幸せの方程式
もう宵の刻もとうに過ぎ去った深夜。
西岐城から少し離れた森中の岩場で、
「だーっ!もぉ勘弁してくれよ、天化!」
一人の体格の良い武人が、それに似つかわしくない声を張り上げた。
服はいささかの泥に汚れ、手には重量の鉄の棒。上下する肩の動きから、今の今まで戦闘に興じていたことが窺える。
そして、そんな彼と対峙していたのは、
「えーっ!頼むさ、親父!もー少しだけ相手してほしーさっ!」
清々しい碧の眼をした青年、黄天化だった。
その父、黄飛虎は、息子の必死な様子にけして大仰でない溜め息を吐きながら、どかりと岩に腰を下ろす。
「んなこと言ったってなぁ……ここんとこ毎日じゃねーか。いくら俺でも夜通し稽古の相手させられたんじゃあたまらんぞ。何だ、何か城に帰りたくないわけでもあんのか?」
「う………」
疲れたような台詞にずばりと図星を突かれて、天化は思わず言い吃ってしまう。
確かにここ暫くの間、ずっと父との手合わせで夜の時間を潰していた。
天然道士の彼と打ち合ってへとへとになって……それでも、城には戻りたくない決定的な理由があるのだ。
それが何かと問われれば、笑って誤魔化すしかないのだが。
「とっとにかく、後少しでいーからっ!なっ、親父!頼むさっ、このとーりっ!」
ぱんっと合唱しながら深々と拝まれて、飛虎はヤレヤレと肩を竦ませる。何を嫌がっているのかはよくわからないが、向こうから言い出さぬ限り、余計な詮索をする彼ではなかった。
いい親父なのだ。………まあ、そこを旧友につけこまれたりするのだが、それは後日語ることにして、
「わーったよ。でももうしばらくだけだぞ」
ひょい、と鉄棒を担ぎ、飛虎は岩から腰を離す。
そして、うんっ、と空気を唸らせてそれを旋回させ、身体の前で構えると、先程までの飄々とした口調とは打って変わる、凛とした声音で啖呵を切った。
「かかってこい、天化」
「師叔」
カチャ、と立派な木彫りの扉を開き、楊ゼンは書簡片手に太公望の部屋へと入る。
真正面の机のうえで、同じく書簡に埋もれながらそれらと格闘している道士がいた。
「おお楊ゼン。どうかしたのか」
少々ではなくうんざり気味に走らせていた筆を休めると、ギッと椅子を鳴らして太公望は顔を上げる。
「はい、一応処理できた書簡を持ってきました………そちらもお手伝いしましょうか?」
「いーや、構わぬよ。おぬしは他の仙道の修行の相手もせねばならぬのだろう?今日はもう休めばよい」
「そうですか………ならいいのですが………それはそうと、今日も天化君の姿が見えませんね」
なるべくそっけない口調を気取ったつもりなのだろうが、太公望にはバレバレだった。まあ楊ゼンも承知の上で、口にしているに違いないのだが。
「天化……か。さぁのう、稽古でもしているのだろうよ」
「もう真夜中も過ぎているですけどね……ここのところ毎晩ではありませんか」
「わしが知るか。まあそれでも、寝る前には必ずここに寄っていってくれるのだがな」
わしに気でも遣っていてくれるのか……と、そこまで呟いて、太公望はまた書簡の方に目を向ける。今は他人の色恋沙汰に首を突っ込んでいる暇などないのだ。……突っ込んで、楽しいことは確かなのだが。
「ここに……ですか?それは知りませんでした。それでは、師叔。天化君がここに来たら、いつになってもいいから僕の部屋に来てくれるように言ってくれませんか」
「………おぬしの部屋に?」
「ええ」
にっこりと口だけ笑って言う楊ゼンに、太公望は呆れたように頬杖をついて、
「…………まあ、別にわしがしのごの言うことではないがのぅ………」
それでも、こんな男に見初められた天化が不憫で仕方ない。
しかしそれを言うと、こちらにとばっちりがきそうでコワかった。良くも悪くもこの男は博愛主義者らしいので、
「承知した。わしが起きていたら伝えておくよ」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
溜め息混じりの返答に、楊ゼンは当然の如く頷くと、すぐに辞儀をして部屋を出ていった。
そして、再び深夜の静寂に沈む室内。
太公望はちらりっ、と隣の卓に置かれた書簡を一瞥すると、
「……別に、この書簡をわざわざわしのところに持ってこぬともよいのだがのぅ……」
一体、どちらが目的で来たのやら。
応えのわかりきっている心中の問いに、太公望はもう一度複雑な溜め息をついたのだった。
「ふーっ………」
天化は大きく深呼吸しながら、バシャバシャと岩陰の湧水で顔を洗う。濡れた肌が冷たい夜気に晒されて、思わずぶるりと身震いした。
さっきまではあんなに酷かった汗も、すっかり冷えてしまっている。
