第四回檀徒大会

第四回檀徒大会
 
            日顕上人猊下御言葉

     本日は、皆様多数登山せられ、盛大な会合を開き、明日はまた、本門戒壇の大御本尊参拝を願いの由、各位現当二世の大願成就を祈念せられることは、まことに慶ばしく存ずる次第であります。

 本日は、広宣流布ということについて、わずかながら所懐の一端を申し述べます。

 法華経薬王品には

 「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」

 と説かれ、宗祖大聖人は撰時抄に、あまりにも有名な御文として、

 「彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八 万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称 名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(全集・二五八頁)

 とお示しになっております。私どもは、釈迦仏と、さらには御本仏大聖人の金言として、堅くこれを信じ奉るものであります。

 しかしながら、大聖人の御化導は、五重三段、三重の秘伝、観心・教相、文上・文底、宗旨の三箇、一期化導の始終等、末法万年の衆生救済のため、実に重重の深義がおわしますのであります。ゆえに、南無妙法蓮華経を唱うるとあるから、ただ題目を唱えればよいというのではありません。それならば新興宗教の題目も、本尊の定まらない身延日蓮宗の題目も、同じく正法であることになります。本宗は、日蓮大聖人より日興上人、日目上人と唯授一人の相伝をもって宗教宗旨の根本たる法門法体が伝承されており、そこに大聖人の真実本懐の教法が、三秘惣在の本尊にあることが決定しておるのであります。

 この上から広宣流布について考えるとき、まさしく血脈の本尊を立て、その本尊の流布と本尊に対する信心・修行が広まって行くことが、まずもって肝要であります。

 しかるに、現実はどうであったか。このところを振り返ってみたいと思います。

 由来、正法は、法華経法師品に「難信難解」と説かれ、またこれを護り弘めることの難しいことを、宝塔品には「六難九易」を挙げて説かれております。

 これによっても、正しい法を正しく伝えることが実に大変な難事であることがわかるのであります。宗祖御在世にも、寿量品の文上に対する文底の法門、教相に対する観心の法門、そして、宗旨の実体をよく弁えた弟子は六老中でただ日興上人御一人であり、他は皆大聖人の本意に到達せず、従って背く意味が胚胎して行ったのであります。ゆえに大聖人の滅後、それらの門流はすべて謗法の宗と化したのも、日興上人の正義に帰することができなかったからであります。また、日興上人が大聖人より譲られた身延山において、地頭の波木井実長は、日向の教唆により種々の謗法を犯しいかに諫めても聞き入れないので、日興上人は三大秘法の正義を護持せんがため、断腸の思いで身延を離山遊ばされ、富士に正法を立てられたのであります。これも、いかに正法正義の伝持が難しいかということの実証であります。

 また、富士開教の後も、日興上人滅後、弟子の面々がまもなく法門を立て違えて、血脈の法水に逆らう者も出てまいりました。第四世日道上人の、日尊師へのお手紙の中で、

 「日興上人御跡の人人面面に法門立て違え候。あるは天目に同じて方便品を読誦せず、  あるは鎌倉方に同じて迹門得道之旨を立て申し候。ただ日道一人正義を立つる間、強 敵充満し候」(歴代法主全書一―二八七頁)

 と書かれております。もってその情況が推測されるのであります。

 しかして、これらから、日興上人の門下でありながら、正系たる総本山大石寺の法体法門に従わぬ各山各寺も出て来るのであります。特に、中間の徳川期においては、幕府の宗教政策により、折伏も法度、転宗転派も不可能の情況が長く続きましたが、その困難な環境の中で、わが総本山の門流よりいくたの先師、強信の信者が出て、正法を鼓吹し弘通して、ために各所に法難を惹起したのであります。

 しかし、大勢はいかんともするなく、たまたま敬台院殿、天英院殿、板倉勝澄等の権門の帰依と外護により、諸堂の新築等が行われ、法威を輝かしたとはいえ、一般社会に対する広宣流布はまことに不如意の状態でありました。

