第五回檀徒大会

第五回檀徒大会
 
            現況報告   小田原教会主管佐々木秀明師

   団結固く降魔を粉砕 池田退陣なしには解決は無理

 本日ここに、第五回日蓮正宗全国檀徒大会を開催するに当り、北は北海道、南は沖縄まで、皆さま強盛なる信心のもとに参加され、まことにご苦労さまです。

 早いもので御先師日達上人が御遷化遊ばされて、もう一周忌も終りました。しかし池田さんはじめ執行部の相も変わらぬ反省のない姿には、日達上人も霊山でさぞ御心配なされていることでしょう。この時に当り、我々の一層の御精進御奉公が必要かと存じます。

    運動の推進で盤石な受皿を

 さて、この大会の主旨ですが、ただ単なる学会糾弾が目的ではありません。この問題は、池田さんとその執行部の責任であることは心ある学会員も気付きはじめています。気持ちの上では学会離れの様相を呈していますが、だからといって日蓮正宗の信心までおかしくなっては困ります。この人たちが安心して正しい信心ができ得ますよう、我々がしっかりと団結し、正宗の正義を身に体して、そして一丸となってこの運動を推進し、盤石(ばんじゃく)な受け皿をつくり、御奉公の誠をつくすことを目的として開かれたのが、この大会です。

 我々は日蓮正宗の信心をしています。本門戒壇の大御本尊様を根本に、唯授一人の御法主のもと、令法久住・広宣流布を願い、信心修行をしていく。これが正宗の基本的な姿勢であることは申すまでもありません。宗務当局の行政も、皆が皆満足のいくというやり方は不可能だと思います。しかしその不満から、信心まで見失うようでは困ります。法義を弁(わきま)えられた御法主のもと、強盛なる信心の団結が最も肝要であることを、特にこの席で確認しておきたいと思います。その根本的な姿勢なくして、その運動の成果は望めません。その辺、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

 昭和五三年八月二十六日、七日の両日、総本山大石寺において、御先師日達上人御出席のもと、第一回全国檀徒大会が開催されました。

 その席上、学会がもしも正宗の教義の逸脱を認めず、改めないときは、武道館を借り切って、世間にもこの体質を訴えよう、と決議されました。本日ここにこうして第五回檀徒大会が開かれたということは、これだけ多数の正信の同志が集ったという喜びもありますが、、反面、二年たった今日も、逸脱路線の訂正が末端まで行き届いていない証明でもあり、その意味においてはまことに残念なことです。確かに学会は、表面は恭順を装ってはいますが、我々が身に感じる学会は、果していかなるものでしょう。ある一部の人たちは「直そうとしていることは事実だ。大きい組織だから急には直らない」といわれます。しかしながら、学会に不信を懐き、各末寺にたずねてこられる信者さんより判断しますと、直しているというより、ますます巧妙に誤りを隠しているというのが現状ではありませんか。

 なぜ、こうなるか。一つには学会独自の二面性の体質のせいもあるでしょうが、一番問題で肝心なことは、大多数の学会員が、正宗教義よりどこがどう間違っていたか、その間違いがいかに恐ろしいものであるかを、まだまだ認識していない、また認識させようとしていないところからトラブルが起るわけです。

 この運動はいよいよこれからが正念場です。我が日蓮正宗では正しいものは正しい、悪いものは悪い、謗法は絶対にいけないと、子供のころより教えられて育っています。御先師日達上人も「少しの謗法もあってはいけない、それが後には大きな誤りになるからです。」と御指導されています。ですから、この正信覚醒運動が必要であり、またここまで盛り上ったわけです。もし我々のこの運動が何らかの形で弾圧を受けるようなことがあれば、内外を問わず、一致団結して敢然と戦い抜こうではありませんか。(大拍手)

 これなくしては正宗の本義が通らず、世界からもこの運動が笑われてしまいます。日蓮正宗と名乗っている以上、大聖人の正義をどこまでも守り通す義務がある。そのためにも、正信を取り戻された皆さまにもぜひ、もう一度ここで正宗の基礎教学すなわち信心の筋目をしっかりと学ばれることが肝心と思います。そうでなければ他を救うことはできません。

 振り返って、今までの経過を見ますと、昭和五十四年四月末に、池田さんが御先師日達上人に御目通りをされた折、「五十二年に頂点に達した正宗教義よりの逸脱路線は、学会の長としての自分の責任です。この責任をとって自分は第一線を退きます。今後は新人事のもとに学会は出直します。ですから五月三日の記念総会にはぜひ御出席を賜り、御言葉をいただきたい」と願われました。これに対して日達上人もそこまではっきりと責任をとり、進退を示すならば、出席してあげよう」とまことに慈悲深い約束をされたのです。すなわち、

