第三 回檀徒大会


 
日顕上人猊下御言葉

    檀徒の皆様、今回は三千人の人がはるばる総本山に登山されましたことを、まことにうれしく存ずるものであります。ついては、有志の依頼もあり、ご挨拶かたがた法話を申し上げる次第であります。

 本宗において、信心ということが最も大切であるということは皆様が常に聞かれることでありますが、何故大事かということが大聖人が決判遊ばされたのは『四信五品抄』の“以信代慧”という法門であります。

 御承知の如く、仏教は八万法蔵・十二部経の多きにわたり、その含むところの法門も実に多く多岐に分かれております。ただし大乗においては、これを布施(ふせ)・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・知慧の六つに要約し、六波羅密(はらみつ)と称しております。この一々については省略致しますが、どれ一つを取っても、その内容・奥行共に深いのであります。

 しかして、更に正しい意義において要約すれば、戒・定・慧の三つに帰するのであり、これこそ仏法のすべてを包括し尽くしたものといえます。「戒」とは、衆生に対し、地獄・餓鬼・畜生等・その他の悪道に堕ちないように、非を防ぎ悪を止どめる教えであり、三世を貫く道徳上の一切を包括する法門であります。「定」とは、精神の散乱を防ぎ、正しい道に向かわせしめるための種々の精神統一の法門であり、外道・凡夫が行なうものから進んで小乗の聖人・大乗の菩薩の種々の微妙なる統一境涯の法門をすべて含むのであります。「慧」とは、迷妄の心を波す智慧であり、これも種々大・小の真理の段階に従って広・狭・浅・深が有ります。故に一口に戒・定・慧と申しましても、その内容は仏教と仏教外とのすべての教えにわたっており、これを完全に勉強し通達することは、末代の人ではまず絶対に不可能といって良いのであります。

 しかるに仏様は一代五十余年の教法をお説きになりましたが、四十余年の教えの後法華経を説かれるに至って、はじめて先(さき)四十余年の経教は権経、すなわち権(かり)の教えであり、法華経こそ実経、すなわち真実の教えであることが明らかにされました。そして小乗経よりも大乗教はより多くの人を救い、大乗経よりも法華経、その中においても迹門よりも本門が、更により多くの人々を、つまり未来の愚人・悪人を救う教えであると述べられたのであります。天台・妙楽はこれについて「教弥(いよいよ)実なれば位弥下(ひく)し」と明らかに判定しております。

 これは、人々の機根といって、教えに対する能力が下がれば下がる程、反対にこの人々を導くためにはより勝れた教えでなければならないことが、釈尊の本懐の法華経に厳然と示されているからであります。

 そして法華経本門には、この勝れた高い教えをどのように修行し功徳を成就できるかということについて、教えを受ける一般大衆の実践方法がきちんと示されて有ります。つまり、仏の現在において仏の久遠の寿命を聞いて一念に信解(しんげ)し、また仏の滅後においてその法門を聞き一念に喜ぶ、すなわち随喜することのすばらしい功徳が『分別功徳品』『随喜功徳品』に説かれております。これこそ、最高の仏法の功徳をそのまま享受する、不可思議な妙法修行の相なのであります。しかるに、これについて念仏の輩(やから)は“理深解微(りじんげみ)”といって、法華経は理が深く理解することは極めてかすかであるから位の高い人のためであり、到底末代の愚人・悪人には向かないといって法華経を捨てさせるのではありますが、これこそ仏の真実の教えである法華経の教旨に背く大謗法であります。

 大聖人は末法の人々が法華経によって大功徳を受ける機根であること、またその位は名字即に当たることを正(まさ)しく経文釈義の精髄より決判遊ばされました。「名字即」とは、なんの悟りもなく、仏の名字(名前)を聞いてそれをただ信ずる位であり、その位において、その身のまま仏と成るという大功徳の仏法を開示されたのであります。

 『四信五品抄』に、

 五品の初めの二三品には、仏正(まさ)しく戒定の二法を制止して一向に慧の一部に限る。慧又堪(た)へざれば信を以(も)って慧に代(か)ふ。信の一字を詮と為(な)す。不信は一闡提(いっせんだい)謗法の因、信は慧の因、名字即の位也(新定二―一六四八頁・全集三三九頁)

