第一回檀徒大会

日達上人猊下御言葉
   

        本日は、新たな各寺の檀徒の方々が大勢ご登山くださいまして、仏恩感謝のため、まことにあ

りがたいことと存するのでございます。

 このように、わざわざ本山まで足を運んで、戒壇の御本尊様にお題目を唱え、また富士の霊場

を踏むということは、まことにありがたいことであります。よく世間でも、功徳を積むというこ

とを申されますが、功徳というのは“積功累徳”という言葉を略したもので、功を積んで徳を累

(かさ)ねる、それが功徳であります。

 爾前経においても、或は昔のその昔の菩薩方の修行は、仏に成るためにたくさんの功を積む。

即ち百の功(福徳)を積んで、そして一つの相好を作るのであります。よく、仏様は三十二相八

十種好と申します。その八十種好というものは、仏様に具わるところの、あらゆる立派なお姿で

ありますが、それは、百の菩薩の修行により其の福徳によってはじめて一つの相好ができるので

あります。だから、八十種好を作るには八千もの功を積まなければならない。そしてはじめて仏

に成るのであります。

 これは歴劫修行と申しまして、長い間かかってそれだけの功を積むということは、菩薩である

からできるのかもしれないけれども、とても我々凡夫にはできません。一生積んでも二生積んで

も、或は生まれ変わり死に変わり此の世に生まれてきても。そんな功徳を積むことはできない。

だから、結局、歴劫修行ということは、駄目である。そんなことは出来得ないことであります。

 そこで大聖人は、南無妙法蓮華経の信心を持って、その功徳を頂戴することができると説か

れ、南無妙法蓮華経の信心こそ、「信は道の源、功徳の母」であるとお説きになっております。

あらゆる菩薩の修行、あらゆる仏道修行は、信心によっておこり、そしてそれによるところの功

徳は、また信心によってできるのであります。だから、南無妙法蓮華経と心から唱える信心によ

って、既に仏の境涯を成ずるところの道を開いて行くわけでございます。これがもっとも大切な

ことでございます。

 それが、北は北海道、南は沖縄から、この炎天の時に本山までお参りして、戒壇の御本尊様に

お題目をささげるということは、実に得がたいこと、ありがたいことでございます。御書に、

「須弥山に近づく衆生は皆金色なり」(『妙法尼御前御返事』)と仰せになっておるとおり、

我々の凡身は、戒壇の御本尊様に額(ぬか)ずいてお題目を唱えることによって、仏身の境涯を

成じていくのであります。まことにありがたいことでございます。

 また、体が悪くて本山まで来れない方は、遠くからお寺の御本尊を通じて、戒壇の大御本尊に

信心しお題目を唱えるということが、もっとも大切なことでございます。その信心を忘れたなら

ば、本宗の信行という事は有り得ないのでございます。

 昨日、沖縄のある人から、こういう質問をしてきました。八月の女子部の夏季人材研修会が沖

縄で行われたときに『一生成仏抄』の講義があったそうです。その講義の内容が八月十六日付の

聖教新聞の沖縄版に出ていた。それには『一生成仏抄』の、

 但し南無妙法蓮華経と唱へ持つと云とも、若己心の他に法ありと思はば全く妙法にあらず、麁

法なり、・・・・故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我一念を指て妙法蓮華経と名くるぞと、深

く信心を発(おこ)すべきなり」(新定一二六頁)

の文のくだりについて、

一,自分自身の中に御本尊がある。

二,「深く信心を発す」ということは、我が生命の御本尊を涌現していくことである。

と定義づけられて、その研修会に於いてみんなに発表した人があるそうです。自分達が、直ちに

仏であると強調されておる。それは少々考えものでございます。それに対して、お答えしたいと

思います。

 これは、明らかにいって、日蓮正宗の御法門ではありません。この席をお借りして、一言答え

ますれば、我が日蓮正宗の教法と信行は、もう既に『宗制宗規』の宗規において、明らかに規定

されており、

 本宗は、宗祖所顕の本門戒壇の大漫荼羅を帰命依止の本尊とする

                     (日蓮正宗宗規 第一章 第三条)

 本宗は宗旨の三箇たる本門の本尊即ち宗祖所顕の大漫荼羅、本門の題目即ち法華経寿量品の文

底妙法蓮華経及び本門の戒壇の義を顕わすを教法の要義とする(同第四条)

 本宗の信行は、僧俗一途にして専ら大漫荼羅を礼拝して、本因下種の妙法蓮華経を口唱するを

正行とし、法華経方便寿量の両品を読誦するを助行とする(同第五条)。

と、規定されております。このように、日蓮正宗の御法門というものはきちんと定まっておりま

す。それを勝手に色々と解釈し、自分の中に御本尊があるんだということは、たいへんまちがっ

たことであります。

 『一生成仏抄』は佐前の法門であります。佐前というのは、佐渡の法門以前の法門でありま

す。我々の凡夫の肉身は、妙法蓮華経の当体であることをお説きになったのであって、我々自

身、即座に御本尊であるとは説かれていません。その、我々自身が本尊であるということは、佐

渡以後の、建治三年の『日女御前御返事』に、

 此御本尊全く餘所(よそ)に求むる事なかれ、只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と

唱うる胸中の肉団(にくだん)におはしますなり(新定一七二五頁)

