薄幸の真君
蒼天。
地上の遥か彼方。
果てない雲海に悠然と腰を据える……崑崙山。
そのとある一角で、
「わぁぁぁぁぁぁぁぁあ〜〜〜っ!!!」
突如、清浄な空気をつんざくような悲鳴があがる。
その情けない声の主は、何を隠そう崑崙の十二仙。
まだ幼さの残る容貌を持つ、清虚道徳真君であった。
久々に爽快な朝を道徳は迎えていた。
弟子である天化を地上に送り出してからも、彼は毎日の鍛錬を欠かしたことがない。早朝マラソンもそのうちのひとつだ。
……とはいえ、このところ諸事情により、その日課から遠ざかっていたのだが。
「うーん、健康っていいものだなー」
とにもかくにも、やっと体調が元通りになったと上機嫌な様子で、道徳はんーっと上体を反らす。
それでもまだ微かに身体に痛みが残っていた。彼はそれを振り払うように、いささかハードな準備運動をすませて、
「さあっ! 久しぶりに走るぞぉっ!」
と、恐ろしいほどの勢いで、青峯山を疾走しはじめた。それも厳しい地理条件の難所ばかり。
……天化がいたならば、間違い無く「コーチ、俺っちを殺すつもりさ!?」とでも叫んでいたに違いない。
だが、それもある事情故の苦肉の策。
人に知られていない、
なるべく目立たないような、そんなコースばかりを彼はひた走った。
………結局、その健気な行動が裏目にでることになるのだが。
そして、常人ならば多分魂魄がとんでるだろう距離を走り終えた頃、道徳は手ごろな休息場所を見つけていた。
尖った岩ばかりが密集している界隈に、ひっそりと涌き出ている緑泉。その周りには柔らかい芝草と、青葉も鮮やかな大木が何本も静立している。
小鳥の囀りや、黄金色の木洩れ日がまたとないほどに情緒を誘った。
「こんなところあったんだな……」
いくらその体力が化け物なみとはいえ、突然キツイ運動を身体に与えたので、さすがに少し疲れたようだ。
大きな目を見張って、誘われるままに道徳はその木陰に腰をおろす。
穏やかな静謐が、波紋を描くようにして、彼を包み込んでいった。
「……………」
サワサワと岩の合間をぬってそよめいてくる涼風が、汗で湿った肌に心地よい。しばらく忘れていた安堵感に、彼はゆっくりと身をまかせ……
そのまま、夢の世界へと浸りこんでいく。
本当に久方ぶりの、快い微睡みであったことだろう。
不意に耳に届いた金属音。
そのせいで開けた夢現の視界に、長い漆黒の髪が飛び込んでくるまでは。
「どうした、道徳。そんな叫び声をあげて」
思いきり叫んで、その後気絶でもしてしまえばよかった。いや、自分でもなんで気を失わなかったのかが不思議なくらいだ。
この時ばかりは、己の精神の図太さを真剣に恨めしく思った。
「な、な、なん……なんで……」
なんでこんなところに、とそんな簡単な言葉さえも、喉がひきつって紡ぐことができない。自分の心境に忠実に、身体が過剰なほど強く震え出す。
光沢のある美しい黒髪と、整った怜悧な美貌。
崑崙十二仙のひとり、玉鼎真人。
見惚れるほどに鮮やかなその容姿さえも、今は恐怖感をあおる対象でしかなかった。
「どうした?……私がここにいることが、そんなにも意外か?」
当たり前である。
玉鼎に捕まらないようにと、わざわざ険しい道を抜粋してまで身を隠すように走ってきたのだ。今いるこの場所だって空からは見えないはずだし(黄巾力士が少し離れたところにうかがえた)、第一、自分だって初めて足を踏み入れた林泉だ。
誰にもわかるはずのない場所に、今一番会いたくなかった人物がいる。
これで、驚くなという方が無理だろう。
