観心本尊文段上

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観心本尊文段上    富山大石寺二十六世日寛謹んで記す

 夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深密の大法にして本地唯密の正法なり。

 この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。

法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。

応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。

故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。

譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。

故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。

故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。

妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。

故に宗祖云く「此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり」等云云。

故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、

摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、

自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、

三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり。

所以に日忠・日辰の博覧も尚当抄の元意を暁る能わず。何け況や日健・日朝・日澄・日講等の僻見の輩をや。

この故に宗祖の本懐これが為に覆われ、当抄の奥義末だ曾て彰れざるなり。故に宗門の流々皆本尊に迷い、或は螺髪応身立像の釈迦を以て本尊と為し、

或は天冠他受用・色相荘厳の仏を本尊と為す。これ併しながら、当抄の意を暁らざる故なり。

唯房州の日我のみ独りその大要を得たり。然りと雖も、その文義に至っては、未だ美を尽さざるの処あり。学者、文に臨み宜しくこれを斟酌すべし。

維れ時享保第六太歳辛丑猛夏中旬、総州細草の学校及び当山所栖の学徒等四十余輩、異体同心に、予に当抄を講ぜんことを請う。

懇志一途にして信心無二なり。余謂らく、四十余輩寧ろ一人に非ずや。或は三四並席の誡を脱れんか。

この故に老病堪うべきなしと雖も、遂に固辞する能わず、粗文の起尽を分ち、略義の綱要を示す。またこれを後代の君子に贈り、苦に三仏の顔貌を拝せんことを期するのみ。

一、如来滅後後五百歳始観心本尊抄文。(二三八n)今所述の題号を釈するにまた三段と為す。

初めに通じて文点を詳らかにし、次に別して釈し、三に総じて結す。 初めに文点を詳らかにするをまた二と為す。初めに「始」の字の文点を詳らかにし、次に「観心本尊」の文点を詳らかにす。 初めに「始」の字の文点を詳らかにするとは、問う、「始」の字の文点、古来の諸師或は「後五百歳に始めて心を観る本尊抄」と点じ、

或は「後五百歳の始め」と点じ、或は「後五百歳に始まりたる心の本尊を観る抄」と点じ、

或は「後五百歳に始まる観心本尊抄」と点ず。何れの点を用ゆべきや。

答う、此等の文点、或は機に約し、或は時に約し、或は法に約し、並びに題の意に作る。故に信用するに足らざるか。

今謹んで案じて日く「如来滅後後五百歳」とは、これ上行出世の時を明かす。「

「本尊」はこれ人即法の本尊を明かす。故に「如来滅後後五百歳」は時に約し、「始」の字は応に約し、「観心」は機に約し、「本尊」は法に約するなり。

故に今点じて云く「如来の滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」と云云。

故に題意に謂く、如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄なりと。将にこの義を明かさんとするに且く五門に約す。

一には題号所依の本文に拠る。謂く、経に云く「我が滅度の後に於て、応に欺の経を受持すべし」と云云。当に知るべし、

「如来滅後」等の八字は正に「我が滅度の後に於て」の文に拠り、「始観心本尊」の五字はこれ「応に斯の経を受持すべし」の文に拠るなり。

「我が滅度の後に於て」は時に約すること分明なり。「応」の一字はこれ如来の勧奨の故に応に約するなり。受持は即ちこれ機に約し、「斯経」の二字は法に約す。

 故に知んぬ、当抄の題号は正しくこの文に拠ることを。但応の字・始の字は、一往異なりと雖も、再往はこれ同じく倶に応に約する故なり。

謂く、彼は如来の勧奨に約し、此れは上行の所作に約するが故なり。況や「応に斯の経を受持すべし」の意、正に上行始弘の本尊に在るをや。

二には四義具足の例証に拠る。謁く、釈尊の観心本尊抄に云く「爾時世尊・告舎利弗・諸仏智慧・甚深無量」等云云。

また云く「爾時仏告・諸菩薩及・一切大衆・如来秘密神通之力」等云云。此尊の経文に四義分明なり。

謂く「今正に是れ其の時」の時来り、機応相対して法を説きたまうが故なり。今またかくの如し云云。

三には四義具足の明文に拠る。謂く、蓮祖の法華経に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」と。

また云く「仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」等云云。

此等の文中に時あり、応あり、法あり、機あり、四義分明なり。題もまた然るべきなり。

四には「始」の字、応に約するの明文に拠るべし。

謂く、救護本尊の端書に云く「後五百歳の時、上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」等云云。明文此に在り、誰かこれを疑わんや。

五には古来の諸師の文点を料簡す。

問う、蒙抄に古来の諸点を簡んで但一点を取って云く「後五百歳に始めて心の本尊を観ずる抄」と。而してこれを歎じて云く「始の字は正像を簡び未曽有の言に合す」等云云。この義如何。

答う、彼の点の「始観」の意は正しくこれ機に約す。未曽有の言は即ちこれ法に約す。何ぞ未曽有の言に合すといわんや。況や彼の点の如くんば「始観」の二字は体と成り、「本尊」の二字は用と成らん。豈今の大旨に違うに非ずや。今この「本尊」の二字は体なるが故なり。

問う、忠抄に云く「後五百歳の二百年に蓮祖出世す。故に後五百歳の始めと云うなり」と云云。この意、正しく仏滅後二千二百二十余年の言に合す。何ぞこれを用いざるや。

答う、恐らくはこれ文異義同を知らずして煩重の失を招くか。謂く、今「如来滅後後五百歳」というは、即ちこれ諸の本尊の「仏滅後二千二百二十余年」の文なり。

何ぞ更に「始め」というべけんや。況んやまた「始めて之を弘宣す」の文に同じからず。何ぞこれを用ゆべけんや。

問う、常抄に云く「後五百歳に始まりたる心の本尊を観る抄」と云云。既に相伝という、何ぞこれを用いざるや。

答う、彼の抄はこれ中山の三代日祐の述作なり云云。故に同門流の蒙抄等すら尚これを用いず。況や彼の点の意は已始に約するをや。豈今の大旨に違うに非ずや。これ則ち当文は今始に約する故なり。

問う、辰抄に云く「万年の始めを指す故に始と云うなり」と云云。この義如何。

答う、「後五百歳」の四字即ちこれ万年の始めなり。何ぞ更に「始め」というべけんや。末法の初めの釈これを思い合すべし。

問う、日我抄に云く「後五百歳に始まる観心本尊抄」と云云。この点は法に約して今始に約す。未曽有の言に合い、広宣流布の文に応ず。何ぞこれを用いざるや。

答う、所弘の法に約する故に「始まる」と点ずるなり。今は能弘の辺に約する故に「始む」と点ずるなり。若し能弘の辺を挙ぐれば、所弘の辺は自ら摂するなり。 謂く、始むるが故に始まるなり。若し始めざれば何ぞ始まることを得んや。故に彼の点の意は即ちこの点の含む所と成るなり。況やまた宗祖既に「上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」という。何ぞ別義を用いんや。

また広宣流布の文の前後の大旨に准じ、また能弘の辺を含む。故に顕仏未来記に云く「地涌千界乃至本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」と云云。

問う、仮い日我の点の如きと雖も、何ぞ能弘の辺を闕かん。既に「本朝沙門日蓮」という故なり。

答う、若しその義に拠らば転これ潤色なり。謂く、後五百歳に始む観心の本尊抄、誰入かこれを始むるや。本朝沙門日蓮等云云。

次に「観心本尊」の文点を詳らかにするとは

問う、観心本尊の文点、古来の諸師或は「心の本尊を観る抄」と点じ、或は「心を観る本尊抄」と点じ、或は無点等なり。何れの点を用ゆべきや。

答う、此等は並びに題の意に非ず。今謹んで点じて云く「観心之本尊抄」と云云。凡そ諸の法相は多くこれ相対して以てその名を立つ。所謂十双権実、六重本迹等、一々の名目及び大小・権実・迹本等の如きこれなり。

況や教相観心の名目の如きは、諸宗通じて同じく一双の立名なり。然るに事の言は理を簡び、果の言は因を簡び、大の言は小を簡び、実の言は権を簡び、本の言は迹を簡ぶ。観心の言、豈教相を簡ばざらんや。

故に観心之本尊と点ず。応に教相の本尊を簡び、観心の本尊を顕すべきなり。例せば三大秘法の中に既に本門之本尊と点ずるは、正しく迹門の本尊を簡び、本門の本尊を顕すが如きこれなり。

問う、教相の本尊・観心の本尊、その体如何。

答う、今いう所の教相の本尊とは、文上脱益・迹門の理の一念三千、これを教相の本尊と名づくるなり。観心の本尊とは、文底下種・本門の事の一念三千、これを観心の本尊と名づくるなり。

今、文上脱益・迹門の理の一念三千の教相の本尊を簡んで、文底下種の本門の事の一念三千の観心の本尊を顕す。故に「観心之本尊抄」という。

将にこの義を詳らかにせんとするに、且く三段と為す。第一に当家所立の教相・観心の相を明かし、第二に当家所立の下種の三種の教相を明かし、第三に当抄は正しく脱益・教相の本尊を簡び、下種・観心の本尊を顕すを明かす。

問う、当家所立の教相・観心の相如何。

答う、且く五文を引き、時してその相を示さん。

一には開目抄に云く「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底に秘し沈め給ヘり」と云云。

当に知るべし、「一念三千の法門」とは即ちこれ観心の法門なり。既に文底を以て観心の法門と名づく。故に知んぬ、文上の法門は皆教相に属することを。

二には十法界抄に四重の興廃を明かす。謂く、爾前・迹門・本門・観心なり。第四の観心とは、永く通途に異り、正しく文底下種の法門を以て観心と名づくるなり。

既に文底下種の法門を以て観心と名づく。故に知んぬ、爾前・迹・本は通じて教相に属することを。

三には血脈抄に四重の浅深を明かす。「爾前は名体無常、迹門は体実名仮、本門は名体倶実、文底は名体不思議・観心直達の南無妙法蓮華経」(取意)等云云。既に文底を以て「観心直達」と名づく。故に知んぬ、爾前・迹・本は通じて教相に属することを。

四には血脈抄に云く「迹門を理具の一念三千と云う脱益の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の一念三千と云う下種の法華は独一の本門なり、是を不思議実理の妙観と申すなり」と。 既に文底下種の本門、事の一念三千を以て「不思議実理の妙観」と名づく。故に知んぬ、文上脱益・迹門の理の一念三千を通じて教相に属することを。

五にはまた血脈抄に云く「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。

既に文底下種・本門の事の一念三千を以て「直達の正観」と名づく。故に知んぬ、文上脱益・迹門の理の一念三千は仍教相に属することを。今此等の諸文に拠って当家の所立最も明らかなり。

問う、当家所立の下種三種の教相如何。

答う、且く一文を引き、略して綱要を示さん。若しこの旨を了せば、即ち蓮祖の本懐に達し、諸抄の元意は皎世目前ならん。常忍抄に云く「法華経と爾前と引き向えて勝劣、浅深を判ずるに当分、跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候」と云云。

解して云く、一には爾前当分・迹門跨節、これ権実相対の法門なり。二には迹門当分・本門跨節、これ本迹相対の法門なり。三には脱益当分・下種跨節、これ種脱相対の法門なり。これを下種の三種の教相と名づくるなり。

故に血脈抄に云く「下種三種の教相」と云云。台家の三種の教相に望むるに、彼の第一第二を以て即ち当家の第一と為す。彼の第三の飾弟遠近を以て即ち当家の第二と為す。更に第三の種脱相対を加えて、当家の三種教相と為すなり。この第三の種脱相対、また本迹と名づくるなり。

所謂文の上の脱益を迹と為し、文底下種を本と為す。これを本種脱迹と名づくるなり。故に血脈抄に二十四番の勝劣を明かす中に「彼の本門は我が迹門」というはこれなり。

妙楽大師云く「雖脱在現・具騰本種」等云云。この第三の法門は天台未弘の大法にして蓮祖出世の本懐なり。故に「日蓮が法門は第三の法門なり」というなり。種脱一百六箇の本迹、これを思い合すべし。

然るに諸門流の輩はこの義を知らず。只天台の第三を取って即ち蓮祖の第三と為す。この三種の教相を弁ぜざるを以ての故に、一切の法門皆咸く迷乱す。秘せざるべからず、伝えざるヘからず云云。