と、お説きになっております。この御法門が説かれる以前、即ち佐渡中において『観心本尊抄』

を大聖人がお説きになる。

 観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふ也。譬ば他人の六根を見ると雖(い

えども)未だ自面の六根を見ざれば、自具の六根を知らず、明鏡に向ふ時 始て自具の六根を見

るが如し、設(たと)ひ諸経の中に所々に六道並びに四聖を載すと雖(いえども)法華経並に天

台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界百界千如一念三千を知らざる也

                           (原漢文 新定九五九頁)

とお説きになっております。

 皆様も、自分の顔というものは分らないけれども人の顔は分る。また、自分の体は分らない

が、鏡に向かったときそれが分かる。そのように、自分の体内に一念三千の法門が具わっておる

といっても、それをどうして知ることができようか。たとえ爾前経に十界を説いておっても、自

分では分らないではないか。それが大事なことであります。

ここに、『観心本尊抄』を説かれることにおいて、我々凡夫が仏であることを知る明鏡として、

大聖人は、

 此時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為せる一閻浮提第一の本尊を此国に立つ可し

(原漢文新定九七五頁)

と、はじめて御本尊を建立せられ、我々、末法の凡夫の成仏の道を示されたのであります。

しかも『観心本尊抄』の最後に、

 一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此珠を裹(つつ)み末代幼稚の

頸(くび)に懸(かけ)さ令(し)め給う(原漢文新定九七六頁)

と説かれております。すなわち、我々のような仏法を知らない者に御本尊を授けて、その御本尊

を信心することによって、はじめて我々が仏に成ることを示されて、こうお説きになっておるの

でございます。

 この肝心の、大聖人の御当体であらせられる本門戒壇の大御本尊をないがしろにして、先程の

『一生成仏抄』の講義の如く、「自分自身の中に御本尊があるから、深く信心を発していくとい

うことは、我が生命の御本尊を涌現していくことである」というならば、それは身延の日蓮宗で

言うが如く、自分自身の中に御本尊があるから、自分自身を拝めばよいということになる。そん

なことが、本宗の教義にありうるでしょうか。

 また、禅宗では「見性成仏」ということを言います。すなわちこれは、禅の修行によって、自

分の内心に仏性のあることを悟るということであります。もし我々の中にある御本尊を涌現させ

るというならば、これは禅宗と同じことになってしまう。また身延の日蓮宗と同じことになって

しまうのであります。こういう考えの教学は、我が日蓮正宗においては、大いに慎まなければな

らないことであります。

『聖愚問答抄』、或は『法華初心成仏抄』に

籠の内にある鳥の鳴く時空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる。是を見て籠の内の鳥も出でんとするが如

し(新定六一八頁・一六四六頁)

と、お説きになっておる例の如く、我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智

冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、何で成仏できましょうか。

そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、勝手に自分自身を拝んで成仏するとい

うならば、大聖人は何のために御本尊を御図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人の当体と

して遺されたのでありましょうか。こういう点を、よく考えていただきたいと思うのでありま

す。

 『日女御前御返事』に

 日蓮が弟子檀那等、正直捨方便、不受余経一偈と無二に信ずる故によて、此御本尊の宝塔の中

に入るべきなり。(新定一七二五頁)

すなわち、御本尊と我々が一体になるというのであります。更に次ぎ下に、

 たのもしたのもし。如何(いか)にも後生をたしなみ給うべし、たしなみ給うべし。穴賢。南

無妙法蓮華経とばかり唱へてほとけになるべき事尤(もっとも)大切也。信心の厚薄によるべき

なり。仏法の根本は信を以て源とす(新定一七二五頁)

と、お説きになっております、この信心無くして、いかに修行しようとも、いかに学問しようと

も、御書を何遍読もうとも、信心の無い御書の読み方では、少しも成仏に近づく道ではない。鳥

の鳴くが如く、ただ叫んでおるにすぎない。もっと、しっかり御本尊に向かい奉って信心してこ

そ、ほんとうの信心であります。

 日蓮正宗は、僧俗ともに、戒壇の御本尊を一心に信じ奉り、南無妙法蓮華経を口唱し、現世安

穏・後生善処の境涯に精達することが、もっとも大切であります。

 どうぞ皆様も、御本尊に向かってお題目を唱える、真の自分の信心を起こし、日蓮正宗の教義

を持(たも)っていかれんことをお願いする次第でございます。

 これをもって、失礼致します。

                          (文責在速記者)

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