彼方の想い

 





 
 仙人界青峯山。
 その紫陽洞のなかで、
「コーチっ!帰ったさ〜〜!!」
「んぐっ!!」
 突如としてバーンと叩き開けられた扉の音に、道徳は飲みかけていたお茶を思わず詰まらせる。そしてその勢いで、盛大に腰を折って咳き込む羽目になった。
「ぅ、げほげほげほげほっ………ん、な、てて天化!なんだってまたここにいるんだっ!?」
 苦しさ故に涙目になりつつも、道徳は何とか咎めを含んだ問いを投げ出す。いや、別に聞かなくてもわかるのだが、そこはそれ場の流れと言うものだ。
 完全に椅子の上でうろたえている道徳に、天化はにこにこと人懐こく笑みかけると、軽やかな足取りで近くまで寄ってくる。
 そうして、真向かいの位置まで来たかと思うと、前置きなくわしっ、と彼の身体を抱き締めてきた。
「て…………!」
「ただいま、って言ってるさ、コーチ。ちゃんと返事ほしーさ」
 反射的に身体を押し退けようとした道徳の手を先に掴み、天化はなおも彼の襟元に顔を埋めてくる。元々少し高い弟子の声が、今はいっそう明るんで聞こえた。
「ぅ〜………」
 彼の腕の中で、言いたいことはたくさんあったが、とりあえず最初に言わなきゃならにコトだけを口にする。こういうところが、礼儀にうるさい道徳らしい。
「………おかえり………天化」
「うん、ただいまコーチ。あ〜やっぱコーチはあったけぇさ〜。子供みたいに体温高いのな」
 抵抗がないのを良いことに、天化は調子に乗って道徳の首筋にすっと唇を掠らせる。更にそのまま、服の下に性急な手を差し入れようとしたのだが、
「やーめーろっ!!どーしてお前はそうなんだっ!」
 すぱぁんっ!と頭を景気良くはたかれて、それはお預けとなった。
 天化は後頭をさすりながら、恨めしそうに道徳を見つめる。
「なんでさ〜?別にいいじゃんか〜」
「よくないっ!第一だな、天化!お前が「ただいま」って帰ってきたのは、つい二日前なんだぞ!」

 




 そう。彼、黄天化を最初に人間界に送り出したのは数ヶ月前。
 しばらくはごたごたと雑事が合った所為か、この洞府からは足が遠退いていたのだが、今はそんな謙虚さなど見る影もなかった。
 とにかく帰郷ペースが早い。というより、もうこれではどっちに出かけていってるのかわからないくらいである。
 なにせヒマさえ、いやヒマがなくとも彼は隙を見てここに帰ってこようとするのだ。楊ゼンや太公望が天化を強制送還……もとい引き取りに来たのは一度や二度の話ではない。
 そんなことがあっても、相変わらず彼の洞府に入り浸る習慣はおさまりを見せなかった。
 ………まあ、習慣というか、要は道徳がそこにいるせいなのだが。

 

 


