闇に沈む眼
いつの間にか心の歯車が狂い始めた。
それは多分、誰よりも畏怖した人をこの腕に抱いたときから。
「どうしたんだ、天化」
道徳はいい加減心配になって、おずおずとそう目の前に弟子に問い掛けた。
空に紅が混ざる時刻、東風の吹く穏やかな気候の夕下がり。
日課の手合わせを終えたあとの、休息時のこと。
「………何がさ、コーチ」
天化は木の根っこに腰掛けたままにこっと笑って、気まずそうに佇んでいる道徳に静かな言葉を返した。
「何が……って……」
道徳はそんな彼の様子に。歯切れ悪く口篭もる。あまりあからさまに口に出来る内容ではない気がしたからだ。
………この頃の天化はどこかおかしい。
勿論、日常生活に何ら変わりが見られるわけでもないし、修行は熱心取り組んでるし、現に今の手合わせだって自分に及ばないまでもしっかりと手応えがあった。
急速に力をつけている証拠だ。………道徳が言いたいのはそういう事ではなくて。
「コーチ」
その呼び声に、道徳は飛ばしかけた思考をハッと中断させる。
「な、何だ?」
いい吃る師は……明らかに天化の眼に訝しく映っただろうに、
「………そんなところにぼうっと突っ立ってないで、座ったらどうさ?」
彼は相変わらず涼しげな笑みを浮かべて、道徳に接するだけだ。
「……あ、ああ」
わたわたと道徳は天化の側に寄り腰を下ろす。大木の陰になっているその場は、確かにひんやりとしていて気持ちがいい。汗をかいた後の肌にはなおさらだ。
「…………」
さらさらと、変わりない優しい時が流れる。
以前は何よりも心安らかだった、弟子と共に過ごす時間。
……なのに今は、それが酷く息苦しくて、
「………天、化」
「ん?」
「何か……悩み事でもあるのか?」
道徳の息を詰めた台詞に、天化は僅かに眼を見張った。
「いきなり何さ……悩み事?俺っちに?」
「あ、いや……何か……そんな気がして」
日常が変化したわけではない。
修行態度に、影がさしているわけでもない。
……………ただ。
ただ、時折自分を見る彼の眼が。
「ないさ、そんなの。そうさねー、しいて言えば、いつまで経ってもコーチに適わないことが悩みかも」
………恐ろしい光を、宿している気がして。
「馬……鹿。そう簡単に師匠が負けてどうするんだ」
道徳は思いの外明るく告げられた言葉に幾分か安心して、少しだけ身体の力を抜いた。考えれば、愛弟子相手に意味なく怯えるというのも変な話だ。
昔も今も何も変わっていない………そう、それでいい。
たとえそれが……上辺だけの、硝子に映った脆い虚影だったとしても。
「………でも、いつか超えるさ」
突然、ぽつりと投げ出された呟き。
普段よりずっと大人びた声色に、道徳はびくっと反応した。
「……え?」
「コーチを」
「………なん、だ。改まって」
ぱちりと眼をしばたかせる道徳に、天化は微かに笑って、
「だってそうすりゃ……」
ゆっくり、木に凭れかけていた身を起こした。
いつしか自分と同等な高さになった肩が並び合い、間近に彼の瞳が映る。
綺麗な海色の碧眼。
道徳はその内に秘められた眼光に、言い知れぬ違和感を覚えた。
何かが………違うと。
弟子とこうして向き合う度、何故か感じるはずのない恐怖が胸をつく。
こんな感情が湧きあがってくるようになったのは………いつ……
「天………」
「ずっと、コーチの側に居られる」
……側に、居る。
「………っ」
何でもない筈の一言に、道徳の肌はゾクリと粟立つ。
たまらず眼を逸らして、気取られぬよう服端を掴みながら、
「なん、で……だ。俺より強くなればお前は……」
仙人として弟子を、そうわざと軽く受け流す前に、突如襟首を乱暴に引き掴まれた。
「………っ、な……」
「コーチ」
冷えた声に、名を呼ばれる。
咄嗟に引き剥がそうと、天化の腕にかけた己の手が不自然に固まった。
「それから先は聞きたくないさ」
「…………」
道徳の瞳が戸惑うように揺れたのを見て、天化はハッと憑物が落ちたように唐突に手を離す。
「……っ、ゴホッ………」
否応無く場に訪れる、重苦しい沈黙。
やがて口を開いたのは天化の方だった。
「………ごめん、コーチ。でも二度と言わないでほしいさ」
「……天化……」
仙人になれ、弟子を取れ。
それは自分の存在を突き放されているようで。
