散華誘夜
ただ、冴々と真白く輝く夜半(よわ)の光明。
その天を裂いたような細月を眺めつつ、道徳はつらつらと桜木の元でまどろんでいた。
サワサワと肌を撫でくる、穏やかな風が快い。
身体を包む夜があまりにも雅やかで、道徳がそのまますっと瞼を閉じようとしたとき、
「あれ、仙人さまじゃねえか?こんなところで何してんだ?」
どこかとぼけたような、それでいて不思議に威厳のある声色に、彼は伏せかけていた眼をびっくりしたようにしばたかせた。
目線をあげれば、桜の花弁舞う夜気のなかに、酒瓶を手にした男が緩慢な様子で佇んでいる。
豪胆で闊達な気性を雄弁に物語っているような、鮮やかで芯の通った瞳。
勇猛果敢な猛者と名高い………己の弟子の、父親。
「ああ、武成王……いや、天化の傷の具合を見にきてね………すぐに、帰ろうと思ったんだが………」
みなまで言い終えず、唇から小さな欠伸が漏れる。心なしか、声も浮ついてしまっているようだ。
「へぇ、この麗色の風流に引きとめられたってわけかい?そりゃまた奇遇なことだな」
味のある錆声でがははっと快哉して、飛虎はどかりと道徳の隣に腰掛けてくる。
その一瞬、散る桜花が、僅かに数を増したような気がした。
「………あなたも?」
「ああ、つい、な。こういう散華の盛んな夜は……無性に、外で酒が飲みたくなる」
呟いて、いつのまにか酒の注がれた盃をくっとあおった。
芳醇な酒気が、たちまちの内に辺りに香りを広める。
随分いい酒のようだと、道徳も知らず口端を緩めて笑み、
「それは面白いな。オレはただ見ているだけで満足だが」
「ああ、オレは親父だからな。観桜だけじゃあ、素直に酔えねぇのさ」
「成程………」
一理あると変に納得して、道徳は再び視線を舞い散る桜へと向けた。
ひらひらと薄く儚く、無数に枝から零れては地に還っていく淡紅の花片。
まるで去り往く時や、人の命のようだと苦笑して、道徳は手持ち無沙汰な掌に黒い柄を取り出した。
それを横目で目ざとく見つけて、ん?と飛虎は首を傾げる。
「それは……天化の?」
「ん?いや、これはオレの宝貝だ。根本的に天化のと変わらないんだが……やはり、多少の技術がいるかな。天化にはまだちょっと早いだろう」
「ふーん、じゃあさぞかし天化はそれを欲しがっただろうな」
唇に酒を味あわせつつ、そんな事を囁いてくる飛虎に道徳は少し眼を見張った。
「……なぜ、それを?」
「はは、あいつの性格を考えれば当然だ。他には驚くほど欲がねぇのに、強さに対してだけは誰よりも貪欲だもんな。きっと自分にだって扱えるから、って駄々こねて、アンタを困らせたに違いねぇ」
実際通りのことを言い当てられて、さすがは親子だと道徳は内心息を吐いた。
確かに稽古のときはいつも、彼はこの宝貝を指差しては文句を言っていた。
まだ、それを使えるようにならないのかと。
もう、使えるようになっただろうと。
手加減される稽古を嫌い、弱音を吐こうとする自分の弱心を何よりも厭った弟子。
「てコトは、あんたも剣が得意なんだな」
「………ん、まあそういうことになる、が…」
「そうか。……なら」
パシッ。
「………っと………?」
道徳は、突然投げ渡された一つの棍を片手で受け止めながら、その意図を請うように飛虎に目線を合わせる。
彼は、ニッと好戦的な笑みを浮かべると、身体に似合わぬ軽やかさで桜の元を離れた。
そして、自分も手にした根を構え、道徳を平坦な石畳へと誘う。
「武………」
「俺もこう見えても棒術……剣が得意でね。天化の師匠の腕前、少し見せちゃくれねぇか?」
彼の行動の意味を計りかねて、声を出そうとすれば、それは応えに遮られた。
