上野殿御返事

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上野殿御返事弘安三年七月二日の概要

弘安三年七月二日【弘安三年 聖寿五十九歳】
 故上野殿御忌日の僧・料米一たはらたしかに給び候い畢んぬ、御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし。

 孝養と申すはまづ不孝を知りて孝をしるべし、不孝と申すは酉夢と云う者父を打ちしかば天雷身をさく班婦と申せし者母をのりしかば毒蛇来りてのみき、阿闍世(あじゃせ)王父をころせしかば白癩病の人となりにき、波瑠璃王は親をころせしかば河上に火出でて現身に無間にをちにき、他人をころしたるにはいまだかくの如く例なし。

 不孝をもつて思ふに孝養の功徳のおほきなる事もしられたり、外典三千余巻は他事なしただ父母の孝養ばかりなり、しかれども現世をやしなひて後生をたすけず、父母の恩のおもき事は大海のごとし現世をやしなひ後生をたすけざれば一・のごとし、内典五千余巻又他事なしただ孝養の功徳をとけるなり、しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれどもその説いまだあらはれず孝が中の不孝なるべし、目連尊者の母の餓鬼道の苦をすくひしはわづかに人天の苦をすくひていまだ成仏のみちにはいれず、釈迦如来は御年三十の時父浄飯王に法を説いて第四果をえせしめ給へり、母の摩耶夫人をば御年三十八の時阿羅漢果をえせしめ給へり、此等は孝養ににたれども還つて仏に不孝のとがあり、わづかに六道をばはなれしめたれども父母をば永不成仏の道に入れ給へり、譬へば太子を凡下の者となし王女を匹夫にあはせたるが如し、されば仏説いて云く「我則ち慳貪に堕せん此の事は為て不可なり」云云、仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人清酒をおしみて濁酒をのませたる不孝第一の人なり、


波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち阿闍世(あじゃせ)王の如く即身に白癩病をもつぎぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説き給いて「是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」と、父母の御孝養のため法華経を説き給いしかば、宝浄世界の多宝仏も実の孝養の仏なりとほめ給い十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき。

 これをもつて案ずるに日本国の人は皆不孝の仁ぞかし、涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給へり、されば天の日月八万四千の星各いかりをなし眼をいからかして日本国をにらめ給ふ、今の陰陽師の天変頻りなりと奏し申す是なり、地夭日日に起りて大海の上の小船をうかべたるが如し、今の日本国の小児は魄をうしなひ女人は血をはく是なり。

 貴辺は日本国第一の孝養の人なり梵天帝釈をり下りて左右の羽となり四方の地神は足をいただいて父母とあをぎ給うらん、事多しといへどもとどめ候い畢んぬ、恐恐謹言。

弘安三年三月八日                   日蓮花押

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