正信覚醒運動のめざすもの

はじめに

第一章
 はじめに

 まず最初にの正信覚醒運動の経緯としていちばん大切な点を確認したいと思います。

 そもそもこの覚醒運動は、さまざまなきっかけで創価学会の誤りに気づいた僧俗が、日蓮正宗本来の正しい信心をしようと言う道念のもとに起こした運動であります。どこかに本部があって、そこから指令が出されたわけでもなく、誰かに依存してやってきた運動ではありません。各地の僧俗が、それぞれの自発的な信心によって起こした運動なのです。 この運動にはいろいろな局面がありましたが、その基本精神となったのは「依法不依人(法に依って人に依らざれ)」ということです。すなわち宗開両祖の御精神にかなっているかどうか、仏法の道理にかなっているかということを規範として、私達は道を選んできたのです。

 「依法不依人」とは、「法」を中心とするもので、自分を中心にする考えではありません。

 自分を中心にすれば、たいていの場合、利害、損得、打算を優先して行動するわけですから、商売のためには創価学会についた方が得でしょう。しかし正信会の僧俗はそうはしなかった。、その後に起きる阿部宗門との問題でもそうです。世間一般の常識で考えれば、本山があっての末寺ですから本山についた方がいいに決まっています。しかしあえて皆さん方は、正信会の末寺の方を選ばれた。それはなぜかというと、「法」を優先されたからだと思うのです。

 また「依法不依人」とは、所属の教団を優先する考えでもありません。日蓮正宗とは、本来、仏法を正しく継承し、法を弘めるための組織であるはずです。それが――今の阿部宗門はその精神末法を失い、衆済度の心を失っしまった。宗門幹部の保身のため、法主とその取り巻きのたの組織になっているのではないか――と皆さんはそう深く感じとられたから、正信会への道を選ばれたのだと思うのです。

 法華経の「如来寿量品」には、

 「柔和質直なるものは 即ち皆我が身に 此に在って法を説くと見る」(「開結」508 頁)

と説かれているように、正法正義を信受するには、セクト意識や我執を離れ、いつでも柔軟な心で道理に基づいて進退を決することが一番大切なことです。

 今後も、正信覚醒運動というものは、皆で自発的に志を寄せ集めてやっていかなければなりません。「誰々を中心に」というカリスマ的信仰ではなく、皆末法の名字の凡夫ですから、長所も欠点もあるでしょうが、その中でお互いにその志を大切にし、正しい仏道を歩もうとする精神を失わずに進んでいかなければならないと思うのです。

 そこで今回は教義・信仰の問題を中心にして、

@三大秘法と本尊観

A受持信行観

B功徳と現証

C血脈相承と貫首

D広宣流布間について

E教団組織の問題について

を概観し、私たち正信会の信仰と、宗門・創価学会の信仰の違いについてお話しをしたいと思います。

第一章 三大秘法と本尊観
 
 

 
阿部宗門 三秘隔別  戒壇本尊直拝 即物的な本尊観
正信会  三秘相即  戒壇本尊遥拝 信心為本の本尊観云
 
 *心こそ大切なれ

 正信会僧俗と阿部宗門との信仰観一番違う点とは、おそらく御本尊様のとらえ方ではないでしょうか。外形は同じようですが、本当はずいぶん違ってきているのではないかと思います。

 本宗においては、宗祖大聖人がお顕わしになられた十界互具の大曼陀羅をもって本尊とするのは当然のことであり、この三大秘法の御本尊(事の一念三千}を事相には顕わしたものが紙幅や板に書写された曼陀羅本尊であります。

 大石寺第26世日寛上人は「文底秘沈抄』において、この本門の本尊と戒壇と題目という三大秘法 六義――つまり本尊を「人・法」、戒壇を「事・義」、題目を「信・行」とに分けて、解説されています。

 ところで、本尊とは概念の上において「人」と「法を」とに分けられるのだから、人と法とは別々のものなのかというとそうではありません。富士門流の法門においては固く「人法一箇」として示されてきました。

