雪の傷痕






 
ある、何の変哲もない静かな夜半。広間の中央に設けられた卓子に肘をついて。

 楊ゼンは、自分が洞府を空けている間に出掛けていってしまった師を待っていた。

「遅いなぁ、師匠………」

 蒼い髪を弄びながら、楊ゼンは焦れた様子で扉の方に知らず眼を向ける。その動作を繰り返したのは、これで何度目だろうか。

 湯を浴びて、夜着に着替えて。かれこれ数時間は経っているはずだ。なのに、あまり外出を好まない師が未だに帰ってこない。

 彼が自分に無言で出かけたことは……何度もあるが、それでもこんなに遅いのは珍しかった。

「師匠なら滅多なことはないと思うけど………」

 何かあったんだろうか。

 考え出すと、本当にキリがなくなる。

 悪循環にしかならない思いを、ぐるぐると胸の内で巡らせていたその時。

 カタン。

 何の前触れもなく、扉の開く音がした。
「師匠!」

 思わず叫んで、楊ゼンは扉まで駆けていく。

 その呼びかけが間違い、などと言う事はなく、確かに自分の師がそこにはいた。

 だが、

「………ああただいま、楊ゼン。わざわざ待っていてくれたのか?」

 優しい声に、楊ゼンの返す言葉はない。

 彼の眼は、玉鼎真人の風体に釘付けになっていた。

 纏っていたはずの灰銀の肩当は外され、衣服までもが今朝来ていたものとは違う。

 誰かからの借り物らしい深い鉄色の単衣。その下からは素肌がのぞいていて………

「……師匠……一体………」

 痛ましそうに眉を顰めて、楊ゼンは問うた。

 袖から見える細い右腕には、余すところなく白い包帯が巻かれている。髪に隠された首筋にもそれが窺えた。

 呆然と眼を見張る楊ゼンに、玉鼎真人は小さく苦笑の色を浮かべて、

「そんな顔をしないでくれ。………私の不注意だ。それより……内に入れてくれるか」

 少し寒そうに肩を揺らした玉鼎真人に、楊ゼンはハッとなって、慌てて彼を洞府内に引き入れる。そのまま無言で玉鼎真人を椅子へと座らせた。

 そして彼の頬を両手で包んで、しっかりと視線を重ねる。

 楊ゼンは、感情を押し殺したような冷たい声で、

「………説明してください、師匠」

 驚きの後に押し寄せてきた怒りを、切れ長の瞳に宿してそう呟いた。

 玉鼎真人はまいったな、という具合に……まるで悪戯を見つけられた子供のような表情を作って、

「理由を言えば……お前はきっと怒るから……」

「ふぅん、怒られるようなことをして作った傷なんですか?」

 楊ゼンの眦がなおきつく吊り上がる。

「……あ………」

 やっと墓穴を掘ったことに気づいて、玉鼎真人は思わず三本指で口元を押さえた。

 ……とはいえ仕方がない。

 実を言えば、この服は道徳の寝巻だった。さすがに彼の普段着は自分には似合わない……それはともかく、手当てをしてくれたのも彼だ。  

 楊ゼンに黙って道徳と真剣な立会いをして……側で見ていた弟子の天化がその巻き添えをくいそうになって、咄嗟にかばって受けた傷、などと言えば絶対に怒られる。ともすれば紫陽洞に殴り込みにでも行きかねない。