その飛虎らしいと言えばその通りな台詞に、道徳は一瞬きょとんとしてしまう。
自分にそんな事を言ってきた人間は、後にも先にも覚えがなかったからだ。
「…………別に、構わないが……オレは楊ゼンの師のようにずば抜けて強いわけではないからなぁ………力で天然道士のあなたに適うとは思えないし」
「ご謙遜を。あの負けず嫌いの天化が、あんただけは手放しで誉めるんだ。………武人として、血が騒いでもおかしくねぇだろ?」
相も変わらず憎めない顔で笑って、飛虎はちょいちょいと道徳を挑発するように指を動かす。
どうやら酔った末の冗談、と言うわけではないらしい。
申し出を取り消す気配すら見て取れないのを感じて、道徳は小さく溜め息をつきながら根を握り、タン…ッと桜大樹の岩場から、下の石畳へと飛び降りた。
途端、飛虎の嬉しそうな声が前方から上がる。
「そうこなくっちゃな。ここれは西岐城の外れだし、しっかり石畳も張ってある。手合わせにゃあもってこいだ」
「ああ、そうだな………で、一本試合か?」
ひゅっと根を振りつつ握りを確かめ、道徳は静かに言葉をつぐ。
そんな彼の様子に、飛虎は僅かに眼を細めると、ぽり…と頬を掻いて、
「んー………まあ、そんなかしこまったコトはよそうぜ。俺はただの打ち合いがしてぇだけなんだが………ダメか?」
そう、どこか申し訳なさそうに尋ねてくる飛虎に、道徳はくっと笑いを噛み殺した。
本当に憎めない男だ。
側に居ると、知らず口から笑いが漏れる。
「いや、それでいいよ。楽しそうだな」
「そうか?ならいいんだがよ………じゃ、無駄話はこれぐらいにして」
先程までとは声色の異なった台詞を半ばで切ると、飛虎はビュッと空気を裂きつつ、担いでいていた根を前に振り下ろした。
途端に、人の良い好漢から、猛将とまで謳われたそれにがらりと変わる。
彼を取り巻く気の圧迫感が増し、同時に刃のような尖りを放ち始めて、
(………これが『武成王』か………)
「手合わせ願うぜ……仙人さまよ」
行きつく間もない攻防の音が、冷涼な夜気の中にこだましては消えていく。
技を用いて攻撃を受け止めなければ、すぐにでもこんな根などへし折られてしまいそうだった。
猛攻をいなし続けた指の腹が、じんじんと痺れを持って疼いている。
一応ながら一進一退の打ち合いを展開してはいたが、正直飛虎の持つ威圧感には舌を巻いていた。
しかしそれと同時に、道徳は心地よい戦慄と共に、己の中に眠っていた血がザワザワと騒ぎ出すのを抑えられずにいた。
強いものと剣を交え、そして勝ちたいと願うのは、武人である者の常であり、また咎でもある。
退くことも恐れることも知らない………そう、まるで天化のような。
魔家四将との闘いの時、血塗れで自分の前に現れ、そしてまた戻ると言い張った弟子を見て、この子は必ず闘いのなかで死にゆく子だと感じた。
お前を失えば、悲しむ者が大勢いるのだと。
命を賭してまで、傷つくことなどないのだと。
そんな理屈で割り切れるものが『武人』だと言うのなら、自分はこんなにも苦悩することはなかっただろう。
彼らのような漢たちが、死という永遠の先に見定めているものはなんなのか。
………自分には、それに辿り着くまでに優先するものが多すぎて、
ガキ……ィッ………
鈍く枯れた音を立て、双方の根が白い石の上へと旋回しながら転がった。
「っ………」
ハアハアと道徳は息を乱しながら、無言のまま飛虎を仰ぐ。
すぐに精悍な笑顔が、暗く陰った視界に飛び込んできた。
そして、
「まいった。さすがだな、仙人さまよ。………口幅ったいようだが、棒術で俺と互角に渡り合える奴なんざ今までにひとりしかいなかったんだぜ?」