「つい、って何さ〜。俺っちコーチと二日「も」離れてたさ?帰ってきたくなったって当然っしょ?」
 道徳のそっけなさに膨れ面になりつつも、天化は懲りずにまたすすすっと彼に擦り寄っていく。
「んなわけないだろうが………どーしてお前はそう………」
 生真面目な師匠は、そんな不肖の弟子の改善されない態度に、はぁぁぁっと大きな溜め息をついた。
 何を叫んでものれんに腕押しぬかに釘。こうまで食い下がられると、いい加減頭痛がしてくる。
「だからだな天化。こっちに帰ってくるヒマがあったら、太公望の手伝いをしろと何度も何度も言っただろ?何のためにお前を人間界に送り出したと思ってるんだ」
「だって〜、俺っちじゃアタマ使う仕事なんかできねーさ?進軍はまだ先の予定だし、別に俺っちがどこへ行こうと大して影響ねーさ」
「あーもうっ、そういう問題じゃない!お前がそんなだと、全体に示しがつかな………!」
「ハイハイハイ、もーわかったさ。それよりコーチ、続き続き」
 道徳の窘めを面倒くさそうに遮って、天化は再度ごそごそと彼の懐を探り始めた。聞く耳も何もあったものではない。
「おい、ちょ……天化っ!何がわかっただ、お前はっ!!」
「え?ちゃーんとコーチの言いたいコトはわかったさ?俺っちに早く帰ってほしいんだろ………なら、いい加減最後までさせてほしーさ。」そしたら、しばらくは戻ってこねーから」
「んなっ………!」
 率直な台詞に道徳が顔を赤らめて絶句する。その間にも、天化は平気で行為を進めていった。
 そして、上衣が引き下ろされたところで、ようやく道徳ははっと我に返る。
「やぁーめろっ!!こんなのおかしいって言ってるだろ!お前は弟子で!オレは師匠なんだぞっ!!」
 必死に罵声を飛ばしつつ、慌ててはだけた服を掻き集める道徳に、それでも天化は怯む気配すら見せない。
 どころか、尚更やる気を燃やしたようだ。
「そんなの関係ないさ〜、コーチは変なところにこだわりすぎさね、もちっと楽に考えればイイのに」
「できるかっ!も、いいから………離せ、って………!」
 しつこくしつこく絡み付いてくる指を、道徳は途方に暮れたような表情で払いのけてゆく。天化を突き放すのは、やってできないことはなかったが、なにせ道徳はこの我侭な弟子に非常に弱かった。
 どんな理不尽な要求をされても、この闊達な笑顔を見ると、なんでもしてやりたいと言う気持ちになってしまう。
 ………なってしまうだけに、余計危ないのだ。
 第一、立場がどう考えたって逆のはずだ。
「だーっ!!いい加減しろ天化!くだらないことばっかしてないで、帰ってきたのなら修行だ、修行っ!!」
「え〜〜っ!だって俺っちまだ何もしてないさ〜」
「しなくていいんだっ!これ以上ふざけたことをぬかすなら、オレにも考えがあるぞっ!」
 上気した頬で激昂しつつ、ヴンッと道徳は両刀の宝剣から刃を伸ばす。
 天化はそれを見て、さすがにぎょっと鳴った。
「ちょ、ちょっとコーチ。マジさ?」
「当たり前だ!ほら、とっとと用意しろっ!今日は俺から一本取るまで休ませてやらないからなっ!」
「んなのウソさ〜〜〜っ!!コーチのオニ〜〜〜っ!!」
「うるさぁーいっ!!オレを怒らせたバツだぁっ!!」

 

 

 

 




「…………ふーん、そんなことがあったんだ」
 それから五日後の真昼時。
 道徳の洞府で昼餉をたかっていた太乙が、彼の話を聞いてぼんやりとした呟きを返していた。
「ああ、なあ太乙。頼むからあいつを何とかしてくれよ〜。もお何をどうしたってオレの言うことまるで聞いちゃくれないんだ」  
 涙ながらに語り縋ってくる道徳に、太乙も困った表情でん〜、と上体をそらすと、
「私に何とかしろって言われたってねぇ……どうしたいわけ、君は」
「決まってるだろっ!ちゃんとオレが師匠だってあいつに認めさせるんだ!その意識がないから、天化だってオレにあんなこと繰り返すんだ、全く」
「………意識、って…………」
 まるきり見当違いの思いこみに、太乙は呆れて語尾を濁した。
 彼が、道徳を師匠と認めていないなんてあるはずがない。
 自分の師匠は本当に強いのだと。
 いつかきっと、あの人を抜いてみせるのだと。
 自分の洞府に来ても、下界に降りても、口を開けば天化は道徳のことしか話さなかったのになぁ、と太乙は今更のように思い起こす。
 師匠の立場などなんでもない、ただあの子は純粋に道徳という存在を慕っているだけなのに。
 そんな事実を、道徳よりも自分のほうがよく理解しているのだから可笑しい。
 そう思った瞬間、太乙は僅かに眉を動かした。
 そして、おもむろに唇に薄い笑いを浮かべると、
「ふ〜ん……成程ねぇ。要するに、今の平行線な状態をどうにかしたいわけだ、君は」
「?あ、ああ。だから最初からそう言って………」
「わかったよ。なんとかしてあげる」
 にこりと微笑みながら承諾して、太乙はガタリと椅子から立ちあがった。
 そして、部屋の壁に、とん、と背中を落ち着ける。
 道徳は彼の突然な行動に、しばらくきょとんと佇立していたが、
「ほ、本当か?じゃあ早速教えて………」
「うん、でもその前にねぇ」
「え?」
「先に返事をもらいたいんだ」
 道徳の言葉を遮りつつも、太乙の口から出た意外な応答。
 道徳はわからない顔つきになって、曖昧に小首を傾げた。
「太乙?何の話だ?」
「あれ、覚えてない?………もう結構前になるかな、ちょうど天化君が下山した後の会合の話………」