 心底自分を気遣っていてくれることは嬉しかった玉鼎だが、どうしたものかな……と困った表情を作った。

 道徳も天化も……見ていてこちらが気の毒になるぐらい心配してくれた。別にいいと言った傷の処置も懇切丁寧にしてくれたし……

 何より、玉鼎真人はあの師弟が好きだった。

 これ以上余計な負担をかけたくはない。

「………すまない、楊ゼン」

「すまない、って何です?どうして僕には言えないんですか?」

 完全に不機嫌になった様子で、楊ゼンはぐっと顔を寄せてくる。

 玉鼎真人はその綺麗な紫の瞳に何も言い返すことが出来ず、申し訳なさそうに俯いてしまった。

 その意識していない動作に、楊ゼンの怒りは余計逆撫でされたが、

「……傷、見せてください、師匠」

 しばし間を置き、そうぶっきらぼうに言い放った。そして返答も待たずに、背後から玉鼎真人の夜着をぐいっと掴んで引き下ろす。

「な……楊ゼン……!」

「大人しくなさってください。傷に響きますよ」

 途端上擦った声になる玉鼎真人を、そう言って脅すように窘めると、端から器用に包帯を解いていく。

「よ、楊ゼン……あの……折角丁寧に手当てをしてくれたのだが………」

「僕があとでもっと上手くしてさし上げます。いいから黙っていてください」

 そっけない口調。酷く機嫌を損ねている。

 こうなった楊ゼンには逆らわない方が無難か……と嘆息しながら諦めて、玉鼎真人は抵抗を止めた。

 それを了ととったのか、包帯を巻き取る楊ゼンの指がなお速度を増す。

「………っ」
 
 傷に包帯が擦れる痛みに、玉鼎真人は気取られぬよう拳を握り締めて耐えた。

 ………そして、あらわになる白い肌と、

「し、しょう………」

 まだ全く癒えてはいない、右肩から背中までを薙ぐように走った創傷。

 思っていたよりも、ずっと酷い。

 しかもこれは………

「宝貝の傷……?それもかなり強力な……」

 と、記憶を呼び起こすように楊ゼンはひとりごちて、

「………まさか」

 ふと思い当たった応えに、楊ゼンは柄にもなく青ざめる。

 玉鼎真人はその彼の様子に、しまった、と額を抑えたが今更だった。

「道徳師弟の宝貝!?そんなものを直接受けたんですか!?」

「…………」

「でもなんで師匠ほどの使い手がそんな………」

 などと再び考え込みだした楊ゼンに、玉鼎真人は今度こそ慌てた。それ以上の結論に行き着かれるのは非常にまずい気がする。

「よ、楊ゼン。それより……もう、いいか?」

 空気に触れると傷が痛むと、遠慮がちに言われて、楊ゼンはハッと我に返る。こんな重傷を負っているのだ。本来なら喋ることさえ辛いはずなのに。

「し、師匠……すみません。こんな深手だとは思わなくて……今すぐ、手当てします」

 先程までの勢いはなりをひそめ、楊ゼンは甲斐甲斐しく玉鼎真人の傷を看始めた。

 改めて直視しようと、やはり顔が歪むのをいなめない。

 綺麗に締まった師の身体。

 雪色のそこに刻まれた……生々しい傷痕。

 こんな怪我さえも、彼は一人で耐えようとするのだろう。

 自分には……心配すらさせてくれずに。

「……師匠はずるいです」

 薬を塗って、新しい包帯を巻きながら、楊ゼンはぽつりと小さく師を責めた。

 わからない台詞に、玉鼎真人の肩が微かに揺らぐ。

「………楊ゼン?」

 さら、と黒髪を流して、僅かに玉鼎真人が背後に顔を向けた。

 澄んだ眼が、静かに楊ゼンに重ねられる。

 大好きな黒曜の瞳。整った淡い紅色の唇。

 艶を含む睫毛も、通った鼻梁も……この誇り高い師の何もかもが本当に美しくて。

 …………理由もなく、胸が締め付けられて仕方がない。

「……………」

 楊ゼンはすっと眼を細めると、思うより細い玉鼎真人の首を柔らかく抱いた。

「………?」

「我慢しますよ、師匠。ご心配なさらなくても、紫陽洞に踏みこんだりはしません」

「楊ゼ……」

「……でも、ひとつだけ約束してください」

 闇色の絹髪のなかに、楊ゼンは辛そうな美貌を埋めて、

「もう二度と……こんな傷を負わないでください………。貴方が傷つくぐらいなら、自身の身を引き裂かれた方が余程楽です」

 その台詞に、玉鼎真人は目を見開きながら反論しようとして、二本の指にそれを遮られる。

「本当ですよ、師匠。僕は僕より貴方が大事なんです。……こんなことを言ったら、きっと師匠は怒るのでしょうけど……それでも……」

 それでも、何の迷いもなく、それは真実だから。

 大切な人の血を目の当たりにして、憤るなと言う方が無理なこと。

 師匠が考えているよりずっと……ずっと、僕は貴方を想っているのに……

「それを察してくれない貴方が恨めしいです……勿論、そこも師匠らしいと言えばそうなのですが」

「楊ゼン……何の話だ?」

「独り言ですよ。……それより、今度約束を破ったら承知しませんよ、師匠」

 そっと艶かな黒髪を一房すくいあげて、楊ゼンはその下の首筋にキスを落とす。

 そんな楊ゼンの仕草に、玉鼎真人はふっと息を吐き、

「わかっているよ………すまなかった」

 次は唇に降りてくるであろう口づけを、優しく微笑しながら待った。




 大切な弟子。

 お前の何気ない言葉は、何よりも私の心を癒してくれる。

 傷を負うな、と、固く約束できるわけではないけれど。

 それでも………あんな顔を二度とさせたくはない。

 お前が傷つけば、私も傷つかずにはいられないから………




「………今日は少し冷えるな……楊ゼン……」

  

  

 

 



たまにはラブラブな二人を書いてみたいなぁと思ってできた話です。
しかしどうして私の玉鼎サマって、こう鈍い人になっちゃうんでしょうね……
う〜もっとカッコいいお師匠サマが書きたいです(TT)
しかしそうなると攻めにまわさなきゃ駄目か……(笑)

 

ひとつ戻る小説TOPに戻る