「………そう、か?何となく想像はつくな……それで?もういいのか?」
「ああ、休んでたところ悪かったなぁ。……俺には有意義な時間だったんだが」
よっころせ、と散らばった棍を拾い、飛虎はかかっと屈託なく笑う。
先程までの、鬼気迫る雰囲気はどこへやらだ。
「………オレもだよ。久しぶりだ、こんな気持ちは」
それになんとはなく安心して、道徳はまた桜の下へと向かった。
柔らかい若草の上には、まるで絨毯のように桃色の花びらが敷かれている。
そこに疲れた身体を預けようとして、背後からぬっと伸びてきた腕に、また眼を見開く羽目になった。
「武成王?」
そちらを見やれば、彼のちょうど樹にかけてあった酒瓶を取ったところで、
「お疲れになっただろう?どうだ、身体が冷えないうちに一献」
ちゃぷ、とそれを振って、どこか悪戯な顔つきになる。
道徳は苦笑しながら、軽くそれを手で制しつつ、
「……あなたの言うことはいつも唐突だな。部屋には戻らないのか?」
「戻ってほしいかい?」
「………そんなことはないが」
「ならここに居させてくれよ。……俺の突発的な行動は、何も今に始まったことじゃねえさ。先からぐちぐち悩んでたって何にもならんからなあ………その場に立って初めて、何をすりゃいいのかは思い浮かぶってもんだ。………そんなわけで、勘弁しちゃくれねえか?」
ずいっと盃を差し出しながら、飛虎は懲りずに酒を勧めてくる。
「……………」
適わないな、と微笑みながら道徳は息をついて、すっと腕を伸ばした。
「そうこなくっちゃな」
間を置かず、トクトクとそれに酒が注がれる。
確かに汗が冷える前に、身体の内を温めておいたほうがいいかもしれない。
簡単に納得してしまう自分が何か可笑しくて、それに苦笑もたたえつつも、道徳は酒を一気に飲み干した。元々酒は嫌いではないのだ。
「いい飲みっぷりだな。もう一杯平気だろ?」
「いや、もう………」
「いいからいいから。いい酒は一人で飲むもんじゃねーんだ」
遠慮がちに断る側から、また容赦なく次が注がれる。
そこで道徳は潔く諦め、大人しくそれに口をつけた。
「………ふぅ、あー気持ちの良い夜だな」
それを満足気見とめると、飛虎は体勢を崩して更に酒をあおる。
そうして、注ぎ注がれの酒の飲み合いが、幾度ほど続いたろうか。
さすがに身体が火照ってきて、道徳は樹の幹に背をつけた。
しかし、飛虎はまだまだこれからと言った風体。結構な量を喉に通しておきながら、一向に乱れる気配がないのが不思議だ。
そう思って、小首を傾げる道徳に、
「なぁ………仙人さまよ」
突然、ぽつりと真摯な声が投げ掛けられる。
「え?」
「さっきから聞こうと思ってたんだが………天化は、どうだ?あんたの目から見て、あいつはちゃんと成長しているか?」
まっすぐに、志を持って、育っているか。
………育って、くれているか………
「武成……王……?」
「もし気に入らねえところがあったら言ってくれ。ぶん殴ってでも更正させるからよ」
物騒な台詞を口にして、飛虎はぐっと胸の前で拳を握る。
あまり冗談には聞こえないだけに、道徳も苦く笑ってお茶を濁すしかなかった。
「とんでもない……あの子は強いよ、誰よりも。
……きっと、あなたに似たんだな」
だから、何も憂うことはない。
彼はどこまでも誇り高く、己の信念を貫くだろう。
そう、最高の武人である、あなたの息子の名に恥じぬよう……
………どこまでも、あの子は戦い抜くのだろう。
「そう……思うかい?」
「勿論。………いい父と、母とをもっているからな」
