当家三衣抄 第六

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当家三衣抄 第六

当家三衣抄

 左伝に曰わく、衣は身の章なり、註に云わく、章は貴賤を明きらかにするなり云々。

天子は十二章、謂わく日・月・星辰、此の三は下に照臨するを取るなり。第四は是れ山、雲を興し雨を致す、左右に二画くなり。第五は是れ龍、変化窮まり無し、左に上り右に下る。第六は是れ華蟲、此れ即ち雉なり、耿介を取る、向かい合って左右に之れを画く。第七は是れ宗彜、左は即ち白猿、右は是れ白虎なり。第八は是れ藻、是れ文章なり、形藤巴の如く左右に之れを画く。第九は火、炎上って以って徳を助く、亦是れ左右に画くなり、第十は粉米、潔白能く養う、丸して米を散ずるの体、二左右に画くなり。第十一は是れ黼、斧なり、断割の義を取る、刃を向かい合わせて左右に之れを画く。第十二は是れ黻、之れ古の弗の字なり、亞は両己相背くなり、周礼の司服の註に云わく、臣民悪に背き善に向かうを取るなり、此の古文字を左右に之れを画くなり。前の六は衣に画き、後の六は裳に繍る、上を衣と曰い下を裳と曰うなり。此れ則ち天子の十二章なり。

当家三衣抄諸侯は八章、大夫は四章、士は二章、庶人には則ち無し、故に貴賤を明きらかにすと云うなり。若し斯の旨を暁らめば則ち吾が家の法衣を知らんのみ。

当家三衣抄

日寛謹んで之れを記す

夫れ法衣とは法に応じて作る故に法衣と云うなり。

法衣に三有り、一には僧伽梨即ち大衣なり、二には鬱多羅僧即ち七条なり、三には安陀会即ち五条なり。此れを三衣と名づくるなり。

色に亦三有り、謂わく、青・黒・木蘭なり。

鈔に云わく、青は謂わく銅青、黒は謂わく雑泥、木蘭は即ち樹皮、是れを壊色と名づく。此れは青・赤・白・黒・黄の五正及び緋・紅・紫・緑・・黄の五間を離るるが故なり。諸文広博なり、是の故に之れを略す。

問う、一致勝劣宛も雲泥の如し、流々の所伝亦天地を分かつ。然りと雖も其の法衣に及んでは更に異なり有ること無く全く是れ同じなり。所謂紫衣・香衣、綾羅錦繍の七条・九条等なり。唯当流の法衣のみ薄墨の素絹五条にして永く諸門流に異なり、其の謂われ聞くことを得可けんや。

答う、其の謂われ一に非ず、所表甚だ多し。今三門に約して略して之れを示す可し。所謂道理、引証、料簡なり。

初めに道理、亦二と為す。

初めに但素絹五条を用うる道理とは、

問う、但素絹五条を用うる其の謂われ如何。

答う、今略して之れを言うに且く二意有り、

一には是れ末法の下位を表する故なり。

左伝に曰わく、衣は身の章なり云々。

註に云わく、章は貴賤を明きらかにするなり云々。外典既に爾り、内典亦然なり。

妙楽大師の云わく、教弥実なれば位弥下し。

宗祖大聖人(四信五品抄)云わく、教弥実位弥下の六字に意を留めて案ず可し云々。

今謹んで案じて云わく、凡そ正法一千年の如き、初めの五百年の間は迦葉・阿難等羅漢の極位に居して小乗教を弘通し、後の五百年の間は馬鳴・竜樹等は初地の分果に居して権大乗を弘宣し、次ぎに像法千年の間は南岳・天台等相似・観行に居して法華迹門を弘む。

今末法に至っては即ち蓮祖大聖人理即名字に居して法華本門を宣ぶ、豈教弥実位弥下に非ずや。是の故に当流は但下劣の素絹五条を用いて教弥実位弥下の末法の下位を表するなり。

二には是れ末法折伏の行に宜しき故なり。

謂わく、素絹五条其の体短狭にして起居動作に最も是れ便なり。故に行道雑作衣と名づくるなり、豈東西に奔走し折伏行を修するに宜しきに非ずや。如幻三昧経には忍辱鎧と名づく。