 十二仙の、会合。
 天化が、下山した後の。


 そこまで思い返して、道徳はさっと表情を曇らせる。
「思い出した?」
 微かな笑いを篭めた、畳み掛けるようなその声に、道徳は無意識に指で口元を抑えて横を向く。
 きっと、今の自分は情けない顔をしているだろう。
「………それが、どうか?」
「うん、実は先だって元始天尊さまから勅命が下ってね。早々に手続きを済ませてほしいんだって。僕が今日、ここに来たのもその為だよ」
 淡々と笑顔で語る友人を、道徳は次第に濃くなる困惑をたたえた眼で見つめていた。
 その言に、激しい拒絶と抵抗を覚えようと、この男にどうこう申し立てるのはお門違いだ。そのくらい自覚している。
 だが、それでも………
「……………」
 踏み切った返答を返せないでいる道徳に、太乙は一瞬思慮深い眼光を向けると、一言だけ言い放った。


「それじゃ、新しい弟子を取る件の手続き……してもらうよ」

 

 



 バタンッッ!!

 そう静かに告げた瞬間。
 けたたましく洞府の入り口の扉が鳴った。
「!」
 驚いてそちらを振り返れば、扉の側で青い顔をして震えている天化の姿。
 その呆然とした形相からは、痛いほどの怒りと哀しみが感じられた。
「天……化……どうして、ここに………」
「嘘さ」
 完全に取り乱した道徳は、そんな天化のにべもない様にますますの混乱をあおられる。
 だが、天化の憤りも無理はなかった。
 今度こそ正式に太公望から許しをもらい、ようやく師の元に辿り着いて、
 ………それで、扉越しに否応なく聞かされたものが、自分を切り捨てる話だったのだから。
「嘘さ……なんで?俺っち、コーチの弟子さ?なのに何で、違う弟子なんかがこの洞府に来るのさっ!」
 呻くようにして吐き出した抗議に、太乙はそれでも抑揚のない声音で返す。
「それがねぇ……君はこの先、ずっと人間界で太公望たちの役に立たなくちゃいけないでしょう?だからその分の時間、育成に長けた道徳の元で道士を育てれば、後に色々と……」
「嫌さっ!絶対に俺っち認めないかんね!俺っちコーチに習いたいこと、まだ嫌になるほどあるさ!それに………!」


 それに、どうしても見たくなかった。
 いつもの自分の居場所が、見知らぬ道士に奪われるなんて。
 頑張ったときにもらえる師の笑顔も、頭を撫でてくれる温かい手も。
 すべて、自分以外の者に向けられるなんて。