問う、当抄正しく脱益・教相の本尊を簡び、下種・観心の本尊を顕す文理如何。

答う、且く五文を引いて番くこの義を明かすべし。

一には血脈抄の中の破教立観の相伝に云く「爾前・本・迹の三教を破して不思議実理の妙法蓮華経の観を立つ」等云云。不思議実理の妙観とは、即ちこれ文底下種の観心なり。

今正しく観心の本尊を明かす。豈権迹本の熟脱の教相を破して、文底下種の妙観を立てざらんや。

二にはまた会教顕観の相伝に云く「会教顕観とは教相の法華を捨てて観心の法華を信ぜよ」となり云云。「教相の法華経」とは、即ちこれ熟脱の法華経なり。

「観心の法華経」とは、即ちこれ文底下種の法華経なり。今正しく観心の本尊なり。豈教相の熟脱の法華を捨て、文底下種の観心の法華を顕さざらんや。

三には下の文に云く「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を属し給わず何に況や其の已外をや」等云云。 当に知るべし、「本門」の言は熟益の迹門を簡び、「肝心」の言は脱益の本門を簡び、「南無妙法蓮華経」とは、文底下種の観心の本尊を顕すなり。

四にはまた云く「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」と云云。また云く「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」と云云。

五にはまた云く「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字」等云云。此等の文明らかなり。故に知んぬ、今文上脱益の教相の本尊を簡び、文底下種の観心の本尊を顕すなり。

次に別釈。また四段と為す。初めに「如来滅後」等を釈し、次に「始」の字を釈し、三には「観心」の二字を釈し、四には「本尊」の二字を釈す云云。

初めに「如来滅後後五百歳」とは、これ薬王品の意に准じて神力品の「我が滅度の後に於て」の文に拠るなり。当抄の大意、能くこれを思うべし。

「如来」とは三身即一の応身なり。「滅後」の言は正像末に亘ると雖も、意は末法に在り。「後五百歳」はまた五百年に通ずと雖も、意は二百余年に在り。故に諸文の中に「仏滅後二千二百二十余年」というなり。

次に「始」というは、正には正像未弘に対し、傍には一閻浮提を簡ぶ。上下の文に准じて能くこれを見るべし。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず乃至当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候ヘ」と云云。

救護本尊の端書に云く「大覚世尊御入滅の後、二千余年を経歴し、爾りと雖も月・漢・日三箇国の間未だ此の大本尊有さず。或は知って之を弘めず、或は之を知らず。我が慈父仏智を以て之を隠し留め、末法の為に之を残す。

後五百歳の時、上行菩薩世に出現し始めて之を弘宣す」と云云。故に知んぬ、当抄の題号は「如来滅後後五百歳に上行菩薩始む観心の本尊抄」なることを。

問う、建長五年の宗旨建立已後、即ちこれを始めたまうや。

答う、或は謂く、実に所問の如し。或は謂く、これ然るべからず。何となれば佐州已前は身業読誦未だ訖らず。この故に本化の再誕仍未だ分明ならず。

故に三大秘法の名字すら尚これを顕さず。況やこれを始むべけんや。故に宗祖、佐渡已前の法門は仏の爾前経の如し等云云。

問う、若し爾らば佐州已後、即ちこれを始めたまうや。

答う、諸の御本尊多く仏滅後二千二百二十余年という。然るに当抄の述作は文永十年癸酉、即ち仏滅後二千二百二十一年に当るなり。故に当抄の述作已役これを始めたまうか。

佐州免許は文永十一年二月、正しく仏滅後二千二百二十二年に当る。故に或は免許已後これを始めたまうか。救護本尊は佐州免許の年の十二月なり。然りと雖も、文永八年或は文永元年の御本尊これあり云云。更に検えよ。

問う、文永・建治の御本尊に御本懐を究尽するや。

答う、文永・建治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。これに相伝あり。或は仍文上を帯するか云云。

問う、弘安の御本尊応御本懐を究尽するや。

答う、実に所問の如し。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。当に知るべし、智者大師は隋の開皇十四年、御年五十七歳、四月二十六日より止観を始め、一夏にこれを説いて四年後、同十七年、御年六十歳の十一月に御入滅なり。

吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終り、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕して四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり。

これに三事の不可思議あり。

一には天台大姉は五十七歳にして止観を説き、蓮祖大聖は五十八歳にして戒壇の本尊を顕す。また天台は六十歳御入滅、蓮祖は六十一歳御入滅なり。これ則ち像末の教主の序、豈不思議に非ずや。

二には天台は四月二十六日に止観を始め、蓮祖は四月二十五日に当抄を終る。天台は十一月御入滅なり。蓮祖は十月御入滅なり。蓮祖は後に生れたまうと雖も、下種の教主なり。故に義、前に在り。

この故に蓮祖は二十五日応当抄を終り、十月の入滅なり。天台は前に生れたまうと雖も、熟益の教主なり。故に義、後に在り。この故に二十六日に止観を始め、十一月の入滅なり。種熟の序、豈不思議に非ずや。

三には天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮竟の極説を顕す。寧ろ不思議に非ずや。

問う、本尊問答抄の啓蒙に云く「諸山代代の本尊に多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を定規とする故なり」と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐末だ顕れ畢らざるや。

答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。

また弘安元年九月の本尊問答抄に云く「仏滅後二千二百三十余年」(取意)と云云。また第十六四条金吾抄、また第十七大陣破抄、また第二十二初心成仏抄等云云。また蒙抄応云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」と云云。

また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」と云云。故に知んぬ、弘安元年已後、御本意即ち顕れ畢ることを。

問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。

答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、正しく寿量品を説くなり。

而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。

故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云云。この文深くこれを思うべし。

若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、新池抄には「寿量品に説き顕し」という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟の極説なり。

就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

三には「観心」の二字を釈す。また二段と為す。

初めに正しく我等衆生の観心なることを明かし、次には我等衆生の観心の相教を明かす。

問う、文底下種の本門・事の一念三千の法門を観心と名づくる義は、前来所引の文義に分明なり。然るにこの文底下種の法門は、正しくこれ誰人の観心ならんや。

答う、これ末法今時の我等衆生の観心なり。且く一文を引き、その相を示さん。所謂下の文に云く「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」等云云。

また云く「五字の袋の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」等のこの中に「服せしむ」、「懸けさしめ」というは即ちこれ観心なり。「末代幼稚」は豈末法今時の我等衆生に非ずや。

問う、日辰抄に「観心」の二字を以て能化・所化に通ずと。この義如何。

答う、若し汎くこれを論ぜば、或は然るべきか。

当文の「観心」の二字は則ち爾らず、但所化に約するなり。既に「後五百歳に始む」の字、正しく能化に約する故に、「観心」の二字は所化に約するなり。況や前の三文に分明なるをや。何ぞ能化に通ぜんや。故に諸師多く所化に約するなり。

問う、日我抄に云く「当流の意は観とは智なり、皆とは信なり、信とは信智の南無妙法蓮華経なり。心とは己心なり、己とは末法出現の地涌なり。地涌の心法、妙法蓮華経なる処が観心なり。

末世の衆生を救わんが為に出現あれば本尊なり」等云云。既に「観心」の二字を以て地涌の菩薩の境智の二法に約す。何ぞ我等衆生の観心というや。

答う、この義、「観心本尊」の四字、恐らくは混乱せるに似たり。凡そ当流の意は、本門の本尊とは即ちこれ本地難思の境智の妙法なり。故に地涌の境智を以て「本尊」の二字を釈すべし。何ぞ「観心」の二字を釈せんや。

若し境智を以て観心の二字を釈せば、但これ所化に約すべし。何ぞ地涌に約せんや。況や彼の義の如くんば、三大秘法の中の本門の本尊、今の観心の本尊、その意同じからず。学者見るべし。

何ぞこの「観心」の二字を以て即ち彼の「本尊」の二字に同ぜんや云云。若し観心即本尊に約せば入文の相に違うなり。

問う、「観心」の二字、我等衆生の観心に約すること文理分明なり。正しく我等衆生の観心の相貌は如何。

答う、末法の我等衆生の観心は、通途の観心の行相応同じからず。謂く、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。

故に血脈抄に云く「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。また云く「理即、短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法蓮華経是なり」と文。

問う、凡そ観心とは、正法一千年は最上利根の故に、或は不起の一念を観じ、或は八識元初の一念を観ず。若し像法に至れば、人随って鈍根なり。故に不起の一念・元初の一念は所観の境界に堪えず。

故に根塵相対して芥爾の六識に三千の性を具するを観ず、これを観心と名づく。何ぞ但信心口唱を以て即ち観心と名づくべけんや。

答う、末法今時、理即・但妄の凡夫の観心、豈正像上代の上根上機の観相に同じからんや。縦い像法と雖も、また一概ならず。伝教大師は延暦二十三年に御入唐、大唐の貞元二十四年三月一日、天台国清寺に於て道邃和尚より四箇の大事を御相伝あり。

所謂一には一心三観、二には一念三千、三は止観の大旨、四には法華の深義なり。その中の一心三観・一念三千の相伝の中に甚深の口伝あり。謂く、法具の一心三観、臨終の一念三千なり。

謂く、法具の一心三観とは彼の文二十一に云く「臨終の一心三観とは、此の行の儀式通途の観相に似ず。人終焉に臨み、断末魔の苦しみ速かに来り、転身体に迫る時、心神昏昧是事非事を弁ぜず。

若し臨終の時に於ては出離の要行を修せずんば、平安の習学何の詮要かあらん。故に此の位に於て法具の一心三観を修すべし。法具の一心三観とは、即ち妙法蓮華経是なり。故に臨終の時、南無妙法蓮華経と唱うべきなり」と文。

臨終の一念三千とは、彼の文三十一に云く「一念三千に三重あり。一には常用の一念三千、二には別時の一念三千、三には臨終の一念三千。乃至臨終の一念三千の観とは、妙法蓮華経是なり。妙即一念、法即三千、是の故に一念三千と名異義同なり。臨終の時、専心に応に南無妙法蓮華経と唱うべし」と文。

また第四法華深義下五十六に云く「一家の諸義、妙の一名を離れて更に別体の一心三観、一念三千あるべからず。妙名を唱うる、即ち一心三観、一念三千なり。何ぞ妙名に観心無しと云うべけんや」と云云。

像法・迹門の時、尚是くの如し、況や末法・本門の時をや。天台大師は、心に思惟せざれども法界に遍照すと釈し、伝教大師は、本門実証の時は無思無念にして三観を修すと釈するこれなり。故に但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし。これ末法の観心なり。

問う、若し爾らば唱法華題目抄に云く「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」等云云。この文如何。

答う、これ宗祖の御本意に非ず。故に四信抄に云く「問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや」等云云。

持妙法華問答抄に云く「利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云つて無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり是れ還つて愚癡邪見の至りなり、一切衆生・皆成仏道の教なれば上根・上機は観念・観法も然るべし下根下機は唯信心肝要なり」と云云。

また十章抄に云く「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」等云云。唱法華題目抄は一往天台附順の釈なり。佐渡已前、文応元年の御抄なり。

問う、但信心口唱に即ち観行成就するや。

答う、但本尊を信じて妙法を唱うる則は、所信所唱の本尊の仏力・法力に由り、速かに観行成就するなり。故に当体義抄に云く「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩・業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、

能居・所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず」等云云。

「但法華経を信じ」とは、即ちこれ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱う」とは、即ちこれ行力なり。「法華の当体」とは即ちこれ法力なり。「自在神力」とは即ちこれ仏力なり。

故に知んぬ、信力・行力を励む則は仏力・法力に由り、即ち観行成就することを。また云く「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」と云云。

「本門寿量文底の教主」とは即ち人の本尊、仏力なり。「金言」とは、これこの要の法華経・意の法華経・下種の法華経、即ち法の本尊、法力なり。信力・行力は見るべし。

伝教大師の深秘の口伝に云く「臨終の時南無妙法蓮華経と唱うれば、妙法三力の功に由り速かに菩提を成ず。妙法三力とは、一には法力、二には仏力、三には信力なり」と云云。「南無妙法蓮華経と唱うる」は豈行力に非ずや。

釈相殊なりと雖も、その意はこれ同じきなり。血脈抄に云く「住不思議顕観とは、今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」(取意)と云云。

故に知んぬ、但文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる則んば、仏力・法力に由り即ち観行成就することを。若し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり。

持妙法華問答抄に、一譬を挙げ已って合譬の文に云く「『唯我一人のみ能く救護を為す』の仏の御力を疑い、以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて、決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。『疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし』と説かれたり」(取意)と云云。