………側に居たい人は、たった一人だけなのに。
「………すま、ない」
「いいさ……それより」
ふ、と顔を伏せて、天化は膝を立て起き上がる。
道徳に背を向けたまま、雄大に沈みゆく夕日を背負って、
「………帰るさ、コーチ。もう……日が落ちる」
紫陽洞。
雑事を終えて自室の寝台に寝そべりながら、道徳は窓の向こうの夜空を眺めていた。
いつもは闇の天幕に煌めいている星々も、厚く覆われた灰色の雲壁の所為でまったく窺い知ることが出来ない。
まるで己の心模様のようだと、小さな憂鬱に溜息をつくところへ、
「コーチ、入るさ」
一気に自分を現実へと引き戻す声が、扉の向こうから放たれた。
「あ、ああ……どうぞ」
一瞬激しい拒絶が胸をつくが、それを押し殺して道徳は明るい促しを返す。………天化に嫌な思いをさせるのは本意ではなかった。
幼い頃から共に過ごした可愛い子だ。だけど………
「コーチ?……どこか辛いさ?」
「わッ」
やけに大きく耳に届いた声に驚いて、伏せていた眼を上げれば、いつのまにか天化の顔が、息がかかるほど接近していた。
「っ……あ、いや……何でもない。ちょっと考え事してただけだ」
「本当に?」
「……ああ……何でも、ないよ」
無理して作った笑顔にでも、天化は微かな安堵の表情を見せた。
………彼の笑顔。道徳の好きな微笑み。
……でも今、天化が心から笑ってくれることは、ない。
その原因は………多分、自分にあるのだろう。
はっきりしない態度。………卑怯な、自分に。
「コーチ」
含んだ声色で囁かれると、いつものようにバンダナを取られ、顎を長い指に引かれる。
そのまま、静かに唇を重ねられた。
強張って、逃げを打とうとする身体を叱咤し、道徳はそれにぎこちなく応える。
すぐに、ひやりと夜着に差し入れられる筋張った手。詰めたい唇は顎から首筋へと伝って降りて、
「ん………」
微震する下肢を指が這い上がってくる。確かな嫌悪感を伴う仕草に、道徳はきつく眼を閉じた。
………やがて傍らの灯りは消え、道徳の身体は暗い寝台へと沈んでいった。
幾晩彼に身を任せたのか、もう朧げにしか覚えていない。
自分の想いの区切りもつかぬままに、天化がこうして部屋を訪れた日は、決まってずるずると身体を重ねていた。
禁を破ることの罪悪、与えられる苦痛と屈辱。
最初は色濃く胸に影を落とした葛藤も、今は霞んで色褪せて、
………いや、深く思うことを必死で拒んでいた。
事実と向き合ってしまえば……多分自分はこうして立っていられなくなるから。
眼を閉じて耳を塞いで、朝が来れば………元に戻ると。
………天化が、天化で在ってくれると。
彼の腕に抱かれ、苦痛を殺しながら………いつもそればかりを願っていた。
頭の芯が白濁としている。緊張を続けた節々が辛くて、このまま意識を夢へと追いやりたかった。
だが、道徳の束の間の微睡みは、微かな痛覚の知らせによって破られた。
「………っ………?」
僅かに眉をひそめて、道徳は重い瞼を上げる。
闇に支配された部屋。慣れない瞳では自分の身体すら見ることが出来ない。
細い痛みの走った右手の甲を、彼は目の前に持ち上げようとして、
「起きた、コーチ」
それを弟子の腕に遮られた。
道徳は突然の呼びかけに驚いて、反射的にそちらの方に顔を向ける。
………勿論、暗闇に塗りつぶされた視界では何も判らなかったが。
「天化………起きてた、のか?」
「うん。………コーチは、どうして起きたさ?」
「え?いや、何か手に……」
痛みが、と、気怠い身を右に捩って、
「痛かった?」
そこで、気づく。
深い闇を斬るように奔った………白銀の光に。
「………え………?」
「悪いけどコーチ。………もうちょっと我慢して」
「天………!?ん、ぐぅ……っ!」
その正体と、天化の行動とを正常な頭で認識する前に、唇を塞がれ伸ばした腕を敷布に抑えつけられて、
「……………!!」
ざくりと、一片の憐憫も無くそれは突き立てられた。
尖った光沢の………灰銀の短剣。
「ァ……ぁ…?……っ……はッ、ァ………」
わけもわからぬままに、ビクッビクッと腕の筋が痙攣を繰り返す。
がくがくと鳴る顎。創傷から生気が抜けて出ていくような不快な感覚がする。
寝台に張りつけられた手が、異常なほどに疼いて、