「絶対、嫌さ………嫌さ、そんなの……っ!」
「天化………」
 髪を振り乱して抵抗する天化に、道徳はおずおずと声をかける。
 そうではないのだ、と控えめに窘めようとしたところへ、
「嫌なもんは嫌さ!!コーチのバカ野郎っ!なんだって簡単に承知なんてしたのさっ!!」
 反射的に出た掌に、バシッと莫邪の宝剣が力の限り叩きつけられる。
 その涙まじりの激情に驚き、慌てて弁明しようとしたのだが、既に天化はバンッと扉を開け放って外に飛び出していた。
 手が、じんじんと痺れを訴える。
「天………!」
「待った。今追ったところで、火に油をそそぐだけだよ。大体口下手な君じゃ、尚更天化君怒るだろうね」
 思わず後を追って飛び出そうとして、太乙の的確な釘刺しにぐっとつま先が止まる。
 嫌味ですらある余裕な物言いに、誰の所為だと思ってるんだ、と道徳が睨みつけると、
「まあまあそんなカオしないでよ。それより……新弟子歓迎の「手続き」済ませてくれる?人並みに悩んではいたみたいだけど……どうせ、答えなんて決まってるんだろ?」
 太乙はそれをさらりとかわし、嘆息しつつひらひらと手を振ってくる。
「む………」
 何だか遊ばれているような気がするが、彼の言うことは正論なのだからどうしようもない。
 さっき、天化はどうも勘違いしたようだが、太乙の言う「手続き」とは要するに師になる人物が弟子取りを承諾するか否か、というコトを確かめるだけなのだ。
 天化が下界に下りていようが何であろうが、道徳の弟子ということには変わりない。つまり、全ては師匠となる人物の合否によって決められるのである。
 「別に取ってもいい」と言えばその通りになるし、「遠慮しておく」と言えば……
「遠慮しとくよ。………今のところは、あの手間のかかる弟子ひとりだけで十分だ」
「そう言うと思った。そういうコトならもういいよ。早く天化君の後を追って、彼を安心させてあげれば。随分とショックだったみたいだから」
 先程の騒ぎを、さも偶発的な出来事と言わんばかりの太乙の言葉に、道徳は呆れたように肩を竦める。
 そして、がチャ、と天化の足跡のついた扉に手をかけると、
「よく言うよ……お前、最初っから天化が扉の向こうにいること気づいてたろ?わざわざ声がよく聞こえるように壁際に移動して……「手続き」なんてまわりくどい言い回ししてさ」
「あ、バレてた?」
 さして驚いた風もなく、太乙はくすくすと笑みをこぼす。
 そして、億劫そうにもう一度卓の前に腰掛けると、
「私はこう見えても友人思いなんだよ………ちゃんと、何とか、してあげたでしょう?」
 しゃあしゃあと、そんな事を臆面もなく言ってのけた。
 道徳は、一度唖然と太乙を見下ろしたが、
「………まったく、適わないな、お前には」
 喉をつく溜め息をこらえきれなかったのか、一度それを盛大に吐き出す。
 確かに、彼の言っていることは正しかった。
 以前から催促されてはいたが、なかなか心持ちに踏ん切りがつかなかったのだ。
 あの子を束縛したくないと。
 それでも………側に居て欲しいのだと。
 そんな堂々巡りな思いばかりが、胸中を渦巻いていたから。
 だけど………もう、区切りはついた。
 愛しい弟子の、泣きながら怒る顔を見て。
「ま、一応礼を言っとくか………お返しはどうすればいい、太乙?」
 そう苦笑しつつ言って、扉の外に消えていこうとする寸前、太乙は頬杖をつきながらにこっと笑った。
 
「別にいいよ………何もいらない。君の友人でいれれば、それで十分」

 

 

 



 さくっ……さくっ………
 細い葉ずれの音を足元で奏でつつ、道徳は緑草茂る林泉のほとりを歩んでいく。
 時折、小鳥が彼の肩で戯れては、また気紛れに飛び去っていって、
「…………天化ー」
 洩れくる陽の光を掌で眩しそうに遮りながら、道徳は天化の姿を探していた。
 彼を追って、迷わず足を運んだ場所。
 天化が洞府に来て間もないころ、初めて彼が涙を流した場所だ。
 それ以来、彼は悔しいことがあると、その泉に足を運ぶようになった。