勧持品に云わく、悪鬼其の身に入り我を罵詈毀辱す、我等仏を敬信する、常に忍辱の鎧を著すべし等云々。之れを思い合わす可し。

次ぎに薄墨を用うる道理とは、

問う、法衣の色に但薄墨を用うる其の謂われ如何。

答う、亦多意有り。一には是れ名字即を表するが故なり。

謂わく、末法は是れ本未有善の衆生にして最初下種の時なり、然るに名字即は是れ下種の位なり、故に荊渓の云わく、聞法を種と為す等云々。聞法豈名字に非ずや、為種豈下種の位に非ずや。故に名字即を表して但薄墨を用うるなり。

二には是れ他宗に簡異せんが為めなり。

謂わく、当世の他宗名利の輩内徳を修せず、専ら外相を荘り綾羅錦繍以って其の身に纏い、青黄の五綵衆生を耀動す。真紫の上色・金襴の大衣は夫人孺子をして愛敬の想いを生ぜしめ、以って衆人の供養を俟つなり。今此くの如きの輩に簡異せんが為めに但薄墨を用うるなり、薩婆多論に外道と異にせんが為めに三衣を著すと言うは是れなり。

三には是れ順逆二縁を結ばんが為めなり、

謂わく、僧祇律に云わく、三衣は是れ賢聖沙門の標幟なり、済縁記に云わく、軍中の標幟は分かつ所有るが故云々。

標幟は即ち是れ旗幟なり。凡そ諸宗諸門の標幟と当門の標幟と其の相雲泥にして源平の紅白よりも明きらかなり、故に信ずる者は馳せ集まりて順縁を結び、謗る者は敵となって逆縁を結ぶ、故に但薄墨を用うるなり。

四には是れ自門の非法を制せんが為めなり、

悲しい哉澆季の沙門行跡多くは宜べならず、是れ併しながら自宗・他宗、自門・他門皆是れ黒衣等にして更に分かつ可き所無し。故に悪侶心を恣にして多く非法を行じ、猶お罪を他宗他門に推さんとす、然るに当門流の法衣は顕著にして更に紛るる所無し、故に名乗らずと雖も而も万人之れを知る、故に若侶たりと雖も尚お強いて之れを恥じ忍んで多くは非法を行ぜず、故に但薄墨を用うるなり。

次ぎに引証とは、第一に生御影、即ち重須に在すなり。

第二には造初の御影、即ち当山に在すなり、

蓮師御伝記八に云わく、弘安二年富士の戒壇の板本尊を造立し奉る時、日法心中に末代の不見不聞の人の為めに聖人の御影を造らんと欲するの願有り、故に先ず一体三寸の御影を造って便ち袂に入れ聖人の高覧に備え奉る、而して免許を請うに聖人此の御影を取って御手の上に置き笑を含ませられ即ち免許有り、之れに因って等身の御影を造り奉りて、而して聖人の御剃髪を消し御衣を彩色し給うなり云々。

