恋鏡
このところ楊ゼンは非常に機嫌が悪かった。
というのも、師である玉鼎真人が滅多と洞府に帰ってこないからである。
楊ゼンが修行を終えて洞府に戻ってくるといつも、
『太乙のところへ行ってくる。先に休んでいなさい』
などと言い残して、翌朝また楊ゼンがそこを発つまで帰ってこようとしない。
そんな日々がずっと続いて、今に至っては会話を交わすどころか顔を合わせることすら珍しくなった。
明らかに自分を避けていると思われる行動をそう何日も取られて、腹が立たないわけがない。
「また今日も帰ってこない………」
広間の卓子の上で、煎茶を手に楊ゼンは苛々と指を動かしていた。
晧い月は、既に天を下りかけている。自分が帰ってきたのは何時間も前の夕方だというのに。
「…………」
ハア、と息を吐いて楊ゼンは頬杖をついた。
別に師の行動を束縛する権利なんか、弟子である自分にはない。そんなことはよくわかっている。
……だが、理屈とは裏腹に、胸に使える酷く陰鬱とした思いがどうしても払拭されなかった。
何故だか……それはよくわからないけれど。
それでも、師が自分を放っておいてあの太乙真人と仲良くしているのかと思うと………
「!あ!」
無意識に涌き出た怒りに、周囲への気配りを忘れた瞬間。
かちゃんっ、と澄んだ音を立てて、卓子から転がった湯呑みが割れ落ちていた。
「……ああ、もう………」
何をしているんだと浅く自嘲して、身を屈めその濃緑の破片を拾い集め始める。
冷えた洞府内の沈黙が重くて、どうしようもなく惨めな気分になった。
カチャ……カチャ……
「………………」
師が、戻ってこない。
もう何日も、あの静夜にも似た穏やかな微笑みを見ていない。
別に師匠以外の誰にどう思われようと、一向に構いはしないけれど。
………逆にあの人に嫌われたら自分は………
「つッ………!」
唐突に指に走った小さな痛みに、楊ゼンは顔をしかめて指を引いた。
ぽた……と白い人差し指から流れ出た紅い雫が、床に点々と痕をつくる。
師匠が居ないというだけで、酷く散漫になっている注意力に、楊ゼンは情けないと溜め息をつき、
………次の瞬間には、ふっと辛そうに眉が顰められた。
弟子、というだけの軽い存在。
こうしてないがしろにされ続ける度、自分は師にとって大した価値のあるものではないのだと思い知らされる。
………あの人のいない静寂は、己にとってただの苦痛でしかなくて。
言葉を交わさなくてもいい、ただ側に居てくれるだけで、
……それだけで、本当に心穏やかな気持ちになれるのに……
頭を垂れ、楊ゼンは胸の前でぎゅっと傷ついた指を握り締めながら、
「……………どうして……僕を避けるんですか、師匠……」
その事実が、どんな痛みより僕を苦しめる。
「てい……玉鼎?玉鼎ったら」
軽く肩を揺さぶられて、玉鼎真人の窓の外に向けられていた意識はハッと我に返る。
「あ、ああ。何だ太乙」
「……うん……お茶のお代わり、いる?」
「いや……もういい。ありがとう」
「そう?ならいいけどさ………」
手に持っていた二つの湯呑みを卓に置いて、太乙真人は改めて玉鼎真人の元に歩み寄った。
幾度見てもゾクリとくる。
濡れたようの艶のある睫毛。今は物憂げに伏せられたそれが彩るのは、傾国といっても差し支えないほどの凄絶な美貌。
(相変わらず綺麗だなぁ……この言葉って、玉鼎のためにあるようなものだよね)
昔からずっと抱いていた想いだが、この寡黙な朋友は本当に美しいと思う。
透った白磁の肌。それによく映える、純粋な漆黒の髪と眼。
落ちついた眼差しと冷えた雰囲気が酷く禁欲的で、それだけに逆に煽られる者も多い。
太乙真人もその例外ではなかった。
他人を寄せ付けぬようでいて、その実無防備なこの男に触れてみたいという衝動が、いつも尽きる事無く湧きあがってくる。
(特にこの頃……ずっと側に居る所為で……)
「………太乙?」
いきなり後ろから髪を巻き込みつつ首を抱かれて、玉鼎真人は少し驚いた声を出す。