「今までの逸脱路線が反省され、直ったということの上で、これまでのことは水に流して僧俗和合してやっていきなさい。自分は学会を理解しておるものの一人である。池田さんには今まで、学会の長として本当にご苦労様でした」(取意)

と、花道までつくっていただいた御言葉を、池田さんがしっかりと身に体して反省、対処していれば、この問題はもう解決していたかも知れません。

 しかし一年半たった今日、一線を退いたどころか、誰が見ても昔のまま、というのが現状ではないですか。五十二年度路線を敷いた責任、反省はどこへやら、自分が出なければ学会はもたない、とばかりに自他共にうまく認めさせ、頑張っておられるのが実情です。

      納得のいく姿勢を示せ

 風聞によりますと七月二十三日に箱根で行われた県長会の席上池田さんは「自分がやらなければダメだ。自分一人が、かぶらないでよい泥をかぶっているのだ」と責任を転嫁し、あまつさえ猊下の御言葉を逆手(さかて)にとって、「猊下も自分が必要とおっしゃっている」と居直る始末で、少しの反省もないこの人の無慙無愧には、全く困ったものです。

 マスコミ等で取り上げられたこの一連の問題は、もはや一宗教団体の問題ではありません。どれを考えてみても、大きな社会問題を含んでいます。まして学会は、この法治国家日本に籍のある団体です。市民権を無視した独裁体制の考えでは、とてもこの問題の解決は望めません。世間にも納得のいく道理にかなった姿勢を示すべきであります。この日本では、今の学会の勢力は善きにつけ悪しきにつけ相当の影響力があります。その意味からも、マスコミ等においては「対岸の火事」という考え方ではなく、優秀なる正義のペンをふるわれることを期待いたします。

 ところで、第二回檀徒大会での日達上人の御指導は、ほとんどの学会員に知られておりません。それをいいことに、「今度の猊下は我々を許してくださったのだから、もう終ったのだ」として、正信を訴えている人の方をいつの間にやら謗法者呼ばわりしています。この恐ろしいまでのスリ換えのうまさには、開いた口がふさがりません。日達上人もさぞ驚かれていることでしょう。

 このごろ、「過去の誤りを指摘してはいけない。御法主もそのように御指導されている。だからそれをいう人は謗法である」と不思議なことをいう人たちがいます。このような論法でこの運動を批難する人たちがおりますが、過去のどこが、正宗の教義より間違っていたかを明確に反省も勉強もしないで、眼前にまで誤りを引きずっているから、それは誤りですよ、と訴えているのです。また、どこがどう間違っているか弁えて直してこそ、真からの訂正であり、間違いが分らなくては訂正のしようがないでしょう。まして仏法の間違いは成仏がかかっている大事な問題ですよ、と訴えているのであって、過去の小さな誤りをいちいちほじくり出して、ああだこうだといっているのではありません。

 大聖人の仏法は、三世を通じて因果を説かれた仏法です。また三世を委細に知られているのが仏様です。それを深く信じて精神修行していくのが我々の信仰の姿勢です。この辺のところを、皆さま方もよく心して考えていただきたいと思います。そうでなければ次元の低いやり合いになってしまいます。

学会は末期的な状況 原島告発に世間も注視

 さて、ご承知のことと存じますが、このたび学会の前教学部長原島さんが、考えに考え抜いたあげく一連の行動に出られました。この行動に対しては、その立場によって評価のしかたはいろいろあると思います。しかし彼は、学会に踏み留まって学会を正しい方向に戻すのは、池田独裁体制にあってはもはや不可能であるとの判断から、外に出て世間にも訴え、道理を通すしかないとの考えから行動されたと思います。しかしながら、その根底には、学会を思い愛していればこそのやむにやまれぬ切々たる訴えがあったと察することができます。この辺のところは、かつて学会にいた皆さま方にはよくお分りのことと思います。この行動には、我々の考えられぬ圧力があったことだと思いますが、勇気と決断の意志を貫かれたその行動には頭がさがります。このように、お互いに苦しい中を励まし合って、よき学会に戻したいと考えているまじめな人たちが沢山います。我々のこの運動を、団結のもとに推し進めて行けば、必ずや二陣、三陣と大きな正義の力が加わってくるのは必定です。それを確信して、いよいよ精進いたそうではありませんか。