一体三寸とは即ち造初の御影なり、等身の御影とは即ち是れ生御影の御事なり、此の両御影並びに是れ薄墨の素絹、五条の袈裟なり。

第三に鏡の御影、今鷲の巣に在り、亦是れ薄墨の法衣なり。

第四に御書類聚に云わく、大聖人薄墨染の袈裟真間に之れ在り。

第五録外十五(四菩薩造立抄)に云わく、薄墨の染衣一つ、同じ色の袈裟一帖給び候已上。

第六に阿仏房抄三十一に云わく、絹の染袈裟一つ進らせ候云々。定めて是れ薄墨なり。

第七に開山上人二十六箇条に云わく、衣の墨黒くすべからざる事云々。

三に料簡とは、 問う、唯当流に於いて法服七条等を許さざる其の謂われ如何。

答う、凡そ法服とは上を褊袗と曰い、下を裙子と曰う。

抑仏弟子は本腰に裳を巻き、左の肩に僧祇支を著し、以って三衣の襯にするなり。僧祇支とは覆膊衣と名づけ、亦掩腋衣と名づく。是れ左の肩を覆い及び右の腋を掩う故なり。

阿難端正なり、人見て皆悦ぶ、仏覆肩衣を著せしむ、此れ右の肩を覆うなり。

而るに後魏の宮人、僧の一肘を袒にするを見て以って善しとせず、便ち之れを縫合して以って褊袗と名づく。

会に云わく、袗未だ袖端有らざるなりと云々。

其の後唐の代に大智禅師亦頚袖を加え、仍って褊袗と名づく、是れ本によって名を立つるなり。

裙子と言うは旧には涅槃僧と云ひ、本帯襷無し、其の将に服せんとする時、衣を集めてひだと為し、束帯に条を以いるなり。今は則ちを畳み帯を付くるなり。

今褊衫・裙子を取り、通じて法服と名づくるなり。此くの如き法服七条九条は乃ち是れ上代高位の法衣にして、末法下位の著する所に非ず、何んぞ之れを許す可けんや。

孝経に曰わく、先王の法服に非ずんば敢えて服せず云々。

註に云わく、法服は法度の服なり、先王は礼を制して章服を異にし以って品秩を分かつ、卿に卿の服有り、大夫に大夫の服有り、若し非法の服を服するは僣なり云々。

又云わく、賤にして貴服を服する、之れを僭上と謂う、僭上を不忠と為すと云々。外典尚お然り、況んや内典をや。

 問う、他流の上人皆香衣を著す、是れ平僧に簡異せんが為めの故なり。中正論第二十に云わく、吾が宗の上人の色衣は木蘭色を用う、而るに此の木蘭の皮に香気有り、彼の色に准じて之れを染むる故に亦香衣と名づくるなり、皆此の衣を著することは、是れ平僧に簡異せんが為めなり云々。最も其の謂われ有り、何んぞ之れを許さざるや。

 答う、是れ将に平僧に簡異せんとして、却って他宗の住持に濫す、曷んぞ之れを許す可けんや。応に知るべし、畠山が白旗には而も藍の皮有り、吾が家の平僧には則ち袖裏無し、今古異なりと雖も倶に濫るる所無きなり。

問う、他流皆直綴を著す、当家何んぞ之れを許さざるや。

答う、凡そ直綴とは唐代新呉の百丈山恵海大智禅師、褊衫・裙子の上下を連綴して始めて直綴と名づく。故に知んぬ、只是れ法服を縫合す、既に法服を許さず、曷んぞ直綴を許す可けんや、況んや復由来謗法の家より出づ、那んぞ之れを用う可けんや。

 問う、若し爾らば横裳は慈覚より始まる、何んぞ亦之れを用うるや。

答う、実には是れ伝教大師の相伝なり、故に健抄四−五十二に云わく、天台宗の裳付衣は慈覚大師より始まるなり、根本は是れ伝教大師の御相伝なり云々。何んぞ直綴の来由に同じからんや。故に開山云わく(日興遺誡置文)云々。

問う、他流皆黒衣を著す、何んぞ之れを許さざるや。

答う、北方の黒色は是れ壊色に非ず、録外二十一(一代五時継図)に法鼓経を引いて云わく、黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す云々。

謗とは乖背の別名なり、法は謂わく法度なり、北方の黒衣豈謗法に非ずや。例せば六物図に云うが如し、自ら色衣を楽い妄りに王制と称し、過ちを飾ると云うと雖も深く謗法を成ず云々。

況んや復当世の黒衣は其の色甚だ美にして紺瑠璃の如し、烏鵲の羽に似たり、若し藍染めに非ずんば焉んぞ彼の色を得ん、方等陀羅尼経の如き尚お藍染めの家に往来することを許さず、何に況んや三衣を染むることを免す可けんや、是れ則ち藍より而も多くの虫を生ず、其の虫と藍と倶に臼に入れて之れを舂き、而して後一切の物を染む、但不浄なるのみに非ず亦多くの虫を殺す、何んぞ之れを免す可けんや。