……いや、これが普賢真人や広成子だったならば、驚きこそすれ腰を抜かすほど、衝撃を受けることはないはずだ。
以前の玉鼎の凶行を思い出して、道徳はぶるりと背筋に寒いものを感じたが、それでも気力を振り絞って、彼の端正な顔を睨みつけた。
「い、意外もなにも、お前の洞府からここまでどれぐらい離れてると思ってるんだ!?」
震える声帯を叱咤して、道徳はなんとかそれとだけ口にする。少しでも気を抜けば、簡単に恐怖の渦に飲み込まれてしまいそうだった。
玉鼎は、道徳のそんな突っ張った様子を愉しそうに眺めていたが、
「……そう、警戒するな。……ただ遊泳を楽しんでいたら、偶然お前を見つけただけのことだ」
そんな見え透いた嘘に、普通は騙されるはずがない。そう、普通は。
だが、
「………偶然? 本当に?」
「ああ」
「そうか……なら、よかった」
たったそれだけの会話で、彼はあっさりと緊張を解いていた。
武術には秀でていても、人との心の駆け引きは不得手以前の問題の道徳である。つまるところ、単純で鈍いのだ。
………まったく、これだからこの男は………。
つい先日、ひどい火傷を負わされたのに、もうその熱さを忘れている。
だから、余計な火の粉をかぶる羽目になるのだと、その身に嫌というほど教え込んだはずなのに……
「……まあ、そこがまたいいんだが」
と、自分のことを棚にあげながら、玉鼎は微苦笑した。上品なその外見とは裏腹に、胸中で思っていることはかなりえげつない。
……もちろん、道徳がそれに気づくはずもないが。
「え?何のことだ。玉鼎」
「……いや、それより道徳。私がここにいると何か不都合でもあるのか?」
と、白々しくそんなことを聞く玉鼎。面の皮の厚さは、どこぞの平和主義者な真人といい勝負であろう。
「い、いや別に不都合なんて……! あ、そ、れじゃあ俺はまたマラソンの続きでも……」
などとお茶を濁しながら、道徳はいそいそと木陰から這い出そうとした。さすがに、本能的な危機感はあるらしい。
が、
「まあ、そう急ぐな。……折角、『偶然』逢えたのだからな」
狙った獲物を、そう簡単に玉鼎が見逃すはずがなかった。
道徳は振り返る間もなく、ぐいっと遠慮なしに引き戻される。折れそうなほど強く、手首を握り締められて、
「い、痛い、玉鼎……手、離……」
……再三、玉鼎の闇色の瞳が危険な光を宿していたことを、この鈍い仙人はやはり察知していなかったようである。
当然、無防備な表情を見せつけられて、既に彼の我慢が限界にきていたことも。
まあ、最初から警戒されようが抵抗されようが、ヤル内容に変わりはなかったろうが。
「玉鼎……ふざけるのはよせ。手が痛い」
「そうか?別段、私はふざけてるつもりはないのだがな」
「は?」
その揶揄に、なにやらこもった色合いが含まれてると、遅まきながら道徳が感づいたときには、
「! え……な、玉鼎、なにすッ………!」
抵抗することを忘れるほどの早業で、乱暴に組み敷かれていた。ご丁寧にも、彼の羽織っていたマントの上にだ。
そのあからさまな体勢に、やっと道徳のなかで危機感が爆発する。
「ぎ、玉鼎っ!!騙したなッッ!!」
「騙したなどと、人聞きの悪い。お前を楽しませてやろうとしているだけだ」
「楽しいのは俺じゃなくて、お前だろうがぁぁっっ!! 俺はちっとも楽しくない、楽しくないったらないっっ! だから、離せぇっ!」
「駄目だ。……どうせ、何を言ったって無駄なことはわかっているだろう? ……なあ、道徳」
道徳の言い分や心境など、どこ吹く風で、玉鼎は長い指を口にあててくすりと笑う。
ぞくぞくぞくぞくぞくぞくぅぅっ!!!
