平成十四年二月一日
 
御 書 抄 録
 
今申せば事新しきに相似て候へども、徳勝童子は仏に土の餅を奉りて、阿育大王と生まれて、南閻浮提を大体知行すと承り候。土の餅は物ならねども、仏のいみじく渡らせ給へば、かくいみじき報を得たり。然るに釈迦仏は、我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは、末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は、百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給ひて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給ふ事、有難き御志かな。金言の如くんば、定めて後生は霊山浄土に生まれ給ふべし。いみじき果報かな。
               (南条殿御返事 全集1578頁4行目〜8行目)
 
意 訳
今、事新しく申すまでもないが、過去の徳勝という童子は、土の餅を仏に奉った功徳で阿育大王と生まれ、この世界をほぼ支配する国王になられた。土の餅は取るに足らぬものであるが、お受けになった仏様が大変尊い方であるから、このように尊い果報を得たのである。
 釈尊は法華経法師品に「我(仏)を無量の珍しき宝を以て億劫というまことに長い間供養するよりも、末代の法華経の行者を一日でも供養する功徳は百千万億倍勝れている」と説かれているが、法華経の行者の日蓮を心から数年の間供養されていることは、まことにありがたい志である。この仏の御金言通りなら、あなたは必ずや霊山浄土に生まれるに違いない。何という勝れた大果報であろう。
 
 ”後生は霊山浄土へ生まれ給ふべし”
 法華経の行者を供養する功徳は絶大
 
 手 引
 
 これは弘安四年(1281)九月十一日、大聖人様が六十才の時に南条家の使者から塩一駄、大豆一俵、とっさか一袋(鶏の鶏冠に似た海草)、酒一筒などの供養に対する時光殿への御返事です。
 
 このお手紙の始めに、「上野の国から帰られて後、久しく参詣が滞りお逢いしていなかったので、どうしたものかと大変心配しておりました」
と仰せです。今年の三月十八日以来、音信がなかったところに、久方ぶりに御供養の品々をたずさえて参詣された南条家の使者から近況を受けられ、そこで時光殿が病気のため難儀していることをお聞きになり、早く病気を治療退治し身延へ参詣するよう励ましておられます。
 時光殿の状況は、二年前の弘安二年には日蓮門家最大の法難である熱原法難が起こり、その際には大聖人様や日興上人の指示を仰ぎながら熱原法華講衆を護るため奮迅の働きをされます。しかし時光殿は御家人であり上野郷地頭の職で、半ば公然と幕府に背き、熱原農民の法華講衆を外護し、神主をかくまったりされたのですから、当然幕府から厳しく睨まれることになります。その結果重税が課せられ、乗るべき馬もなく、妻子に着せる衣もないほどの窮乏をしいられることになるのです。またこの年のお手紙に「この両三箇年は日本国の中に大疫病起て人半分減じて候か」とあって、各地で疫病が大流行し、翌年の弘安三年には飢饉が起こり、連年の疫病は弘安五年頃まで続くのです。さらに九月には、未来を嘱望されていた七歳違いの弟である五郎殿の突然の死去。それに幕府に睨まれながらも鎌倉出仕や在勤も多くなっていたことでしょう。時光殿も弱冠二十三才の青年とはいえ、心身共に疲労と負担が重なり、病の原因となっていったと思われます。
 
 南条家の大聖人様に対する御供養は身延入山以来絶え間なく続けられており、このたびはこのような事情で半年ほど参詣が途絶えますが、この過酷な状況にもかかわらず、身延の大聖人様へ御供養の品々を使者を通じて届けられたのです。その純粋で篤き真心のお志しに大聖人様はいたく感激され、法華経の行者を供養する功徳は、釈迦仏を無量の財宝をもって億劫の間供養するよりも百千万億倍勝れており、また徳勝童子が土の餅を供養した功徳により仏教を弘める阿育大王として生まれた因縁を説かれ、必ずや霊山浄土に生まれる果報を得るであろうと賞賛されています。末法の御本仏としての御自覚のもとに「持つところの法が尊ければ、それを持つ人も尊く、持つ人が貴ければ住処も尊いのである」という天台の法華文句の釈を引かれて、この身延の地は霊山浄土にも劣らぬ地である故、参詣する者は三毒転じて三徳を成ずるのであるから、急いで参詣をしなさいと勧めておられます。しかし時光殿の病は治まらず。良く二月の生死をさまよう大病へと病状が進み、「法華証明抄」を戴くことになっていくのです。 
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