然るに諸宗の輩唯其の色の美なることを愛して仏制に背くことを識らず。若し当流に於いては謹んで謗法を恐る、故に之れを許さず。

開山云わく(日興遺誡置文)云々。

問う、諸流の中或は楽って紫衣を著する有り、但当流のみ曷んぞ之れを楽わざるや。

答う、此れは是れ唐の則天の朝に始まり、而して後諸代に此の事有るなり。然りと雖も流俗の貪る所、夫人女子の愛する所にして而して儒家尚お之れを斥う。況んや仏氏に於いてをや。

資持記下一に云わく、嘗つて大蔵を考うるに但青・黒・木蘭の三色如法なるあり、今時の沙門多く紫服を尚ぶ。唐記を案ずるに、則天の朝に薛懐義宮庭を乱す、則天寵用して朝議に参ぜしむ、僧衣の色異なるを以って因って紫の袈裟を服し、金亀袋を帯せしむ、後偽って大雲経を撰し、十僧を結して疏を作り進上す、復十僧に紫衣亀袋を賜う。此の弊源一たび洩るるに由って今に返らず、無智の俗子跡を釈門に濫す。内修を務めず唯外飾に誇る、矧んや乃ち輙く耆年の上に預り、僣して大聖の名を称す。国家の未だ詳せざる所、僧門の挙せざる所、貪婪嗇の輩をして各奢華を逞しうせしむることを致し、少欲清浄の風茲に於いて墜滅す。且つ儒宗人倫の教なれば則ち五正を衣と為し、釈門出世の儀なれば則ち正間倶に離る。故に論語に云わく、紅紫は以って褻服をだも為らず、乃至況んや律論の明文に判じて非法と為す、苟も信受せずして安んぞ則ち之れを為らんや云々。

応法記に云わく、朱紫は世に以って栄と為す、出家は世を超ゆる故に須く之れを捨つべし、今時の釈子反って紫服を求めて以って栄身と為す、豈聖道を厭棄し飜って入俗を希うに非ずや云々。

六物図に云わく、自ら色衣を楽い妄りに王制と称す、過を飾ると云うと雖も深く謗法を成ず云々。色衣は即ち是れ紫衣なり。

問う、扶桑記に云わく、伝教大師自ら法華を講ず、八幡大菩薩手ずから紫の袈裟を供養す云々。八幡大菩薩豈非法の法衣を供養す可けんや。

答う、神明の内証は凡の測る所に非ず、或は恐らくは応に是れ随方の護法なるべきか。五分律に云わく、是れ我が語なりと雖も余方に於いて清浄ならずんば行ぜざるも過無し、我が語ならずと雖も余方に於いて清浄ならば行ぜざることを得ず云々。

此の方の風俗専ら紫衣を尚ぶ、故に其の尚ぶ所に随って之れを供養するか。是れ一向格別の事なり、何んぞ彼を引いて此れに例す可けんや。

問う、当流に七条・九条を許さず、已に三衣を欠く、焉んぞ其の可なることを知らんや。

答う、当家の意三衣を欠くに非ず、但上古の三衣に異なるのみ。謂わく、衣・袈裟・数珠、是れを三衣と名づく、数珠那んぞ衣と名づくるや。謂わく、初めの二に相従うが故なり、或は法性の珠百八煩悩を隠蓋する故に衣と名づくるなり。

白虎通に云わく、衣は隠なり、文子の云わく、衣は以って形を蓋うに足れり云々。

問う、当流の薄墨は三種の中には是れ何れの色に属するや。

答う、此れは是れ顕露分明に泥色なり、諸文に青・黒・木蘭と云うと雖も是れ北方の黒色に非ず、只黒泥を以って之れを涅染めにするなり、故に註に緇泥涅と云うなり。是の故に十誦には青泥棧と名づけ、補註十四には青泥・木蘭と云うなり、黒の名同じきを以って当世他家の黒衣に濫ずること勿れ云々。

問う、当流或時白袈裟を著す、謂われ無くんばある可からず、応に之れを聞くことを得べけんや。

答う、此れに多くの謂われ有り、今略して之れを示さん。一には最極初心の理即の位を表する故に、謂わく、泥色の中に於いて亦六即を分かつ、白色なるは是れ理即なり、淡薄なるは是れ名字即なり、乃至黒色なるは是れ究竟即なり、況んや復天台宗初心の比丘及び京都宗門の諸寺新発意の如き、始めて袈裟を係くる時は必ず先ず白袈裟を係くるなり、豈最極初心を表するに非ずや。

