狂夜ー緋色の贖罪ー




 

 

 


 血は狂気の色。


 人はその紅い呪縛に惑わされる。

 

 





「起きろ」
 断片的な意識に、しかし鮮やかに冷徹な声色が響いた。
 聞き覚えのある、高潔な声。
 ………僅かばかり昔に、別れを告げたはずの………
「……ぅ………」
 ぴくり、と微かに指先が動く。
 それが引き金となったのか、飛虎の頭は少しずつ覚醒していった。
 全身が重い。黴の匂いのする壁から、上体を離すことすら出来ない。
 無理に腕を動かせば、じゃらりと鳴る金属音。
 首には冷たい鉄の感触、手と足には重厚な枷。
 ……紗のかかる視界に、朋友の顔を見定めた瞬間、飛虎は弾かれたような驚愕に襲われた。
「ぁ………」


 耳にするはずのない声。
 眼に映るはずのない顔。
 ………自ら断ち切ったはずの、その麗姿。


「………聞……仲……?」
「ああそうだ、飛虎よ」
 なぜここに彼が。
 問おうとして、己を拘束する枷に邪魔される。
「鎖……?……一体……」
「何がその身に起こったか、まだ理解できないか?」
 困惑を煽るように、聞仲の殊更静かな美声が落ちてくる。
「…………」
 力なく、飛虎は顔をあげた。
 頼りない灯火の下、聞仲の背後にうかがえる鉄格子。
 融通のきかない視界においても、この牢獄の形状には見覚えがあった。
 牢獄……何処の……
 それを認識した途端、さっと飛虎の顔から血の気が引く。


 ここは周じゃない。


「気づいたか。顔に出てるぞ」
 少しも和らがない威圧感を保ったまま、彼は笑い、飛虎の傍らに片膝をついた。
 紫水晶を映し込んだかのような、冷えた光を放つ眼。
 鈍い金の髪は、灯りの所為で琥珀色に染まって見える。
 ……慣れ親しんだはずの美貌に、今は少しの安堵感も得ることが出来ないのは、何故か。
「………周の警備は案外に甘いものだな。お前のような重職にある者の失踪を、簡単に許すとは」
 言い捨てて、ぐい、と顎を掴みあげられる。
 細い指爪が食い込む痛みに、飛虎は微かに眉根を寄せた。
「………どう……して……」
 困惑した表情で、彼はやっとそれとだけの言葉を放つ。
 言い知れぬ驚倒に、正常な思考がついていかなかった。

 



 昨晩。鳥さえも寝静まった刻限。
 残務を終え、いつもと何ら変わりなく回廊を急いでいたはずだ。
 幾つめかの角を折れて、所持していた角灯に突然、聞仲と黒麒麟の幻影を映し出した……
 ……その瞬間から、既に記憶が途切れている。

 



「……幻じゃ、なかったのか……」
 朧げではあるが、こんな状態になるまでの経緯は理解できた。
 しかし意図は依然として掴めない。
 なぜ彼自ら周に忍んできてまで、自分をここ……殷に。
「聞仲……俺を。どうする気だ………」
 今更、自分を連れ戻し、罪人として処罰しようとでもいうのか。
 ………そんなことをしたところで、周にさしたる影響など及ぼさないだろうに。
 だが、飛虎のそんな思いはすべて違われた。
「……どうする、だと?………お前が、それを言うのか」
「え……っなっ……!」
 カッと聞仲の眼が見開かれたかと思うと、乱暴に顎を払われ、首を抑えつけられて、背骨が軋むほどに強く床に叩きつけられる。
「か……はッ………」
 ミシ、と脊髄を走った嫌な衝撃に、飛虎は息を詰まらせた。が、そんな彼の苦態など意にも介せず、聞仲は荒荒しく飛虎の首を締め付けた。
「あ……ぐぅ……っ」
「………殷を……私を……素知らぬ顔で切り捨てておきながら……」
 胸をせり上がってくる圧迫感と嘔吐感を、しかし飛虎は甘んじて受けるしかなかった。
 抗う腕も、脚もない。
 鎖を引き千切ろうと力を込めようと、すべて徒労となって返ってくる。
「……無駄だ。この枷はお前にでも解けまい。……このまま縊り殺してやろうか」
 背筋が竦み上がるほどの、凍った脅し。
 言葉ではない……彼の激情が怖かった。
 ただの一度も目の当たりにしたことのない、怒りに満ちた眼だ。
「ぁ………」
 完全に怯えた瞳になって、がたがたと震え出した飛虎に、聞仲は無言でゆっくりと顔を近づける。
 そのまま、静かに唇を重ねた。
「ん………っ!」
 突然の暴挙に強張る首筋をなおも強く抑えつけ、聞仲は飛虎の舌に自分を絡めた。
 ぴちゃぴちゃと暗い獄内に液体の混ざり合う音が響く。
 行為を嫌がって逃れようとする飛虎に、聞仲はスッと眼を細めて、
「…………!」
 ガリ、と肉を裂く濁音。口腔を侵されながら、飛虎の身体はビクンと大きく波打つ。おぞましさに薄れかけた感覚が、その鋭い痛みに引き戻された。
 やがて塞がれた口端から、つぅっと鮮血が伝い落ち始める。
「………綺麗な色だな」
 聞仲はうっすらと笑みながら、飛虎の唇と首とを解放した。
「……!」
 ばっと聞仲の腕を振り払い、彼は身体を曲げて息を吸いこもうとする。が、喉に逆流してきた血で思うように呼吸が出来ない。
「っ……はっ………か……は……」
 喉元に両手をあてがいながら、飛虎はビクビクと痙攣を繰り返す。喉に詰まった血が、ボタボタと石床に吐き出された。
 噛み切られた舌が痛みに疼く。
 酸素不足で朦朧とした思考が、捌け口のない渦のようにぐるぐると身体を巡った。