そのいかにもな動作と台詞に、道徳の背筋は凍りついた。いや、凍りついたなんて生易しいもんじゃない。
こーゆー顔で、こーゆー言動を玉鼎が取った時、次に自分がどういう運命を辿るのかを、たっぷりと教え込まれていたからだ。
「い……嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ! 離せぇーーーーーーっっ!!」
恐怖感が限界以上に膨れ上がり、道徳はバタバタと闇雲に足掻きまくった。が、悲しいかな、所詮体格の差は如何ともし難い。そうでなくとも、玉鼎は道徳に勝るとも劣らないほどの怪腕の持ち主だ。
畢竟、玉鼎の重い身体はビクともしなかった。文字通り、無駄な抵抗である。
抗い疲れて、ぜーぜーと荒い息をつく道徳の耳元に、玉鼎は冷笑しながら唇を寄せて、
「嫌だ、離せ……お前の罵声は耳に心地よいな。だが、応えは否だ。……何のために、お前の身体の具合が良くなるまで待ってやったと思ってる?」
その静かな言葉に、道徳はビクンと四肢を強張らせた。
……今更だが、この頃鍛錬を休みがちだったのも、寝台に入り浸る時間が多かったのも、ひとえに玉鼎のせいだったのである。
そこまで言えばおわかりだろう。
道徳が玉鼎と顔を合わせることを、あれほどまでに恐れていたわけも。
「噛み付く元気もない病人を相手にしても、面白みに欠けるからな……さんざ抵抗するのを捻じ伏せて、無理矢理泣き叫ばせるのこそ、最高に愉しいのだから。……この前、お前にしてやったように」
にっこりと玉鼎は微笑を浮かべながら、恐怖で固まった道徳の両腕をねじり上げる。
そして素早く、糸のように細い紐で手首を縛り上げ、彼の頭上に固定した。
にっ……と優婉な美貌が、未だ現実逃避気味に呆然としている道徳に向けられて、
「観念しろ。また明日からは寝台のうえで生活することになるぞ」
そしてほどなく、道徳の長い長い悪夢は幕を開けた。
それから数日後。
玉泉山の洞府の一室。
「うっわー、ヒドい顔色」
太乙真人のさして心配してそうにない声が、意識のない道徳に向けられていた。
その横で、
「ああ、以前より無理をさせたからな」
しれっと玉鼎が読書に耽りながら、そう口にする。反省の色はまったく浮かんでいない。どころか、実にご満悦そうな顔つきだ。
そんな悪友の風体に、太乙は肩を小さく竦めて、
「以前よりぃ? この前も、事後に高熱出すわ、お前の夢にうなされるわで大変だったんだよ? 少しは看病する私の身にもなってほしいね」
「それは悪かったな。……だがお前とて、見返りを期待しているのではないか?」
「……まあ、そりゃそうだけどさ。それより、またえらく景気良く破いたものだね……新しい服、彼の家から取ってこなきゃ……」
と、太乙は寝台の端っこに放り投げてあった、道徳のジャージやズボンを呆れたように見やる。もはやそれは原型をとどめていなかった。
「…………」
涙の痕がくっきり残った頬に、擦過傷のひどい手首。身体中に赤痣や青痣が飛び散っていた。
いったい、どういう扱いを受けたのかが一目瞭然だ。しかも、今回は外でそんな行為に及んだと言う。
……我が親友ながら、たいしたもんだよ。ホント……。
太乙は額を押さえながら、小さく嘆息して、
「私の創った紐、役に立ったみたいだね」
「ああ、あれはいい。おかげで随分とやりやすくなった。薬を使わなくても、好きに弄べたからな」
「……でも、酷い傷作っちゃった。これ、当分消えないよ」
つ、と太乙は道徳の手首をなぞりながら、いささかの後悔をこめて呟く。
そのまま、頬杖をつきながら、じっと道徳の寝顔を見つめて、
「……でも、イイ顔だね。憔悴しきってて」
人が聞いたら神経を疑われるような台詞を口にする。