この原島さんに対して、学会執行部のとった態度は、「釈尊時代の提婆達多、大聖人の時の三位房、戸田さんの時のある幹部、そして池田先生の時の原島」と、会員にお得意の口コミで説明しております。この期に及んでまだ仏様と同等扱い、まことにもって無礼千万です。それでも物足りず、聖教新聞では、「アル中である」「前々から、少しおかしかったが、池田先生の慈悲で教学部長をなんとかつとめられたのだ。少しばかりの教学で慢心を起こしたのだ」などと中傷しています。少しばかりの教学の人が、十何年も教学部長という要職にあったのだとしたら、学会はよほどの人材不足ではありませんか。語るに落ちる、とはこのことでしょう。

 この一連の告発によって、世間にも、なぜこのような運動が起き問題視されたのか、やがて分る時がくるでしょう。また、そのためにもなお一層の地についた闘いが必要と存じます。

 池田さんが学会の実質的な長である以上、学会は直りません。池田さん、本当にこの辺で信仰者としての恥を知って懺悔して下さい。迷惑するのは純真な学会員です、と声を大にして叫ばずにはいられません。これが、我々正信覚醒運動をしている者の訴えだと思いますが、皆さんいかがでしょうか。(大拍手)

 なんといっても学会の中では、正宗の教義の面では一番勉強し、身につけなければ務まらぬ立場の人だったのですから、その意味では相当以前から、ある程度の誤りには勘づいていられたようです。

 しかし、池田さんの指導のもと全然違う方向への教学を推進した張本人ですから、その責任に対しては随分と苦しみ、悩まれたことでしょう。この原島さんに対して、学会執行部がとった態度は、とても信仰で結ばれていた同志の態度ではありません。うまくいっている時には、同志愛のある組織だとか何とか、美辞麗句をならべ、ひとたび正直に物を申せば、このありさまです。

   池田氏と実りある論議を

 原島さんの訴えは、大部分が池田さん個人に対する問題提起ですが、訴えられている当の本人は少しも姿を見せることなく、創価学会という名のもとに反駁していることも不可解であり、またいつもの池田さんの常套手段かと、心ある人たちの顰蹙をかっているのが現状です。

 池田さんは、種々の会合等の指導の中で「学会は自分がいるからもっているようなものだ」といつも豪語されているやに聞いております。それほどの自信がおありなら、この問題に正々堂々と立ち向かわれて喝破されてはいかがですか。純真な学会員も、それを今か今かと期待しているのです。

 池田さん、もうこの辺で男らしく正々堂々と出てください。我々はいつも実りある論議をしようではないかと申し込んでいるのを、まさか御存知ないとはいえますまい。学会は、池田さん個人の物ではなく、大聖人の仏法を信仰しているまじめな人たちの集りのはずです。だから訴えているのです。功績を鼻にかけ、どんなことでも通る、と慢心を起されては困ります。(拍手)

 正宗信徒の中で、一番大きな組織である学会の問題、しかもその中で教学部長まで務めた人の問題提起ですから、知らぬ存ぜぬでは通りますまい。公平な対処をしなかったならば、必ずや後悔することは、火を見るより明らかです。

 このような問題の対処については、第九世日有上人が化儀抄に、

 「同朋門徒中に真俗の人を師範に訴ふ時、ささえらるるひと、起請を以て陳法する時、免許を蒙るなり、然るに支へつる輩は誤りなりよって不審を蒙る間、是れも又起請を以て堅く支へらる時は、両方且らく同心なきなり、何れも起請なる故に仏意計り難し失(あやまち)に依るべきか」

云々と。

 このように民主的に物事を判断するのが本宗の伝統です。このたびの問題の経緯を見ますと、この化儀抄にぴったりです。公平な対処がぜひとも必要であり、宗務御当局のよろしき判断を期待しようではありませんか。もはや執行部がどんな言い訳をしても、学会は末期的様相を呈しています。我々の心ある運動の推進によって必ずや活路は開けます。

 どうか皆さまも、決して慢心を起こすことなく注意し合い、「オラが大将」の心を捨てて、異体同心の姿を示そうではありませんか。それなくしてこの運動の成果は期待できません。なにとぞよろしくお願い申しあげます。

 いよいよ明年にひかえた宗祖大聖人第七百御遠忌には、必ずやこの問題の良き決着のもと、もって、学会も法華講・檀徒も仲良く精進し、大聖人におほめいただける精進をしようではありませんか。

本日より、なお一層の精進、御奉公をお誓いし合い、今後の方針といたします。

       

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