絆の本音
「天化君。天化君……どこだい?」
もう落陽も間近な、周軍の宿営地。
兵士や仙道の行き交う広い敷地を、楊ゼンは一人の仲間の名を呼びながら徘徊していた。
あの蘇護率いる軍隊が、周に参列したのはつい数日前のこと。
呂岳のばらまいた伝染病もほぼおさまりを見せ、やっと全体が落ち着きを取り戻してきていたのだが………
「………いないなぁ。まったく広すぎて困るよ」
ぶつぶつと呟いて、楊ゼンは人気もまばらな天幕の間を縫うようにして足を進めていく。
「天化君ー」
そうして、するすると歩みつつ、もう一度その名を口にすれば、
「ここさー、楊ゼンさんー」
どこからともなく、聞きなれた少し高い声が耳に入ってきた。
つい、とその声音を追うようにして一つの天幕のすそをめくれば、右隅に置かれた簡易な寝台の上に、普段着のまま寝転んでいる天化を見つける。
「天化君……こんな所にいたのか。この辺は代用の天幕の置場だから、まさかとは思ったんだけど」
おかげで探したよ、と嘆息しながら中に入ってくる楊ゼンに、天化は手足を投げ出したまま、口端を緩めて、
「へへ、そりゃすまねぇさ。……ちょっち、自分ンとこの天幕までもどる元気がなかったんでよ、ここで休ませてもらってたさ」
四肢を動かさぬままに、そんなわざと茶化した物言いをする。
「………………そう」
そんな天化の様子に、楊ゼンは僅かに眼を細めると、おもむろに彼の側に歩み寄った。
そして、片方の手首をひょいと掴み上げ、橙色の布の巻かれている肘に無遠慮に指を這わせる。
「………痛っ………!」
途端、小さく噛み殺した呻きが天化の喉から洩れた。
煙草を銜えた青い唇が、小刻みに震えている。
「…………やっぱり、ね」
それを見て、楊ゼンはヤレヤレと言う具合に肩を竦めて息を吐き、手にしていた小刀でピッと布だけを断ち切る。
その下には、既に僅かな血の滲んだ包帯がまかれていた。
「ちぇっ………何もかもお見通しか………」
「当たり前だよ。あれだけの重傷が、こんなに短期間で治るわけないじゃないか」
以前、魔礼青から受けた、酷い創傷。
微かな怒りを込めた眼で、楊ゼンはじろりと天化を睨みつける。
この道士の我慢強さや負けず嫌いさはよく理解していたつもりだったが、それでも腹は立つのだ。
(せめて、僕にぐらいは言ってくれたっていいのに………)
「大体、下山してきて早々戦闘に身を投じるなんてどうかしてるよ。ザコだとはいえ、身体にかかる負担は相当なものなんだから」
「ぅ………いや、だってホラ、別に蘇護のおやっさんに会いに行くだけだと思ったから……」
「言い訳はいいよ。君に闘うなって言っても無駄なのはよーくわかってるから」
「………なら最初から言わないでほしいさ………」
「何か言った?」
「いーや、何もっ!」
ヤケクソ気味な返答に、楊ゼンは呆れつつも知らず顔に浮かんだ笑みを引き締めながら、所持していた薬籠をぱかっと開ける。
そして、包帯と小瓶とを手慣れた仕草で取り出した。
「ほら、腕貸して。手当てしなおすから」
「え?い、いいさ。別にこんくらい………」
「………天化君、僕を怒らせたいの?」
遠慮がちに言いよどむ天化は、その美貌ににっこりと脅されて、反射的にびしっと腕を差し出した。
この人が怒ったときのコワさは、それはもう身をもってよくわかっている……つもりである。
「はい、最初からそうしてね………ちょっと痛むけど、我慢してもらうよ」
パラ、と血で薄汚れた包帯を巻き取り、楊ゼンは特別に調合した水薬を小瓶から掬い取る。
そして、改めて彼の素肌に刻まれた傷痕を直視し、眉目を顰めた。
「…………全く、これで大丈夫なんて言い張るんだから………」
呆れるね、と言い残して、楊ゼンはそっとその傷口に薬を塗り込め始める。
「……………っ」
けして弱くない痛みに、それでも天化は拳を握り締めて耐える。断続的なと息が細く震える喉から紡ぎ出された。
「……………」
そうして、しばし場を流れゆく、無言の時間。
天化はずきずきと痛む肘を宥めながら、楊ゼンの秀麗な美貌をぼぅっと見下ろしていた。
「……………」
ホントに、綺麗な人。
口調や態度こそそっけないものの、この人はいつも自分を心配してくれた。
師叔や父親には知られたくない、心配されたくないと言う我侭を、文句を言いつつも結局最後には聞き入れてくれて。
…………今だって、そんな自分の心中を察していてくれたからこそ、わざわざ薬籠を運んできてくれたのだろう。