問う、蒙抄に云く「己心の諸尊を事相に造作し、之に対して之を礼する故に、観心本尊と云うなり」と。この義如何。

答う、この義は浮浅なり。また甚だ過ぎたるに似たり。

問う、忠抄に云く「観心の二字即ち事行の一念三千なり。経に云く『聞仏寿命長遠乃至能生一念信解』と云云。本因本果の長寿を聞くは即ち己心の一念三千なり。

此れを以て所観の境と為し、一念信解を能観の智と為し、能所倶に事なり。故に観心の二字即ち事の一念三千なり」と。この義如何。

答う、彼の師の所観の境は即ち脱益の一念三千なり。故に文底に望めば仍理の一念三千に属するなり。

四に「本尊」の二字を釈す。また二段と為す。初めに本尊の体徳を示し、次に本尊の名義を釈す。凡そ本尊とは我等衆生の受持の法体、所信所唱の曼荼羅これなり。然るに諸門徒、一致・勝劣所立殊なりと雖も、並びに在世の本門八品の儀式を以て本尊と為す等云云。然るに当抄の大意は則ち爾らず。

謂く、在世の本門八品の儀式は唯これ在世脱益の本尊にして、末法下種の本尊に非ず。故に当抄の中に具にこれを簡別して、但文底深秘の大法、本地難思、境智冥合、本有無作の事の一念三千の妙法五字を取り、以て末法幼稚の本尊と為す。これ則ち当抄所詮の元意なり。

またこの事の一念三千を論ずるに就いて、諸門流の義、異論蘭菊たり。若し当流の意は、迹門は諸法実相に約して一念三千を明かす。故に理の一念三千と名づく。本門は因果国に約して一念三千を明かす。故に事の一念三千と名づく。

またこの本門、事の一念三千を以て仍脱益迹門に属して理の一念三千と名づく。唯文底深秘の久遠元初の自受用身即一念三千を以て、事の一念三千の本尊と名づくるなり。

問う、久遠元初の自受用の身相如何。

答う、日本国中の諸門流の輩、但劣応・勝応、報身・法身、応仏昇進の自受用身を知って、未だ久遠元初の自受用身を知らず。故に流々殊なりと雖も、同じく本尊に迷うなり。夫れ久遠元初の自受用身とは、本地難思の境智冥合・本有無作の真仏・名字凡夫の当体・本因妙の教主なり。

宗祖云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」と云云。久遠の故に「五百塵点」といい、元初の故に「当初」というなり。「知」の一字は本地難思の智妙なり。「我が身」等は本地難思の境妙なり。

この境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うる故に、「即座に悟を開き」、久遠元初の自受用身と顕るるなり。大師の所謂「無始色心、妙境妙智」はこれなり。

当に知るべし、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。謂く、釈尊の五大即ちこれ十法界の五大なり。十法界の五大即ちこれ釈尊の五大なり。十法界殊なりと雑も、五大種はこれ一なり。豈十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。

宗祖云く「五行とは地水火風空なり乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり」等云云。

またこの自受用身の心法の智妙も一念三千の南無妙法蓮華経なり。故に宗祖云く「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕滅無し」等云云。

「因果倶時・不思議の一法」とは、即ちこれ自受用身の一念の心法なり。故に「一法」という。因果倶時の故に「蓮華」と名づく。不思議の一法の故に「妙法」と名づくるなり。この妙法蓮華の一念の心法に「十界三千の諸法」を具足す。豈自受用の妙心妙智は、一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。

またこの無始色心、妙境妙智、境智冥合すれば則ち因果の二義あり。故に大師云く「境智冥合すれば則ち因果あり。照境未だ窮らざるを因と名づけ、源を尽すを果と名づく」等云云。当に知るべし、「照境未窮」は種家の本因妙なり。「尽源為果」は即ちこれ種家の本果妙なり。

この本因本果は刹那の始終、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。

この時法を尋ぬれば人の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時、人を尋ぬれば法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。故に宗祖は「自受用身即一念三千」と。

伝教云く一念三千即自受用身等と云々。之れ即ち今の御本尊なり。故に事の一念三千の本尊なり。

応に知るべし。此の久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種本尊と顕わすと雖も、しかも近くを見ずにして、しかも自受用身即一念三千を知らず。故に本尊に迷うなり。

本尊に迷う故に、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死を離れず。故に仏大慈悲を起こし、我が證得のところの全体を一幅に図顕し、しかも末代幼稚に授け給へり。

故に我らただこの本尊を信受し、余事を雑えず、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その義を識らずと雖も、自然に応に自受用身即一念三千の本尊を知るに当る。

既に本尊を知るに当たる故に、また我が色心の全体、事の一念三千の本尊なりと知るに当れり。

譬えば小児の乳を含むに、その味を知らずして自然にその身を養うが如し。耆婆の妙薬、その方を知らざれども、服するに随って病を治するが如し。これ則ち本尊の仏力・法力の顕わす所の功能なり。これを疑うべからず。

問う、本尊の名義は如何。

答う、凡そ本尊の名は、外に通じ、内に通じ、権に通じ、実に通じ、迹に通じ、本に通ず。故に内外・権実・迹本の諸宗、皆主師親を以て用いて本尊と為す。

故に宗祖云く「一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と。

故にその家々に主師親を根本と為しこれを尊敬す。故に本尊というなり。故に本尊の名は内外・権実・迹本の諸宗に通ずと雖も、而してその体に於て天地雲泥なり。所謂儒家には三皇・五帝を用いて本尊と為す。

倶舎・成実・律宗並びに禅宗は三蔵劣応身の小釈迦を本尊と為す。法相・三論の二宗は通教の勝応身の大釈迦仏を本尊と為す。浄土宗は阿弥陀仏、華厳宗は台上の盧舎那報身、真言宗は大日如来を用いて本尊と為す。

若し天台大師は止観の四種三昧の中には弥陀を以て本尊と為し、別時の一念三千の時は南岳所伝の十一面観音を以て本尊と為し、正しく法華三昧の中には但法華経一部を以て本尊と為す。若し伝教大師は迹門戒壇の本尊は四教開会の迹門の教主釈尊なり。根本中堂の本尊は薬師如来なり。但し多くの相伝あり云云。

若し日本国中の諸門流は、或は螺髪応身立像の釈迦、戎は天冠他受用報身、或は応仏自受用報身を用いて本尊と為す。此くの如く宗々流々の本尊はその体殊なりと雖も、その名義に於ては格別なるべからず。只これ根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。当流また爾なり。

文底深秘の大法・本地難思の境智冥合・久遠元初の自受用報身・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を根本と為してこれを尊敬す。故に本尊と名づくるなり。これ則ち十方三世の諸仏の御本尊、末法下種の主師親なるが故なり。

本尊問答抄に云く「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、

答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし乃至上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり乃至普賢経」等云云。此等の文意、主師親を根本と為してこれを尊敬する故に本尊と名づくる意なり。これに人法あり。

謂く。人即久遠元初の自受用報身、法即事の一念三千の大曼荼羅なり。人に即してこれ法、事の一念三千の大曼荼羅を主師親と為す。法に即してこれ人、久遠元初の自受用身蓮祖聖人を主師親と為す。人法の名殊なれども、その体恒に一なり。これ即ち末法我等が下種の主師親の三徳なり。

然るに日本国中の諸宗諸流、我が主師親を知らず。仍在世熟脱の三徳に執し、他人の主師親を以て我が主師親と為し、還って我が主師親を下す。豈不孝の者に非ずや。哀むべし、悲しむべし云云。

問う、蒙抄に日如抄を引いて云く「今此の本尊は即ち是れ本有の尊像なり。故に本尊と云う」と云云。忠抄の意に云く「本門事具の三千の尊形なり。故に本尊と云う」と。

目我抄に云く「本とは本地なり。尊とは迹仏の思慮に及ばず、無始色心、妙境妙智の尊体なり。故に本尊と云うなり」と云云。此等の釈義如何。

答う、正義は前の如し。傍に此等の意を含むべきなり云云。

第三に総結とは、当抄の題号に応に多意を含むべし。今略して之を示す。

一には三大秘法を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ正像未弘の義なり。

「観心」の二字は正しくこれ本門の題目なり。その故は三大秘法の中の本門の題目とは、但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るを本門の題目と名づくるなり。今の観心もまた爾なり。能信能唱を観心と名づく。故に即ち本門の題目に当るなり。

「本尊」の二字は正しくこれ本門の本尊なり。所住の処は本門の戒壇なり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「正像未弘の三大秘法抄」なり。

二には事の一念三千を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、末法弘通の始めなり。「観心本尊」とは、即ち所弘の一念三千なり。謂く「観心」の二字は即ちこれ我等衆生の能信能唱の故に九界なり。

「本尊」の二字は一念三千即自受用身の仏界なり。我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。

故に九界即仏界なり。故に「観心本尊」の四字は即ち十界互具・百界千如の事の一念三千なり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法弘通の事の一念三千抄」なり。

三には本因の四妙を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法下種の始めなり。「観心本尊」とは、即ちこれ本因妙なり。この本因妙にまた四妙を具す。

謂く、境智行位なり。当に知るべし、「本尊」即ちこれ境妙なり。「観心」即ちこれ我等が信心口唱なり。中に於て「信心」これ智妙なり、「口唱」即ち行妙なり。これを信じこれを唱うる我等は即ちこれ理即但妄の位妙なり。

この四妙を合して種家の本因妙と名づくるなり。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法下種の本因妙抄」なり。

四には事行の題目を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法事行の始めなり。

「観心本尊」とは、即ち事行の題目なり。謂く「観心」即ちこれ能修の九界、「本尊」即ちこれ所修の仏界、十界十如既にこれ分明なり。豈法の字に非ずや。九界・仏界感応道交し、能修・所修境智冥合し、甚深の境界は言語道断、心行所滅なり。豈妙の字に非ずや。

当に知るべし、信心はこれ唱題の始めの故に本因妙なり。唱題はこれ信心の終りの故に本果妙なり。これ則ち刹那始終一念の因果なり。豈蓮華に非ずや。

この妙法蓮華は本有常住なり。豈経の字に非ずや。故に「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは、またこれ「末法事行の題目抄」なり。

五には決定作仏の義を含む。謂く「如来滅後後五百歳に始む」とは、即ちこれ末法下種の教主・本地自行の真仏・最極無上の仏力なり。「本尊」即ちこれ久遠元初の自証の本法・尊無過上の法力なり。

「観心」というは、我等衆生、本尊を信じ奉って南無妙法蓮華経と唱うる義なり。豈信力・行力に非ずや。信力・行力・仏力・法力、既にこれ具足す。決定成仏の義を顕すに非ずや。 若し爾らば「如来滅後後五百歳に始む観心の本尊抄」とは「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑抄」なり。

夫れ鳳凰は樹を択んで栖み、賢人は主を択んで仕う。況や仏法を学ぶ者、寧ぞ本尊を簡択して、これを信行せざるべけんや。若し正境に非ずんば、仮令信力・行力を励むと雖も、仏種を成ぜず。

故に当抄に於て熟脱教相の本尊を簡別して、下種観心の本尊を顕す。これ則ち三世の諸仏の御師、八万法蔵の肝心、正中の正境、妙中の妙境なり。

故に「一念信解の功徳・五十展転の功徳と」云云。「行浅功深、以て経力を顕す。妙法経力、即身成仏す」等云云。故に本尊に於ては最極無上の尊体、尊無過上の力用なり。

故に行者応に須く信力・行力の観心を励むべし。智慧第一の舎利弗すら尚信を以て得道す。何に況や末作の愚人をや。像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや。一たび人身を失えば万劫にも得がたし。

一生空しく過ごして永劫侮ゆることなかれ云云。

一、本朝沙門日蓮撰文。(二三八n)

日文字の事、別に口伝あり云云。釈尊の氏は或は日種と号し、御名もまた憲日大聖尊と号す。大聖尊とは即ち大望人なり。「唯我独尊・唯我一人」これを思い合すべし。本化の菩薩をば日月光明の如きと説き、本門の妙法を日天子に譬う。

出世の国を日本と号し、国の御主をば日神と名づけ、戒壇の霊場をば大日蓮華山と名づく。皆これ自然の道理なり。

蓮字には淤泥不染の徳、種子不失の徳、因果同時の徳、その外十八巧満等の種々の深義これあり。また本化の菩藩をば「如蓮華在水」等云云。また所弘の法は妙法蓮華経なり。此に尽すべきに非ず、この故にこれを略す−。

