第十一回日蓮正宗法華講全国大会

 
         議長講演  渡辺広済御尊師

 本日ここに、全国正信会僧侶と法華講員の代表が九州、小倉の地に集い、第十一回日蓮正宗法華講全国大会が盛大に開催されましたことは誠に喜ばしく、心よりお祝いを申し上げます。

皆様本日はおめでとうございます。

 今年度年頭に、正信会として「実践」というテーマを打ち出しました。折伏の実践、唱題の実践、という具合に、百の言辞より一つの実践活動を大切にしょう、ということで約半年、僧俗ともに力を合わせて動いてまいりました。その結果、全国的にこの正信覚醒運動はかなり活発化してまいりました。やはり動かなくてはいけない、という実感を覚えたのは、私だけではないと思います。

    何のために生きているのか

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ、一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ」とは、建治元年に富木殿に与えられた宗祖のご教示でございます。

 止暇断眠ということですが、正直に申して中々眠りを断ってまで信心に打ち込むことはできにくいと思います。ならば、せめて眼を開いている間ぐらいは、まじめに信心のことを考えようとは思いますが、これも中々できにくい様子でございます。

 仕事のこともあるし、円高ドル安の心配もある。婦人であれば、毎日のおかずのレパートリーに振り回される。心配性の人はリビアとアメリカの戦争、さらにはチェルノブイリの原子力発電所の爆発、そして死の灰がふるのじゃないかと。そういう心配が一応終り、とりあえず勤行ということになってやっと御本尊の前に座りますと、電話は鳴るし、玄関に人は来る。とても止暇断眠までいきつけないのが、並の方でございます。そうした中において、一日のうちでいかに沢山の時間を信仰のために消費するかは、各々の努力と精進以外に方法はございません。宗祖が「空しく過ごして」と仰せになられているのは、使っても仕方のないことに時間や労力を消費する意味である、と私は拝します。

 私達は生きている以上、それぞれに生活があり、物もいればお金もいる、これは当然のことで、なくては生きていけません。しかし、物やお金を得るために生きているのではないはずです。生きていく上で必要なものと、何のために生きているかということは、全く違うことがらですから、はっきりとたて分けをせねばならないと思います。それが一緒になりますと、生きていくための必需品を獲得するためにだけ人生を送ってしまう。これを「万歳悔ゆること」と仰せられていると思うのでございます。食べなくては生きられないのは当然です。では食べたら何をするか、「仕事をする」人もあれば、「テレビを見る」人もある。あるいは「お題目を唱える」という人もある。ほとんどの方が働くために食べているのだとお考えでしょうけれども、それではその仕事は何のためかといえば「食べるためにしている」、ならば人は食うために生き、生きるために食うのか、それが人生かとなってしまう。これこそ「一生空しく過して」という姿でございましょう。

 一介の水呑み百姓のせがれから、遂には豊太閤と呼ばれ、天下人となった豊臣秀吉の辞世の歌と伝えられるものに「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪花のことは夢の又夢」という有名な歌もあるごとく、富も栄華も人生の終りと共に我が手から離れていくものでございます。

  折伏こそ今世に生きる大事

「悲しいかな生者必滅の習いなれば設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず、今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり」

これは宗祖が聖愚問答抄に仰せになっている御金言でございます。また、「或時は人に生まれて諸の国王、大臣、公卿、殿上人等の身と成って是れ程のたのしみなしと思ひ、少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさかえ、まぼろしのたのしみなり」と、主師親御書において、浮世の栄華、栄耀の空しさを御教示遊ばされています。さすれば、人生は空しく、はかないのか、という気持ちになります。しかし決してそうではない、と私は考えます。人間に生まれた今世において、人間にしかできないことができるということが、人生はすばらしい、百年間生きることが希(まれ)な人間の生涯ですが、その生きている夢の中の夢のごとき人間の一生の間にすばらしいことができる、これが信心でございます。

 従って、先程の聖愚問答抄には「其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり」と、折伏弘教こそ軽き身を以って今世この人生においてなすべき大事である、と御指南下さり、同じく主師親御書においても「唯法華経を持ち奉り速に仏になるべし」と、人間として何のために生きるかを御教示下されているのでございます。「夢の又夢」と、権力の空しさをつぶやいて死んでいった秀吉公ですが、大聖人はあの極寒の佐渡において、食べる物も着る物もご不自由な中で何と仰せられているかと申しますと、「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と、胸を張って仰せになっております。さらにその理由を「命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし」とお示しです。何のために生きるのか、人間として豊かとはどういうことなのか、を具体的にお述べになっていると感ずるところでございます。

