風酔いーかざよいー
初春。
穏やかな薫風の流れる……白涼の暮夜。
聞仲は木枠の桟を開け放したまま、傍らの寝台で書物に目を通していた。
厳かな暗灰の甲冑の代わりに、ゆったりとした薄い乳白色の夜着。
湯浴み後のせいか、微かに色のさした白い頬と、高潔な白檀香が仄かに漂っている。聞仲の愛用している香だ。 こんな風にゆっくりと夜を過ごすのは、太師という重職にある彼にとって久方ぶりのことであった。のだが、
「聞仲ー、いるか。いるよなぁ」
唐突に、その和やかな風流を破る声が、扉の向こうから発せられた。
「…………」
聞仲は額に手をあて、書物から眼を上げる。
誰何を飛ばす必要すらない。泣く子も黙る彼の名を呼び捨てにする者など、どう考えても一人しかいないからだ。
「飛虎か……こんな時分に何用だ?」
呆れつつも、口調はけして冷たいものではなかった。むしろ、微かな喜びさえ含んでいるように思える。
………このところ政務に追われ、ほとんど会うことがなかったから。
間接的な促しの声に、バンッと遠慮なく樫の扉が開かれた。
金色の髪と青い眼。見慣れた容貌が、聞仲の眼にはいつでも鮮やかに映る。
殷の鎮国武成王。己にとって、誰よりも重く大切な存在。
「よっ。邪魔するぜ」
少しも言葉通りの様子を見せずに、飛虎はずかずかと室内に歩み入ると、手慣れた動作で備えの椅子を引き寄せた。
そして背凭れに逆に腰掛け、聞仲と正面から向き合う形になる。
彼も深い褐色(かちいろ)の寝巻に肌を包んでいた。そんな服装で往来を歩むな、と聞仲は窘めかけたが、言っても無駄かと溜息をつく。実際、一度や二度のことではない。
「真夜中に悪ぃな。でもお前も俺もなかなか時間がないからよ」
「……そうだな。それで、何を?」
「寝酒、どうだ?一杯やるのは久しぶりだろ?」
わずかに目を見開いた聞仲に、飛虎はにっと笑いながら右手の酒瓶を持ち上げた。ちゃぷ、と中身が揺れる音を聞く。
「………寝酒、か。確かに久しいが………」
「まあまあ、ンな難しい顔するなって。ただの酒じゃねえんだから」
「何?」
「陛下から貰ってきたんだよ。幻の瑠璃酒」
「瑠璃酒?奉納酒ではないか……もしや掠め盗ってきたのか?」
「違う!誰がそんなことするか、まったく。……陛下と競って連続五勝したからだよ。前前から賭けをしてたんだ……こんな上等な酒を一人でちびちび飲んでたってつまらんからなぁ」
上機嫌で飛虎は舌鼓を打つと、気早くもトクトクと盃にそれを注ぎ始める。
聞仲は書読を諦めて、寝台から足だけを下ろした。
「またくだらないことに陛下は………仕様のないお方だ」
「そう固いことばっか言うなって。陛下だって人間だ。息抜きぐらいさせてさしあげろよ……ほら」
手渡しされた漆塗りの盃。澄んだ水面に、己の揺れた顔が映る。
芳醇な酒香がいつのまにか広い部屋に咲き乱れるように広がっていた。さすがは最高の奉納酒だけのことはある。
「……飲むのが惜しいほどに良い香りだ。陛下がよく承諾したな」
「んー、そりゃ渋々といった風体だったがな。約束は守らねーと……じゃ、乾杯」
スッと盃を掲げて、飛虎はくいっとその酒をあおる。聞仲も同じく唇をつけた。
宝玉をそのまま液体にしたかのような、凛麗とした喉ごし。あますことのない見事な余韻に、傾倒の寒気すら覚える。
感服せざるを得ない、類い稀なる美酒だった。
「………旨い酒だ」
小一時間ほどの後。何杯目かを飲み終え、聞仲は素直な感想を述べた。
「そうか?酒にうるさいお前が誉めるなんて珍しいな……持ってきた甲斐があったぜ」
にまっと笑って飛虎は盃をおろした。本当に嬉しそうな表情だ。確かに聞仲が何かに感嘆の意を表すことは滅多とない。……もっとも飛虎に対してだけは別顔だったが。
ゆるく笑みながら盃をさげた聞仲に、飛虎はん?と顔をあげる。