当に知るべし、日蓮大聖人とは、またこれ慧日大聖尊なり。故に宗祖云く「日蓮は閻浮第一の智人なり」と。また云く「日蓮当世には日本第一の大人なり」と。また云く「一閻浮提第一の聖人なり」と。

また云く「南無日蓮大聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらん」等云云。また日文字は主師親の三徳を顕すなり。章安の会疏第二に云く「日の字に三義あり。

一には高く円明なるは主徳に譬え、万物を生長するは親徳に譬え、照了して闇を除くは師徳に譬う」等云云。諸抄に云く「日蓮は日本国の一切衆生の主師親なり」等云云。

また日文字は唯我独尊の義を顕すなり。韻会に云く「通論に云く、天に二の日無し。故に文に於て○一を日と為す」等云云。

経に云く「世に二仏無く国に二主無し。一仏の境界に二尊号無し」等云云。顕仏末来記に云く「月氏、漢土等に法華経の行者ありや。答う、四天下の中に全く二の日無く、四海の内豈両主有らんや」(取意)等云云。

「久遠元始の天上天下、唯我独尊は日蓮是なり」等云云。若し爾らば日文字の顕す所、吾が日蓮大聖人とは慧日大聖尊なり、主師親の三徳なり、久遠元初の唯我独尊なり。豈文底下種の教主、末法今時の本尊に非ずや。然るに日本国中の諸門流、この義を知らず或は僧宝と為し、或は大菩薩と号して本尊に迷うなり。

当に知るべし、久遠に在っては自受用報身と号し、霊山に在っては上行菩薩と号し、末法に在っては日蓮聖人と号す。名字不同なりと雖も、一体の御利益なり。故に血脈抄に云く「本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」等云云。

開山上人の御弟子三位日順云く「久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なりと取り定め申すべきなり」等云云。然るに諸門流の学者、但上行の再誕なることのみを知って、末だ久遠元初の自受用身なることを知らず。却って当流の正義を破し、自ら妙楽の呵責に当るなり。

籤八四十一に「学者、法を非り人を毀るは、良に体同名異を知らざるに由る。天主の千名を識らずして、●尸は是れ帝釈ならずと謂う。故に弘教者、旨を茲に失う。恐らくは弘法利池の功も非法毀人の失を補わざらん」等云云。

問う、蓮祖はこれ上行菩薩の再誕なり。何ぞ久遠元初の自受用身といわんや。

反詰して云く、天台大姉は薬王の再誕、伝教大師は天台の後身なり。山門の口伝に何ぞ並びに教主釈尊といわんや云云。

一、摩訶止観第五等文。(二三八n)当抄入文、大に三段と為す。

第一に一念三千の出処を示す。第二に「問うて曰く出処」の下は正しく観心本尊を明かす。第三に「一念三千を識らざる者には」の下は総結。

第一に一念三千の出処を示す文を、分ちて二と為す。初めに正しく示し、次に「問うて日く百界」の下は一念三千は情・非情に亘るを明かす。初めの正しく示すにまた三と為す。

初めに止観第五正観章の文を出し、次に「問うて云く玄義」の下は玄文並びに止観の前の四に一念三千を明かさざるを示し、三に「夫れ智者」の下は結歎。

初めの止観第五正観章の文を出すに、先ず開結を会し、後に異本を示す。

一、世間と如是と一なり開合の異なり文。(二三八)この文は先ず開釈・結成の二文を会するなり。

文の意は止観第五に一念三千を明かす文にまた二筋あり。謂く、初め開釈の中の意は百界は能具、世間は所具、世間は能具、如是は所具なり。故に百界・三百世間・三千如是と成るなり。

次に結成の中の意は百界は能具、如是は所具、如是は能具、世間は所具なり。故に百界・千如・三千世間と成るなり。然るに開釈の中に如是に約して法数を成ずる時も、唯これ三千なり。結成の中に世間に約して法数を成ずる時も、唯これ三千なり。

故に「世間と如是と一なり」というなり。但し開釈の中には世間を合して三百と為し、如是を開して三千と為す。若し結成の中には如是を合して千如と為し、世間を開して三千と為す。但しこれ開合の異のみにして三千は別ならず。故に「開合の異なり」というなり。

問う、大師は一念三千を明かすに、正しく今経の十如の文に依る。故に応に如是に約して数量を結すべし。何ぞ結成の中に至って世間に約してこれを結するや。

答う、迹門には末だ国土世間を明かさず。故に一念三千その義を尽すに非ざるなり。正しく本門に至って十界久遠の上に国土世間既に顕る。故に大師は迹門を以て面と為し、本門を以て裹と為して、一念三千その義を尽すなり。

故に開釈の中には迹門の文に依って数量を成じ、結成の中には本門の意に依って法数を成ずるなり。

問う、止追加の義に云く「開釈・結成倶に十如に約す。而して結成の中に十如を世間と名づくることは、本三世間各十如を具す。故に其の本に従って世間と名づくるなり。是れ則ち一念三千は正しく法華の十如に依る。何ぞ余文に拠って数量を成ぜんや」と云云。この義如何。

答えて云く、十章抄に云く「止観に十章あり。前の六重は妙解迹門の意、第七の正観は本門の意なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」(取意)等云云。

また四吾釈迦仏供養抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり」等云云。日遠、何んぞこの文を引いて和会せざるや。

問う、妙境要義に云く「開釈は法華に依る、故に十如に約す。結成は涅槃大論に依る、故に世間に約す」等云云。この義如何。

答う、この義は大旨を失するなり。

問う、朝抄の一義に云く「正釈は迹門の意。結成は本門の随縁事円の義なり」と云云。今謂く、本迹は然るべし。随縁事円は今に在っては便ならざるか。

問う、日我抄に云く「十如は開なり、三世間は合なり。又合すれば十如、開すれば三世間なり。又十如を離れて三世間無く、三世間を離れて十如之無し。故に一と云うなり」と云云。

問う、日忠抄に云く「玄文は如に約して法数を成じ、止観は界に約して三千を成ず。然れども其れは但同意なり。開する時は三千種の世間なり、合する時は一箇の如是に収まるなり」と云云。

今謂く、日我抄・日忠抄、各分明ならざるか。その外これを略す云云。

一、夫れ一心に十法界を具す等文。(二三八n)今この所引に附文・元意あり。若し附文の辺は唯これ一念三千の出処を示すなり。故に下の文に「出処既に之を聞く」等というなり。今附文に約して且く科目を立つ。故に一念三千の出処を示すというなり。

若し元意に准ぜば、応に観心本尊の依文というべきなり。謂く、この文を開して即ち観心本尊の義を成ずる故なり。若しこの辺に就いて以てその文を分てば、この文を二と為す。初めは釈、次に「乃至」の下は結。初めの釈、また二と為す。

初めに本尊、次に「此の三千」の下は観心。初めの本尊の文に「夫れ一心」というは、即ちこれ久遠元初の自受用身の一念の心法なり。故に「一心」という。即ちこれ中央の南無妙法蓮華経なり。

「十法界を具す」等とは、即ちこれ左右の十界互具・百界千如・三千世間なり。故にこの本尊の為体は即ちこれ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり。

故に宗祖云く「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ乃至仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経」なりと云云。

次に観心の文に「此の三千・一念の心に在り」等というは、この一念三千の本尊は全く余処の外に在ること無し。但我等衆生の信心の中に在すが故に「此の三千・一念の心に在り」というなり。

若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず。故に「若し心無くんば而已」というなり。妙楽云く「取着の一念には三千を具せず」はこれなり。若し文上の熟脱に取着して文底下種の信心なくんば、何ぞこの本尊を具足すべけんや。

譬えば水なき池には月の移らざるが如し。若し刹那も信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。故に「介爾も心有れば即ち三千を具す」というなり。譬えば水ある池には月便ち移るが如し。

宗祖の所謂「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」とはこれなり。学者応に知るべし、若し理に拠って論ずれば法界に非ざるなし。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異るなり。当体義抄の大旨、これを思い合すべし。

次に「乃至」の下は結、文にまた二あり。初めに本尊を結す。謂く、自受用身の一念の心法即ちこれ一念三千の本尊なり。故に「不可思議境」と称するなり。不可思議境とは即ちこれ妙境の異名なり。妙境とは即ち妙法蓮華経の本尊という事なり。

次に観心を結すとは、文に「意此に在り」というは、若し一念の信心あらば即ち一念三千の本尊を具す。大師の深意正しく此に在り。故に「意此に在り」というなり。

問う、この義、前代末聞の消釈なり。誰かこれを信ずべけんや。

答う、不相伝の輩は聞き得て驚くべし。御相伝の家には仰いでこの旨を信ずるのみ。血脈抄の中の開教顕観の口伝に云く「観行理観の一念三千を開して名字事行の一念三千を顕す、大師の深意・釈尊の慈悲・上行所伝の秘曲・是なり」と云云。

問う、日我抄に云く「此の釈の『一心』とは中央の題目なり。『十法界』とは列座の十界の聖衆なり。『此の三千・一念の心に在り』とは、一念信解とは即ち是れ本門立行の首の日蓮の一念なり。『若し心無くんば』とは非情の草木、『芥爾も心あらば』とは有情界なり」と云云。この義如何。

答う、彼の抄は観心の二字を以て地涌の境智に約す。故に「此の三千・一念の心に在り」の文を以て蓮師の一念に約するなり。故に「有心無心」の消釈、甚だ以て穏やかならざるなり。

一、或本に云く一界に三種の世間を具す文。(二三八n)

問う、両本の意如何。

答う、倶にこれ一界は能具、十如は所具、十如は能具、三世間は所具なり。若し観本の意は一界所具の十如の一一に各三世間を具す。故に三十種世間というなり。若し異本の意は且く十如の中の一如是に約す。故に三種世間という。一を以て九に例する故に、現本の意と往いて差わざるなり。

問う、両本倶に何ぞ十如を挙げざるや。

答う、若し前後の界、間を挙ぐれば、中間の十如は自ら彰るる故なり。解釈の巧妙なること、学者見るべし。

一、問うて日く玄義等文。(二三八n)

この下は次に玄文並びに止観の前の四に一念三千を明かさざることを示す、また二女り、初めに三千の名目を明かさざることを示し、次に「疑つて日く」の下はその名目を明かさざるの相を示す。

初めの文にまた二あり。初めに玄文、次に止観。初めの玄文にまた二あり。初めに並べて示し、次に引証。引証の文に「並に未だ一念三千と云わず」等というは、今に在っては正しく玄文を指して「並に」というなり。余は悉く文の如し。

一、疑つて日く玄義等文。(同n)

この下は次にその名目を明かさざるの相を示す、また二と為す。初めに玄文並びに百界千如に限るを示し、次に「問うて日く止観」の下は止観の前の六章は方便に属するを示す。

問うて日く、初めの文の闕答の意如何。

答う、疑問即ち答なり。既に百界千如に限る文を引く故なり。

問う、次の文に止観の前の四巻というに何ぞ止観の前の六章等というや。

答う、文はこれ巻を指すと雖も、意は前の六章を問う。十章抄に云く「大意より方便までの六重は先四巻に限る」と云云。況やまた唯巻を問えるをや。何ぞ第四の問に異らんや。況やまた答の文に「是の故に前の六をば皆解に属す」といえるをや。意に謂く、前の六章は既にこれ方便なり。何ぞ正観の一念三千を明かさんと云云。

一、夫れ智者の弘法三十年文。(二三九n)

この下は三に結歎、また二と為す。初めに正しく本師を歎じ、次に因んで末学を破するなり。初めの文意は、夫れ智者大師は仏滅後千四百八十七年、梁の武年の大同四年の誕生、十八歳出家、二十三歳南岳に値い、三十歳金陵に至り、翌年瓦官寺に居して玄義を講ず。

而る後、五十七歳、玉泉寺に於て止観を講ず。その後、六十歳の御入滅なり。故に玄義開講より御入滅に至るまで、正しくこれ三十年なり。故に「智者の弘法三十年」というなり。

文に云く「二十九年の間は玄文等の諸義を説いて」とは、啓蒙に云く「入滅の年を除き二十九年の間を玄・文等の弘法に属するか。或は五十七歳の説法を第三十年と為し、其の前を玄・文等の弘法に属するか」と云云。