その不思議そうな表情を目の当たりにして、太乙真人はそれ以上何も言えなくなってしまった。付き合い始めた当初から、その顔には弱い。
「……いや……玉鼎って相変わらずいい匂いがすると思って……」
半分本気のその言い訳に、玉鼎真人は微かに身じろぎした。
「匂い……ああ、木蓮香か。楊ゼンもそう言ってくれた………」
小さく微笑しながら呟いて、玉鼎真人は途端表情を沈ませて黙りこむ。
そんな彼の表情の原因を、太乙真人は既に察していた。
(多分玉鼎自身も気づいていないんだろうけどね……楊ゼン、か……妬けるなぁ)
誰しもの高嶺の花であった玉鼎真人の心を大きく占めている道士に、太乙真人はふうっと深く嘆息して、
「……ねえ、玉鼎。いい加減に洞府に戻ってあげなよ。楊ゼンが寂しがってるよ、きっと」
心とは裏腹なことを口にする。できればこうしてずっと自分の側に居て欲しい……が、玉鼎真人の哀しそうな顔を見たくないのもまた事実であった。
そして彼を心から笑わせることが出来るのは、ひとりしかいないということも。
(すごく複雑な心境だなぁ……)
「あの子が?……まさか。私などいない方が落ち着けるに決まっているさ」
微苦笑しながら、玉鼎は自嘲気味にそう語る。
(またそんな問題発言を……何で長いこと生きてて、こう鈍いのかな。楊ゼンが聞いたら絶対怒るよ……)
まあそれがこの友のいいところでもあるのだが。
「そんなことないってば。第一、何で突然彼を避けるようになったのさ」
「………それは……」
玉鼎真人は気まずげに言い淀む。おかしな話だが、自身にもよくその理由がわからないのだから仕方ない。
ただ、
「あの子の側にいると……酷く息苦しくてな」
「息苦しいって………」
(あーもーホントに自覚してないんだから)
側に居ると胸が苦しくなるから逃げた。
そんな感情から行き着く結論なんてひとつしかないのに。
「……とにかく戻ってあげなって。師に避けられてるなんて、弟子にとっては辛いことだよ」
「………別に避けているわけでは……」
「本当に?……少なくとも、楊ゼンはそう考えていると思うけど」
「…………」
友に正論を諭されて、玉鼎真人はバツの悪そうな表情になる。
確かに、自分が一方的な感情であの子を困らせているだけだ。寂しがってなどはいないにしても、優しい弟子はきっと自分を心配してくれていることだろう。
……いや、それ以前に怒っているかもしれない。洞府の主が、幾日もその場を空けたことに対して。
「………わかっているんだが、な……」
それでも、あの蒼い瞳に見据えられると、どうしようもなく居心地が悪くなる。
いつのまにか驚くほど美しく、そして気丈に成長した私の弟子。
今でも稽古をつけてくれとあの子はせがむけれど、
(もう私では相手にならないだろうな……あれは、本当に強くなった)
そう。いずれ……近い内、楊ゼンは己の元を離れてゆく。
弟子の一人立ちが嬉しくないはずはないのに、それを考えることが酷く辛かった。
側に、居てほしい………と、まるで子供のようなことを思ってしまう。
(何を考えているんだ、私は……)
「わかったよ、太乙……洞府に戻……」
師匠失格だな、と嘆息しつつ、自分の首にかかっていた太乙真人の腕を外そうとして。
かたり。
不意に、扉が鳴る。
「!………よ………」
そのまま、玉鼎真人の眼は洞府の入り口に釘付けになった。
夜を背負い、哮天犬を従えた蒼髪の道士の瞳が、こちらに向けられている。
驚愕と、怒りの入り交じった、それでもなお鮮やかな紫眼。
「…………」
しばらく、張り詰めた静寂が場を流れた。
そしてそれを最初に破ったのは、静かに切り出された楊ゼンの言葉。
「師匠……迎えに参りました。それとも、今日も洞府にはお帰りになられませんか?」
無表情を繕いながら、淡々と綴られる刺のある物言いに、玉鼎真人は慌てて太乙真人から離れようとする。が、
「な………」
不意に、浮きかけた身体を背後の相手に強く引き戻された。
玉鼎真人の首筋を這う指もそのままに、太乙真人は彼の黒髪に唇を寄せる。