 

 


 ……何を。
 聞仲は、何をしたい。
 こんな風に苛まれる覚えなどない。
 己に触れることを許したのは、あの愛しい人だけだ。

 

 


 怒りや驚きにも勝る混乱も覚めやらぬまま、まだ鎖を弾かれて床に仰向けに倒される。
 鼻を突く埃の匂いに、どうしようもなく眦が痛んだ。
「……ぶ……んちゅ……」
 やめてくれ。どうかしている。
 ……俺に触れるな、と。
 浴びせたい台詞はいくらでも喉を突くのに、汚された口ではそれすらも適わない。
「………服が汚れてしまったな」
 飛虎の混濁した胸中をよそに、聞仲はそんなことを呟いて、赤く染まったマントを引き寄せた。
 それに口付けながら、彼は三つの瞳で飛虎をゆっくりと睨め上げる。
 重なる、狂気を孕んだ紫影の眼。
 ぞく、と悪寒に肌を撫でられて、飛虎の不自由な身体は知らず逃げを打った。
 恐い。
 初めて彼と出会った時でさえ、感じることのなかった恐怖。
 底知れぬ闇と……対峙でもしているかのような。
「……お前の血の色は美しい。……昔から……そう思っていた」
「聞………!ぁ、ぅあぁぁっ!!」
 突如、左脚が激痛に貫かれた。衝撃にはねる四肢をも、冷えた腕に遮られる。
「もっと見せてくれ……飛虎、お前の血を」
「ぁ、ァ……ッ、はっ………く……!」
 傷口から溢れ出た生暖かい苦痛が、膝をドクドクと侵食してゆく。
 頭を捩り下肢を見やれば、大腿に突き立てられ、床にまでも食い込んだ銀色の剣。
 そこを尽きることなく溢れ出る……赤い液体。
 ……禍禍しいほどに鮮やかな、命の色だ。
「いい……加減にしやがれ……!殺すならさっさとすればいいだろう!」
 呻くようして、かろうじて吐き出された怒声に、聞仲は一瞬動きを止める。
 そしてすぐに、異彩放つ笑みを浮かべた。
「……殺す?私が、お前を?」
「聞………」
「………そうだな。それもいい」
 空にひとりごちて、聞仲は飛虎に突き立てた剣を抉るようにして無造作に引き抜いた。
 途端、紅い霧が宙を舞う。
「……っ!ぁ、あぁっ!」
「そうすれば……この血も、身もすべて……私だけのものになる」
 ペロリと彼は剣を舐め、それを横に放り捨てた。
 そして血濡れの指で、飛虎の顎を掴み上げる。
 もはやその容貌には、怯えと困惑しか残っていなかった。
 聞仲はその様態に愉悦交じりの冷笑をたたえて、彼の耳元に囁く。
「おとなしくしていろ。……お前には耐えられぬかもしれぬがな」
「………聞……仲……?」
 飛虎に、聞仲の言葉の真意は解せない。
 戸惑い、小刻みに律動する彼の襟首を構わず引き裂いたのは、かけがえのない存在だった者の冷えた手だ。

 

 

 

 

 


 裏切り者。


 そう罵られることを、否定はしない。


 …………それでもお前は、俺を信じてくれると思っていた。

 

 

 

 


ぎゃ〜救いようのない痛話です。飛虎ファンの方申し訳ありません。
ついに苦肉の策で前後(?)編にしてしまいました。うう、どー続けよう……(馬鹿)
そんなわけで、先は多分間があくと思います。ごめんなさい。
誰か私にそういうシーンの書き方の伝授を……(爆)

 

ひとつ戻る小説TOPに戻る