覚案じて云く、三十一歳玄義開講より五十七歳止観を説きたまう春に至るまで、正に是れ二十七年なり。故に「二十九年」とは恐らく謬れり。応に「二十七年」に作るべし。字形相似の故に伝写これを謬るか。

今例文を考うるに、撰時抄の下に云く「玄奘三蔵は六生を経て月氏に入りて十九年」と云云。蒙抄十一に云く「月氏に入りて十九年とは、恐らくは謬り、御直書は十七年なり。語式の如し」等云云。既に十七年を以て謬って十九年に作る。今また然るべきか。

若し御真筆に縦い二十九年とありと雖も、仍これ示同凡夫の故に不慮の書き謬りならんか。例せば妙楽、証真に告ぐるが如し。また下の文の「諸論師の事章」の如きなり云云。また御書四十三、第二二十六、これを見合すべし。

またまた当に知るべし、宗祖の弘法もまた三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而してまた宗旨建立已後第二十七年に当って己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕したまえり。学者宜しくこれを思い合すべし。

一、天竺の大論尚其の類に非ず文。(二三九n)何ぞ但竜樹の大論に勝るるのみならん、方に天竺一切の大論師に勝るるなり。故に「天竺の論師未だ述べざる」の文に同じき義、最も然るべきなり。

一、問うて日く百界千如と一念三千と差別如何文。(二三九n)

これ前の大旨を受けて、この問を起すなり。この下は次に一念三千は情、非情に亘るを明かす、また二と為す。初めに通じて界如・三千の不同を明かし、次に「不審して」の下は別して非情の十如を明かす、また二と為す。初めは問、次は答にまた三あり。初めに難信難解を明かし、次に「爾りと雖も」の下は道理を立て、三に「疑つて云く」の下は文証を引く、

初めの難信難解を明かすにまた二あり。初めに標、次に「天台」の下は釈、また二あり。初めに列名、次に「其の教」の下は釈、また二あり。初めに教門の難信難解、次に正しく観門の難信難解を明かす。初めの本門の難信難解にまた三あり。初めに標、次に「一」の下は釈、三に「此れは教門」の下は結。

一、爾りと雖も木画の二像に於て乃至天台一家より出でたれども文。(二三九n)

応に如くの如く点ずべきなり。この下は内外共に許すの事を引いて以て道理を立つるなり。謂く、木画の像に於ては内外共に本尊と為す。その義に於ては天台一家より出でたりと雖も、若し草木の上に色心の因果を直かずんば本尊と恃み奉るも益なし。既に内外共に本尊と恃み奉る、故に知んぬ、色心の因果を具することを云云。此に則ち道理明らかなり。

一、疑つて云く草木国土の上の十如是の因果の二法等文。(同n)

この下は三に三文を引いて証するなり。文に云く「国土世間亦十種の法を具す」とは、草木各相異るは如是相なり。草木各改まらざるは如是性なり。草木の主質は如是体なり。草木の寒熱に堪ゆるは如是力なり。草木の林に繁り庭に昌うるは如是作なり。草木の花を芽ぐむは如是因なり。草木の苔を潤すは如是縁なり。草木の花を開くは如是果なり。草木の菓を結ぶは如是報なり。

一、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す文。(同n)

これ即ち性得の三因仏性なり。「各一仏性」とは正因仏性なり。この正因仏性即ちこれ一念三千なり。故に「各一因果」というなり。謂く、因果とは即ちこれ十如是の因果の二法なり。「実相は必ず諸法諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土、故に因果の二法即ちこれ一念三千なり。故に三千即中の辺を以て正因仏性と名づくるなり。

この三千即中の正因仏性の体に於て三千即空、三千即仮の用を具足するなり。三千即仮は即ちこれ仏因仏性、三千即空は即ちこれ了因仏性なり。故に「縁了を具足す」というなり。弘五中十四に云く「三千即空性は了因なり。三千即仮性は縁因なり。三千即中性は正因なり」と云云。 問う、今この下の答の大旨は如何。

答う、凡そ草木成仏とは、一往熟脱に通ずと雖も、実はこれ文底下種の法門なり。その故は宗祖云く「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」と。一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文底に秘沈し給えるが故なり。末師の料簡は且く之を聞く云云。

今謹んで諸御抄の意を案ずるに、草木成仏に略して二意あり。一には不改本位の成仏、二には木画二像の成仏なり。

初めの不改本位の成仏とは、謂く、草木の全体、本有無作の一念三千即自受用身の覚体なり。外十三十四に草木成仏の口伝に云く「『草にも木にも成る仏なり』云云、此の意は草木にも成り給ヘる寿量品の釈尊なり」と云云。

また二十三二十一に云く「又之を案ずるに草木の根本、本覚の如来・本有常住の妙体なり」と云云。総勘文抄に云く「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆悉く萠え出生して華敷き栄えて世に値う気色なり秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す」等云云。

応に知るべし、この中に草木の体はこれ本覚の法身なり。その時節を差えざる智慧は本覚の報身なり。有情を養育するは本覚の応身なり。故に不改本位の成仏というなり。

二に木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。二十八十三四条金吾抄に云く「一念三千の法門と申すは三種の世間よりをこれり乃至第三の国土世間と申すは草木世間なり乃至五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、

木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」と云云。

文の中に「此の法門」とは、一念三千の法門なり。また三十一巻二十骨目抄に云く「三十一相の木画の像に法華経を印すれば木画二像の全体全身の仏なり、草木成仏といへるは是れなり」と云云。若しこの意を得ば、答の大旨自ら知るべし。

またまた当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云。

一、問うて日く出処既に之を聞く観心の意如何文。(二四○n)

問の意は、一念三千の出処既にこれを聞く、一念三千の観心の意如何となり。故にこの問は初めの一段より起るなり、何ぞ細科とせんや。この故にこの下は大段の第二、観心の本尊を明かす、また二と為す。初めに観心を明かし、次に「夫れ始め」の下は本尊を明かす。

初めの観心を明かすに、また二と為す。初めは略釈、次に「問うて云く法華経」の下は広釈。初めの略釈にまた二あり。初めに問、次に答、また三と為す。初めに法、次に譬、三に「設い」の下は譬を合するなり。

文にいう「我が己心を観じて十法界を見る」とは。

問う、これ台家の観心と為んや。当家の観心と為んや。

答う、忠抄、蒙抄等並びに云く「附文の辺は台家の観心、元意の辺は当家の観心なり」と云云。若し五上七十四等云云。若し元意の辺は「我が己心を観ず」とは、即ち本尊を信ずる義なり。「十法界を見る」とは、即ち妙法を唱うる義なり。 謂く、但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全くこれ我が己心の十法界なるが故なり。

問う、総勘文抄に云く「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速かに仏に成るなり乃至『一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観し給うに由るが故に仏に成ることを得』乃至此れを観心と云う」と云云。この文意如何。

答う、仏心も妙法五字の本尊なり。己心もまた妙法五字の本尊なり。己心・仏心異なりと雖も、妙法五字の本尊は異らず、故に「一」というなり。

而して「観」というは、初心の行者その義を知らざれども但本尊を信じて妙法を唱うれば、自然に「己心と仏心と一なり」と観ずるに当るなり。故に「観心」というなり。故に往いて当文に同じきなり。

文に云く「譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば」等文。

問う、何ぞ自面というや。答う、これに二意あり。

一には面には六根を具足す。故に謂く、眼耳鼻舌並びに身あり。また色等に縁する時は、意根また面に居する故なり。二には面には十界の相を現ず。故に謂く、或は嗔り、或は貪り、或は癡、或は諂曲、或は平らか、或は喜び、或は無常、或は慈愛等、並びにこれ面に現ずるが故なり。啓蒙に疏の第三を引く、末だ全く同じからざるなり。

文に云く「明鏡に向うの時始めて自具の六根を見る」と文。当に知るべし、向背は信・不信の異名なり。いう所の明鏡とは、若し附文の辺は文の如く法華止観を指すなり。伝教云く「一乗独円、動と静と無碍、鏡像円融三諦」等云云。道宣律宗、智者大師の所釈を讃して云く「行人の心鏡、巨夜の明燈」と云云。

是等は法華止観を明鏡に譬うる文なり。若し元意の辺は正しく本尊を以て明鏡に譬うるなり。御義下二十二に云く「南無妙法蓮華経と唱え奉る者の希有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり」等云云。

また上二十七に云く「惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し、

又云く鏡に於て五鏡之れ有り妙の鏡には法界の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり乃至我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり乃至自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり」と。

修禅寺決三十に云く「玄師の伝に自影自浮の大鏡之あり。一念三千の観を成ず。自影自浮とは、釈迦如来大蘇法華道場に於て智者大師の為に大鏡を授け一念三千を伝う。其の事鏡とは、日光に向うの時、十界の形像を現ず。

一鏡に十界を現ずる故に一念三千の深義なり」等云云。故に知んぬ、自影自浮の鏡とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経の本尊なることを。

一、問うて日く法華経は何れの文等文。(二四○n)

この下は次に広釈、また三あり。初めに引文、二に「問うて日く自他面」の下は難信難解、三に「問うて日く経文」の下は正釈。初めの引文の中に総別云云。

文に云く「寿量品に云く、是くの如く我成仏乃至仏界所具の九界なり」等文。既に「今猶未尽」という。故に知んぬ、因位の万行、果海に流入することを。故に仏界所具の九界というなり。証真文第六の記に云く「若し『酬因感果』とは菓成華落の如し。若し『積功累徳』と云うは衆流の海に入るが如し。経に云く『我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽』とは即ち是れ流入の義なり」と云云。

問う、経文には但「菩薩道」という、何ぞ九界等というや。

答う、菩薩はこれ九界の所収なり。故に一を挙げて諸に例するなり。

一、経に云く、提婆達多乃至地獄界所具の仏界なり文。(二四○n)

問う、下の十文並びに「所具の十界」という。当文のみ何ぞ「所具の仏界」というや。 答う、文義互顕なり。謂く、若し文に約せば皆応に当文の如く「所具の仏界」というべし。若し義に約せば、皆応に下の文の如く「所具の十界」というべし。尚仏界を具す、余も皆また然るが故なり。故に知んぬ、互現なることを。

一、一を藍婆と名け乃畜是れ蛾鬼界所具の十界なり文。(同n)

十羅刹の父は即ち般闍伽鬼なり。日我抄に雄宝蔵経を引くが如し。十羅刹の母は即ちこれ鬼子母神なり。録外二十五巻の如し。

一、地涌千界乃至真浄大法等文。(同n)

玄七三十三に云く「口に真浄大法を唱う。真は是れ常なり。略して二徳を挙ぐ。我等知るべし、而るに鈍者は文を読みて猶自ら覚らず」と文。故に知んぬ、「口唱真浄大法」とは即句これ口唱南無妙法蓮華経なることを。

これ即ち浄楽我常、即ちこれ南無妙法蓮華経なる故なり。御義上四十四に云く「南無とは楽波羅蜜・妙法とは我波羅蜜・蓮華とは浄波羅蜜・経とは常波羅蜜なり」と已上。

問う、南無の二字を以て楽波羅蜜に配する意如何。

答う、南無とは帰命の義なり。帰命とは註釈に云く「帰とは帰奉、命とは出入の息なり。夫れ有心の衆生は命を以て宝と為す。一切の宝の中に命宝第一なり。今八万第一の命宝を以て、実相の仏に帰る故に帰命と云う」と文。

凡そ一切有心の衆生は命宝を惜しむを以ての故に、諸の苦を生ず。既に命宝を以て妙法蓮華経の仏に帰奉し訖んぬ、更に楽のこれに過ぐるなし。故に南無を以て楽波羅蜜に配するなり。 また妙法は法界の全体なり。故に法界に自在なれば我波羅蜜に配す。蓮華は清浄の養なり。経は常の義なり。常途の如く知るべし。然れば則ち、地涌千界口に南無妙法蓮華経と唱う。地涌は即ちこれ菩薩界、口唱妙法は即ち仏界なり。尚仏界を具す、余界もまた然り。故に「菩薩界所具の十界」というなり。

一、或説己身或説他身乃至仏界所具の十界なり文。(二四○n)

問う、己身・他身は法応の二身、即ちこれ所具の仏界なり。余界また然るが故に、所具の十界その義分明なり。未だ能具の仏界を見ず、如何。

答う、二個の「説」の字即ちこれ能説・能具の仏界なり云云。

一、問うて日く自他面の六根等文。(同n)