 日蓮正宗の中興の祖として私たち僧俗が共にお慕い奉る第二十六世日寛上人は、その御遷化近き頃、「丸はだか露の身こそは蓮の葉に をくもをかぬも自由自在に」と詠じられ、所詮人間、生まれた時と死ぬ時は丸裸であり、飾り物は一切なくなる旨をお弟子方にお示しになられ、さらに御遷化に当たりましては、「末の世に咲くは色香は及ばねど種はむかしに替らざりけり」と、人間の生命そのものの本有常住を辞世として残されまして、私たちに教えて下さっております。

 今世をどう生きたかで来世は決まる。ですから今世を大切に大事にしていくために信心するのです。そう考えれば、人生がどれほど大切であるかがわかると思います。

 正しい唱題行について

  御三師への報恩の唱題が第一


 その人生をしっかりと歩み抜くために「真剣な唱題で折伏を」ということを忘れてはなりません。「真剣な唱題」、これは当たり前といえば当たり前のことですが、どう真剣か、どうまじめかが問題です。かって私たちが、創価学会の中央の大幹部とかいう人々と話し合いをした時、佐々木秀明師がその中の一人に「もっとまじめにやりなさい、まじめにやらなくては駄目ですよ」と注意をされたことがありました。するとその人は、「まじめにやっていますよ」と目をむいて怒りました。聞いていた私たちは思わず吹き出したのです。同じまじめでもまじめが違う。佐々木師が、大聖人の仏法をまじめに信心しなさい、といわれているのに対して、片方は池田大作氏の言う通りまじめにやっている、とムクれているのです。たしかにまじめで真剣で結構ですが、その意味が全く違っています。皆様も学会におられた方はその当時、それはそれでまじめに、真剣に唱題したはずです。選挙に勝つためであろうが、池田先生の健康を祈るためであろうが、それなりに真剣に唱題したと思います。

 しかし、果たして大聖人への御報恩のために、あるいは、自己の罪障消滅を祈って唱題した時間がどのくらいあったか。同じ唱題でも、同じ真剣さでも、その目的を間違えてしまうと、真剣な分だけ、まじめにする分だけ、やっかいなことになってしまうわけでございます。私たちの唱題は、まず第一に御本尊と宗開目御三師への御報恩のためでなくてはなりません。また第二には、この仏法に縁する人々が一人でも多くなる様に祈る、自行化他の題目でなくてはなりません。そして第三に、自分自身の罪障を消滅し、積功累徳を心がける、すなわち功徳を積ませていただくための題目でなくてはならないのです。「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんことのみこそ今生人界の思いでなるべき」と仰せのごとく、夢の中の夢のような私たちの一生涯において、間違いのない唱題、そして真剣に唱えるお題目のみが、人間に生まれた思い出として確かに残っていくのです。自分だけが唱えて満足するのではなく、他の人々にも唱えさせようと願って唱える自行化他の題目が大切でございます。「かかる日蓮を用いぬるとも悪しくうやまはば国亡ぶべし」、真剣であっても大聖人の御心に背く唱題は決して功徳とはなりません。かえって悪となってしまいます。ここのところを、よくよくお考えいただきたいと思います。

  我欲をもたぬ清らかな心で

 さて、唱題するにおいて忘れてはならぬ点は、徳を積むということです。今、日本人の平均寿命は女性が約八十年、男性は約七十五年といわれています。しかし人間として一日生きるということは、山川草木はもとより、牛や豚、魚や鳥に至るまでのすべてに依って生かしていただく、ということでもございます。茶碗一杯の御飯の中に、果たしていくつの米の生命が消えているか、人間が一日生きるためには、数え切れぬ程の他の生命を奪って生きていることを、知らねばならない。人界に生を受けられたことは、実に有り難くすばらしいことですが、そのこと自体が私たちの功徳には違いない。しかし、徳は使えば使うだけ減っていきます。また、生きていくために、商売あるいは仕事の上から、心ならずも人を傷つけたり、だますようなこともあるでしょう。これらは、すべて自分の徳を削って生きているともいえるわけです。だから、御飯をいただく時には合掌して「いただきます」というのです。

 人界に生まれたこと自体は実に有り難いことではあっても、そのために犯す罪もまた多くある、これが人間です。その罪障消滅のために、そしてせっかく人間に生まれたという徳を消さぬためにも、御本尊に対し奉り、自己の欲望や煩悩を離れた、清らかな心での唱題行への心がけがなくてはならぬと思います。しかし殺生はする、食いたいものは食う、その上御本尊へのお題目は自己の欲しいものをねだるだけ。こうなりますと、一時、はやりましたね「あなた、人間やめますか」といわざるを得ない人もいます。

 「真剣な唱題で折伏を」との意味を、どうかしっかり受けとめてお考えいただきたいと思います。また、本当の唱題の姿を各指導教師、ご住職の背中から学び、御本尊を拝していただくようにお願いを申し上げる次第です。