「もういいのか?」
「ああ。そう一気に空けれるような酒ではないだろう」
「まあそりゃーなー……なかなか度も高いし」
何より、僅かで満足できるような酒だ。
「なぁ聞仲、悪ぃけどこれ、ここに置いといちゃくれねーか。持って帰ると、ウチのバカ息子どもが飲んじまうんでよ」
「……ああ、別に構わぬが……もう、行くのか?」
席から立ち上がりかけた飛虎に、聞仲はそれとない追慕の声をかける。
「ん?ああ、こんな時間にわるかったな。それじゃ…………っと」
酒を置き、踵を返そうとして。
背後から柔らかく二の腕を引かれた。
「わ………」
バランスを崩して倒れこんだ先は、聞仲のしなやかな腕(かいな)のなか。
ふわりと身体が昔から好んだ気品ある香りに包まれる。
「聞仲………何だよ、どうした?」
頬に当たる、肌触りの良い絹布。
その体勢は気恥ずかしいのか、多少居心地悪そうに身を捩った飛虎に、
「奥方は、お前を待っているか?」
唐突に聞仲はそんなことを聞く。
らしくない物言いに、飛虎は目を丸くした。
「賈氏?………いや、先に寝てろと言ってあるが……」
「そうか、ならばもう少しここに居ろ」
「聞……」
「今日は風が心地よい」
含んだ台詞を口にして、聞仲は飛虎を抱く手に力を込める。
風。
こんなにも甘い香りを運ぶそれに出会う度、例えようもない不安が胸心に灯る。
けして一つ処に留まることのない……無頼で奔放な形無きもの。
何に染まることも知らぬその流転の象徴は、いつも、愛する者の影に重なった。
「聞仲………どうしたんだよ。今日、変だぜ」
「……そんな、ことはない」
「じゃあ、何でそんな辛そうな顔をするんだ?」
おとなしく聞仲の胸に顔を埋めている彼。
その穏やかな雰囲気を変えることなく、そっと聞仲の頬に手を添える。
交錯する蒼と紫の比類なき鮮眼。
やがて表情を崩したは聞仲の方だった。
詰めた息を吐いて眼を伏せ、飛虎の髪に唇を落としながら、
「……飛虎。お前は私の側に居てくれるか」
居て、くれるか、と。
小さく、願う。
おそらく、本人すら気づいていない……微かに震えた声で。
「ああ?いきなり何だよ………ンな当たり前のこと言うな」
「当たり前……………そうか、そうだな」
そんな風に自嘲気味な呟きをこぼす友を、飛虎はしばし無言で見上げていたが、
「?飛虎?」
聞仲の腕から突然に抜け出すと、彼を飛び越えてごろりと寝台に身を横たえた。
「今日はここで寝る。丁度酒もまわってきたし」
「飛………」
「あんまくだらないこと思い詰めんな。………俺はお前の側に居るよ、ずっと」
小声で告げると、飛虎はぐいっと聞仲の手を引っ張って寝台に招き入れた。広い天蓋。慣れた体温が増えても、そう狭くは感じなくて、
………そして今一度、濁りない真摯な瞳が聞仲を見据えた。
「ずっと、お前と共に殷を守るさ」
それから言葉は交わされない。穏やかな時が、ゆっくりと宵闇に刻まれては溶けてゆく。
時折、清楚な春風が彩幕を泳がせては、また去って
、
「……………」
白檀香。飛虎の好む香り。身につけ始めたのはいつの頃だろう。
聞仲は隣からもれる微かな寝息と、あわせられた掌の熱を儚く感じながら、静かに白い瞼をおろした。
ずっと側にいる。
そのお前の言葉を疑う訳ではない。
ただ胸中に陰る不安は、どこまでも募っていく一方で。
………掴んでも掴んでも、簡単に手の内をすり抜けては消え去っていく。
風に似ているこの男は、いつかそうして私を置いてゆくのだろうか。
え〜と、何やら発作的に書き上げた駄作です。無駄に長いです、ごめんなさい!
大人の二人を書きたくて……結果、何が言いたいのかさっぱりな代物に(自爆)
健全な切な系……慣れないことはしないほうがいいみたいよ、私……(TT)