 時代は一転して明治を迎え、官の高圧的な宗派合併政策の中で、古来、戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈をもって高く宗旨を掲げるわが総本山と、中間疎遠になった興門各山とは、信仰の基本において一致結束がみられず、かえって足手まといとなるため、ついに総本山の本末―本寺・末寺は意を決して明治三十三年九月、分離独立して日蓮宗富士派と公称したのであります。その後、大正元年、名称を現在の日蓮正宗と改め、鋭意東都を中心に布教に邁進し、全国数十箇処に教会の設立をみたのでありますが、それでも大東亜戦争前までの総本山門下の勢力は、全国の寺院教会数合計一百に満たず、信徒も二、三万の状態に過ぎなかったのであり、改めて正法流布の難事を感ずるのであります。

 そしてこのような状態の時、昭和に入って現われたのが創価学会であります。 昭和五年の設立当初は、創価教育学会という名称でしたが、昭和前半期より戦時中にかけて、初代牧口会長は罰と利益の実験証明ということを表とし、本尊を受持する生活を大善生活と標榜して、一人から一人へと折伏を敢行しました。そして、日増しに正宗の信徒も増加しましたが、当時の神国絶対思想、敬神崇拝主義の強圧に基く特高警察の取締りにより拘留せられ、ついに獄中に病死せられました。

 戦後、戸田城聖氏は、創価学会を再建し、折伏広布の誓いの下、前進を開始しました。確か昭和二十七年頃と記憶しますが、東京・常泉寺で、当時の東京在住僧侶の会合がありました。戸田会長が来て、「本格的な折伏・広宣流布を行うので、そこに起こる大難は学会が引き受けて進む。そのために宗教法人設立が必要であるから、許可願いたい」との話があり、当時の堀米常泉寺住職―後の日淳上人、細井庶務部長―後の日達上人等が承諾され、ここに広宣流布のための団体が、宗教法人として発足することになりました。戸田会長は罰と功徳論の他、生命論を折伏の武器として指導し、燎原の火のごとく折伏、本尊流布が進展し、生存中七十五万世帯まで伸びたことは、皆様ご承知の通りであります。第三代池田会長になって、折伏、広布はさらに進展し、通算七百五十万世帯の突破を称するに到りました。

 この進展の原因は、果して何であったか。もちろん、大御本尊の威光・功徳の絶大なことは当然であり、また客観的外縁として民主主義による言論の自由の保障があり、顕著な政治的干渉と弾圧がなかったこともあります。また、戦後の荒廃と人心の不安定な時代であったことも大きな原因であります。

 しかし、学会の主体的原因としては、第一に、御本尊は絶対であるとの確信と、折伏思想および実践修行の徹底があったからであります。第二には、御書学習の熱心さとこれを一般的にわかりやすく説明し、生活に直結した巧みな信心指導にあったと思います。第三には、会長中心主義の組織化であり、会長こそ広布実現の体現者とする徹底した中心体制の強化でありました。これは、戸田会長が戦後の再建以来命がけで組織を守り、作り出したものであります。その他にもいろいろありますが、要点は右にあると思います。

 この第一は、まことにすばらしいことであり、従来の信徒がややもすれば徹底できなかった御本尊に対する絶対的確信と、勤行等について徹底した実践と指導が、広範囲になされたのであります。

 次に、第二の点は、ここに大きな問題が胚胎していたと思います。難解な教義をわかりやすく話し、指導することは、確かに教学の一般化大衆化としての効果は大変に大きかったが、またともすれば摧尊入卑、すなわち尊いものをごく簡単に割り切って説明する結果、知らず識らずに卑めるところの弊害もあり、教えの基本を離れて自由に解釈するところから、種々の逸脱の思想や、また時には増上慢の考え方も付随してきたようにも思われます。