 家に帰りたい。
 修行が辛い。
 ………どうして、自分はもっと強くなれない、と。
 その苦しみを、泉の水で洗い流すかのように。


「………まったく、あの頃は至ってフツウの可愛い弟子だったのに………」
 そう、修行の成果に一喜一憂するような、そんな礼儀正しい弟子だった。
 いや、今でも勿論そうだが……何をどう間違って、ああなってしまったのか、未だに悩むところだ。
 そう考えて、僅かに息を吐いた道徳だったが、
 ガサリ………
 泉へと続く、最後の茂みを掻き分けて、その近辺に足を踏み入れた。
 大きく住んだ、自分の顔ぐらい簡単に映りそうな水面。
 そして、ちょうどこちらから真向かいの位置かげんに、
「天化………」
 背を丸めて、黙りこくっている天化がいた。
 その表情は固く、眼光は咎めるようにこちらに向けられている。
 昔から、拗ねたときや怒ったときに、いつも作った表情。
「な、なぁ天化………話を………」
 普段よりなお深い沈黙に、道徳は言い淀みつつ彼に近づく。
 そうして、ゆっくりと天化の肩に手を置こうとした瞬間。
 バッシャァァァンッッ!!
 本当に唐突に、目の前の泉へと身体を引きこまれた。
 咄嗟に何が起こったのか把握できず、誘われるままに道徳は思いきり水を吸い込んでしまう。
 バシャァッ!
「ぅ………ぷっ!ごほっ!」
 息苦しさにもがきつつ、水面に顔を出して、ゴホゴホと道徳は喉を震わせる。バンダナは水を含んで額から落ち、濡れた前髪は視界に酷く邪魔だった。
 それ以前に、道徳の格好はかなり遊泳に適していない。どころか、水を吸ったジャージや手袋は今にも溺れてしまいそうなほどに重かった。
「てっ……天化!いきなり何てことするん………!」
「コーチ」
 咳を吐いたせいで、涙目になりつつ怒声を張り上げようとする道徳を、同じく水に入っていた天化は軋むほどに強く抱き締めてくる。
 その切羽詰った気持ちが伝わったのか、道徳も無言で抵抗を止めた。
 そうして、しばらく場を流れゆく静かな刻。
 温かい体温と、ぽたぽたと髪から滴り落ちる透明な玉水とを、道徳はただぼんやりと感じていて、
「コーチ………コーチっ………」
 その内に、頬を穿つ水滴が、泉水ばかりでないことに気づいた。
 僅かに首をずらして上を仰げば、自分を抱く相手の眼から、次々とそれが滑り落ちている。
 道徳は大きく眼を見張った後に、自由な方の腕を無意識に掲げた。
 ぱしゃり……と際に微かにみなもが揺れ、細かな飛沫が陽に反射して煌めく。
 そのまま、その掌はそっと天化の頬へと添えられて、
「泣かないでくれよ、天化………違うんだ、あのな………」

 



 お願いだから、自分を放すなんて言わないで。
 あなたのたったそれだけの言葉で、自分の胸は張り裂けそうになる。



 ………強くなりたい。
 そう、あなただけの傍で………

 




「………というわけなんだ。太乙が冗談めかして、あんな風に言っただけでさ。オレはもちろん、お前以外の弟子を今取る気はないし………な、だ、だから天化。機嫌なおして………」
「………もう、どうでもいいさ、そんなこと」
「え?」
 何とか誤解が解けて、安堵したのも束の間。ぽつりと天化の口から紡ぎ出された言葉に、道徳は水で霞んだ眼を見張った。
 まだ、天化の顔の強張りが和らんでいない。いや、更に険しくなったような気もする。
 その感情の真意が掴めず、道徳は張りついた前髪を払いながら、天化の顔をじっと見つめる。
「………天、化………?」
 翡翠をかたどったような、まっすぐで偽りのない瞳の色。
 自分がどうすれば、何をすれば、それに陰る憂いを払拭することが出来るのか。
「天化、なあ……どうしたんだ?それと……もう、泉から出ないか?この服装だとちょっと………」
 辛い、と口篭る前に、
「…………だって、コーチ、今自分で言ったじゃんか」
「……え?何を?」
「……………今、は……弟子を取らない、って………」

