正信覚醒運動のめざすもの

第五章 第六章 おわりに
 第五章 広宣流布観

 
阿部宗門  数量・多人数  覇権主義 戒壇堂建立
正信会   信の一字    衆生救済 娑婆即寂光土

 *変質する教団

 広宣流布とは、日蓮門下・日興門下の等しく願う信仰上の理想です。しかし今その意義が大きく変質して理解されてしまっています。

 大聖人の信仰者は、正法が広く世に流布することを願って弘教の化他行に励まなければなりませんが、そのことが直ちに、教団の拡大発展と、現実社会における地位向上をめざすことを意味するものではありません。時には正法正義を守るために教団が分裂したり、小さくなったとしても、法の上からは必ずしも衰退ではありません。むしろそうしてこそ仏法が真の面目を発揮することも多いのであります。

 ところが、この広宣流布というきわめて精神的な宗教運動が、いつの間にか覇権主義になって組織拡大のみになったり、権力闘争という世俗の争いに転ずることが大きな矛盾なのであります。

 これはどういう宗教もそうですが、必ず最初に教祖、開祖という人が現れます。この人達は教団的、組織的には見るべきものがありません。ただ志がある人達が集まって精神性を優先させた宗教運動を展開します。ところが後世の弟子の中にオーガナイザーとしての能力のある人が出て、教祖の教えを利用して、教団を大きくします。教団がだんだん大きくなると階層化した教団ができあがって、さまざまな権益も生まれてきます。そうすると組織集団の権益を守り、教団を拡大永続させるための新たな論理が生じ、政治性を優先させていくのが実状ではないかと思います。

 組織というものは個人の意志や教義とかかわりなく、組織自身が自己目的化してしまうのです。そのため、教団は構成員の僧俗の管理を強化し、服従を求め、教団を信じて中心者の命ずるままに行動することを要求するようになります。

 しかし、本来の信仰の目的というものは、自身の内的規範である信仰的良心や宗教的真理に忠実であろうとするもので、ある意味で組織や社会から、自由に束縛されない主体的な精神に立つものではないでしょうか。御書(撰時抄)には、

 「身をば随えられたてまつるようなれども、心をば随えたてまつるべからず」

                     (全集287n)

とあります。

 それが、限りなく拡大増殖することのみを自己目的化した組織に埋没し、主体性を放棄して無自覚のままに教団に従属することは、とうてい大聖人門下の姿とはいえません。

 また、キリスト教徒は、十字軍を結成して教勢を広げていきましたが、そのような覇権主義的考え方が、大聖人のめざされた広宣流布とは思えません。歴史的現実世界にこの宗教を国教化して千年王国のような祭政一致の宗教国家を作ろうとしているものとも思えません。この娑婆世界は、常に転変きわまりない無常の世界です。その絶え間なく変化し激動する世界に永遠不滅の理想世界を作ろうということは、仏法の道理と矛盾していることにもなります。

  *広宣流布のとらえ方

 そうではなく、娑婆即寂光土という世界が広宣流布の世界なのです。いかなる時代、いかなる社会であれ、妙法を受持して生きる、その信心の中に娑婆即寂光、常住の浄土が開けるのだと思います。

 広宣流布のとらえ方は、中世においては、宗教世界と世俗現実世界とが不即不離で、未分のものだった時代ですから、

 「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、だい梵天王・帝釈等も来下して?み給うべき戒壇なり・・・・・」

                               (『三大秘法禀承事』全集1022n)

 「天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法一人繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず・・・・・」

                    (『如説修行抄』全集502n)

 というご文などは、観心釈といって、きわめて宗教的、観念的とらえ方がなされているわけです。

 法華経の信仰は、そういう仏法を受持し、そこから現実という無常世界に慈悲と智慧を表わそうとしているのです。本仏の永遠の寿命を信じ、不軽菩薩に象徴される精神をもって、この有限の矛盾の多い現実世界の中で、常に修行し、精進していくところに、大聖人の仏法の本質があると思います。