天幕の居並ぶ広大な敷地内を、ただ平然と歩みながら、
そう………自分の治療をする為、とは誰に告げることもなく。
「……………ありがと、さ。楊ゼンさん」
そんな事を考えて、思わずぽつりと口をついた言葉に、え?と楊ゼンは顔を上げる。
不意に鮮烈な紫の瞳とかち合い、天化はどきりと不自然に胸を弾ませた。
「なに、いきなり………今日はやけに素直なんだね」
「きょ、今日は、って何さ。俺っちはいつも素直さ!」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるから動かないでね………ああ、肘が終わったら膝もだよ。脱げって言うとまた騒ぐだろうから、裾をめくりあげてくれればいい」
口を挟む隙もなくてきぱきと指示を出され、天化は黙ってそれに従うしかなかった。
あまりに素早い彼の手の動きを感心しながら見つめていれば、いつのまにか手当ては終了に近づいていて、
「はい、終わり。これでしばらくは保つよ………また明日の朝には包帯変えるから。あんまり過度に動かさないようにね」
ぽん、と天化の肩を叩いて、楊ゼンは立ち膝の状態からすくりと完全に立ちあがった。
天化は軽く手足を上下させながら、処置の完璧さにただ舌を巻くばかりだ。
「さすがは天才さんさ〜………いつも悪いさね………」
などと言ってる側から落ちこんできた。
この人には、本当に頼ってばかりで。
不甲斐ない自分が、とても情けなく思えてくる。
もう少しだけでいい………強く在れたらいいのに。
「あ〜あ、もっと強くなりてぇさ………」
せめて、敵を前に倒れてしまうことがないように
そうすれば、守られるばかりの立場ではなく、肩を並べ合わすことが出来るかもしれないから。
ひとりごちつつ目を伏せる天化を、楊ゼンはしばし無言で見据えていたが
「……君は強いよ。変な気負いはしなくていい」
「んな……別に嘘つかなくてもいいさ……俺っち………」
「天化君。僕はこういうことで嘘をつくのは嫌いだよ。君も知ってるだろう?」
先手を打たれて、天化はぐっと言葉に詰まる。
確かに、楊ゼンは憐れみや同情からの、その場凌ぎの嘘を酷く嫌った。
勿論、天化にとってそれは何よりの救いだったのだが。
「それは……そりゃ、そうだけど………」
「なら素直に信じてくれればいい。僕は、本当のことを言ってるだけなんだから」
「………………」
「天化君………」
お願いだから、そんな哀しそうな顔をしないでほしい。
君を強いと思う気持ちに、真実嘘など欠片もないのだから。
どんな強大な敵であろうと、畏れることを知らない。
敗けることも、逃げることすら己に許さぬ奔放で豪胆が故の、曇りない魂の輝き。
誰よりも誇り高いその意思に……どうして弱心など抱けるだろうか。
「………楊ゼンさん?」
唐突に顎を長い指に捕われ、くっと上を仰がされる。
見慣れる、と言うことを知らない凄絶な麗姿が、見開かれた碧の視界いっぱいに映し出されて、
「ねえ天化君。実はいいもの持ってきたんだ」
にこ、とそう微笑まれ、てんかはきょとりと眼をしばたかせた。
「いい、もの………?」
「うん。手を出して。痛くないよね」
「あ、ああ………」
わからないままにも、天化は大人しく左手を掲げて差し出す。
途端、
「ぅわぁっ!」
ばしぃっと手首を太い鉄の輪に絡め取られ、天化は不本意に頓狂な叫び声を上げる羽目になった。
あまりに突然な出来事だったため、心臓の準備も何も出来ていない。
早い話が、心底びっくりした。
「い、いきなり何するさっ!………第一、コレ何さ………?」
かしゃん、と腕を鳴らして、天化は思いっきり不審そうな顔になる。
どうやっても外れそうにない鉄の輪っか。
それだけならまだしも、輪から伸びているこの赤くて太いワイヤーはなんなのか。
じっとりと楊ゼンを見返せば、彼は至って温厚そうな笑みをたたえて、
「うん、あのスパイ君から譲り受けたんだよ。面白いでしょう?土行孫と彼女を結びつけた赤い糸なんだって」
「はぁっ?」
わけのわからない恋物語を聞かされて、天化はますます混乱した顔になる。あの凸凹カップルを結びつけたのは別にいいとして、なんでそれを今彼が譲り受け……それで矛先を自分に向けられなきゃあいけないのか。
「だから何がしたいのさ、楊ゼンさん」
さっぱり意図が掴めずに、少し苛々した口調で詰め寄れば、楊ゼンはもう一度楽しそうに笑った。
そして、
「天化君、僕のこと好き?」
脈絡も何もない台詞を、面と向かって浴びせられる。
天化は一瞬眼が点になった。