血脈抄に云わく、日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり云々。

二には蓮祖或時白袈裟を係けたもう故に、謂わく、正中山に蓮祖の御袈裟之れ有り、地は新田山絹にして白袈裟なり、蓮師御身を謙下して理即の位を表し白袈裟を係けたもうか、本尊抄に云わく、末代理即の我等云々。之れを思い合わす可し。蓮祖尚お爾り、況んや末弟をや。

三には白蓮華を表する故に、此れ亦二意有り、一には当体の蓮華を表す、謂わく、薄墨の衣の上に白袈裟を係く、豈泥水白蓮華を生ずるに非ずや、此れ即ち吾が当体蓮華を表するなり。故に本門寿量当体の蓮華仏とは但当流の行者に限るなり。

二に世法に染まざることを表す、謂わく、薄墨の衣の上に白袈裟を係く、豈泥濁に在りと雖も泥濁に染まざるに非ずや、如幻三昧経に袈裟亦蓮華衣と名づけ、亦離染服と名づくるなり。

涌出品に云わく、不染世間法、如蓮華在水云々。是の故に但本化の末弟に限るなり。

問う、是れ白袈裟は法滅の相なり、

摩耶経の下に曰わく、時に摩訶摩耶此の語を聞き已って即ち阿難に問う、汝往昔仏に侍してより以来世尊の説を聞けり、如来の正法は幾時にか当に滅すべき、阿難涙を垂れて便ち答う、我曾つて世尊の当来法滅の後の事を説きたもうを聞く、仏涅槃の後摩訶迦葉阿難と共に法蔵を結集し、悉く事已りて摩訶迦葉、狼跡山の中に於いて滅尽定に入らん、乃至六百歳已って馬鳴善く法要を説き、七百歳已って竜樹善く法要を説く、八百歳の後諸比丘等好き衣服を楽い縦逸嬉戯せん、九百歳已って奴は比丘と為り婢は比丘尼と為る、千歳已って諸比丘不浄観を聞いて瞋恚して欲せず、千一百歳已って諸比丘等の世に俗人の如く嫁聚行媒し、大衆の中に於いて毘尼を毀謗せん、千二百歳已って是の諸比丘若し子息有らば男は比丘と為し、女は比丘尼と為さん、千三百歳已って袈裟白に変じて染色を受けじ、千四百歳已って四衆殺生し三宝の物を売らん、千五百歳に比丘相互いに殺害し是こに於いて仏法而も滅尽せん已上略抄。

応法記に云わく、摩耶経に云わく、仏滅一千三百年の後袈裟白に変じて染色を受けず、若し付嘱の義に准ぜば仏阿難をして僧伽梨を将って須弥の頂に往き、塔を起って供養せしむ、又帝釈に勅して新華を粉雨し、仍お風神に告げて其の萎める者を去らしむ、諸の比丘、仏に問う、仏言さく、後に袈裟白に変ずることを慮るなり、今時目に覩る、実に痛心を為す、豈魔外の吾が教を壊滅するに非ずや、悲しい哉云々。今時の下は元照の辞なり、大集経第十法滅尽品に云わく、王既に正法隠没し已るを知り余残の在る比丘を召し喚んで一処に集め、●膳衆の美味種々に供養し復千万の宝を捨つ、一宝の直百千此の衆の宝物を以って五百の寺を造るに擬す、一一諸の比丘に各々百千の物を施し、師等此こに在って住せよ、我等当に養育すべし、我が為めに正法を説け、我当に至心に聴くべしと、一切皆黙然として住し一切説く者無し、王諸の比丘に白す、法を知らざる可けんや、語り已って袈裟白し、染色復現ぜず等云々。