と言われるのがそれであります。つまり、経文に“滅後の五品”といって五段階の修行法を説く中の「初めの二・三品」、すなわち第一に随喜品・第二に読誦品・第三に説法品までの位では、難しい戒を守ったり禅定を学ぶことは低い機根のためには返って大石を背負わせるようなものであるからしてはいけない、とされており、ただ大切なのは智慧であると述べられております。しかしその智慧も、また末代の愚人・悪人には足りません。そこで、信を以って智慧に代えるのであります。ここにおいて、信こそ法華経という最高の仏法に入り、最高の功徳を得る唯一の道であることが決せられたのであります。

 これに対し、信じない、つまり不信ということこそ謗法の根本原因であります。信ずるということによってのみ自然に仏の智慧を授かる。故に信が根本であることを釈尊も法華経で説かれておりますが、これをまさしく“末代の衆生の成仏の機根は名字即に有り”として決判されたのは末法出現の本因妙の教主、日蓮大聖人であります。末代のいかなる愚人・悪人でも大聖人の仏法に信の一念を起こすならば、直ちに感応して、その身直ちに成仏の因を植えるのであります。それは、大聖人が弘通された本門三大秘法の南無妙法蓮華経が、先程述べた戒・定・慧の三学をもすべて包容する大法である故に、ただ信の一念により大功徳を成ずるのであります。

 伝教大師の歌に、

 此の法を ただ一言に説く人は 四方(よも)の仏の 使いならずや

とありまして、その見解はいまだ迹化の菩薩の域を出でておりませんが『寿量品』の文底を説く御書の心よりすれば、

 此の法を ただ一言に説く人は 四方の仏の 本主(ほんしゅ)ならずや

と言うべきであります。もちろん、「一言」とは南無妙法蓮華経のことであります。

すなわち『当体義抄』に

 至理(しり)は名無し聖人理を観じて万物に名を付する時因果具時不思議の一法これ有り。これを名づけて妙法蓮華経と為(な)す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。これを修行する者は仏因仏果同時にこれを得るなり(新定二―一〇一八頁・全集五一三頁)

と、久遠本因妙の根源における即身成仏の大法であることが表わされて有ります。故に、末法の成仏、当宗の修行は信が大切であり、特に“師弟相対の信”が肝要であります。

 日有上人は『化儀抄』に、

 手続(てつぎ)の師匠の所は三世諸仏、高祖已来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此(かく)の如く我に信を取るべし、此の時は、何(いず)れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり

とお示しであります。この「信」ということは、自分の心を師匠に任せることであり、仏に任せることであります。故に“自分の心を”という意味と“自分の心に”という意味との、二つのけじめが大切であります。『自分の心に任せて師匠の言や仏法を観(み)る』ということになると、これは自分の心というものが中心になり、従って師匠や仏法を信じない場合が生ずる。これがすなわち不信となるのであります。不信は謗法であり、堕地獄の根源であります。故に信心とは“自分の心に”ではなく“自分の心を”師匠・仏法に任せることであります。この『を』と『に』の相違が、末は百万・千万の違いとなるのであります。

 しからば、何故に自分の心において中心にしたがるかといえば、それは慢の心が有るからであります。

 天台大師は

 慢は高き山の如し。雨水止どまらず

と言われております。驕慢の心には、真実の法水は絶対に留(とど)まることなく、皆流れ去ってしまうのであります。たとえいかに長く正法を信仰した人でも、またいかにいろいろな教学や功徳を積んだ人でも、もし驕慢を起こして改めることがなかったならば、その功徳はすべて流れ去るのであります。私も法主として、自ら深くこの驕慢の恐るべきことを心に銘記していきたいと思っております。

 皆様は今日ここに純信なる信心をもって登山せられ、道を開かんとし、道を開かんとされております。その信心こそ成仏の要諦であると思います。どうかそれぞれの寺のそれぞれの集まりにおいて、僧俗和合し、異体同心に、正法正義を述べ、研鑽し、他宗他門・異教の徒に慈悲の折伏を行じつつ、寺院と御本尊を守る理想の講中を、今後建設して頂きたいと思います。

 私は、去る七月二十二日、宗門の法主となり、管長として一宗を統することになりましたので、去る八月二十一日付をもって『訓諭』を発表致しました。どうか皆様にはこの『訓諭』の主旨を正しくお考え頂き、身と口と意(こころ)の三業(ごう)を正しくし、もって正法を護持願いたいと思います。

 皆様の今後益々の御健康と信心倍増をお祈りし、本日の法話と致します。

  題目三唱        (文責在速記者)

     

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