「えっ?」
「だから、僕のこと好き?」
遠慮を見せる気配もなく、それどころか寝台の上に掌を突いて、楊ゼンはぐいっと顔を寄せてくる。
天化は反射的に身体を後退させながら、ちょっと待ったと手を上げて、
「い、一体何さ。何が言いたいのさ、楊ゼンさん」
「言いたいことは、今言ってるじゃないか。考えて見れば、恋人になってから今まで、君に一度も好きだなんて言われたことがないなぁと思ってさ。僕はいっつも言ってるのに。ねえ、これって不公平だよね」
などなどと一方的にのたまいつつ、楊ゼンはなおも寝台の上に這いあがって天化との間合いを詰めてゆく。
元々そう広くはない寝床、逃げるスペースなどはなく、あっさりと幕際に追い詰められてしまった。
天幕をたくしあげて逃げようにも、手首がコレではどうしようもない。
天化は途方に暮れたように、楊ゼンを見つめ上げた。
「い、言えって言われても………」
そんなに簡単に自分が口に出来る言葉なら苦労はしない。
確かに仲間に情人がいて……しかも受け身な立場だとはいえ、仮にも自分は男なのだ。
多少、いやかなりの羞恥心があることはどうしても否めなかった。
「そ、それだけは勘弁してほしいさ……な、何か他の言葉じゃダメさ?」
「そう?仕方ないなぁ…………それじゃ愛してる、でもいいよ」
「ふーん………って、そっちの方がずっと恥ずかしいさっ!!大体なんだって、アンタはそんな簡単にそんな台詞を言えるのさっ!?」
「え?そんなの当然だよ。だって君を好きだし愛してるからね」
「……………」
さらりとあまりに自然に囁かれ、天化は開いた口が塞がらなくなる。
それと同時に、かーっと急激に顔に血が上ってきた。
「も、もういいからコレほどくさ…………」
「ダーメ。別にいいじゃない。たまには僕にも嬉しい思いさせてよ」
「僕にも、って何さ!」
「え?だって天化君、僕から言われて嬉しくないの?」
「………っ…………」
腹が立つほど自信満々な台詞だ。
しかし、何より腹が立つのは、そんな彼に全く逆らえぬ自分で、
「………う、嬉しくないわけねー、けど………」
「でしょう?なら、ちゃんとお返しをくれなきゃ」
くすくすと笑って、楊ゼンは天化を軽く抱き締めてくる。
そう弱い力ではないものの、けして傷を痛めぬような、そんな接し方。
「ほらほら天化君。言わないと、いつまでもコレ取ってあげないよ?」
「………ぅ〜〜っ………」
明らかにこの状況を楽しんでいる語調に、天化は真っ赤になった顔を俯けると、一度ぎゅっと強く眼を瞑った。
そして、
「え………っ?」
次に、驚きの声を発したのは、楊ゼンの方だった。
突然、不慣れな仕草で唇に押し当てられた感触。
彼から口づけをかわしてくるなど、本当に初めてなことで。
…………そうして、いまだ眼を見張っている楊ゼンを、痛めた腕でそれでも天化は強く抱き返すと、
「………大、好きさ……楊ゼンさん………」
今にも消え入りそうに震えた告白を、そっと楊ゼンの耳元に吹きこんだのだった。
「……………」
もしや、本当に言ってもらえるとは思っていなかったのか、楊ゼンは今起こった二つの出来事に、しばらく呆然としていたが、
「………そう。ありがとう天化君…………すごく、嬉しいよ」
やがて、蕩けそうな微笑を浮かべつつ、天化の髪にそっと指を梳き入れてくる。
さらさらの彼の黒髪からは、純朴な大地の香りが伝わってきて、
(………大好き、か)
まだ胸中に残る幸せの余韻を、楊ゼンは丁寧になぞり出す。
自分は、「好き」とだけ言ってくれればいいと言ったのに。
「………案外、効果があるのかもねぇ………」
本当は、ただ彼を驚かすために持ってきただけなのだけれど。
そう思いつつも、楊ゼンは天化の手に繋がっている赤い糸を、掌をしっかりと握り締めて、
「……僕も、君のこと大好きだよ、天化君」
恋人達の甘い夜は、まだ始まったばかり。
END
前後HIT初の小説でございます。さんざ短いものだとか言っておきながら、こんなに長くなってしまいました…ああ(汗汗)
実はこのお話、ちえりさまからいただいたFAXのイラストを拝見して、考えたものでした。
しかし……あ、甘い……甘すぎる……書いてる本人がコレなのですから、
きっと皆様はもっと症状がひどいことでせう。ううっ、申し訳ありません(TT)
何だか楊天にはらぶらぶが多いですね、はい(笑)
最後に、ちえりさま、赤い糸でつながれた二人の素敵なイラストを、どうもありがとうございました!(^^)