法滅尽経に云わく、仏阿難に告ぐ、吾涅槃の後法滅せんと欲する時五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作り吾が道を壊乱せん、俗の衣裳を著し、好き袈裟五色の服を楽い、酒を飲み肉を●い、生を殺し味を貪り慈心有ること無し、更に相憎嫉し自ら共に後に於いて道徳を修せず、寺廟空荒にして復修理すること無く、但財物を貪って積聚して散ぜず、法滅せんと欲する時女人は精進にして恒に福徳を作り、男子は懈怠にして法語を用いず、眼に沙門を見ること糞土を視るが如し、悪人転多くして海中の沙の如く、善者甚だ少なくして若しは一若しは二ならん、劫尽きんと欲する処日月転た促り、人命転た短く四十にして頭白し、乃至聖王去って後沙門の袈裟自然に白に変ず、吾が法滅する時、譬えば油灯の滅せんと欲する時に臨み光更に明きらかに盛んなるが如し等云々。

名義七に云わく、捜玄に大集を引いて云わく、王比丘に問うに説く能わず、遂に羞じて地に堕ち袈裟白に変ず。

法滅尽経に云わく、沙門袈裟自然に白に変ず。書註下に云わく、法滅尽経に云わく、沙門の袈裟自然に白に変ず、大集経に云わく、法滅せんとする時袈裟白に変ず等云々。

此等の文豈是れ白袈裟は法滅の相に非ずや。

答う、今両意を以って須く此の文を会すべし。

一には是れ月氏と日本と国風異なるが故に、顕戒論の中に梵網経を引いて云わく、比丘皆応に其の国土の衣服の色と異に俗服と異り有るべし等云々。

謹んで此の文に准ずるに月氏と日本と国風已に異にして衣服の色乃ち是れ同じからず、謂わく、月氏の俗皆白色を著る、故に経論の常談、俗を呼んで白衣と名づく、故に袈裟白に変ずる則んば俗服に同じ、故に法滅の相と成る、是れ則ち其の国土の衣服の色と異ならず、俗服と異なり有らざる故なり。若し日本の俗は喪服の外は白色を著ず、故に袈裟白に変ずるとも俗服に同じからず。若し爾らば其の国土の衣服の色と異に俗服と異り有り、如何ぞ法滅の相と云う可けんや。然れば則ち仏は月氏の法に准ずる故に法滅の相と言い、今は日本の風に准ずる故に白袈裟を係け更に妨礙無きなり。

二には是れ当分跨節の法相異なるが故に、今謹んで案じて曰わく、袈裟白に変ずるは已に両時に在り、一には像法の初めなり、謂わく、摩耶経付嘱儀の文是れなり。二に末法の初めなり、大集経・法滅尽経の文是れなり。当に知るべし、此の両文倶に当分跨節の二意有り、何を以って之れを知るを得んや。

一には謂わく、総じて一代四味三教に於いて皆二意を具す、豈此の一文に二意を具せざらんや。

天台大師玄文第二云々。

妙楽云わく、当分は一代に通じ跨節は唯今経に在り、仏意は今に適むるに非ざるなり等云々。

二には謂わく、袈裟変白の後法華の迹本二門広宣流布す、謂わく、天台大師は仏滅後一千五百年、漢土に出現して法華の迹門を弘宣し、蓮祖大聖は如来滅後、後五百歳に日本に出現して法華の本門を流布す、此等の現事豈分明に非ずや。

三には謂わく、白は是れ無作の本色にして清浄無染なり、是の故に宜しく白法流布を表すべし、故に一代諸経の中に多く白色を以って而して善事を表す。所謂眉間白毫・顔色鮮白・白業・白善・白法・白論・法華の白牛・普賢の白象等是れなり。天台云わく、白色は天に譬う云々。又云わく、白は即ち浄を表す云々。

且く眉間白毫の光を放つが如き即ち二意を具す、謂わく、一には闇を破し、二には普照なり。破闇は法滅を表するが如く、普照は流布を表するが如し、自余の諸文は准説して知る可し、是の故に袈裟変白の文は並びに当分跨節の二意を具するなり。

故に摩耶経に、千三百歳已って袈裟変白乃至千五百歳に仏法滅尽すとは、若し当分に約すれば千三百歳袈裟変白は是れ法滅の前相なり、千五百歳は即ち是れ仏法の正しく滅尽なり、若し跨節に約すれば千三百歳袈裟変白は即ち是れ白法流布の瑞相、千五百歳天台弘通は即ち是れ法華の白法正流布なり。大集・法滅の二経も亦然なり。