 今は、お前以外の弟子を取る気はないよ。
 だから、機嫌を直してくれ………

「あ………」
 道徳はそこに至ってようやく彼の言わんとすることを察した。
 同時に、仙人、そして十二仙と言う立場上、どうやって言葉を返せばいいものか返答に窮してしまう。
 天化が一人前になれば、道徳が次の弟子を取ることは必然で。
 …………嫌と言うほどそれをわかっていただけに、余計辛かった。
 だが………
「……天化、ごめんな。お前を泣かせるつもりなんてなかったんだけど」
 伏せ眼がちにふるっと頭を振って、道徳は睫毛に鏤められた雫を散らす。
 そして、そのままの腕で、彼は天化の首を優しく抱き返した。
「…………コー……チ?」
 僅かに、天化の背が驚きに上下するのが伝わってくる。
 濡れた素肌の鼓動が心地よくて、道徳はその体勢を保ちつつ、すっと眼を閉じた。
「ごめん………でも、仕方のないことなんだ。……わかって、くれるだろ?」
 それでもどこか申し訳なさそうに諭す道徳を、天化は顰めた眼で一瞬だけ見据えて、なおも過剰な強力で彼の細い身体を抱き寄せてくる。 「わ………っ」
 バシャリ、とまた水が鳴った。
「わかって、るさ……っ、んなこと……っ!」
 そして、喉の奥から絞り出すようにして告げられた怒声。
 息が苦しいと抗いかけた道徳の手が、ぴたりと静止する。
「天化………?」
「徒弟制度のことぐらい、俺っちだってわかってるさ!………わかってるけどっ………だからって、腹が立たないわけなっ…………っ!」
 最後には語尾を詰まらせ、天化は噛みつくように道徳の首筋に唇を這わせた。
 熱い疼きが、その部分に小さく灯る。
「………ッ………」
 くすぐったいような感覚に、道徳は片目を瞑って息を詰めつつも大人しく従っていた。
 弟子の涙に、この親バカ師匠が逆らえるわけがない。
 理由はなくとも、胸に湧く罪悪感にはとても太刀打ちできなかった。
 その心持ちのまま、道徳はどうしたらいいのかわからなくて、天化の頬をそっと撫でる。


 こんな顔を、してほしくなかった。
 大切な弟子には、いつも笑顔でいて欲しかった
 だけど、不器用な自分の頭ではその術が見つからない。


「………天化。どうすればいい?オレがどうすれば、お前は………」
 …………いつものように、笑ってくれる?
 そんな問いかけに、天化は一度大きく目を開いてまた伏せ、
「…………じゃあコーチ、キスして」
「えっ?」
「コーチからしてくれたこと、一度もないさ?………だから」
 突然態度を一変させて囁かれた台詞に、道徳はしばらく唖然となる。
 普段なら、即座に彼の頭を殴って罵声を飛ばしていたことだろう。
 だが、道徳はそんな天化の声の調子が、先程と全く変わっていないことに気づいた。
 …………定められた律に対しての、憤りと、そして哀しみ。
「………わかったよ。仕方ないな」
 ふぅっと嘆息して、道徳は天化のそれに軽く自分を重ねる。
 彼の唇は水に濡れ、いつもより幾分か熱を含んでいた。
 やがて、余韻を残してお互いは離れる。
「…………これでいいだろ?」
「ん……ありがとさ、コーチ」
 満足げな、それでもどこか悲しさを含んだ表情で、天化はもう一度道徳の肩に横顔を乗せた。

 


 いつかは離れなければならない、この温もり。
 それならば、欠片すらこぼさぬよう、手に受け止めておこう。
 そう遠くない未来に、例え彼を傍らから失っても、愛したこの感覚だけは忘れることのないように。

 

 


「………ごめん、コーチ。俺っち、コーチを苦しめたくて言ってたわけじゃないさ」
「わかってるよ………それで?もう機嫌は直ったか?」
「うーん………も一回してくれたら考えてもいいさ」
「バカ。そう何度も師匠をからかうもんじゃない」

 

 


 哀しんでも無駄だと。苦しんでも報われないのだと。
 ならば、離れても解けないほどの強い絆を結べばいい。
 想えば想うほど辛くなっても、きっと自分は後悔なんてしないだろう。

 



 …………でもさ、コーチ。
 アンタはわかっていてくれるんだろうか。



 アナタがいなけりゃ、自分はここまで我侭にはならなかったこと。

 

 

 

END


まんぼうさま!シリアスでやっぱり甘甘、その他諸々のリクをどうもありがとうございました!
もお遅れるのにも程があります。どうぞこの管理人を蹴っ飛ばしてやってください(TT)
悩む師弟……天化の駄々こねはなかなか好きな蒼月です。しかし終盤、これじゃあどっちが受けだかわかりませんね(汗)
普段より二人の葛藤を掘り下げて書けて楽しかったです(^^)

 

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