 過去にこのような議論が行われたことがあります。明治時代の後期に法華講を総講頭やっていた信徒の方が、

 「戒壇の御本尊は弘安二年に建立された。しかし実際にはその時には日蓮大聖人は生きていらっしゃるわけだから、大聖人そのものが御本仏ではないか。戒壇本尊の方に法魂が移ったわけではない。だから弘安二年にご図顕された御本尊も、弘安五年に大聖人がご入滅されるまでは、その御本尊に本当の意味で法魂が宿っているとはいえない」というような説を当時の宗門の機関誌に発表したのです。それに対して別の講頭の方が、「それはおかしい。御本尊様はやはり顕わされた時から御本尊様ではないか」

と反論し、その後、何度も機関誌の上で論争を交わしますが、なかなか決着がつきませんでした。そこで僧侶に意見やコメントを求めるのですが、結局、当時の宗門の僧侶からははっきりとした答えが得られなかったようです。

 なぜこのような論争が起こるのかというと、戒壇の御本尊と、日蓮大聖人を別々に考えるからなのです。「法本尊」と「人本尊」とを外相にとらわれて別々に考えるところに、そのような論争が起こる原因があるのです。

 もちろん、お題目にしても同じことがいえます。どこからどこまでが「信の題目」、「行の題目」などと区別されるものでありません。

 例えば一本の赤いペンを表現するときに、「長い」「赤い」「字を書くもの」「油性、水性」などという説明することができるでしょう。仏法についてもそうなのです。大聖人ご証得の妙法蓮華経の仏法を説明するとき,「戒・定・慧どういう方向から説明しないとなかなかわからないから、「三秘」「六義」というようにして説明されたわけなのです。ですからもともと三大秘法とは、三即一、一即三に相即していることを知らなければならないのです。

 また、天台の一念三千の法門を理といい、宗祖の法門を「事の一念三千」と申し上げるのは、この三大秘法を法華経の行者日蓮大聖人が己心証得の法門を通して顕わされたから、「事の一念三千」と申し上げるのです。

 このことを宗門や創価学会では、「理」とは設計図であり、それを実際に作ったものが「事」だと理解しています。実際に世俗の物や形で顕わさなければ「事」にならない。事の一念三千の本尊とは、紙や板の御本尊になって初めて「事の本尊」になるという考え方なのです。

 これは大変な間違いです。それなら他宗の木絵二像の本尊も「事」の御本尊ということになってしまいます。「事の一念三千」とは、事相に顕わされたという意味ではなく、大聖人己心証得も法体そのものをさして「事の一念三千」と拝するのです。大聖人が法華経を如説修行し、内証証得された法体こそ「事の一念三千」であり、この法門が日蓮大聖人の魂魄・南無妙法蓮華経の御本尊なのです。

 ならば「事の一念三千」も本尊がどこにあるのか、それは信仰の世界の中にあるものであり、正信や迷信、不信を論ずることなく、ただ単に紙幅や板として存在するものではありません。そこのところをきちんと把握し、受持してこそを本尊を正しく拝することができるのです。

 *御本尊を見て法を見ず

   近年に入ってから、日蓮正宗のあり方は、宗開両祖以来の法門を研鑽し、その精神を信行にわたって身読・実践していくことが薄れてきてしまいました。

 そしてただ「大石寺には戒壇の御本尊がある。日興上人からの血脈付法の正統派の宗旨である」ということにあぐらをかいて、自分達の教団を維持しようという保身の部分が非常に強くなってしまいました。

 このような形骸化した「家元制度」のような姿は、茶華道や芸能の世界、また他宗派でも見られることであり、なにか正統派争いが起こると、書き付けや伝来の宝物などを提示することによって正閏を主張する。これにそっくりなことが今の日蓮正宗で起こっているわけです。

 本来、宗教の正邪は、その精神性によって判断すべきですが、いつの間にか所有する宝物の優劣にすり替えられてしまっています。大石寺でも、日興上人のように、まず自分達の信・行・学の実践をもつて、その正嫡たることを証明しなければならないものを、それを怠けてしまっているから、どうしても「戒壇本尊がありがたい、絶待である」ということばかりいわなくてはならなくなる。そうするとすべてを板御本尊の権威に結びつけて、「御本尊絶対、御本尊絶対」といっていればそれで良しという発想になってくるのです。

 どんなに不信心でも、怠けていても「大石寺に戒壇本尊と血脈相承があるから、自分達が正しいんだ」という論理になり、ここからすべての批判を拒否し、反省することを知らない独善的かつ閉鎖的な体質が起こってくるのです。