この下は二に難信難解、また二と為す。初めに

問、次に答。初めの問の意は、世間の鏡に向えば則ち自他面の六根共にこれを見る。経文の鏡に向うと雖も、彼此の千界に於ては親りこれを見ず。如何ぞこれを信ぜんと。この疑を挙ぐる所以は法体の甚深を称歎せんが為なり。

答の文にまた三あり。初めに引文、次に在世を挙げて滅後を況し、三に「汝之を信ぜば」の下は結歎なり。

一、問うて日く経文並に天台等文。(二四一n)

この下は三に正しく釈す、また二と為す。初めに且く現見を以て心具の十界を明かし、次に「問うて日く教主」の下は正しく受持に約して観心を明かすなり。初めの且く現見を以て心具の十界を示す文、また三と為す。

初めに六道を示し、次に「問うて日く六道に於て」の下は三聖を示し、三に「問うて日く十界互具」の下は仏界を明かす。初めの六道を示すに、また二と為す。初めに問、次に答、また二あり。初めに正しく明かし、次に四聖冥伏を示す。

一、問うて日く六道に於て等文。(二四一n)

この下は次に三聖を示す、また二あり。初めに問、次に答、また二あり。初めに正しく明かし、次に「但仏界」の下は仏界に例す。また三あり。初めに勧誡、次に引文、三に「末代」の下は道理なり云云。

一、問うて日く十界互具等文。(同n)

この下は三に仏界を明かす、また二あり。初めに問、次に答。初めの問にまた二あり。初めに文を信じ義を疑い、次に「今時」の下は伏して救助を求む。次の答にまた二あり。初めに誡許、次に「十界互具之を立つ」の下は正しく答う。

初めの誡許にまた二あり。初めに誡、次に「然りと雖も」の下は許、また四あり。初めに略して余縁得道の例を示し、二に「其れ機」の下は機を判じ、三に「其の上」の下は宿因開発の助縁を明かし、四に因みに執権謗実の失を破す。

文にいう「過去の下種結縁無き者の権小に執着する者」とは、応に是くの如く点ずべきなり。謂く、過去の下種結縁無しと雖も、若し権小に執着せざれば、今日始めて下種結縁して正法の行者と成る故なり。

文にいう「十界互具之を立つるは石中の火・木中の花」等とは、この下は、正しく答う、また三あり。

初めに信じ難きを信ずるの現証を引き、次に「尭舜等の聖人の如き」の下は現事を引いて証し、三に「此等の現証を以て」の下は結勧。

初めの文、また二と為す。初めに通じて十界互具を挙げ、次に「人界」の下は別して人界所具の仏界を示す。次の文にまた三あり。初めに尭・舜、次に不軽、三に悉達。

一、問うて日く教主釈尊は此れより堅固に之を秘す等文。(二四二n)

問う、何ぞこれより堅固にこれを秘するや。

答う、古義に多意を含む。謂く、一には天台自解仏乗の一念三千は余師未弘の深秘なるが故に。二には天台の一念三千に寄せて当家の深意を尋ぬるが故なり。三には本門の難信難解に寄せて観門の深旨を問うが故に。

四には迹化未弘の寿量の文を引いて事の一念三千を判ずるが故に。五には末法の凡夫の信心の一念に釈尊の因行果得を満足する深義を顕す故に「堅因に之を秘す」というなり云云。

今謂く、この下は正しく本尊の妙能に由って受持即観心を成ずるの義を明かす。これ則ち文底深秘の奥旨、久遠名字の直達の正観なり。故に「堅固に之を秘す」というなり。

「問うて日く教主」の下は、次に正しく受持に約して観心を明かす、また二あり。初めに問、次に答。

初めの問、また二と為す。初めに教主に約し、次に「此れを以て之を思うに」の下は教論に約す。初めの教主に約するにまた二あり。初めに総じて教主を歎じ、次に「又迹門爾前の意を以て」の下は、別して権迹本に約して因果を歎ず。初めの総じて教主を歎ずるにまた二あり。初めに正しく歎じ、次に「是くの如き」の下は結。

初めの文に「三惑已断の仏」というは、これ親徳なり。「又十方」の下は主徳なり。「八万法蔵を演説して」の下は師徳なり。

問う、師・主は分明なり。三惑已断を何ぞ親徳と為んや。

答う、自行若し満つれば必ず化他あり。化他は即ちこれ慈悲なり。慈悲は即ち親徳なるが故なり。

一、行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり文。(二四二n)

これ止観第五の文を挙ぐるなり。止五百十七に云く「如来行の時は帝釈右に在り、梵天左に在り。金剛前に導き、四部後に従う」等云云。

今謹んで案じて日く、この止観の文の梵帝の左右は恐らくはこれ反転せり。応に「帝釈左に在り、梵天右に在り」というべし。これ行の時に約する故なり。将にこの義を明かさんとするに、且く両段と為す。初めに行坐の列次を明かし、二に聴法の列次を明かさん。初めに行坐の列次を明かすに、初めに文証を引き、次に道理を明かさん。

初めに文証を引くとは、西域六十一に云く「尼拘律樹林に卒堵婆あり。釈迦如来正覚を成じ已って国に還り、父王に見えて為に法を説く処なり。乃至浄飯王、諸の群臣と四十里外に駕を停め迎え奉る。

是の時、如来とと倶なり。八金剛周衛し、四天王前に導く。帝釈と欲界天と左に侍り、梵天と色界天と右に侍り、諸僧其の後に列在す」略抄等云云。

書註十八二十一に云く「仏利天に昇り、母の為に法を説く。経に云く、仏摩耶に語るに生死の法は会あれば必ず離あり。我今応に閻浮提に下還すべし」と。義足経の下巻に云く「是の時、天子有り。三階を化作す。金・銀・瑠璃なり。

仏は須弥の頂より下りて瑠璃階に至り住したまう。梵天王及び諸有の色天は悉く仏の右面に従い金階に随って下り、天王釈及び諸有の欲天は仏の左面より銀階に随って下る」等云云。 林十九七に云く「菩薩処胎経に云く、其の時、八大国王各五百張の白氈を持ち、尽く金棺を裹む。爾の時に大梵天王、諸の梵衆を将い右面に在って立つ。釈提桓因、諸の利諸天を将い左面に在って立つ」と云云。

西域二二十に云く「伽藍の側に卒堵波あり。高さ数百尺、是れ釈迦仏、昔国王と為って菩薩行を修する処なり。遠からずして二の石の卒堵波あり。各高さ百尺、右の側は梵王の立つ所、左は乃ち天帝の立つ所なり」と云云。

また第五六に云く「戒日天王、仲春の月、初一日より珍味を以て諸の沙門に饌え、二十一日に至る。王、行宮より一の金像の高さ三尺に余るを出し、載するに大象を以てし、張るに宝●を以てす。戒日王は帝釈の服を為し、宝蓋を執って以て左に侍り、拘摩羅王は梵天の儀を作し、白払を執り、而して右に侍り、各五百の象軍鐘を被って周衝す」等云云。

今、上来の諸文を以てこれを考うるに、若し行坐の時は右梵・左帝宛も日月の如し。



次に道理を明かすとは、凡そ月氏の風俗は右尊左卑なり。その故は君・父・師は皆東面なるが故なり。故に甫註四四十に云く「天竺国は君・父・師皆東面なり。則ち左は北、右は南。北は是れ陰方、南は是れ陽方」等云云。これ陰陽を以て尊卑を表するなり。

君・父・姉東面の故に常儀已に定めて右尊左卑なり。故にまた余方に向って坐する時も、またこれ右尊左卑なり。大論第四十、文句第一、第二に云く「舎利先は右面の弟子、目連は仏の左面の弟子」等云云。如来行したまう時も、またまた然るべし。

謂く、仏、東に向って行したまう時は大衆もまた東に向い、仏の左右に従って行くなり。余方も准例せよ。若し爾らば行坐の列次は右尊左卑なること分明なり。

今既に「行の時」という。豈右梵・左帝に非ずや。前の諸文の如き並びにこの意なり。故に知んぬ、伝写謬ならんことを左梵・右帝に作るか。或は漢土の風俗に准じて後人輒くこれを改むるか。

私志五九十一に云く「右面と言うは其の長勝を彰す。然るに疏本同じからず。或は左面と云う。後人輒く改易せるなり。

然る所以は此の方左を尚ぶを以ての故なり。仏教は右を尚びて先と為す」等云云。若し名硫の中には身子・文殊を左面と為す。また身延山抄中に左梵・右帝に作る。これに准じて知るべし。 次に聴法の列次を明かすとは、凡そ聴法の列次は行坐の時に異なり。謂く、仏、東に向って説法したまう時は大衆は西に向って聴聞し、仏、西に向って説法したまう時は大衆は東に向って聴聞するなり。諸経の中に「退坐一面」というはこれなり。

伝教大師、無量義経の註釈に云く「退坐一面と言うは正しく仏面に向って坐して法雨を待つ」等云云。既に正しく仏面に向うという。豈仏、西に向って法を説きたまえば、大衆東に向ってこれを聴聞する義に非ずや。正しく今経の宝塔已後の儀式の如くんば、仏は西に向って説法し、大衆は東に向って聴聞するなり。

故に報恩抄上終に云く「教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を、あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う」等云云。当に知るべし、宝塔既にこれ西向きなり。故に北はこれ右尊にして上座なり。南はこれ左卑にして下座なり。

阿仏房抄三十一に云く「故阿仏房の聖霊は乃至霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」等云云。

豈宝塔品已後、仏は西に向い、大衆は東に向うに非ずや。仏は西に向うと雖も、仍右尊左卑なり。大衆東に向うもまたこれ右尊左卑なり云云。当に知るべし、上行・無辺行は火大・風大、に虚空の類なり。.浄行・安立行は水大・地大、豈大地の類に非ずや。

一、又迹門爾前の意を以て之を論ずれば等文。(二四二n)

この下は次に別して権迹本に約して因果を歎ず、また二と為す。初めに権迹の因果、次に「本門を以て」の下は本門の因果に約するなり。初めの権迹の因果また二と為す。

初めに権迹の因行、次に「果位を以て」の下は権迹の果。初めの権迹の因行、また三と為す。初めに標、次に「尋ね求れば」の下は釈、三に「是くの如き因位」の下は結。「尋ね求れば」の下の釈、また四と為す。

初めに図の人を示し、次に「或は三祇」の下は劫数、三に「供養」の下は供仏、四に果を挙げて因を歎ず。「或は三祇」の下の劫数、また二と為す。初めに爾前の四教、次に今経の迹門なり。辰抄の分科恐らくはこれ穏やかならず云云。

一、果位を以て之を論ずれば等文。(二四三n)この下は次に権迹の果に約す、文また二と為す。

初めに標、次に「所謂」の下は釈、また五あり。初めに華厳、次に阿含、三に方等・般若、四に迹門、五に涅槃経なり。

一、宝塔品の四土色身等文。(同n)

玄文第七の本国土の下、三変土田を以て同居の浄及び方便・実報、寂光に約するが故なり。

一、本門を以て之れを談ぜば等文。(同n)

この下は二に本門に約す、また三と為す。初めに略して因果を示し、次に「其れより已来」の下は化用広大を明かし、三に「其の外」の下は通じて結す。

一、其れより已来等文。(同n)

この下は化用広大を明かす、また二あり。初めに身度生を説き、次に「本門の所化を以て」の下は所化の勝多を以て能化の功深を顕す、文また二と為す。

初めに多少、次に勝劣なり。当に知るべし、本化の菩薩は虚空に充満し、而も尊高なる故なり。

一、其の外十方世界等文。(同n)

この下は三に通じて結す、また二と為す。初めに通じて九界を挙げ、次に「此等」の下は正しく結するなり。

問う、何ぞこの下に於て通じて九界を挙げ、これを結するや。

答う、寿量品の形声の六句の意に准ずるに、十界は皆これ釈尊一仏の所変の故なり。

一、此れを以て之を思うに簡前の諸経は実事なり等文。(同n)

この下は第二に経論に約す、また二と為す。初めに執権謗実、次に「夫れ一念」の下は難を結す。初めの執権謗実、また二と為す。

初めに執権、次に「爾前の経経と」の下は謗実。初めの執権もまた二と為す。初めに標、次に所執の三経二論を引く。

一、爾前の経経と法華経と之を校量するに等文。(二四三n)