 未来や他土に描かれた結果としての寂光浄土を本質とするのではなく、ただいまの我々名字凡夫の常精進行の姿に常寂光土を求めることが一念三千の仏法です。

 ところがいまは経文や御書を、その内証・外用の立て分けもなく、すべてを世俗世界の中にひきずり降ろして解釈しようとするから、そこに多くの矛盾や混乱が生じてくるのです。

 *信の一字の世界

 こういう意味からいえば、法界同時成道の内証の世界に立てば、正しい信心の決定する世界に広宣流布があることを知らなければなりません。血脈、広宣流布の意義について大聖人は、

 『生死一大事血脈抄』に、

 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば、広宣流布の大願も叶うべき者か」

                             (全集1337n)

と仰せになっており、また日有上人も、

 「堂舎僧坊は仏法に非ず、また智慧才覚も仏法に非ず、多人数も仏法に非ず。堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし。また多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし。智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり。是また仏法に非るなり。仍て信心無二にして、筋目を違えず、仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり」

     (「連陽房雑雑聞書」『歴全』1−384n)

と。すなわち歴史的現実世界に教団が拡大発展して達成する宗教国家体制にではなく、一念信の中に広宣流布をとらえておられたのです。

 また第26世日寛上人も、広宣流布について

 「利生の有無を以て隠没、流布を知るべきなり。何ぞ必ずしも多生に拘らんや」

    (「撰時抄愚記」『文段集』234n) 

 「我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり・・・・我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」

                        (「当体義抄文段」『文段集』683n)

 と示されています。広宣流布を決して信者の人数の次元だけでとらえられておりませんし、戒壇本尊もまた宗門や学会のような次元では説かれておりません。すなわち信心無二にして南無妙法蓮華経と唱えてこそ、戒壇の大御本尊を拝することができ、そこの即身成仏の極意の法門があると説かれているのです。

 決して現在の宗門や創価学会のように、すべてのことを現実(無常)世界のみにとらえてはいない。その奥には豊かな信仰世界があることを考えなければなりません。  とにかく数だけを増やしたらどうなるでしょうか。真面目な道心もなく、教団内部で立身出世しようとか、ひと儲けしてやろうという人達も入ってきますから、水ぶくれみたいに大きくなれば、教団はどんどん変質していって、堕落していってしまう。そうなってしまった姿が現在の創価学会です。ご存じのように、会員数を増やすことだけ求めてきた彼らは、それが頭打ちとなったいま、宗教団体とは思えないような内部腐敗した状況になってしまったではないですか。

第六章 教団組織の問題

*硬直した組織と信仰

 次に教団組織のかかえる病についてお話ししたいと思います。

 「信仰教義」と「教団組織」の二つは違う次元の話のようですが、実は根底の部分でつながっている問題です。教団組織のあり方というものは、その宗祖の理想とする精神にかなったものであるか否かが問われなければなりません。

 さて、いまの阿部宗門においては、カリスマ信仰をそのまま宗制宗規にもスライドさせて、人事権・財産権・懲罰権・教義解釈権等、あらゆる権限を阿部師一人が集中的に掌握するように規定されています。かつてはかなり民主的であった宗制宗規が、学会と歩調を合わせるように、どんどん変更されて、恐ろしく専制的な独裁制度になってしまった。そのため宗門の僧籍にある人々も自分の地位を守り、家族の生活を考えれば、なにをさておいても法主管長の命令に服従せざるを得ないし、またそれを、信仰と生活を合致させる唯一の処世術とせざえるを得ない状況になってしまったのです。

 「猊下が白いものを黒といったら、黒というのが本宗の信心だ」などと公言する末寺住職や講中幹部の背後には、教条的法主信仰者が、いつも目を光らせていて、現実に正しく対応できない硬直した体質になっているのです。

 個人でも、組織集団でも 、その姿や行動が、その信仰を表すわけですから、いまの宗門や学会の体質は、その間違った信心の当然の帰結として、抑圧され、閉塞した教団にならざるを得ないのです。