「ッ…………て、んか………?」
道徳は呆然と上擦った声で、沈黙を守る弟子の名を呼んだ。
怒りは不思議とまったく湧いてこない。………ただ、ただ今起こった出来事が信じられなかった。
「痛い?コーチ」
「天…………んぅっ………」
小波のように整わない息をつごうとして、天化の渇いた唇に吸い取られる。掌を貫いている凶器はそのままに、天化は貪るような口づけを執拗に繰り返した。
「ぁ、は………っ、つ……ぅ、ぅっ……」
困難な呼吸で胸が苦しくて、視界が輪郭を失い朦朧と歪みだす。
激痛と困惑とで、道徳は思考は完全に混乱していた。
ヒューヒューと細く荒いと息だけが、彼の喉を突いて出る。
………いつの間にか溢れ出た、透明な涙が道徳の頬を濡らしていて、
「…………コーチ」
そっと、顔を温かい指の感触に包まれた。
残虐な行為とは裏腹な、どこまでも切なく優しい声と、
…………昔感じた、懐かしい土の匂い。
「………ッ………」
ハア、と息を吐いて道徳は潤んだ瞳を天化に向ける。
闇にひそんだ碧の眼が………辛そうに自分を見ていた。
「さっき………」
しばし間をおいて、暗闇にどことなく投げ遣りな笑いを含んだ声がこぼれる。
陰る彼の表情は、自嘲に満ちた笑顔だった。
「コーチより強くなれば……ずっとコーチの側に居られるって言ったさ?」
「……天……化?何………」
唐突な問いかけの意図が掴めず、道徳は布を握り締めたままじっとしている。
彼は構わず、言葉をつないだ。
「だってそうすれば………コーチが嫌がっても……」
拒み、抗ったとしても、力で捻じ伏せることができる。
細い手首を鎖に繋いで、誰の目にも触れさせないで。
………ずっとこの腕だけに………
「…………コーチ、本当に俺っちだけのものでいてくれる?」
「天………」
「応えて。………でないと……ますます狂っちまう……」
こんな風にあんたを貶めて、傷つけてしまう。
………そんなことを、望んでいるわけじゃないのに。
「いくら抱いてても不安でしょうがない……眼が覚めれば、この手を外せば、すぐにあんたがいなくなりそうで」
「天化……待……」
「本当は抱かれるのだって嫌さ?……いつも辛そうにしてる」
綺麗な目に涙を溜めて。青白い唇を噛み締め血を流して。
抱いている間ずっと、あんたの身体の震えがとまったことはない。
苦しそうに吐き出されると息も、必死で耐えている嗚咽も………すべて聞こえない振りをしているだけ。
なのにそれでも、狂暴な衝動を抑えることができない。
……師を苦しめる手指を、断ち切ることが出来ない。
「………ごめん、コーチ。ごめん……」
痛みに震える身体を、虚ろな謝罪とともに抱き締められる。
そして、ゆっくりと戒めの剣を引き抜かれた。
「………ッ、ァ………!」
どく、とまた新たな鮮血が抉れた傷から吹き出す。
天化は小刻みに震動している道徳の手を引き寄せ、ぴちゃ、とそれを舐め取り始めた。
「ぁ………天、化………やめ……痛、ぃ……」
掠れたか細い哀願に、天化の応えはない。
ただ清めるように道徳の肌に舌を這わせて、
「怒ればいいさ………この醜い眼が開かなくなるまで殴ればいい………いいから、だから、俺っちだけを見てて」
この蒼空のように澄んだ眼で、他の人を見ないで。
どうしようもなく哀切に、彼は血を吐くように呟く。
ぽたぽたと腕に作られた血筋から、白い布に絶え間無く血痕が穿たれ続けていた。
欲しいのはこの誇り高い師だけ。
すべてを手に入れることが無理なら、己を刻んだ躯だけでもいいから。
………そうして、汚い真似をしてまであなたを繋ぐこの身を、いくらでも恨めばいい。憎めば、いい。
そう…………殺してくれても構わないから。
だからその瞬間まで、お願いだから側にいて。
…………あなたがいなくなったら、きっと自分は生きていけない。
「………大好きさ、コーチ………」
く、暗い……いや、それだけならまだしも……血が……(流汗)
何やら私は弟子×師匠のダーク話が気に入りのようです(人格疑われるぞ)←遅いって
この話……もしかして別に続く、かもしれません。書けなかったシーンがたくさんあるんで(どんなシーンかは……ふふ)
天化くんごめんよぅ……でも壊れた君が好きなの……今度はもっとハードに……がふっ。