この下は次に謗実、また二と為す。初めに不信、次に「其の上」の下は毀謗。初めの不信をまた二と為す。初めに法、次に人。 次に「其の上」の下の毀謗もまた二と為す。初めは法、次には人。初めの法もまた二と為す。初めに無文、次に「随つて」の下は無義。

次に「天親」の下は人、また二と為す。初めに論師・人師の無文・無義を挙げ、次に「但天台」の下は毀謗、また二あり。初めに正しく毀謗、次に「故に清涼国師」の下は引証。

一、答えて日く此の難最も甚し等文。(二四四n)

この下は答、また二と為す。初めに経論の難を会し、次に「但し会し難き所は」の下は教主の難を会す。初めの経論の難を会するに、また三と為す。

初めに三経二論を会し、次に「諸論師」の下は論師・人師の無文・無義の難を会し、三に「但し断諸法中悪の経文を会す可き」の下は今経の無文・無義の難を会す。

初めの三経二論を会する文、に今昔相違の四義を挙ぐる中に、「証明と舌相」とは多宝の証明、弥陀経の舌相なり。

次に論師・人師の無文・無義を会する中にまた二あり。初めは論師、次は人師なり。三の「但し断諸法中悪の経文を会す可き」の下の、今経の無文・無義を会するにまた二と為す。

初めに無義を会し、次に無文を会するなり。「彼は法華経に爾前を載せたる経文なり。往いて之を見るに、経文分明に十界互具之を説く」。応に是くの如く点ずべし。その義自ら明らかなり。

一、但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり等文。(同n)

この下は次に教主の難を会す、また三と為す。初めに難信難解、次に「但し初の大難を遮せば」の下は先ず所受の本尊の徳用を明かし、三に「問うて日く上の大難」の下は正しく受持即観心を明かす。

初めの難信難解をまた二と為す。初めに経釈を引き、次に「夫れ仏在世より」の下は覚知の人少なきを以て難信難解を顕すなり。

初めの文に云く「『已今当説最為難信難解』と次下の六難九易是なり」とは、法師品に於て三説を挙げ已って、これは易信易解、法華経は独り難信難解なり等云云。

その一箇の難信難解を開して六難と立て、三説の易信易解を開して九易と立つ。故に「已今当説乃至六難九易是なり」というなり。

一、夫れ仏在世より滅後に至つて等文。(二四五n)

この下は次に覚知の人少なきを以て難信難解を顕す、また三あり。初めに正しく明かし、次に「問うて日く竜樹」の下は内鑒外適の人を明かし、三に「天台」の下は後々の人を示す。

初めの正しく明かすの文意は、竪に一千八百年、横に三箇国の間に正法覚知の人唯これ三人なり。若し難信難解の正法に非ずんば、何ぞ此くの如く覚知の人甚だ少なかるべけんやと云云。

一、但し初の大難を遮せば等文。(同n)この下は二に先ず所受の本尊の徳用を示す、また二と為す。初めに経を引いて種子能生の功能を明かし、次に「夫れ以れば・釈迦」の下は非を以て是を顕す。初めの文また二と為す。

初めに開経の文を結し、本地難思・境智の冥合を顕し、次に結経の文を借りて久遠元初の三徳能生を顕す。初めの文に開譬・合譬云云。

問う、今正しく観心を明かすの下なり。故に応に直ちに観心の相を明かすべし。何ぞ先に本尊の徳用を示すや。

答う、凡そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず。故に若し本尊の徳用を明かさざれば、その観心の相最も彰し難きに在り。故に先ず本尊の徳用を示して、而る後に観心の相を明かすなり。

一、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず文。(同n)これ所難の眼目なり。正しくこの文を借用して本地難思・境智冥合・種子能生の徳を顕すなり。

謂く、「諸仏の国王」とは、即ちこれ能証の智なり。「是の経の夫人」とは、即ちこれ所証の境なり。この境智冥合の処に必ず種子能生の徳を含む。譬えば父母和合の処に必ず種子能生の徳を含むが如きなり。

故に文底深秘の本地難恩・境智の妙法は即ちこれ三世の諸仏の種子能生の父母なり。故に宗祖云く「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」と云云。

また云く「三世十方の諸仏は法華経より出生し給えり、故に今能生を以て本尊と為すなり」と云云。文の中に「法華経より出生し給えり」というは、即ちこれ下種の法華経・妙法蓮華経の五字なり。

一、普賢経に云く等文。(二四五n)

次に結経の二文を借りて久遠元初の三徳具足の能生の徳を顕すなり。初めの引文、また三と為す。初めに「此の大乗経典」とは、即ちこれ標の文なり。正しく久遠元初の種子能生の妙法を指して「此の大乗経典」というなり。

「諸仏」の下は釈の文、自ら三と為す。初めに「諸仏の宝蔵」とは、即ちこれ主徳なり。次に「十方三世の諸仏の眼目」とは、即ちこれ師徳なり。

三に「三世の諸の如来を出生する種」とは、豈父母の徳に非ずや。「乃至汝大乗を行じて」の下はこれ結文なり。「仏種を断ぜざれ」の文、能くこれを見るべし云云。

次の所引の文、また三と為す。初めに「方等経」とは、即ちこれ標の文なり。正しく久遠元初の種子能生の妙法を指して「方等経」というなり。次に「是れ諸仏の眼なり」の下は釈の文、自らまた三と為す。

初めに「是れ諸仏の眼」とは、これ師徳なり。この師また能生の徳を具す。故に「諸仏是に図つて五眼を具することを得」というなり。「諸仏是に因つて」とは即ち能生の義、「五眼を具することを得」とはこれ所生の義なり。

「仏の三種の身は方等従り生ず」とは、即ちこれ父母能生の徳なり。三には「是れ大法印」とは、即ちこれ主の徳なり。譬えば漢土の伝国の王璽、吾が朝の神璽の如く、横に万国を統べ、竪に百王に伝う。

久遠元初の能生の妙法にもまたまた是くの如く横に法界に遍じ、竪に三世に亘る。竪に深く横に広き故に「是れ大法印にして涅槃海に印す」というなり。豈主徳に非ずや。この主君また能生の徳を具す。

故に「此くの如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず」というなり。当に知るべし、今の師主各能生の徳を明かすなり。故に知んぬ、一体の三徳を顕すのみ。

三に「此の三種の身は人天の福田なり」とは、これ結文なり。当に知るべし、仏はこれ八福田の中の第一の福田なり。三種の福田の中にも第一の敬田なり。此くの如く三世の諸仏は皆久遠元初の種子能生の妙法五字より出生し給うなり。

問う、今先ず此に種子能生の徳を明かす意如何。

答う、若しこれを明かさずんは、何ぞ能く三世の諸仏の因果の万法、妙法五字の本尊に帰入することを知るを得んや。故に先ずこれを明かすなり。

例せば「従多帰一」を明かさんが為に先ず「従一出多」を明かすが如し。これ則ち当家深秘の観心、卒爾に彰し難し。故に諄々として丁寧なり。若しこの旨を了せば、則ち所帰を知らん。若し所帰の広大を知れば、則ち吾が観心の義を了せんか云云。

一、夫れ以れば・釈迦如来等文。(二四六n)

この下は次に非を以て是を顕す、また二あり。初めに釈、次に「然りと雖も」の下は結。初めの釈また二あり。初めに通じて諸宗の依経の非を挙げ、次に「而るに新訳」の下は別して真言宗を破するなり。

文に云く「或は十方台葉・毘盧遮那仏」とは、即ちこれ新訳の意なり。文に「速疾頓成之を説かず」というは、若し現本に准ぜば、無量義経の「華厳皆空宣説菩薩歴劫修行」の意なり。

また異本に云く「速疾頓成之を説けども」と云云。若しこの本に准ぜば、華厳・真言等の一生初地の即身成仏は種を知らざる脱なれば趙高・道鏡の如きなりと云云。文に云く「未だ別円にも及ばず」等とは、別教の中にすら尚縦横の三徳を明かす故なり。

文に云く「本有の三因」とは弘の五中十四に云く「三千即空性は了因なり。三千即仮性は縁因なり。三千即中性は正因なり」等云云。

一、然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば乃至有名無実なり文。(同n)この下は結文なり。

問う、一念三千を以て仏種と名づくる意は如何。

答う、種はこれ能生の義なり。故に妙楽の記第四に「種は生の義」というなり。然れば今、「一念三千」とは即ちこれ文底秘沈の本地難思の境智の妙法の御事なり。この本地難恩の境智の妙法蓮華経は能く十方三世の諸仏を生ず。故に「一念三千の仏性」というなり。即ち前に引く所の開結二経の意なり。忠抄の仏種の義、恐らくはこれ浄浅なり。

一、問うて日く上の大難未だ其の会通を聞かず等文。(同n)

この下は三に正しく受持即観心を明かすなり。文分つにまた二あり。初めに問、次に答、また三と為す。初めに引文、次に「私に会通を加えば」の下は釈。三に「妙楽」の下は結文なり。

文に云く「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も乃至自然に在前す」等文。この文の意は、因位の万行の妙法五字に具足する義を顕すなり。故に妙法五字を受持する則は因位の万行を修せずと雖も、義はこれを修するに当る、故に「自然に在前す」というなり。

因位の万行既に爾り、果位の万徳もまた爾なり。例せば大乗の因とは諸法実相、大乗の果とはまた諸法実相の如し云云。

故に下に「因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」というなり。

文に云く「法華経に云く『具足の道を開かんと欲す』」等云云。この下の五文、並びに妙法即ちこれ「具足」の義を顕すなり。妙楽の弘一中四に云く「法華の前には未だ曽て権を開せざれば具足と名づけず」等云云。

当に知るべし、爾前は所開・迹門は能開、迹門は所開・本門は能開、脱益は所開・下種は能開なり。今文底下種の本地難思の境智の妙法を以て「具足」と名づくるなり。

一、私に会通を加えば本文を黷が如し等文。(二四六n)

この下は釈にまた二と為す。初めに正釈、次に釈成。文に云く「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」等とは「因行果徳の二法」というは即ち前に難ずる所の権迹本の教主釈尊の因行・果徳の二法なり。

「妙法蓮華経の五字に具足す」というは即ち前に引く所の開結二経の本地難思の境智の妙法なり。前に難ずる所の権迹本の因果の二法は即ちこれ所生なり。前に引く所の本地難思の境智の妙法は即ちこれ能生なり。

所生は必ず能生に帰し、権は必ず実に帰し、迹は必ず本に帰し、脱は必ず種に帰す。故に彼の釈尊の因行・果徳の二法は妙法五字に具足す。故に「具足」というなり。

玄文第七に云く「若し過去は最初所証の権実の法を名づけて本と為すなり。本証より已後、方便化他・開三顕一・発迹顕本とは、還って最初を指して本と為す。

中間示現の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。今日の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。未来の発迹顕本も亦最初を指して本と為す。三世乃ち殊なれども毘盧遮那一本異らず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し」等云云。

この文、正しくこれ久遠元初を本と為し、一は一根に譬う。本果已後を迹に属し、以て枝葉に譬う。而して「百千枝葉同じく一根に趣くが如し」という。豈権迹本の教主釈尊の因果の功徳、本地難思・境智の妙法に具足するに非ずや。

問う、本地難思の境智の妙法は、即ちこれ十方三世の諸仏の能生の種子なるが故に、故に十方三世の諸仏の因果の功徳も皆咸くこの妙法五字に具足すべし。何ぞ「釈尊の因行果徳」というや。

答う、実に所問の如し。一切諸仏の因位の万行、果位の万徳、皆悉くこの妙法五字に具足するなり。

故に本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の力用を備えたまえり。而るに但「釈尊」というは即ちこれ一を挙げて諸に例する故なり。例せば「是れ我が方便なり、諸仏も亦然なり」及び「諸仏如来は、法皆是くの如し」等の如し。

一、我等此の五字を受持すれば文。(二四六n)

この文は正しくこれ受持即観心の義なり。これ則ち「於我滅度後、応受持斯経」の文の意なり。「我等」というは「於我滅度後」の末法の我等なり。即ち長行の「是故汝等、於如来滅後」の文これなり。

「受持」というは全く経文に同ず。即ちこれ観心なり。「此の五字」とは経文の「斯経」の両字、即ちこれ本尊なり。この経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。

故に妙楽この文を釈して云く「若能持と言うは四法を持つなり」と云云。宗祖のいう「名体宗用教の南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生、この五字の本尊を受持するを即ち観心と名づくるなり。