ぶるぶるっと顔を左右に振って滴を飛ばし、天化は何とか膝を立てて起きあがった。
「もうへっとへとさ〜……親父の体力には、とてもじゃねーけど適わねーさ……」
そう。飛虎は「もう疲れた」とかのたまっておきつつも、最後の最後まで天化と余裕しゃくしゃくで手合わせをしてくれたのだ。これだから天然道士というのは侮れない。
ぱんっと疲れた頬を叩いて、天化は岩場を下りだす。いつもは大したことのない距離も、膝が笑っている所為か、酷く長く感じられた。
「………ここ降りれば、すぐ城か………」
物音のない、どこか厳粛な闇のしじまに、穏やかな梟の声が響いては溶けてゆく。
茂る木々の奥をざっと仰げば、夜天に輝く下弦の月は既に西を下りかけていて、
「…………さすがに、もう眠ってるさね…………」
思っていたより時間が進んでいたことに心底ほっとし、天かは帰路を急いだのだった。
「師叔………?」
波打ったように静まり返った回廊に、ギィ〜……という木の軋む音が吸い込まれる。
毎夜、天化は後は寝るだけ、という体勢になった後、太公望の部屋にだけは挨拶にいくのが日課だった。
休む間もなく政務にいそしんでいる彼への敬意と、心配と、そして窘めの意があるのかもしれない。
「おお天化か?これはまた遅い訪問だのぅ」
予測に違わず、とぼけたような太公望の声が返ってくる。中に入れば、彼は昼間と少しも変わっていない量の書簡と睨み合っているところだった。
「師叔……もう寝るさ。毎日そんな調子じゃあ、絶対身体壊すさ」
「なーに、たいしたことはないよ。それより、おぬしもこんな時間まで何をしておったのじゃ。………この頃は、わしに会いにくる時刻もコレだからのぅ」
茶化すように言って、太公望はぴっと背後の窓を指差す。
その向こうには、山頂にかかりかけた月が静かに佇んでいた。
「う、いや……そ、そんなことはいいさ!どーしても寝ないっていうなら、俺っちが無理にでも寝かしてやるさ!」
赤くなって叫んで、天化は太公望の身体をふわりと持ち上げると、加減をしながら傍らの寝台にばふっとそれを押し込んだ。
ちょうど、天化が太公望を抑えこむような形になって、揉み合いながら布の上を転げまわる。
「はは……よさぬか天化。本当に眠ってしまう」
「だーかーら、寝なきゃだめだって言ってるさっ!」
しばらくばふばふと広い寝台の上でじゃれあった後、結局は太公望が根負けして身体をそこに投げ出した。くすくすと笑いつつ、降参、と両手を脇に上げる。
「まいった。わかった、もう寝るよ」
「最初っからそう言えばいいさ。ったく、無理ばっかすんだからな、師叔は」
「無理などしておらぬよ……でも、まあ毎夜こうしてお前が寝かしつけてくれるのだから、これは特典やものぅ」
「なーに言ってるさ。そりゃ師叔はいい匂いがして気持ちがいいけど……あ、そう言えばそれ何の香さ?」
「んー?ああ、これか。これは栴檀じゃよ。まだ咲き始めのな」
「栴檀って……ああ、あの淡い紫色の……」
「そう。何じゃ、無骨者かと思えば、なかなか詳しいではないか」
「んなこと………って、うわっ!」
太公望の上から退かそうとした身体を、逆にいきなり抱きすくめられ、天化は驚いたような声を出す。ちょうど彼の肩に顔が埋まるような体勢になって……鼻腔をくすぐった香りは、とても心地がよかった。
「師叔……突然何さ………?」
「わしの香を誉めてくれた褒美じゃ。お裾分け」
そんなことを言って、なおもぎゅうぅっと抱き締めてくる。天化は困ったような顔つきになりながらも、抵抗はしなかった。
元々、この人との抱擁は嫌いじゃない。
幼子のようで気恥ずかしいが………こうしていると、本当に心が安らぐから。
そんな感情が湧くのも、ひとえに太公望の人徳の所為なのかもしれない。
「ん……あー、ダメだ。俺っちも眠くなってきたさ〜………」
大人しく太公望に身体を預けながら、天化はまどろんだような声で呟く。確かにあれだけ動いた後なのだから、強い睡魔が襲ってくるのは当然だった。
「ならここで眠ればよいよ……おぬしだって疲れておるのだから」
優しい声で囁いて、太公望はそっと天化の身体を隣に横たえさせる。本当に眠かったのだろう、彼の言葉に逆らうことなく、天化はそのまま丸くなってしまった。
「ん〜………」
そしてすぐに、くーくーと軽やかな寝息が聞こえてくる。
あまりにも無防備なその寝顔に、太公望はひとつ小さな笑いを噛み殺した。
「まるでネコみたいだのぅ……成程、あやつが夢中になる理由もわかる……」
今日はこのまま寝かせておいてやろう。こんなに疲れている状態で、楊ゼンに生贄の如く差し出すのも気が引けた。