若し当分に約せば沙門の袈裟自然変白は是れ前代流布の一切の仏法滅尽を表するなり。

若し跨節に約せば却って是れ本門三大秘法の大白法広宣流布の瑞相なり、末法の初め蓮師の弘通豈其の事に非ずや。然れば則ち当分の辺は是れ法滅の相と雖も跨節の辺却って是れ白法流布の瑞相なり、故に今白袈裟を係くるは但風俗に妨げ無きのみに非ず、亦白法流布を表すなり。

問う、当流の法衣は宜しく麻苧を用うべし。既に如来は麁布の僧伽梨を著し、天台は四十余年唯一衲を被る、南山は 絋を兼ねず、妙楽は太布にして而して衣る。然るに当家に於いては尚お緞子紗綾縮緬等の法衣を許す、如何ぞ仏制に違わざるを得可けんや。

答う、実に所問の如し、是れ吾が欲する所なり。然るに之れを制せざることは強いて世に准ずるのみ。

智度論に云わく、仏言わく、今日より若し比丘有って一心に涅槃を求め、世間を背捨せん者には我価直千万両金の衣を著、百味の食を食うことを聴す等云々。

然るに当世に及ばば門葉の中に於いて一心に仏道を求め、世間を背捨する者は爪上の土の如し、徒らに万金の衣を著、百味の食を食う者は猶お大地の如し、嗚呼後生日々三たび身を省みよ云々。

問う、袈裟の功徳実に是れ無量なり、所謂悲華経の五種の功徳、心地観経の雷電無畏、賢愚経の賢誓師子、海龍王経の龍得一縷、大智度論の蓮華色尼、酔波羅門等枚挙するに遑あらず、今疑う、諸宗門の袈裟皆此くの如き微妙の功徳を具するや。

答う、妙楽大師の記三中に云わく、経に被法服とは瓔珞経に云うが如し、若し天龍八部闘諍せんに此の袈裟を念ずれば慈悲心を生ず、乃至然れば必ず須く行体を弁じ教を顕わし、以って味の殊なるを分かつべし等云々。是れ肝心の文なり、学者善く思え。又当家三重の秘伝云々。

問う、数珠の由来如何。

答う、夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり、木 子経に云わく、昔国王有り、波流梨と名づく、仏に白して言さく、我が国辺小なり、頻年寇疫し穀貴く民困しむ、我常に安んぜず、法蔵は甚広なり、遍く行ずることを得ず、唯願わくば法要を垂示したまえ、仏言さく、大王若し煩悩を滅せんと欲せば当に木 子一百八箇を貫き、常に自ら身に随え志心に南無仏・南無法・南無僧と称え、乃ち一子を過ごすべし云々。応に知るべし、木●子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。

玄文第一に云わく、理は偏円を絶すれども円珠に寄せて理を談ず云々。

弘五上に云わく、理体缺くる無し、之れに譬うるに珠を以ってす云々。

土宗の平形は大いに所表に違うなり、一百八箇は即ち百八煩悩を表するなり、数珠は須臾も身を離る可からず、故に常自随身と云うなり。

南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初、自受用報身、無作三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲南無日蓮大聖人師。

南無本門寿量の肝心、文底秘沈の大法、本地難思境智冥合、久遠元初の自受用報身の当体、事の一念三千、無作本有、南無本門戒壇の大本尊。

南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主、伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。

此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。

行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ、数珠経の如き過諸罪に越ゆ、数珠は仏の如くせよ云々。

母珠を超ゆるの罪何んぞ諸罪に越ゆるや、今謂わく、蓋し是れ名を忌むか、孔子勝母に至り暮る、而も宿らずして過ぐ、里を勝母と名づくれば曾子入らず等云々、外典尚お然り、況んや仏氏をや。

当家三衣抄畢んぬ

享保第十乙巳年六月中旬大坊に於いて之れを書し畢んぬ

六十一歳

日寛(花押)

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