問う、何ぞ受持を以て即ち観心と名づくるや。

答う、凡そ当家の意は唯信心口唱を以て、即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心というなり。

問う、何を以てか受持正しく信心口唱に当ることを知るを得んや。

答う、今謹んで経文を案ずるに、受持に二義あり。

一には総体の受持、二には別体の受持なり。総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。これ則ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。

今経処々の「能持是経」の文及び「受持無行余行徒然」の文の意、能く能くこれを思うべし。

二には別体の受持とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持これなり。「信力の故に受け、念力の故に持つ」「文を看るを読と為し、忘れざるを誦と為す」等これなり。所以に結要付嘱の文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「応当一心受持読誦解説書写如説修行」というなり。これ則ち要法五種の妙行なり。

偈頌の中に至っては総体に約して説く、故に但「応受持斯経」というなり。これ則ち宗祖の所謂「但受持の一行にして成仏すべし」とはこれなり。

然るに当抄の意、正しく偈の文に拠る。故に今「受持」とは即ちこれ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。

然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ちこれ受持が家の受持なり。口唱は即ちこれ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦はこれ即ち自行なり。

今自行の観心を明かす、故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故にこれを論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。

またまた当に知るべし、この文の中に四種の力用を明かすなり。謂く「我等受持」とは即ちこれ信力・行力なり。「此の五字」とは即ちこれ法力なり。「自然に譲り与う」は豈仏力に非ずや。

所謂「信力」とは一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台の所謂「但法性を信じて、其の諸を信ぜず」とはこれなり。

「行力」というは、日出すれば燈詮なし、雨降るに露は詮なし。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ちこれ「行力」なり。

「法力」ヒいうは既に迦中化他の三世の諸仏の図果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故にこの本尊の力用化功広大、利潤弘深なるは即ちこれ「法力」なり。

「仏力」というは久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を「我本立誓願」の大悲力を以ての故に、一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等この本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆成く我等が功徳と成し、「如我等無異」の悟りを開かしめたまうは、偏にこれ「仏力」なり。

若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや。

大論第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死することを疑わざるが如く、衆生の善根も若し仏に値わざれば成を得るに由なし」等云云。

今この文を解して云く、花は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力、行力は必ず法力に依って生ずるなり。

若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雑も、若し日光を得ざれば則ち翳死疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず。

蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して、速かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや。

止観第五に云く「香城に骨を粉き、雪嶺に身を投ずるとも、亦何ぞ以て徳に報ゆるに足らん」等云云。また第一に云く「常啼は東に請い、善財は南に求め、葉王は手を焼き、普明は頭を刎ぬらる。

一日に三たび恒河沙に身を捨つるとも、尚一句の力を報ずる能わず。況や両肩に荷負し、百千万劫すとも寧ぞ仏法の恩を報いんをや」云云。これを思いこれを思え。

一、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」等文。(二四六n)

この下は次に釈成、また二と為す。初めに上を承けて下を起し、次に経にいう「我が如く等く」の下は正しく釈成するなり。初めに上を承けて下を起すとは、この「無上宝聚・不求自得」の一文は正しく上の「自然譲与」を承けて、下の本尊行者体一を引き起す。故に承上起下というなり。

文に「無上宝聚」等というは爾前は有上・迹門は無上、迹門は有上・本門は無上、脱益は有上・下種は無上なり。故にこの文底下種の本尊は無上の中の極無上なり。故に「無上」というなり。

この妙法五字の本尊に釈尊の因位の万行、果位の万徳の宝を聚む、故に「宝聚」というなり。故にこの本尊をまた功徳聚と名づくるなり。此くの如き無上の宝聚を辛労もなく、行功もなく但信心口唱を以て、自然にこれを受得す。

故に「不求自得」というなり。文に「我等が己心の声聞界」というとは、文意は我等が己心の声聞の不求自得なる故に即ち我等が不求自得なり。故に「我等が己心」等というなり。

一、経に云く我が如く等くして異なる事無し等文。

この下は次に正しく釈成するなり。当に知るべし、前の正釈の中には人即法に約す。故に「我等此の五字を受持すれば」等というなり。今の釈成の中には法即人に約するなり。

これにまた二意あり。一には三身即一身に約す。謂く、久遠元初の自受用身なり。二には一身即三身に約す。謂く、本地無作の三身これなり。

この釈成の文また分ちて三と為す。初めに「我が如く等く」の下は自受用に約して師弟不二を示し、次に「宝塔品」の下は無作三身に約して親子一体を示し、三に「寿量品」の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。

初めに自受用身に約して師弟不二を示すとは、謂く「如我等無異」の一句は自らこれ標の文なり。「如我昔所願」の下の四句は自らこれ釈の文なり。何が故に「如我等無異」なるや。

謂く「我願已満、衆生皆入仏道」の故なり。「如我等」の我の字、「如我昔」の我の字、並びにこれ久遠元初の自受用身なり。故に「昔」というなり。いう所の「昔」とは、天台・妙楽この文を釈して玄・籤第三に展転明久の判釈丁寧なり。

然りと雖も、当流の意は「本行菩薩道」の時、猶甚だ近きを恨む。正しくこれ久遠元初の所願なり。故に「如我昔所願」というなり。この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。故に「今者已満足」というなり。

この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、故に「化一切衆生、皆令入仏道」というなり。即に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。

自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。故に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」というなり。自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に「如我等無異」なり。豈師弟不二に非ずや。

一、宝塔品に云く等文。(同n)

この下は次に無作三身に約して親子一体を示すなり。当に知るべし、「其有能護此経法」は即ちこれ観心なり。「我及多宝諸来化仏」は即ちこれ本尊なり。「我」はこれ無作の報身、「多宝」はこれ無作の法身、「及」は即ち境智冥合なり。

「我に及ぶ多宝」はこれ境の智に冥ずるなり。「我多宝に及ぶ」はこれ智の境に冥ずるなり。境智冥合すれば必ず慈悲あり。慈悲即ちこれ無作の応身なり。故に「諸来化仏」というなり。

「其れ能く本尊を護る」我等衆生は即ちこれ無作の三身なり。故に釈迦・多宝・十方の諸仏は我等が己心の仏界というなり。故に我等、無作三身の跡を紹継して無作三身の功徳を受得し、即無作三身と顕る。故に「須臾聞之即得究竟」というなり。

謂く、須臾も本尊を受持すれば我等の当体、全くこれ究竟果満の無作三身なり。譬えば太子、三種の神器を受持すれば先帝の跡を紹継し、先帝統御の国々を受得して即ち帝王と顕るるが如し。然れば則ち本尊も無作三身、我等もまた無作三身、親も仏、子も仏、親も帝王、子も帝王、豈親子一体に非ずや。

一、寿量品に云く、然るに我実に成仏してより已来等文。(二四七n)

この下は三に久遠元初に約して君臣合体を示すなり。「我実成仏已来」とは、今は通明三身に約するなり。「我」は即ち無作の法身、「成仏」は即ち無作の報身、「已来」は即ち無作の応身なり。文に「我等が己心の釈尊は五百慶点乃至所顕の三身にして無始の古仏」というなり。

問う、いう所の「乃至」とは、これ何物を指すや。

答う、蒙抄所引の恵抄の意は能顕を以て「乃至」というなり。これ「所顕」の二字に望む故なり。これに多種の能顕あり。一には本因妙は能顕、本果妙は所顕なり。二には報身は能顕、法身は所顕なり。

三には折伏の行はこれ能顕、衆生の仏種は所顕なり。四には妙法修行は能顕、己心の妙法は所顕なり云云。これ即ち忠抄の義なり。

今謂く、既に「五百慶点乃至」という、故にこれ時に約するなり。而も後より前に向い「乃至」というなり。謂く「五百塵点」は即ちこれ久遠本果の時なり。「所顕の三身」は久遠名字の時に在り。

今久遠本果の時より久遠名字の時に向ってその中間を乃至するなり。即ち諸抄の「五百塵点の当初」の文に同じきなり。故に今の「乃至」は即ちこれ諸抄の「当初」の二字なり。

総勘文抄に云く「釈尊、五百塵点の当初、凡夫の御時即座に開悟し」(取意)等云云。当体義抄に云く「釈尊五百慶点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して」等云云。

秘法抄に云く「大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」等云云。此等の諸抄の「当初」の二字、これを思い合すべし。故に今の文意は、我等が己心の釈尊は五百塵点の当初、名字凡夫の御時所顕の三身にして無始の古仏なり云云。

これ即ち久遠元初の自受用身、報中論三の無作三身なり。諸門流の輩この無始の本仏を知らず、所以に当文を消すること能わざるなり。また御義口伝下十四に云く「我は法身、仏は報身、来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し」と云云。

文に云く「我本菩薩の道を行じて乃至我等が己心の菩薩等」とは、「我等が己心の釈尊」は即ちこれ種家の本果妙、無始の仏界なり。「我等が己心の菩薩界」は即ちこれ種家の本因妙、無始の九界なり。この本因、本果の釈尊は我等が己心の主君なり。

地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。

常恒髄逐して仏の行化を輔く。譬えば周公、太公等の如し。この地涌千界の上行等は我等が己心の菩薩界なり。君臣既に我等が一心に居す。一心豈君臣を分たんや。故に君臣合体を示すというなり。

当に知るべし、前問の初めに三徳を挙げて難を設け、今は三徳に約して一体を示すなり。文体の首尾、常山の蛇の如し。古来の学者、この意を了せず。宗祖の意に背き、後生をして迷わしむ。一に何ぞ謬るや。

一、当に知るべし身土一念の三千なり乃至法界文。(二四七n)

これ三に結文なり。古来異説云云。今謂く、当に知るべし、「身土」の二字はこれ本尊を示す。即ち「夫れ一心に十法界を具す乃至即三千種の世間を具す」の文に同じきなり。

「一念三千」の四字はこれ観心を明かすなり。即ち「此の三千、一念の心に在り乃至即ち三千を具す」の文に同じ。故に当に知るべし、「身土」は即ちこれ本地自受用の身土なり。自受用の身土は十法界の全体なり。

「身」は謂く、正報の生蘊二千、「土」は謂く、依報の国土一千、故に三千あるなり。「一念」即ちこれ我等が信心、「三千」即ち自受用の身土なり。「成道」は只これ我等が成仏、「本」は謂く、本地久遠元初、「理」は謂く、難思境智の妙法、「一身」即ちこれ我等が五大、「一念」またこれ我等が信心、「遍於法界」は自受用身なり。

故に文意に謂く、当に知るべし、本地自受用の身土は、我等が信心の一念の中の三千なり。故に成仏の時、此の本地難思の境智の妙法に称い、一身の五大法界に領じて所証の境と為り、一念の信心法界に遍じて能証の智と為り、久遠元初の境智冥合の自受用身と顕るるなり。

問う、本地難思の境智の妙法は即ちこれ事の一念三千なり。何ぞ「本理」といわん。故に日忠抄に「此の本事に称う」の一字の口伝を示す。何ぞこれを用いざるや。

答う、一字の口伝、既に諸文に違う。故にこれを用いず。且く一文を引かん。宗祖云く「釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し」等云云。

また云く「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず」等云云。解して云く「五百塵点劫の当初」は即ちこれ本地なり。「証得」の二字は能証の智なり。「妙法の当体蓮華」は所証の境なり。

「世世番番に成道」は即ちこれ垂迹なり。能証は即ち「証得」の二字、所証は即ち「妙法当体蓮華」の六字なり。「本」はこれ「五百塵点当初」の六字、「理」はこれ「証得此妙法当体蓮華」の九字なり。故に本地難思の境智の妙法を以て名づけて本理と為すこと、文に在って分明なり。

当に知るべし、世々番々の迹に対して久遠元初を本と名づく。迹仏等の思慮に及ばざる故に、難思の境智の妙法を理と名づくるなり。「止みなん止みなん須く説くべからず、我が法は妙にして思い難し」、これを思い合すべし。

兄弟抄に云く「法華経の極理・南無妙法蓮華経」等云云。また事の一念三千と名づくる所以は、この本地難思の境智の妙法に即ち御主有り。所謂蓮祖聖人これなり。故に蓮祖聖人の御振舞は、全くこれ本地難思の境智の妙法の御振舞なり。

故に事の一念三千と名づくるなり。当に知るべし、この本地難思の妙法に無量の徳を含む。故にその便に従って以てその名を得たり。何ぞ一概なるべけんや。

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