 *機能体の共同体化

 堺屋太一氏の著書で『組織の盛衰』という本があります。組織というものを学問的に研究した最初の本ではないかと自負されていて、なかなかの好著です。組織というものが陥りやすい病弊を実例をもって説明されています。

 例えば、かつての日本軍というものは、はじめは国民の生命や財産を守ることを目的に結成されたのでしょうが、しだいに軍人が自分達の生活と地位の向上をめざし、組織の利益を優先して、最後には国家国民を犠牲にしてまで日本軍の利益を優先していった。

 要するに、組織はある目的のために形成されますが、その目的追求のために機能している集団が、やがて目的が忘れられて、構成員のための共同体、互助組合のようになってしまうということです。

 この共同体化というのは、どの組織でも起こりうることです。警察組織でも、同僚の犯罪を、穏便に処理しようという動きが起こる場合があります、医者でもそうです、明らかに医療ミスと認められても、暗黙に仲間のかばい合いがなされる。患者のために尽くすことが医療に携わる人達の使命のはずですが、そういう目的が忘れ去られ、自分達の仲間内の既得権益が優先されてしまうのです。そういう組織集団のかかえる腐敗堕落の表れが、機能体の共同体化であると指摘しております。

 近年に起こった山一証券や大手銀行の倒産事件もそうです、幹部達の立場やメンツが優先されて、共同体化してしまったために、色々な問題が山積みしていたにもかかわらず、思い切って改革することができなかった。

 日蓮正宗や創価学会もこれと同じことがいえます。宗制宗規や会則に大聖人の仏法を広宣流布するための組織と規定しながら、現実には首脳部の身の保身のため、幹部の生活のため、大聖人の仏法を売り物にする共同体化してしまったことが教団の病根として指摘できると思うのです。

*環境への過剰反応

 また組織が周りの状況や環境にあまりにも合わせ過ぎると、時代が変わったときについていけなくなるという事例です。このことを堺屋氏は石炭産業などの例を挙げて説明しており、またバブル経済に企業が過剰に反応しすぎて、拡大経営に突っ走り、バブルが終わった後経営困難に陥っている大企業も、この環境への過剰反応が原因だったと指摘しています。

 既成仏教も徳川時代の体制に順応しすぎて、いまではそのことが、仏教の衰退の原因になっている、同じように神道が軍国主義に順応しすぎて、いまでは見る影もない。

 ところで、いまの日蓮正宗もバブル崩壊に近い状況であることは、彼らも認めているようです。いままで創価学会に経済的にあまりに依存し、また全面的に迎合してきたものですから、ケンカ別れしてしまったいま、存続さえ危うい状態になっています。それにもかかわらず、バブルのうまみが忘れられないのか、創価学会のまねをして信者の勧誘みたいな折伏をあおっております。これも失敗は目に見えております。まず自分を折伏することから始めなければならないことに気づいてもらいたいものです。

 法門研鑚、布教活動、檀信徒の教化・育成は、本来なら自分達がやっていかなければならない大切なことです、しかし宗門はその重要な部分をほとんど創価学会に委ね、ただ儀礼部門として機能してきた。それが現在のように非常にお粗末な宗門の体質を生み出した原因だったと思います。

 日蓮正宗の教義・信仰も、創価学会に迎合し、共同歩調をとってきた時代に、過剰に適応してきたのは明らかなのですから、まず第一に、宗門は自分達の教義信仰を見直すことから始めなければならないと思います【注L】。

 よくいわれる既成仏教の堕落ということは、本山や寺院が衆生のために仏法を説いたり、法を弘める場所でなくなってしまったことが原因でしょう。そうすると、大石寺も、今まで、法を行ぜず、衆生のために法を説かずに、ただ本尊を見せ物にしてきたという反省に立たなければ問題解決にはつながらないことを知るべきでしょう。