 またこうした幼稚な信仰は、板御本尊の物質そのものが本尊を思い、この板は永遠不滅であるという思い込みになります。この板御本尊が何かの理由で消滅してしまったならば、仏法は滅びてしまうし、日蓮正宗は成り立たがなくなるというような考えすら生まれてくるのです。

 大石寺第五十九世、日亨上人は、「戒壇の御本尊の板は決して燃えないものなのでしょうか」という質問に対して「戒壇の御本尊であってもその板は火をつけたら燃えてしまうだろう」とお答えになったといいます【注C】。

 こういうことは一般の常識で考えると不思議でもなんでもないことなのですが、今の宗門にとってはそんな発言は絶対に許されないことだという感覚なのです。

 紙幅や板曼陀羅の物体という一面が永久不滅のものだと思っていると、「板」と「法体=御本尊」という関係が分からなくなってしまい、ついには板や紙幅そのものがずっと滅しないという話になってきます。

 このような考えはもう仏法の領域ではありません。物体が三世常住という考え方は妄想です。仏法でも世法でもすべてのものは生滅し、流転しているとを説いているのですか。

 三世常住の仏身とは、その生滅の変化に即している因縁所生の法を、妙法蓮華経の法そのものであり、三身即一、事の一念三千の妙法蓮華経の法界全体をさしていうのであります。

 近年、宗門や学会において、とみに皮相的外形的な考え方が進み、即物的な本尊観から、三大秘法もバラバラにとらえられ、国立戒壇問題等も派生してきたといえるでしょう。

 また、阿部師は、各寺院、各家庭に安置する本尊は、戒壇の板御本尊の写しで、「分身散影」「分身散体」の義であるなどと、御本尊にも本体と分身があるかのようなおかしな主張をするにいたっています。【注D】

 『御本尊七箇之相承』には、

 「日蓮が影今の大御本尊なりと云云」(『聖典』380n)

 とあり、御本尊書写とは、日蓮大聖人の魂魄を時の貫首がお写しするのであって、ただたんに字形的な書写ではなく、精神の継承という最も大事なことを、化儀によって伝えてきたのです、宗門や学会では、こうした法門を失い、御本尊の書写を著作権のようなコピー感覚でとらえているのです【注E】。

 *変質した登山の目的

 近年、創価学会の登山会がはじまったことによって、ご開扉が恒例化し、登山の目的が、戒壇の御本尊を拝観するという形態に変わってしまいましたが、古来、大石寺法門では、戒壇の御本尊は、広宣流布の暁まで,客殿の奥深く、御宝蔵の中に秘蔵すべきものとされてきました。

 そして、この戒壇の御本尊を、丑寅勤行の時に遙拝しますが、日寛上人は『六巻抄』の「当流行事抄」に、

 「答う、古より今に至るまで毎朝の行事、丑寅の刻みに之を勤む、その謂われ如何。答う、丑の終わり寅の始めは即ち是れ陰陽生死の中間にして三世諸仏成道の時なり。是の故に世尊は明星出づる時豁然として大悟し、吾が祖は子丑の刻み頸を刎ねられ魂魄佐渡に到る云云。当山行事亦復若くの如し、朝朝刹那半偈の成道を唱うるなり」

【『聖典』955n】

 と、本宗の即身成仏の法門は、むしろ客殿における丑寅勤行に集約的に象徴されていると明されています。すなわち、下種三宝・宗開両祖に向い、貫首以下の大衆が異体同心に随待給仕する姿こそ、本宗においての最も重要な化儀なのです。何処にあってもこの丑寅の姿を敷衍し、日常の生活に展開することが信心修行の肝要であります。

 ちなみにこの『六巻抄』や第九世日有上人の『化儀抄』には、「ご開扉」という化儀や法門はどこにも記されていません。すなわち現在、日常的に行われている「ご開扉」という化儀は近年になってからはじまったことといえます。

 戦時中も国策協力などから、特別のご祈念などが行われたようですが、創価学会の登山会ににより恒例化した御開扉が行われるようになった当時、宗門内から「戒壇の御本尊を見せ物にしていいのか」という批判があったと聞いています。