その行為に、表情をきつく強張らせた楊ゼンに、彼は見せ付けるような微笑みを見せて、
「あ〜あ、お迎えがきちゃったね……残念。続きはまた、玉鼎」
「……太乙……?」
訳のわからない言動を友に取られて、玉鼎真人は訝しげな顔になる。言葉の意味を正しく汲み取れていないようだ。
そんな彼の様子に、太乙真人は一瞬思慮深げな表情になるが、それはすぐに笑みの仮面に隠された。
そして、トン、と玉鼎真人の肩を押し出して、
「ほら、行ってあげなって。夜遊びの好きなお師匠さまを、わざわざ迎えに来てくれたんだから」
「あ……ああ………」
玉鼎真人は少々躊躇いつつも、弟子の待つ入り口へと近づく。
次第に近くなる、真正面から自分を捕らえる眼。
………こんな風に向かい合うのは、一体何日ぶりだろうか。
罪悪にも似た心境を抱きつつ、やはり玉鼎真人は気まずげに視線を逸らしてしまう。
それにいっそう楊ゼンは顔つきを険しくした。
(どうして僕だけに………)
できることなら、この場で大声を上げて二人を糾弾したいくらいだった。
一体何をしていたのだと。
人の師匠に気安く触れないで欲しいと。
(………この人は………僕の……)
ボクノ………
「楊……ゼン?」
「ッ!」
遠慮がちにかけられた声に、楊ゼンはびくりと反応する。
いつのまにか、哮天犬の頭に手をやりながら、師が隣まで歩み寄ってきていた。
「…………」
……久しぶりに、こんな間近で眺めたような気がする。
何も変わっていない、雪闇を彷彿とされるような静かな麗姿。
哀しくなるぐらいに美しい………僕だけの師匠。
「楊ゼン………どう、した?」
「いえ。……………帰りましょう、師匠」
詰めた声で言って、楊ゼンは半ば強引に玉鼎真人の腕を引く。
帰りましょう………帰ってきてください………
………貴方と、僕の居場所へ………
「……やれやれ……さすがにちょっと意地悪しすぎたかな……」
既に宵闇に溶け去った二人を見送りながら、太乙真人はぽつ、とひとりごちた。
「ま、そんなことないか……あのくらいのいやがらせ、したっていいよね」
ふぅっと息を吐いて、太乙真人は僅かに曇った表情を翻す。
そして、己の身体を仄かに彩る木蓮香の香りに、いつもとは違う、慕情に満ちた微笑みをたたえながら、
「……ああ、今夜は満月か………」
そういえば、昔玉鼎と木の元で、酒を酌み交わしながら満月を愛でたことがある。
そのとき、私が似合うといったその木花の香り。
彼もとても喜んでくれて、香として身に纏うようになったんだっけ。
「………木蓮香、か……懐かしいね、玉鼎……」
一番近く、君の側に居れたあの頃。
戻りたいと願うのは、ただの私の我侭なんだろう。
……まあ、それでも構わない。
少なくとも、彼に頼られる存在として、側に居ることは出来るのだから………
トン……と夜気に髪をなびかせて、玉泉山へと真人は降り立つ。
洞府までは、まだ少し距離がある。なぜこのような中途な場所に、と楊ゼンを反射的に振り返れば、彼は哮天犬を消して、自分に向き直ったところだった。
予期せず、闇に慣れた眼が重なる。
「あ………」
霞みのかかる感情に突き動かされて、思わず身を引こうとすれば、
「師匠!」
鬱血した思いを吐き出すような、怒気を孕んだ激しい声と、自分を掴む掌とにそれを阻まれた。
「どうして僕を避けるんです!僕が何をしたっていうんですか!?」
「楊………」
「……そうして遠回しに突き放されるぐらいなら……邪魔だと一言仰ってくれた方がずっと……」
ずっと、いい。
叱られも、罵られても。
それでも、貴方は側に居てくれる。
血を吐くような辛い修行も、生い立ちからくる疎外感も、貴方が支えてくれたから耐えることができたのに。
貴方の微笑みひとつで……どんな不安だろうと乗り越えることができたのに。
「僕は、師匠、あなたの何なんですか?……弟子、ですか……ただの……貴方にとって何の価値も持たない……」
「何を……楊ゼン?そんなことがあるわけが………」
「何が違うんです、それならどうして僕を………!」
………放っておくのですか?