そんなことを想い、太公望はすっと天化の身体を薄い絹の掛布で覆ってやる。同時に、自分もその中にごそごそと入りこんで、
「…………おやすみ、天化」
引き寄せた彼の耳元に、そっとそう囁いたのだった。
「………やれやれ、こんなことだろうと思った。師叔も人が悪いんだから」
ふぅっと嘆息して、楊ゼンは腕組みをしたまま暗い寝台を再び覗きこんだ。
自室に戻り、寝床には入ったもののやはり落ち着かず、しきりに時間を気にしては寝返りを打っていた。
そしていい加減堪え難い時刻になったので、こうして太公望の部屋にまで忍んできたわけなのだが………
そこで見たのは、いや見せつけられたのは、気持ち良さそうに太公望の腕の中で熟睡している天化の姿。
全く予想していなかったとは言わないが、情人である自分を差し置いて他の男と眠っている光景、というのはかなり理性と堪忍袋にクルものがある。
しかし楊ゼンは必死でその衝動を抑えて、じっと二人を観察していた。
朧い琥珀色の灯火に映し出される、あどけない恋人の寝顔。警戒も不安の色もない、安心しきっている表情だ。
(………僕と眠るときには、こんなカオしたことないのになぁ………)
いつもどこか焦ったような怯えたような顔をして、彼は隣で眠っていた。
まあ仕方がないことか、と頭では思おうとも、やはり腹が立つものは腹が立つ。これでは全く自分の立つ瀬がないではないか。
「………僕より師叔のほうがいい、か……そりゃ、許せないよね」
こうなったら、二人を引き剥がしてでも天化君を自分の部屋に連れていこうか。
そう考えて、楊ゼンは奥の方にいる天化に手をかけようとした。
が、その時。
「……………んー………楊ゼン………さん………」
ぴくり。
もそ、と太公望の胸の中で背を丸めるようにして身じろぎし、天化はそんな寝言を口にする。
楊ゼンの指が、一度揺れて止まった。
「……………」
そして、しばし無言で彼を見下ろしていたが、やがてふっと息を吐いて笑みを浮かべる。
「まったく………卑怯だよね、君って奴は」
こんなに可愛い声で自分の名を呼ばれて、それが嬉しくないわけがない。
たったそれだけのことで満足してしまうあたり、彼にどれだけ溺れているかがよく実感できる。
同時に、彼に溺れて、どれだけ後悔しているのかも。
(………逆らえないよなぁ。このカオには)
「仕方ない。今夜は許してあげるよ………」
する、と天化の頬を軽く撫で、楊ゼンは珍しく殊勝なことを口にする。
しかし、
「でも………ねぇ」
やはり彼は彼なのだった。
一度にやりと笑んだ後、やおら太公望と天化を乗り越えて、楊ゼンは一番奥のスペースに身体を滑りこませる。広い寝台は三人寝転ぼうと、まだ余るぐらいだった。
そして、ほとんど無理矢理太公望の腕から天化を奪い取って、自分の胸にすっぽりとおさまらせた。
「ぅ………ん………?」
その少々手荒な行為に、天化は僅かに眉を寄せて呻きをもらす。普段の彼ならばとうに飛び起きているところだが、どうも本気で疲れが溜まっているらしい。くったりとしたまま、眼を開くこともなかった。
それを好都合とばかりに、楊ゼンは殊更強く天化の身体を抱き締めると、
「何でもないよ……ゆっくりおやすみ、天化君」
とびきりの甘やかで優しい声を、彼の耳朶にそぅっと吹き込む。十人が聞けば、十人ともきれいに腰が砕けてしまいそうな、そんな殺し文句。
「ん………」
慣れた声色に無意識ながら安堵したのか、天化は自分から楊ゼンの胸元に擦り寄ってきた。
その仕草に、楊ゼンの唇からは知らず笑みが零れる。
そして、太公望の残り香のする彼の身体を、己の香りで払拭するように掻き抱いて、
「まったく可愛いね、君は………」
これだから不安でしょうがないのだけれど。
………まあ、そんなところが彼の魅力だから、そう強くは言えない。
それより名により、楊ゼンは今らしくもなく、ささやかな喜びを噛み締めていた。
……………自分の腕の中で、こうして無防備に眠ってくれる彼を見て。
夜に時折、こんな風に眠るだけ、というのも悪くないかもしれない。それが連日続いては、さすがに自分の理性が保たないだろうが。
………それでも、彼の笑顔は何よりも愛しい宝物だからー………
「…………大好きだよ、天化君」
だから、一緒にいい夢を紡げたらいい。
君が側に居てくれるなら、僕はいくらでも幸せを感じることができるから。
甘いです。甘甘です。砂どころか砂糖吐いちゃいそうです。
こちらでは初の楊天(?)ですねー。いきなり川の字で寝ちゃってますが……(あはは)
いい親父飛虎をちょっと書けて幸せです。蒼月の小説では、珍しく太公望が善人に(笑)
意外と書いてて楽しかったお話なのですが、この題名がどうかならないものか……(汗)