 第三の、組織における会長中心の絶対的立場の確立は、よい意味では、どんどん増加する会員に対し、指向集中性をもたせ、指導統制が全国的一般的に広く行き渡ったことであります。しかし、悪い面では、会長の神格化に通じ、本末転倒とまでは行きませんが、信仰の中心主点が、組織末端の大衆衆愚性にともなってボヤける実例が起きたことであります。つまり、本宗で絶対尊崇の主体たる本門下種人法一箇の御本尊・宗祖大聖人に対し奉る信仰さえ、何かはっきりしない感じで、会長の指導で御本尊を拝むというところから、御本尊と会長が個人の信仰意識の中で結びつくというような側面もあったらしく思われます。

 右の三つの特徴は、そのよい面をみる時、これがあったからあのような前代未聞の本尊流布もできたといえるのであります。しかし、それが、創価学会は広宣流布の唯一の団体であり、尊い存在であるという意識が自己中心主義的に過剰になったことにより、本来宗門を守るための団体であるはずが、創価学会こそ大切であり、中心であるという学会―主、宗門―従というような自己中心の考えをもつに到った時、先に挙げた教学思想面、会長中心の組織面の逸脱がさらに進んだように思われます。そのため宗祖已来の血脈を護持する宗門との対立を来たし、近年において種々問題が起きたのであります。しかし、私は現在、創価学会がその基本、原点において、今までの弊害を相当程度既に自覚・反省しているとの心証を持っております。また事実問題として、反省のための、一般向き学習会も行っています。その悪い面を学会自身が深く自覚し反省し、矯正しきって行くならば、私はこの団体の折伏力、指導力、組織力は、大聖人の仏法の、さらにこれからの広宣流布のため、現在および未来においても有意義であると信ずるのであります。大聖人は阿仏房尼抄に

「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまし  て消滅さすべし」(全集・一三〇八)

と示され、あくまで一旦信者となった者を救わんとする大慈大悲が拝されるのであります。 前法主日達上人も創価学会に対し、この点同じ考えであったと思われます。昨年五月、学会総会の時の講演において、

「私は日淳上人のもとで創価学会の宗教法人設立に立ち会った一人であります。宗門の外護団体としての創価学会の理解者の一人であったし、今後もそうでありたいと念願しております。どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護して頂きたいのであります。その上で、自主的な指導と運営で伸び伸びとご活躍を願いたいのであります。なお、我が日蓮正宗には、創価学会の他にも法華講および檀徒会に属する信者がおることは御承知の通りであります。同じ信者として仲良くして頂きたいのです。これまでのいきさつは水に流して、大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に協力して頂きたいのであります」(『蓮華』九十七号・四〇頁)と言われております。

そして私の基本方針は、右のごとく前法主日達上人が示し進まれた道を、そのまま受け継いだものであります。ゆえにその線に沿って昨年十月に院達をもってその趣旨を明示したのであります。少なくとも日蓮正宗の僧侶と名乗り、日蓮正宗の信徒を称するなら、私の意を受けて、具体的に行政上実施している宗務院の方針に従って行くことが肝要であります。もし、これを踏み外して従わないならば、それは法主・管長としての私を否定することであり、本宗の正しい信心のあり方から完全に逸脱するものと言わなくてはならない。それは、私の統率する宗団の外へ出てからやってもらいたいのであります。

私は、常に御本仏の大慈悲を拝し、一切の人々を平等かつ公平に見ていくつもりであり、創価学会に対しても、決して偏った、甘い見方をしているわけではありません。あくまでも、本宗の正しい信心のあり方に向けて、正すべきは正して行く堅い決意をもって臨んでいるのであります。現在段階においても、もうこれでよいとか、もうこれで終わったなどとは、いささかも考えていません。誤り、逸脱については、私自らが宗務院を督励して、さらに徹底を図って行く考えであります。皆さん方はどうかそれぞれの所属寺院住職の指導のもと、正しい信心の姿を貫いていただきたいと思います。すなわち、自行化他にわたる信心・修行が大切であります。

今日、まだまだあらゆる数多くの邪教が存在し、それを信じて正法正義に背く者、あるいは不信謗法者が実に社会に多いのであります。学会も今年からは、一層折伏に邁進すると言っております。皆さんも、大いに外部の謗法者に向けて大折伏を行じ、広宣流布へ前進されることを望み、本日の講話と致します。

     

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