「はは、よしてくれよ。天化を育てたのは俺じゃねえ、あんただ。………ああ、今更なことだけどよ……あんたには、本当に感謝してるんだぜ?」
「………武成王………」
面と向かって告げられて、道徳は多少居心地悪そうにまた盃に口を寄せる。
声や態度には表れないが、酒の効果で、僅かに紅さした白い頬と伏せられた睫毛。
何気なく合わせた飛虎の視線が、その彼の容貌に吸いつけられた。
改めて正視してみれば、よくこれで自分と同等の打ち合いができたものだと感嘆してしまうほど、彼の線は細い。
勿論、それ相応に筋肉はついているのだろうが……明らかに天化よりは華奢に思えた。
服越しだから大雑把な読みしかできないが、恐らく抱けばこの腕には余るほどの細身だろう。
息子の恩師相手にそんな事を考えている自分を窘めて、飛虎はその感情を誤魔化すように、ごろりと木の根に身体を横たえさせた。
だが、どう頑張っても、一度灯った思いはどうしても胸を去ろうとしない。
どうしようもないな、と何度も自嘲気味な溜め息をついたが、そこは酒の入った者の強みか、飛虎は一言をぼんやりと口にしてみた。
「………少し、酔ったみてぇだな」
その当然とも思える台詞に、それでも道徳が振りかえる。
そして、少し上体を屈め、すっと飛虎の額に掌をあてがってきた。
「………!」
「そうか?………熱は持っていないし、顔つきもそうは思えないがな」
手の陰になって、飛虎の驚きの表情は道徳には見えない。
そうして彼の額から引こうとした手首を、不意に筋張った掌に無造作に捕まれ、道徳は小さな声をもらした。
「……武成………」
「いーや、酔ったんだ。だから………」
にぃっと企みをもって笑うと、飛虎はおもむろにぐっと道徳の身体を引き寄せた。
「……うわ………」
ザァッ………
その時、突如起こった風の移動で、地を彩る花弁が四方に舞いあがる。
まるで二人を包み込むかのように……薄紅の立花は夜天を踊って、
「だから………絡んでもいいかい?仙人さま」
その台詞に、道徳は静やかな瞳を一瞬だけ見張ったが、それはすぐにふっと和らげられた。
腰を抱く無骨な腕を振り払おうともせず、彼はされるがままに四肢を預け、
「………随分と酒癖が悪いんだな」
「ああ、そうみてえだな……しかし、その割に大人しい。抵抗しないと、変に解釈しちまうぜ?」
くっくっと可笑しそうに笑みつつ、飛虎は胸の前で両腕を交差するようにして道徳の肩を抱いていく。
道徳は、背後から吹きくる夜来の風を楽しみながら、そっと不意に瞼を下ろした。
こんな満ち足りた気持ちになったのは、一体幾年ぶりのことだろう。
長いときの狭間を、死ぬことのない身体は彷徨うように生き長らえて、
いつしか自分は、あたり障りのない笑顔を顔に張りつけ、心から笑うことを忘れてしまった。
ああ……だからだろうか。
愛する者を謀殺され、無二の友と反駁し、忠誠を誓った国を背くことになってなお………濁りなく笑える、この男に惹かれたのは。
強い意思。
迷いのない瞳。
あの子と重なる全ての雄姿が、今の自分には哀しいほどに眩しくて、
「………構わないよ………オレもどうやら、酔ってしまったみたいだ………」
END
たっきーさま!新境地なカップル(?)でのリクエストをどうもありがとうございました!
絡み上戸な飛虎……コーチが何だかコーチらしいです(は?)
天化君の二親ですからねー……話はどうしても可愛い息子のことになるのではないかと(笑)
そしてこの後、どこで何をしたかは…………わははははっ(逃避)
しかしながら、もちょっと絡んでるシーンが書きたかったかも、と……;;;