第六回日蓮正宗全国檀徒大会

 
        現況報告  大阪広宣寺住職 梁瀬明道師

   当局は池田学会に同調 

   宗内混乱に暗躍する謗法者


 皆さんこんにちは。

 まず、昨年夏の武道館における第五回檀徒大会よりはや九カ月を経て、本日ここに第六回の大会が開催できえましたことは、護法のため、宗門のため、そしてこの運動のため、これほどの有意義なことはありません。皆さまと共々まずはお慶(よろこ)び申し上げます。

 しかしこの間、実に宗門は、宗旨七百年に類をみない未曾有の出来事の連続でありまして、皆さま方におかれましても、憤(いきどお)りと驚きと、失望と希望の日々であったことと思います。

 我々正信会の僧侶にしても、正直なところ九カ月前、よもや事ここに至るとは、夢にも思っていなかったのであります。

 第五回大会以後―監正会の裁決を無視しての、五人の擯斥を含む二百余名の処分の断行、宗会議員と監正会の地位を無謀に剥奪。阿部日顕師ならびに宗務当局に対する正信会の質問状と抗議。池田大作氏の国会喚問請求の署名運動と請願デモ。

 さらに、百八十余名の教師による、阿部日顕師に対する、管長の地位不存在訴訟と職務執行停止の申請。そして、正信会僧侶と所属檀徒に対する登山御開扉の禁止処分等、ごく大雑把(おおざっぱ)にみても全く大変なことばかりで、よもや先師日達上人も、三回忌を前にしてこんなになってしまうとは露(つゆ)ほどもお考えにならなかったことでありましょう。

 これひとえに、池田大作氏の奸計(かんけい)と、それに全く同調した阿部日顕師の横暴によるものであり、今や宗門は池田創価学会の思惑通りに事が運ばれているといっても過言ではありません。

 すなわち、あの狂気の五十二年度謗法路線を、学会万代路線を、今度は創価学会員らの手を汚すことなく、宗門の権威をもって成就せしめつつあるということであり、実に宗門は、今、まさに危急存亡の時であります。

    事情知らぬ学衆にも学会擁護語る阿部

 ことここに至って、未だに「御法主上人猊下に信伏随従」と繰り返し、為(な)すことを知らぬ無節操、無道心の僧侶と旧態依然の信徒には、一体、宗門の将来を何と考え、宗開両祖の仏法をいかにして令法久住せしめる気なのか、責める言葉さえ知りません。

 さて、過日(三月三十一日)、阿部日顕師には非教師といって、修行中の高校・大学生を集めての席上、相手が事情を知らぬ学衆であるのをいいことに、随分とお粗末極まりないことを述べています。すなわち、

 「今日、マスコミ等による宗門学会の問題指摘は、信心をしていない世間の人の批判だから全てウソである」「今日の問題は、端的にいえば、創価学会の発展にともなって、僧侶の数が足りなくなったことが、その原因である」「正信会の者は、世間の考えに基準をおいた間違った思考、行動の者だから、宗門の方針に不満なら、宗門から出ていけ」「学会の誤りを正すことに、いつまでも捕(とら)われてはいけない。もちろん直してはいくけど、それより大事なことは僧俗一体となっていくことだ」等々。

 ここには、大切なことは宗開両祖の仏法の道理が根本であって、それをいかに令法久住していくかの、宗門的基準に立って、今日の問題を深刻に受け止め、宗門を正常化していこうとの意志は、微塵(みじん)も感じられません。

 ただただ、謗法を犯し、社会不正を行ってきた池田創価学会を、遮二無二(しゃにむに)擁護し、それに頼って、現宗門の体制維持を計ろうとする、つまり宗門の私物化による己(おのれ)の保身に汲々(きゅうきゅう)としている本音(ほんね)が随処にあらわれているのであります。

 いま我々が、かりに阿部師の方針による僧俗一致の路線を素直に受け入れるとすれば、それは完全に、創価学会の下請(う)け教団、葬式法要係に徹し切ることを意味します。これ創価学会の最も理想とするところの、学会と宗門の最も麗(うるわ)しい僧俗和合の姿なのであります。それが今、阿部師の手によって着々と実行されているのであります。