 その声のように、最近の大石寺では。まさに戒壇の御本尊を見せ物にして生活しているような形になり、そしてあたかも三大秘法の法体は、阿部師の所有物のように喧伝されています。大聖人の仏法、大聖人の魂魄が、阿部師個人の所有物になってしまうなど、今の宗門はまったくおかしな姿です。

 その上「正信会はご開扉をうけられない」と等といいますが、まったくタメにする難癖といわざるをえません。「ご開扉をうけられない」のではなく、阿部師が戒壇御本尊を私物化して内拝を許可しないだけのことであり、戒壇本尊の内拝ができようができまいが、信心の本筋からは問題ではありません。身は遠くにあっても正信の人にはいつでも戒壇本尊を拝することができるのです。

 経済的な理由で実現は難しいのでしょうが、大石寺こそ、むしろ今のようにひんぱんに行われている「ご開扉」をやめるべきなのです。秘仏のご開帳をもって生活の糧を得るようなことは本筋ではなく、日興門下の僧侶たるもの、少欲知足の遺誡を守って、法施を衆生に施し、それによって受ける信施をもって満足すべきだと思うのであります。

 *常随給仕の心

 ともあれ、現在この「登山」の目的そのものが完全に違ってきています。

 日興上人のご在世当時より、奥州をはじめとする東北各地の遠方から、大勢の法華講衆の人達が大石寺へ登山してくるわけですが、何のために登山してこられたのでしょうか。それは、大聖人ご入滅後も、変わらず常随給仕された日興上人に倣って、大聖人にお仕え申し上げようということを目的として登山してこられたのです。その中心が御影堂に香華供える番役であり、登山すればまず御影堂にお参りをし、大聖人にご挨拶申し上げるのが本来の姿なのです【注F】

 こうした伝統はずっと続けられてきました。江戸時代、または明治の初めごろまで、登山という、法華講衆の人たちは、四、五日間、長い人は一週間以上も大石寺に滞在して、丑寅勤行や御講にお参りし、その間、掃除や草取りなどをしましたともかく大聖人のもとにお参りして、心からお仕えしよう、に思って仏様に講中必要、そういう精神が登山の一番大切な意義だったのです。

 しかし現在のを大石寺では、大聖人様にをお目通りするという精神を忘れて、阿部「猊下」にお目通りするという考え方になってしまっています。しかも大石寺登山の僧俗が、みな、「猊下」の顔色をうかがい、お目通り御供養気をとられ、日蓮大聖人や日興上人を恋慕する心などのほとんどないようなていたらくです。本来の登山のあり方が、創価学会が行ってきてから、戒壇板御本尊の願掛け信仰になりさがり、法主信仰も強まり、大石寺の伝統は大きく変質してしまいました。

 日蓮大聖人に常随給仕を申し上げるという振る舞いは、もちろん末寺においても行われるべきことです。お客さんのつもりでお寺に参詣し、お寺の応対が良いとか悪いとかを比較するのではなく、お寺にお参りすることは、まず大聖人様にお目通りし、住職とともに大聖人様にお仕えするという姿勢でなくてはならないと思うのです。  もともとをお経文に、「我常に此に住すれども、諸の神通力を以って ?倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」(「開結」506頁)

 とあるように、信心の曲がっている人には、仏様が常住ましましていても見ることはできません。肉眼ではなく、信心の眼をもってしか御本尊を拝することができないのです。

 『千日尼御前御返事』

 「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てなにかせん心こそ大切に候へ」

      (全集1316頁)

 とあります

阿仏房の夫人・千日尼は身延の大聖人のもとに一度もお参りできませんでした。しかし大聖人様は、「直接、この身延にいらっしゃることができなくとも、たとえ直接お会いすることができなくてもあなたのその心はいつでも日蓮のもとに来ているのです。法華経の正しい信心こそ大切なのですよ。」とご教示されたのです。

 結局、大聖人を拝する、御本尊を拝するということは、肉眼による物理的な視覚に頼ることなく、正しい信仰心、本師大聖人への渇仰心によるのであり、仏を見るとは法を見ることなのです。

 正しく信心修行しようという、正信の僧俗こそが三大秘法の戒壇の御本尊を拝することができるのです。

第二章へ
正信覚醒運動のめざすもの 目次へ戻る

     

 
 
  • 資料室に戻る
  • ホームへ戻る
  • 正信掲示板へ