法燈相続について

   素直な信心貫いた南條時光殿


 こうして、人間に生まれた有り難さがわかり、南無妙法蓮華経とお題目を唱えられ、しかも御本尊を信じられるのは人間だけだということがわかってまいりますと、我が子はもちろんのこと、若い人々に何とかこの仏法を護っていってほしい、という気持ちになってきます。

 今月は、日蓮正宗の信者の鑑(かがみ)として皆様がその信仰をお手本とされている、南条時光殿の祥月に当たります。幼少の頃より、父親である兵衛七郎殿の薫陶を受け、十六歳で父親を失う頃には御開山上人のご教導をいただき、時光殿はすでに立派な信者として成長されていた様子です。宗祖が兵衛七郎殿の墓参のために、身延より御下向遊ばされた砌(みぎり)に、たくましく成長された時光殿をご覧になって、「すがたのたがわせ給わぬに御心さひ似られける事いうばかりなし」と、お喜びになっております。そしてその後も、宗祖、御開山の御指南を素直にお受けになり、父親をはるかにしのぐ大信者に成長せられていくのですが、時光殿のような方であっても、周囲の弾圧やいやがらせには相当御苦労をされた様子が偲ばれます。建治三年、時光殿十八歳の頃には、地頭としての立場と信仰者としての在り方、特に大聖人門家ということから周囲の状況もきびしくなり、心がゆれ動いた様子を御書の節々に拝することができます。その時に宗祖は「今はすてなば、かへりて人笑はれになるべし」と仰せられ、時光殿を励まされております。せっかくの信心を今になって捨てれば、今まで日蓮の信者だといって笑われた以上に軽蔑の笑いを受けますよ、ときびしく御注意されております。「人をけうくんせんよりも我が身をけうくんあるべしとて、かっぱとたたせ給へ」武士仲間の会合や話し合いの席で、親切ごかしに「あんな教えは早く捨てた方が身のためだ」、「日蓮などという坊さんについていると貴殿の身のためならぬ」、「お上から不審を蒙(こうむ)るぞ」等の話になった時は、「人の心配よりも自分のことを考えなさい」といって、かっぱとその場の席を立ちなさい、と時光殿を激励されています。

 丁度この頃、池上兄弟の兄の宗仲殿が父親から二度目の勘当を受けています。青年が信仰を持続するということは、いつの時代も大変だったと思われます。ですから、今私たちは、青年を温かく見守って育てていかねばならないと思います。順調に育ってくれればいうことはありませんが、時にはスネてみたり無茶をいったりするのも、また若さというものではないかと思います。

 「青年を育成し法燈相続を」とのスローガンを掲げていますが、このためにはまず青年をとりまく周囲の理解と根気が、何よりも必要であると考えます。「抑(そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり、或は火のごとく信ずる人もあり、或は水のごとく信ずる人もあり」と、宗祖は時光殿を導かれ、「此はいかなる時も、つねは、たいせずとわせ給えば水のごとく信じさせ給へるかたうとし、たうとし」と、おほめになっておられます。こうして時光殿は、やがて上野賢人と称揚される、立派な御信者となられていくのでございます。

 若い人を育てる上で、ただ闇雲に「おがめ、おがめ」といったところで、中々その気にはなってくれません。また特に親のいうことは、一応さからってみるというのが子供ですから、周囲の協力をいただきながら気長に育てることが大切であると思います。そして、僧俗で力を合わせて青年を育成していっていただきたいと思います。若い人は、同世代の同じような年の僧侶に話してもらうと良い、という考え方もありますが、これは一応わかります。しかし、中々やってみると思い通りにはいかない面もあります。若い人には若い僧侶、これが案外失敗する場合が多いのです。なぜかと申しますと、お互いの気持ちが分かりすぎるし、いい分が通りすぎてしまう。やはり若いものだけではなくて、お年寄りの信者さん方の智慧もお借りして、僧俗一致で青年を育てていく努力をしていくことが大切でございます。

第十二回全国大会は北海道札幌で

与えられた時間がまいりましたので、これにて失礼いたしますが、今回は九州でお世話になりました。正信会としては、地方の皆様の団結と相互の理解を目的として、当分各地方で全国大会を開催していく予定であります。来年は五月十七日に北海道の札幌で、第十二回大会を開催することが、すでに決定されております。今日から丁度一年のちです。一人一人がしっかりと信行に励み、よりたくましくより信心の強盛な僧俗に成長し、北海道、札幌でお逢いしょうではありませんか。

   

     

ホームへ 富士門流の再興を考えよう nbの独り言の部屋
nb 資料室 正信掲示板 大会目次
メール 愚者・迷者談義 雑談掲示板