 *成功体験への埋没

 また、日本軍が日清戦争、日露戦争で勝利を収めなかったら、もう少し冷静に戦局を分析し、あのような無謀な太平洋戦争を起こすことはなかったろういわれています。

 日本軍が連戦連勝だったものですから、すでにノモンハン事件でソ連軍の戦車に手痛い敗北を喫して装備の遅れが分かっていながら、軍の幹部はその現実を直視せずに、なし崩しに戦争に突入したわけです。そして、安易な希望的観測で、また神州不滅、皇軍不敗などといい気になって戦線を拡大したから、完全な敗北を喫し、日本中が焦土と化してしまいました。

 今の日蓮正宗・創価学会も、戦後社会の再編期押せ押せでやってきて、大きな教団組織を作りましたから、いまだにバブルの夢から醒めず、御供養や勧誘のノルマを割り当てるだけの方法をとり続けている。これでは破綻するに決まっています。

 物事は必ずしも大きくなればいいというものでもありません。組織が拡大しすぎたことで滅びる集団がたくさんあるのです。むしろ、内実も伴わず、分不相応に大きくなったら危ない。その器に見合った、力に見合った、組織であることが健全なのです。

おわりに

 まだまだ私達には残された問題がたくさんあります。現代社会においては、いろんな新知識によって旧来の古い考えが否定されるような場面も数多く出てきています。このさまざまな問題を直視するとともに、現代という時代に生きる私達が、どのようにして大聖人、日興上人の御精神を継承して、どのように仏法を伝えていくのか、そういう問題意識をもって、ともどもに励ましあって精進することが私達のめざす正信覚醒運動だと思います。

 私達が仏法の精神を継承して修行し、弘通していく道場は、本山とか、本部とか、仏壇の前とか、そういう場所に限定されているわけではありません。

法華経の「神力品」に、

「若しは経巻所住の処

若しは園中に於いても

若しは林中に於いても

若しは樹下に於いても

若しは僧坊に於いても

若しは白衣の舎にても

若しは殿堂に在っても

若しは山谷曠野にても

是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何ん。当に知るべし。是の処は即ち是れ道場なり。」              (『開結』581n)

と説かれるように、私達一人ひとりが法華経を信じて、この社会、今の時代に生きるこの場この処こそ道場であり、戒壇であると示されています。

 この神力品の経文は、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩に妙法蓮華経を結要附属した直後に説かれたもので、末法においては、どこであっても、正法正義を継承し流布していくことろが、そのまま霊山浄土であることを示された経文です。

 この経文をそのまま受け継がれたのが、宗祖大聖人であり、ご開山・日興上人であったわけです。

 日興上人は、正法を護持するために、日向等の軟風に染まった身延山にこだわることなく、山谷曠野の大石が原に出てこられて、法義を確立され、末法万年の礎を築かれました。 大聖人・日興上人から我々が継承しなければならない精神とは、『原殿書』に示された、

 「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候へ」(『聖典』560n)

   という依法不依人の精神、正法正師の正義を堅持していくことです。

 その依法不依人の精神を基本として、正信の道場たる各寺院を拠点として、行学の錬磨・折伏弘教の実践を興したいものと思うものです。

 *正信会僧俗の使命

 最後に、正信覚醒運動の目的と、私達正信会僧俗の使命について、再確認をしておきたいと思います。

  @この覚醒運動の淵源は、宗開両祖のご精神を現代に再確認するなかで起こったもので、自身の覚醒(自覚)からはじまったものである。

 A法華本門の下種仏法の大綱を信受しつつ、現宗門、創価学会、各日蓮門下一般の逸脱を是正し、後代に継承し、伝えていく精神を再確認すべく精進する。

 Bすなわち創価学会の在家主義にも堕落せず、宗門の出家至上主義にも陥らず、その矛盾を再確認しつつ、下種三宝を信受し、厳正な化儀化法の伝統を受け継いで現実社会に正法を流布する。

 C日蓮門下の僧俗の自覚、日興門流としての覚醒が原点であり、この原点に立って宗門・学会の覚醒、ひいては広く社会の覚醒をうながす宗教活動を展開していく。

 このことをよく確認し、私達には大きな使命があることを忘れることなく、ともどもに正信覚醒運動に励んでいきましょう。

      (おわり)  
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