 本山では、正信会僧侶と檀徒に対し、登山禁止、諸申請拒否の通達を出して、事実上、正信会僧俗を宗門の体制外に追い出そうとし、学会がこれを活用して、猊下・本山の方針に従うんだとの説明のもと、一般信徒会員に正信会寺院への参詣と法要の申込み等を差し止め、併(あわ)せて兵糧(ひょうろう)攻めを仕掛けております。

 そして、憂宗護法会等、他の寺院住職は、保身のため、建前は「猊下の意に従う」との立場より、朝から晩まで御授戒・葬式・法事に明け暮れ、全く学会の“法要部”と化しております。

 お陰でかわいそうなのは一般会員で、自分の近くのお寺の前を通り越して遠方の正信会でない寺院に葬式等を頼みに行き、挙句(あげく)の果ては断られてしまうこともしばしば、時には朝の六時から葬式をされる。あるいは先祖供養を頼めば、塔婆屋で印刷した御題目の塔婆に戒名を書き込むだけとなる。全く気の毒というか、哀れというほかはありません。

 でも、先に臨時得度した二十二名のインスタント僧侶が、本山での本来の修行もそこそこに、ただ葬式、法事のノウハウだけをたたき込まれ、もう少しすると全国の多忙な寺院に派遣されてくるでしょう。彼等に引導をわたしてもらう信徒こそ気の毒の極みであります。一方創価学会の現況は、当の池田大作氏が、阿部師ならびにその一統を懐柔(かいじゅう)することによって、宗門に混乱を仕掛け、完全に混乱におとしいれたることを見届けて、内心、してやったりと思っているかのようです。

   今後も覚醒運動を更に推進

   宗内の自立は再折伏の一点


 去る五十三年の二月、日を置かずして池田氏が、日達上人に二回も頭を下げた屈辱(くつじょく)と「六・三〇」「十一・七」、さらには五十四年四月、会長を退いた雪辱(せつじょく)を果したもの、と考えたかどうかはともかく、今は多くの会員幹部を随えて、二カ月にわたってソ連はじめ東欧、西欧諸国を歴訪し、連日、聖教新聞の一面に大々的にデモンストレーションを展開し、名誉の回復にやっきになっております。もう完全なる復権以上のものであります。

 これを見て多くの会員達は、この二、三年における教義上の逸脱―謗法―の問題、宗門との問題、また、マスコミ等の指摘により、何かを感じ、大なり小なり学会のあり方に疑問を起し、シラケかかっていた者を、まこと見事に、「やっぱり池田先生は間違っていなかった」「すべては山崎・原島の画策によるものだった」「正信会・檀徒は彼らに踊らされて信心の本筋を踏みはずした哀れな者たち、謗法の者、邪宗の者たちである」と、思いこませつつあり、そしてついに思い込ませてしまいました。

 また、池田氏の女性スキャンダル問題で、最高裁が「池田氏のスキャンダルは個人のこととしても、公共の利害に関係する」として差し戻ししたことについても、これをすぐ、「最高裁判所が池田先生を日本国の公(おおやけ)の人だと認めてくれた」と詭弁を使っています。

 こうなると、もう「開いた口がふさがらない」とは正にこのことで、一事が万事、すべてこの手でただひたすら会員組織の防衛と池田氏の復権に全力をあげております。ですから、本尊偽造事件をはじめとする、仏法上の謗法の問題も、また、具体的に指摘された数々の社会的不正の問題も、何ひとつ、世・出の道理に叶(かな)った根本的解決がつけられておりません。

 いかんせん、公明党という権力と、六百万会員の財力によって、事は闇(やみ)から闇へ葬(ほうむ)り去られようとしています。仏法上の謗法の問題は、仏の教誡に照して、真の反省懺悔がなければ問題の解決にならないのであります。

 しからば我々は、このような現況の宗門と創価学会に対し、今後どんな目標のもと、どのような活動をしていくべきか、宗祖大聖人七百御遠忌を五カ月後に控(ひか)えて、真剣に考え、再度、腹を固めて確認いたしたいと思います。