しかしそこは同類、玉鼎は当たり前だと言わんばかりに、それを軽く肯定した。
「そうだろう。道徳の苦痛に歪んだ泣き顔は最高だ」
「へぇ……私はまだ見たことないけど……そのうち拝ませてもらいたいなぁ」
「それは駄目だ」
「……何でさ」
かなり本気だった願望を、きっぱりと拒否されて、太乙は不満気味に玉鼎を睨む。
しかし、彼はその視線をさらりと受け流して、
「決まっているだろう。コレは私のものだからだ」
あっさり道徳をコレ呼ばわりして、所有権を主張する。外道な性格もここまでくると感心するしかない。
「ズルイよ、そんなの。人にいつも後始末ばっかりさせてさ」
「何を言われたって、これだけは譲れん……いつもの、あのくらいならば許すが、な。それ以上駄々をこねるなら、私も考えがあるぞ」
と、パキッと玉鼎は指を鳴らして微笑んだ。その微笑に、ただならぬ妖しさが浮き彫りになっている。
駄々をこねてるのはどっちだか……と、思いつつも、太乙は勘弁してくれよと手を振った。
「冗談じゃないよ。道徳と同じ扱いされるなんて……彼はまだ頑丈だからいいけど、私だったら間違い無く壊れるよ」
「どうだか。お前の方が案外簡単に順応しそうだ。道徳はいつまで経っても慣れを知らないからな」
そこにもまたそそられるんだが、とのろける玉鼎を無視して、太乙は道徳に向き直った。
紫色の唇が、微かな寝息をたてている。疲労困憊も極まった表情で、顔色も蒼白を通り越して土気色。よくもまあ、愛しいと思ってる者に、ここまでの仕打ちができるものだ。
「でも……」
それを言うなら、傍観している自分だって同じようなものだろう。結局のところ、こうやって疲弊しきって……無防備に眠る彼の顔を見ることに、この上ない喜びを感じているのだから。
道徳にとっては辛いだけだろうけど、ここまで彼に構うのは、二人とも完全に溺れている証拠。
だから、触れたい。自分だけのものにしたい。……拒絶されて、諦めれるぐらいの想いなら、最初から玉鼎だって手を出したりしなかったはず。
自分だけを見ていてほしい。それが、恐怖からでも憎悪からでもかまわないからー……。
おおよそ、執着という言葉に縁のなかった玉鼎が、そこまで入れこむのだから不思議だ。
……そして、自分も。
なぜここまで溺れてしまったか、不思議なくらいに。
「……ほんと、不思議だよ」
くす、と太乙は小さく笑う。
そしてくっと道徳の顎を取り、慣れた手つきで唇を重ねた。
玉鼎と遊んだ時に噛み切ったのか、微かに甘い血の味がする。
差し入れた舌で口腔を愛撫しても、道徳がそれに応えるはずがなかったけど。
「……そこまでだぞ、太乙」
警戒気味の鋭い横やりに、太乙は名残惜しげにつ、と道徳から離れた。
「味はどうだ?」
「ん? 相変わらず美味しいよ。玉鼎はいいね。最後まで味わえて」
「……羨ましがっても、味見させてはやらんぞ」
「そんなことわかってるよ。……それに私はこれだけで十分満足だから」
まだ、今はね……と、太乙は心のなかで付け加え、
「それより、道徳ったらまた熱があがってきたみたいだね。本ばっかり読んでないで、少しは手伝ってくれよ。向こうの部屋の棚に熱冷ましあっただろう? それ持ってきて……あとタオルと水もね……ああそれから………」
ただ純粋で、まっすぐな愛しい人。
素直な心と、偽りの無い感情。
彼の瞳には、曇りのない蒼天が宿っている。
私が、とうに無くしたはずの澄んだ光をー……
………そう、私達はそこに惹かれたのかもしれないね、玉鼎………
………それから道徳がマラソンに復帰したのは、十日後のことであった。
自分の嗜好を押し殺して仕上げた話です。
しかし結局耐えきれなくて後編なんぞを書いてしまったり……(汗)