 

 教主を失い、崩壊しかけた島に集った崑崙の仙道達。
 黄巾力士が取り囲むその中心には………最強と謳われた殷の太師の姿。

「………どうした。もう、来ないのか?」


 冷徹に澄んだ声色が、張り詰めた静寂に不自然な反響を残す。

 

 

 


 ……………そして、星が降った。

 

 

 幾百の月の昔に垣間見た、あの鮮やかな蒼眼が、怖れる様子もなく自分に向かってくる。
 それを、一撃の元に終わらせた。
 視界をよぎる紅い飛沫を見た瞬間、何かが閉ざした心の中で壊れた気がする。
 過たず歩けと言われた道。
 その約を違えたのではないかと、過去を振り返る余裕すらもなかった。
 魂魄が昇華する音を背で聞き、人知れず深く険しく眼を閉ざす。

 


 ただの偽善であってもいい。
 せめて必要以上に、誇り高かったその身を傷つけることのないように。

 


『過去より先を見て歩けよ、聞太師』
『支えなしで、道を歩むのは辛いだろう?』

 

 


 すまない。


 すまない、美しい眼をした崑崙の仙。

 

 破滅を呼ぶ狼煙を背負って、すぐにこの罪人は血溜まりの奈落へと堕ちてゆくだろう。



 踏み違えた道。
 過去の歪んだ虚像を守る為の、あまりに愚かな所業。

 

 


「…………それでも」


 それでも、私は取り戻したかったのだ。


 人は笑い、名もなき花が憂いなく咲ける………失われた時を。

 

 

 

 

 

 

END


すすすすみませんっ!!怒られる前に謝ります!!(お前ね…)
と、当初はここまで暗い内容になるはずではなかったですが……いつのまにか(死)
コーチ達の殉死が辛くて、どーにかできないものかと自分を慰めるように書いた話です。
天道さま、リクエスト本当にありがとうございますっ!お叱りはいくらでも受けます!(泣)

 

 

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