最後の言葉が叫びになる前に、楊ゼンは乱暴に玉鼎真人の身体を堅い地へと突き飛ばした。
「な………!」
「駄目ですよ、師匠。僕の眼を見て………応えてくれるまで許しませんから」
低い声で告げられた通り、馬乗りになって抑えつけられた四肢は全く動かすことが出来ない。
強力でつかまれた肩がズキリと痛みに疼く。
玉鼎真人は困惑の体を隠せないまま、
「……何を、応えろと……?くだらないことを気に病まぬでもお前は……」
誰もが認める存在ではないか。
そう微かな声音で口にする前に、細い指に顎を力任せに掴み上げられた。
その痛みに眉を顰めるところへ、パサリと蒼い髪が顔にかかってくる。
「くだらない、ですか……貴方にとっては。僕はこんなにも苦しんでいるのに……」
「楊……ゼン……?」
呻くように呟かれて、美しい弟子の顔が、唇が触れ合うほどの位置まで寄せられた。
玉鼎真人は彼の感情の真意を図りかねながらも、何とかその体勢から逃れようとする。我が子同然の弟子に、好きな様に組み敷かれて気分の良いわけがない。
そして、それ以前に。
こんなにも間近で触れ合うことが辛かった。
「楊ゼン……離して、くれ。洞府を何日も空けたことに対しては謝るから……」
「それじゃ応えになっていません。僕は別に貴方に謝って欲しいわけじゃない」
「…………それは……」
はっきりしない師の態度に、楊ゼンは痺れを切らして叫ぶように言い捨てた。
「洞府に帰ってこなかったのは、僕と顔を合わせたくなかったからなのでしょう!?だったら、そう仰ってくれればいいじゃありませんか!」
「違う!」
聞き捨てならない弟子の台詞に、思わず語気荒く返して、自分でそれに驚いた。
ハッと口元に手をやった玉鼎真人に、楊ゼンもまた眼を見開いている。
彼が感情をあらわに声を荒げることなど、それこそ滅多とないことだったから。
「………師匠?」
「……………」
先ほどとは打って変わって、どこか躊躇いがちに自分の名を呼ぶ楊ゼンの頬を、玉鼎真人はそっと包み込んで、そのまま額をあわせた。
違う体温が肌に伝わる。
昔から、彼が泣く度にそうして慰めてきた。
「お前が邪魔などと……そんなことあるわけがないだろう。いくら私でも怒るぞ。
……お前は誰よりも大切な存在だよ、楊ゼン」
「そんな……それじゃ、どうして……」
憂いを含んだ切れ長の瞳を揺らがせて、楊ゼンは返事を乞うように、なおも玉鼎真人の身体を強く抑えつける。
それを振りほどこうとして、いつのまにか力でも適わなくなっているらしいことに気づいた。
眼で訴えても、紫の瞳に譲歩してくれる気色は浮かばない。
玉鼎真人は、観念したように息を吐いて眼を伏せ、
「………わからないんだ」
途方に暮れた声を、濃い闇のなかに投げる。
「わから……ない?」
「ああ。…………どうしてお前の側に居ることが辛かったのか……」
嫌悪でも憎悪でもなく。
お前と触れ合うとどうしようもなく辛くなる。
何故なのか、自分にはよくわからない。
「……師匠、それは………」
まったくその感情の原因に気づいていない師に、楊ゼンは柄にもなく上擦った声を上げた。
一瞬間を置いて押し寄せてきた歓喜に、知らず身体が打ち震えてしまう。
自分と同じ想いを、師が抱いていれくれたことに対して。
「……僕も、そうでしたよ。師匠………」
「何?」
「貴方と同じです。ずっと苛々していました。……この感情が何なのかが掴めなくて」
突然切り出された会話に、きょとんと綺麗な顔を無防備に晒している玉鼎真人の頬に触れて、楊ゼンは構わず言葉を続ける。
「でも……今、やっとわかりました……師匠」
美麗な微笑みを浮かべたまま、楊ゼンはゆっくりと師の唇に口づけた。
「!……な………ん!」
予想すら出来なかった突然の行為に、玉鼎真人は常にない狼狽を見せた。自分にのしかかっている細い身体を退けようと必死で力を込めたが、結局は無駄な徒労に終わる。
その時、さぁっと二人の髪を流して、涼やかな夜風が通り過ぎた。
「……っ……ふ………」
つ、と透明な糸をひって、口唇を嬲っていた舌が離れる。心構えも何もしていなかった所為で、玉鼎真人は小さく咳き込む羽目になった。
「っ……ごほっ……よ、楊ゼン?怒っているのはわかっているが、悪戯もほどほどに……」
と、わずかに掠れた声で弟子を窘めようとするが、
「怒る?何のことですか、師匠。それに別に悪戯でしているつもりはありませんよ」
「何……だと?」
悪戯ではない。怒ってもいない。
それならばこんな真似をする必要は………