 結論を申せば、それにはただ一つ、この正信覚醒運動を、僧俗共にわき目もふらず、さらに強力に推進していくのみであります。

 すなわち、正信覚醒運動こそ、今の時に適(かな)った仏道修行であるとの認識のもと、一人が一人の学会員を再折伏し、本来の日蓮正宗の信徒となさしめていくことであります。これ一人ひとりの信心を正信に立ち帰らせ、成仏の直道につけることであり、ひいてはすべての解決に連(つら)なる道なのであります。

 そして結果的には、これが個々の寺院の自立を促(うなが)し、全体的には宗門の基盤が堅固になって自主性が確立され、一切の矛盾を解決して宗門の正常化に向っていく、最も確実にして、最も有効な近道なのであります。



   覚醒運動の本流はあくまで正信求む姿

 我々は短期解決を切望して、署名運動もやりました。国会請願のデモ行進もしました。今も「糾す会」の各種の活動をしています。そして阿部日顕師の不当を訴え、六人の擯斥僧侶を守るほかにも、各種の裁判訴訟もおこしています。

 しかし、これらは皆、正信覚醒運動の側面であります。当然、今後も活動していくべきものでもありますが、我々僧侶と皆さま方が、正面切って、ガブッと四つに組んでいく運動は、今後とも、功徳と罰のアメとムチによって踊らされ、学会内にしか通用しない役職という名聞名利をちらつかされてダマされている一人ひとりの学会員を、真の大聖人の大慈悲に浴せしめ、日興上人の厳しい信心に住せしめ、日有上人、日寛上人の深い御法門に触れさしめ、本当の日蓮正宗の信徒として正信に目覚めさせることが最も肝要であります。先の大会のスローガンは「護法」でした。今回は「正信」です。池田創価学会の偽善と魔手より、真に正法と宗門を護り、一人ひとりが正しい信心に目覚め、覚醒せしめていく運動こそ、正信覚醒運動の本流であります。

 今、正信会と皆さま方のおかれている状況は、表面上は少しもよくありません。かえって、登山禁止によって追い込まれているようにも見えます。

 そこで、道念のすわっていない僧侶は、このままでは本当にクビになってしまうと、昨日までの大言壮語を翻(ひるがえ)して、御法主の御指南の名のもとに転向し、幾多の檀徒を悩み迷わす破廉恥な行動をひき起こし、また、御開扉が受けられないのではと、それに従ってしまう檀徒もおります。しかし、私は、この運動が、宗開両祖の謗法厳誡の御聖神に叶っている以上、御書に、

 「夫れ仏法と申すは勝負を先とす」

 あるいは、

 「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つものなり」



 との御金言を拝するとき、今、この時点で、仏法の道理に叶っている以上、我々は常に勝利しているのであることを肝(きも)に銘じて、宗創一体となっての、どんな制裁、圧迫があろうとも、一歩も退くことなく、いよいよ正信覚醒運動に邁進(まいしん)してまいりましょう。  今、正信会の僧侶は、真の富士の法門の研鑽に余念がありません。特に宗門の将来をになう若手教師が非常に頑張っております。そして皆、布教の実力を着々とつけており、行体行儀にその信心を示しております。

 また、檀徒、法華講員は、真の法華講員たるべく、正信会の住職共々、所属寺院を必死に守って寺檀の和合を計り、正信を貫き通しております。この姿こそ、日興上人の身延離山、二十六箇条の信心、精神の体現であり、日興門流、日蓮正宗の正宗たる所以(ゆえん)そのものであります。

 されば我々は、目前に迫った宗祖大聖人第七百御遠忌を最前の目標にすえ、この五カ月間は、何としても一人が一人を折伏して、悔(く)いのない御報恩の誠を尽くし、さらには、この問題の決着がつき、宗門が正常化される日まで、皆さまと共々に苦楽を分ち合いながら、ただ、ひたすら正信覚醒運動を為し遂げてまいろうではありませんか。(拍手)      

     

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