と、そこまで考えてはたりと思い当たり、玉鼎真人はさっと顔色を青ざめさせた。いくら色事に疎い質だとは言え、今の楊ゼンの言葉の内容がわからぬほど鈍いわけでもない。
いや、この際わからないままの方がよかったか………
どちらにせよ、玉鼎真人は慌てた。
良くも悪くも、楊ゼンはこういった状況で嘘をついたことがない。
「ま、待て楊ゼン。ここをどこだと思っている?」
「大丈夫ですよ。ここは師匠と僕だけの住処ですから。……誰も来ません」
だけ、のあたりにやけに力を込めて、彼はにっこり笑う。そのまま、師の前合わせの服の中に指を滑らせ、シュル、と濃紺の帯を手慣れた仕草で抜き取り始めた。
「……………!」
あまりの急な展開に、玉鼎真人は声も出せずに固まってしまう。よもや弟子に組みしかれる日がこようとは、夢の彼方にすら思えなかったに違いない。当たり前だが。
混乱で抵抗らしい抵抗もできぬ内、するりと肩口まで着物がおろされる。
あらわになった真白い肌は、月明かりに照らし出されて妖しいまでの色香を放っていた。
「やっぱり師匠は綺麗ですね………あ、何で隠すんですか?」
「何でもなにもない!一体何を考えているんだ!」
不本意に紅を散らした頬を伏せつつ、玉鼎真人ははだけた衣装を直そうとするが、勿論楊ゼンはそれを許してはくれない。
一向に引こうとしない弟子を、彼はたまらずに潤んだ瞳で睨みつけるが、
「そんな顔をしたって僕を煽るだけですよ、師匠。なるべく辛い思いはさせたくありませんから、大人しくなさってください」
それができたら苦労はない。玉鼎真人の思考はもう本当にどうにかなってしまいそうだった。
「楊ゼ………!」
「駄目ですってば………もう抑えられません」
怒鳴ろうとして易々と遮られ、真上から慣れた藤色の光に射抜かれる。
どこか辛そうな彼の表情に、玉鼎真人が思わず抗う力を緩めた瞬間。
「………痛ッ………!」
乱暴に手首をひとまとめにされて頭上で抑えつけられ、更に強い力で四肢を拘束された。
文字通り成す術を失い、怒りも忘れて茫然となる師の額に、楊ゼンはそっと口づけを落とすと、
「大丈夫ですよ……優しくしますから。でも、手始めには僕をないがしろにしたり、太乙真人さまと仲良くやっていた罰が必要ですね」
そんなことをさらりと口にして、誰にも見せたことのない、とびきりの笑顔で微笑んだ。
夜が明けるには、まだ遠い。
そして、玉鼎真人にとって悪夢のような一夜が過ぎてからしばらく。
「太乙………」
「あれ、玉鼎。どうしたのさ………この頃こなかったから、楊ゼンとうまくいったんだとばかり思ってたのに」
完全に疲弊しきった風体で、自分の洞府を訪れてきた友に、太乙真人は素知らぬ振りでそんな問いを返した。
彼の身に何があったかなんて一目瞭然だ。
(うまくいった、はいったみたいだけど、代償は大きかったようだねぇ………)
危うい足取りで歩み寄ってくる玉鼎真人を、そんな微妙な心持で見つめながら、
「………休んでいく?」
「ああ……すまない」
それとだけ口にして、玉鼎真人は倒れこむようにして椅子に腰掛けた。
ただでさえ慣れないことを毎晩のように催促されてはたまらない。今だって衰体に鞭打って、やっとの思いで逃げてきたのだ。
太乙真人が茶を入れて向き直れば、玉鼎真人は既に卓に伏して眠っていた。
さらさらと零れ落ちる黒髪から見え隠れする寝顔は、楊ゼンでなくとも本当に美しいと思うだろう。
その官能的な様に思わずぼんやりと見惚れて、太乙真人はいけないいけないと頭を振る。そして奥の部屋から引っ張ってきた薄手の毛布を、ぱさりと彼の肩にかけた。
「やれやれ……君の弟子も困りものだねぇ………師匠をここまでこき使うなんて」
直に、楊ゼンが不機嫌な表情で駆け込んでくるだろう。せめてそれまではゆっくりと眠らせてあげたかった。どうせまた今夜も突き合わされるのだろうから。
カタリと玉鼎真人の隣の椅子を引いて座り、湯気の立つお茶をすすりながら、
「私はなにもしてあげることができないけどね………」
優しい友は、静かな言葉をこぼす。
そして頬杖をついたまま、さら、と玉鼎真人の黒髪を柔らかく梳きあげて、
「辛くなったら、いつでも来てくれればいいよ、玉鼎………」
それでも、君を見守ることぐらいはできるから。
未来さま、1500HITのリク有難う御座いました!
うう、こんなので申し訳在りません。頑張ったのですが……(TT)
最後の方、なにやらシリアスが変に崩れています。しかも締めはどういうわけか太乙サマが(爆)
それでも書いていて楽しかったので、今度はまた「夜明けまでの長い夜」の中身を
書いてみようかなぁ、などと思ってます(やめなさい)